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哲学と科学と宗教
これらの3つの語の、成立過程とどのような共通性と差異性を持っているか、論じてください。
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こんにちは。 まづはひとが生まれ生きることがあります。 日々の生活において わたしはこれが好きあれが嫌いというくせ(エートス)が出来てきます。くせは生活態度として思想をかたちづくります。 この思想について ひとは一人ひとり心(特には意志)があるという前提のもとに おのれのすべてのくせ或いは好き嫌いをなるべく取り除いて世界を見るのが 《哲学》です。 このとき《科学》は ひとの心という前提をも取り払って世界を観察します。 わたしの思想やその個別性を出来るだけ抑えた哲学にしても あるいはそこでおのれの意志の問題をも取り扱わないとした科学にしても どうもこの世界は 移ろい行くものであり われわれ人間にしても朽ちるものであり この人間の知解能力には 限りがあるとわたしたちは知るようになります。 あるいはこの人間の能力と努力に限界があると知るほうが先だったかも知れません。 そのときには この経験世界を超えたところを想定するようになります。神と呼ぶというわけです。あるいは無と呼ぶというわけです。 この〔神ないし無としての〕超経験とわたしとの関係は 向こうは単なる想定のものですが こちらは経験的な存在です。その限りで こちらは現実です。言いかえると このわたしという存在が わたしや世界を超えたところの神(ないし無)をいったいどう捉えたものかと思案するとき その答えは とうぜん なぞです。そうして このように神(ないし無)とわたしとの関係としての《なぞ》じたいは わたしにとって 経験現実なのです。 このなぞとしてのわたしの生活態度(思想)プラスα これを 信仰と呼びます。なぜなら 能力と努力を超えたところのものを想定しただけなのですから 《考える》わけにはいきません。経験思考を超えていますので 《信じる》という別の言葉で表わすわけです。 (ひょっとすると このプラスαというものさえ 何もないのかも知れません。分からない・分かり得ないので いつまでも人間につきものであると考えられます)。 ひとはこの信仰(つまり非思考)から――意味の分かるもの分からないものを含めて――観想(ひらめき)を得るという経験を持つようです。観想(テオーリア)からさらに 人間の経験思考に合ったかたちで表現したものは 思想であり その結晶化としての哲学ないし理論(テオリ)です。 理論にかんしてその内容が ひとの意志がどうであれ いつでもどこでも同じ条件のもとで同じ現象が起きるということであれば それは 科学です。つまり自然科学です。(この意味では 哲学も 広くは経験科学であり 社会科学や人文科学として自己展開します)。 さて信仰(非思考)からともかくとしてでも理論化したその内容は 一般に倫理道徳と呼ばれる命題にかかわっています。(そういう一面があります)。《殺すなかれ。むさぼるなかれ。姦淫するなかれ》などです。 これが 《おしえ・教義》となって人びとに伝えられるとき さらにそこに集団としてのまとまりを持ったときには 《宗教》が起こります。経験思想としての生活態度のあつまったものとしては 宗教とは言わないようです。非思考の信仰・そしてそこからの観想および理論(生活の基本原則とでも呼ぶべきような命題) これが おしえとして絡み 集団ないし組織をつくれば 宗教となります。 一般に 宗教は 個人の・わたしの信仰の自殺行為です。なぜなら 信仰=非思考としてのわたしの動態でなくなるからです。信仰から派生した生活規範が そこでは主役となるからです。 どちらが大事かと言えば 信仰のほうであり 集団の秩序よりもさらに――基本的には――個人の〔良心・信教の〕自由のほうが大事だからです。 宗教の説く理論にかんしてはおろか 個人の信仰から得られる観想とその理論にかんしても いくら基本原則と言っても 哲学および科学は 明らかに間違いであることがらについては これを自由に指摘して 人びとの公論に訴えるのがよいでしょう。