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仏教について質問です。
仏教の根本的な疑問すら私は解決・理解出来ておらずで質問しました。 『生老病死』ってありますよね? お釈迦様はその解決の為に出家をなされ、苦行の末についに菩提樹にてお悟りを開かれたのですが、35歳で成道→法を説くこと45年→80歳で入滅(涅槃) さて、お釈迦様ご自身の身にも老死はあてはまってます。 しかし、お悟りにより、その苦しみは完全解決をされたわけですよね? 私の感覚では悟りを開かれた=無敵・超人になられた(生老病死の影響を全く受けない)というような感じですが、苦の解決という観点からでは、これはどう捉えるものなのですか? また、仏説阿弥陀経や観無量寿経は最初の生老病死の解決策から、どう結び付いていくのですか?
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- panja2021
- ベストアンサー率10% (6/57)
「ベットの上で死にたくない。生きたまましにたい。」と人は誰しも思うと思います。何かの道を極めようとする人は最後まで自分自身のやりたいことをやりつづけて死んで行くと思います。たとえば、最近亡くなった漫画家や画家などは死ぬ寸前までやりたいことをやりつづけたと思います。
- oska2
- ベストアンサー率44% (2327/5177)
>『生老病死』ってありますよね? 「四苦八苦」の「四苦」ですね。 >お悟りにより、その苦しみは完全解決をされたわけですよね? 釈迦仏教の原本(訳)を読めば分かりますが・・・。 お釈迦様の悟りは「苦痛・悩みには理由がある。この理由を除けば良い」という事です。 生老病死は、全て理由(原因)が存在しますよね。^^; 釈迦も「各々の理由を理解した」という事でしよう。 >私の感覚では悟りを開かれた=無敵・超人になられた(生老病死の影響を全く受けない)というような感じです これは、誤りだと思いますね。 そもそも、人間を含む生き物は「永遠に生き続ける事は出来ない」のですからね。 超越した存在になるには「神・仏」になるしかありません。 チベット仏教のダライラマは、生き仏として崇敬を受けていますよね。 戦前まで「現人神」だった天皇も、「生老病死」を理解しています。 ※戦後、昭和天皇は人間宣言を行いました。 ※が、崩御するまで天照大神の直径子孫と認識していました。 が、両人とも「生老病死」を理解しています。 病気になれば治療を受けます。誰でも、平等に死を迎えます。 >苦の解決という観点からでは、これはどう捉えるものなのですか? 誰でも「生まれる・年を得る・病気になる・死ぬ」事を理解するだけ。 「皇帝でも、大統領でも、国会議員でも、庶民でも、皆平等に訪れる」 私だけが、老人になり死ぬのではありません。^^; >仏説阿弥陀経や観無量寿経は最初の生老病死の解決策から、どう結び付いていくのですか? 念仏宗各派で、解釈は異なりますね。 が、大まかには「誰にも平等に訪れる。逃げる事は出来ない」と言う事でしようか? 蓮如は言いました。 「誰でも、いつかは死ぬんじゃ。だから、今を一生懸命生きるんやで!」 お後がよろしいようで・・・。
- jack-a3
- ベストアンサー率40% (361/901)
仏教は今生きてる人生の中で何かの利益を得るということを目指してません。 この世に生きることは苦行であり、さらに輪廻転生によりこの世界あるいはもっと悲惨な世界に何度も生まれ変わって苦行を味わい続けている、としてます。 悟りを開いて解脱することは、そんな苦行の連続である輪廻転生からの解放です。 なので、悟りを開いた者の肉体が衰えたり死んだりすることは何も矛盾がありません。
- 濡れ猫のミコ(@nurenekonomiko)
- ベストアンサー率19% (219/1108)
a) 悟りに達した人は、死後、魂が浄土へ行けるので、少なくとも死を乗り越えた訳です。一般の人は、死後に確信が持てず、死を恐れてしまう人がほとんどです。他方、悟った人は、死に希望を見出し、死も恐れません。
- maskoto
- ベストアンサー率54% (618/1129)
中村天風さんが工夫された特集な坐禅法 「安定打坐法」について書かれた本などを読むと、ご質問の答えにだいぶ近づけるかと思います で、その内容を学びはしたが、 落ちこぼれである私なりの理解を、少しだけ申しあげますと、おおよそ次のような感じだと思います まず、瞑想、坐禅にて真に心を無我の境地(トランス)に入れている時は、(脳波がα波以上の落ち着いた波形となり)心が体の感覚や、あるいは悩み苦しみといった低いレベルの心の活動を意識しなくなります 例えば、特殊な坐禅法である安定打坐を実際に行っていた、初期の私の経験は以下です まず、神経を落ち着けるために正座して腰回し運動(養動法と言います)を10分以上行い、足がしびれ初めて来るか来ないかくらいのところで腰回しは止め、意図的に鳴らしているブザー音や鐘の音に耳を傾けその音に集中します。この音が途切れた時が無我無念の境地であり、初心者であった私でも、足のしびれが意識に上らなくなりました そして、しばらくしてトランスから覚めてくると、また足先のしびれが戻ってくる また、音が鳴り出しそれが途切れトランスになるとしびれは意識されなくなる…のくり返しでした 達人の域に達すると、いつでも音無しで自在にトランスに長い時間入れるようになるそうで、トランスにあるうちは例え病で体が痛いとしても、心はそれを意識しないんだろうと思われます また、正しい坐禅法などで修養を積むと 自分の本体は体でも心でもなくて 命そのもの 俗な言葉で言えば霊魂だと言う悟りがひらけるそうです そして、命そのもの(魂)は水にも火にも、何ものに侵されない永久不滅なものである事がわかってくるそうです これは、トランスから覚めた状態、つまり普段の状態での心境となり、 頭で理解するのとは異なり 悟っているので強く強く信念している状態で、例え心身に病苦があっても、自己本体に不具合が生じているわけではない、 自分の本体はいつまでも安泰だと言う強い安心感が普段から生まれ、そう言う意味では苦しみはなくなると言う事だと思われます 更に、修養を積むと、自己本体である魂は 宇宙の本源(造物主、神、仏)とつながっていて 一体的であるとの悟りが得られるようです これは、神仏は大海、人間の魂はそこから分離した一滴の水、波しぶきに例えられ 少しだけ科学的に表現すると、人間の命も神も仏も、みな(ニュートリノなどよりはるかに小さい)宇宙最小単位が元になっており、この最小単位に対して「気」と言う名称が使われてきました なので、(気の)分量や叡智に差こそあれ 我々人間も神仏も同じ「気」から成る点では同質であり 「気」と言う本質に立ち返れば、この現象界での出来事は全て仮の姿 苦しいと思えるのも、それは心が勝手にそう感じているだけで、幻のようなものだ と言う事につながるようです 〜以上、私なりの解釈でした 正しくない部分もあるかと思いますが、 参考まで〜