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神を信じるってどう言う意味?
よく神様を信じている人と話すと、神様を信じて祈れば救われるとか、救われたとか話を聞きますが、どうも納得がいきません。 何故なら、神様を信じていなくても、それなりになる人は多くいますし、信じていても救われない人もいるからです。 まあ、そう言うと、「神を感じた事がないから」なんて事を聞きますがたとえ、何らかの存在や感動、快感、救いを感じたとしても、それが必ず結果に表れる訳でなく「感じた、体験した」だけで終わってしまう場合も在る訳です。 そんな人、何人も見てきました。 そう言う訳で、結果から考えると、神の存在と、救いは、ある意味、別のモノであり、神を信じれば救われると考えるのは変な思い違いなのではないでしょうか? そこで思ったのですが、「神を信じる」ってどう言う意味なのでしょうか?
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まあ救われると思いますよ、おやりになった方が良いと思いますよ。 心理的安定を求めようとするとなぜか宗教的な意味が出てくるんですよ、それは太古の昔から存在していてそれがある程度形は変われどゆっくりと受け継がれているこれが宗教だと思います。宗教には普遍的無意識と連動する側面があるのでおそらく心地よい筈です。なので信じる者は救われます。これは太古の昔からなぜかわかないけど人間の心理にはともて良い影響が存在すると考えられます。無論ある程度の条件は要りますが本能主義で無い限りおそらく救われるはずです。ここである程度の条件外の存在が現れて来たので信仰性が科学へ移行しました、信仰性が科学へ移行すると科学的な見解に対して服従するようになり神が科学へ変化しました、中世の頃ですかね?時期は知りませんがガリレオやらダーウィンやらが出てきて科学へ移行しましたね、このような信仰性は人間の脳のプログラミングにより存在しえる訳でそういう意味ではみな信者ということになります。まあ科学だけではないですが人によっては資本主義という人も居るでしょう、もしくは仲間内の雰囲気が信仰対象という人も居たり年齢によっては会社という人もいるのかな?そんな感じで普遍的無意識の感情を満たしていると言って良いと思います。なので神を信じないと言っている人もその神を信じないというスタンスがもはや信仰性であるわけです。 ここで話は変わりますがなぜ心理的安定が図れるような構図になっているのかの説を一つ個人的に有力ではないか?と思われるのが宇宙人飛来説、これならすべて説明がつく、この信仰性そのものが心地よいと感じるのは宇宙人がその仕組みを知っているからと考えれば辻褄があいまうす。またなぜか宇宙人らしき絵などがのこされていますし、飛来物の絵がなぜか近未来SFの乗り物にそっくりです、下手な話UFOそのもの形態の壁画まで残されているそうです。これがもし事実ならばおそらく可能性は高いと思います。無論完全実証が難しいのであくまで仮説ですがもし実証されればおそらく宗教は宇宙人説が有力だと思います。とこんなこと書いても非科学罵りバラエティに感化された非科学信仰主義者は信じてくれないかwとにかく仮説の一つに入れてみて下さい。w
- h1r0s13
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時が来れば判ります。取り合えず気休めに読んで下さい。(自作) 亜衣姫と羅夢王は、自分の家に帰って来た。 半円形の透明なガラスのような樹脂で覆われている。遠くには、摩天楼のビル群が立ち並んでいた。 今は西暦三千年代中期の四月である。亜衣姫は、羅夢王と桜を見に行くことにしていた。 ああ、何ていう美しい桜ふぶきなのだろうか、二人は反重力推進装置を作動させながら、一キロにも及ぶ、沿道の桜並木の、桜ふぶきの中を飛んだ。 淡いピンク色の花びらと、やや白い花びらが交錯していて、おりからの風に舞い上がっている。亜衣姫も、長いしなやかな髪をなびかせ、羅夢王と桜の花びらの中を舞った。 羅夢王は、「亜衣ちゃんは、まるで天女のようだなあ」と思った。 亜衣姫は、「らむちゃん、また城跡に行ってみようよ」と言った。 それで湿原まで飛んで行った。その道すがら、森の大木の間に、二十一世紀に作られたビル群が蔦に絡まれ、見え隠れしていた。その森の中には、万作や木五倍子が薄緑の花を咲かせていた。また、湿原の水車小屋の辺りには、紫色の片栗、水仙の花々、フキノトウ、水芭蕉の花が咲いていた。城跡に降りると、キエビエの黄色い花が、木立の中を照らして咲いていた。 「地球は強いなあ、あんな大戦があったのに、こんなに花が咲いて」と羅夢王が言った。 「二十二世紀の後半でしょう。あの第三次世界大戦は」と亜衣姫も言った。 「うん。やっぱり地球は愛で持っているんだなあ、人も宇宙も」と羅夢王は言った。 「宇宙も地球も愛ってこと」 「そう。純粋な愛の意識で出来ているってこと」 「純粋な愛」 「うん。至高な愛の意識というか、それは無償の愛の姿そのものであるってことなんだ」 「見返りを求めない」 「いや、違う。ちゃんと宇宙の意識は見返りを求めている」 「なんで」 「だって僕達は何も知らないじゃないか、始めから不完全な人間を創っている」 「それで」 「見返りを求めないのなら、始めから完全な人間を創っている、そうだろう」 「でも、不完全な人間のままでも好いんじゃない」 「それじゃあ、宇宙の創造主は、無限の愛のお方ではない。文明も進歩しないし、宇宙も人間も進化しない、でも確実に、この宇宙も人類も進歩している」 「うーん」 「この世に完全なものはない。だからこそ敢えて、僕達に無限の進化が残されている。そうは思わない。始めから完全な人間を創ったら、この地球もいらない。僕達もいらない。 そして、この宇宙もいらない。始めから創らなくっても良かったんだ。でもそうすると、それは愛ではない。創造主のお心とは違う。だから、僕達に未熟さを持たせ、更に高みへと、至高な愛の道のりを、永遠に残された、正に宇宙の創造主様はお見事に、僕達の魂が、無限に進化するように創られておられる。亜衣ちゃん、そうは思わない」 「すごいわ、らむちゃん。それこそ無限の叡智ね」 ごめん。これでは回答にはならんか…。
お礼
確かに時が来れば分かるかもしれないけど、おいら生きてっかなー? ん?純粋な愛の意識ってなに? 創造主がそうだとは、とても思えない、現実があるよね。
- hakobulu
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神経症の一種とお考えになって間違いないでしょう。 これは信仰への揶揄ではなく、つまり、人は誰もが神経症的である、という意味合いが基礎にあります。 で、その神経症の形態のひとつにすぎない、ということです。 占いなどを信じるのと大差はありません。 占いは化けの皮が剥がれやすいですが、神はもともと存在しないので皮の剥がれようが無く、それをいいことに精神的に不安定な他人を騙したり恫喝したりして得意になる輩がいつの世にも湧いてくるわけです。 人間にとっての生きるという行為は、外界・内界の環境を取り込んでは脳で記憶し、それを元に判断し、現実的な対応を選択・実行していくことです。 この選択したことを自覚できるのが他の動物と異なる点ですが、それはさておきましょう。 環境からの刺激を取り込んで判断した後にくる、「現実的選択・対応」は、多かれ少なかれ「納得」という関門を潜り抜ける必要があります。 どんなことであっても(無意識的にであっても)納得しないことを人間はやったり言ったりしません。 しかし、どうしても納得し切れない出来事に遭遇することもしばしばあります。 納得し切れない場合の対処としては、納得し切れないこともあるのだ、ということを納得するしか方法はありませんし、それが科学的であり、且つ健全な精神の作用と言えます。 ここで言う健全とは、あるものをあるがままに認識する能力、といったような意味になるでしょうか。 これにはよくも悪くも自我が関与してきます。 人間は本能と、そこから発達(と一応しておきますが)した超自我性のバランスを取ろうする生き物です。 バランスをとるということは、人間の精神というものがそれだけ不安定であるという証左でもあるわけですが、このバランスを司るものを自我と呼んでもいいでしょう。 個人における現実的な対処というものが、その人の自我そのものと言えます。 何らかの理由で、本能的生命力が弱ったり傷ついたりしていると、バランンスがうまくとれなくなります。 結果として、自分の利益のために人を貶めたり、逆に、自分を顧みずに他人の世話を焼くようになります。 あるものをあるままの現実として受け止めることが納得(必ずしも解決という意味ではなく)へとつながり、納得することで次の機会が生じるわけですが、バランスを崩していると次の機会を待つことに耐えられなくなります。 精神の均衡を保てなくなるので、今すぐに納得しないと済まなくなり、どうしても納得できないことに関しては、誰か他の存在に『納得させて欲しくなる』わけでしょう。 しかし、「他の存在」が同等の人間であっては自らの無力を証明するようなものです。 そこで捏造されたのが神ということだろうと思います。 捏造されたものが捏造されたものでないことを証明するには、ひたすら信じるしかない、という極めて当然の成り行きになるでしょう。 ご質問の意図に添えたかどうかわかりませんが、このような感想を持ちました。
お礼
理由としては、そう言った、精神的な部分もあると思います。 回答ありがとうございました。
- karutako
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神様を信じても信じなくても救われ方に違いはないと思います。 それに、神様と思っているものは守護霊であったり、または身近にいる別の精霊のようなものであったりすることが、ほとんどだと思います。 神様を本当に信じれれば、決して悪いことができなくなるとは思います・・・が、人間はなかなか完全に信じることは出来ません。 神様を信じる事、これは永遠の宿題のようなものではないかなと思います。 そして、信じることが本当にできたら人間の魂の成長は終わりで、次のステップに入るのではないかと思います。
お礼
信心深い貴重な意見ありがとうございます。
神を信じる、という事は、思い違いや矛盾があります。神は、調和世界の存在であり、他方の脳は、不調和世界の存在なので、神と脳は、異質で対立しています。だから脳の思考で、神を理解する事は不可能です。だから脳の思考による神は、人間の空想です。仏教では、脳の自我を否定し、無我になると救われると教えています。中国の老子は、脳の思考による人の知恵を否定し、無知なると救われると教えています。キリスト教では、エデンの園で、神の子のアダムとイブが、脳である知恵の実を、ヘビに騙されて、食べたために、脳と神の子が合体して、人になり、天国から地上に落ちて、人の苦しみが始まりました。では神を理解するには、神と交流するには、どうしたらいいか?脳の思考を休め、脳波がアルファ波になると、神と人の心が、交流し、心が癒されます。脳が思考してる時は、脳が、神を遮断するので、心がストレスになります。だから人の心がリラックスした時は、人は神と交流しています。昔の日本人は、生活に、間や情緒を多くする方法を考案して、神と交流して来ました。だから日本には、脳を休める方法が多いです。仏教の座禅があります。また日本の伝統文化は、脳を休めて自然の情緒、心の癒しを目的にしているので、実践すると神と交流出来ます。雅楽、能、歌舞伎、日舞、浮世絵、文楽、落語、民謡、演歌、茶道、華道、短歌、俳句など、だから神のパワーである、自然の情緒が、人の心を癒し、人を育て、社会を調和に導きます。他方脳は、不調和な存在で、脳の科学は自然を破壊しました。脳は、宇宙の主役では無いので、科学に限界があり、宇宙を相対的にしか理解出来ません。脳の自我は、対立と争いばかりです。
お礼
・・・・・・結局、神を信じることの意味のうんぬん前に、神はいない、いたとしても理解できないよ。って事を言いたいのでしょうか? ありがとうございました。
- darumazen
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>「神を信じる」ってどう言う意味なのでしょうか? 確証は無いけれど間違いなく神が存在している思う。 ということでしょうか。 よく「私は自分の見たこと以外は信じない」という人がいますが、そんなひとでも見たことの無いアメリカという国が太平洋の向こう側にあることは信じています。アメリカという国があるという確証を必要とせずに、皆が言っているから、という理由だけで。だから神を信じるのが世間一般に常識となれば、だれでも神を信じるようになることができるのでしょう。 >神の存在と、救いは、ある意味、別のモノであり、神を信じれば救われると考えるのは変な思い違いなのではないでしょうか? その通りだと思います。 神さまが存在しても、その信じる人に救いを与えないほうがその人のためになると思ったら、神さまは救いをあたえないでしょう。それどころか苦しみをあたえるかもしれません。苦しみをも神さまからいただいたものと思って生活できるようでないと「神さまを信じている」とは言えないと思います。 >まあ、そう言うと、「神を感じた事がないから」なんて事を聞きますがたとえ、何らかの存在や感動、快感、救いを感じたとしても、それが必ず結果に表れる訳でなく「感じた、体験した」だけで終わってしまう場合も在る訳です。 非常に強烈な体験ならば「感じた、体験した」だけで終わってしまうことはないでしょう。「神を感じること」は自分自身の世界観を変えてしまうような強烈な体験であることがほとんどです。
お礼
回答ありがとうございます。 本当に質問の書き方が下手ですいません。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんにちは。 ★ そこで思ったのですが、「神を信じる」ってどう言う意味なのでしょうか? ☆ わたしたちは孤独です。この孤独に開き直るとき ひとによって 《神はある》を手にしている場合もあれば《神はいない》をはっきりと宣言する場合もある。これらどちらも 《神を信じる》というその中身です。互いに対等です。自由です。 《神はいない》と宣言した人の場合でも 《神を信じない》というのは 《いない神を信じる》というのが真実です。孤独の底から這い上がるときの決断は 経験思考を超えているからです。賭けのようなものです。《いない神を信じた》ら こころが澄んで わたしがわたしである平安を得たというところでしょう。 なぜなら わたしたち人間は 神がいるともいないとも証明し得ないからです。ですから いるかいないかどちらかに決めるだけです。自由に決めていいわけです。 決めない自由もあるにはありますが 孤独を味わっていない状態なのではないかと考えます。悪口を言うように言えば 孤独を味わうという瞬間に どこか誰か何かにしがみついて孤独を忘れようとするからではないかと考えます。 というわけで ひとは《神を あるいは 無神を 信じる》社会的動物だと考えます。 * 《祈る》以前 《救い》の以前のこととして述べました。神頼みとして祈ること これも 孤独を味わう瞬間にどこか何かにすがりついて孤独地獄を避けよう・忘れようとしているのだと見ることもできるのではないでしょうか? ★ 神を信じれば救われると考えるのは変な思い違いなのではないでしょうか? ☆ 《神を信じれば救われる》という観念にもしすがろうとするのならば それは それも 孤独地獄から――神によってではなくその観念によって――逃れようとしているだけでしょう。つまり《信じる》ではないわけです。この観念において計算していますし考えています。信じるではないわけです。
お礼
ふむ、そうなんですよね。 それが、この質問を出した理由の一つなんですよね。 それって信じてるのとちがくねーって感じで。 回答ありがとうございました。
- Y Y(@yy8yy8az)
- ベストアンサー率17% (89/501)
結果から考えると、確かに仰るとおり効果率(?)は低いように思います。 でも人の心の内のことなのではっきりとしません。もしかすると多くの人が救われた気分(?)になっているかも。 願望、希望、あるいは苦しみ、悩み、など自身で解決できないことを‘大いなる力’に頼る気持ち、これが信仰につながっていくようです。 その求める‘気持ち’がなければ信仰心は本人にとってひつようのない事柄なのでしょう。 maimaisusさんはまだそんな‘気持ち’にはなっていないようです。 まだと言っても、いずれそのうちにそんな気分になると言っているわけではありません。 一生、信仰などとは縁の無い人たちも居るようですし。 でも意識せずとも人の心の芯には‘信仰心’が宿っているように思います。 幼子(おさなご)は、不安になれば理屈抜きで母のみ胸を求めます。 そこが自分にとって一番安全なところと‘無意識に’分かっている(信じている)から。
お礼
宗教は心の逃げ道って事でしょうか。 そうですね、そう言う意味では必要なのかも知れませんね。人によっては。 んー前回答と合わせて考えるとより怖いね。(-_-;) ありがとうございました。
- kigurumi
- ベストアンサー率35% (988/2761)
催眠術。 例えば催眠術をかけたあと、「これは甘い桃です」とレモンを渡すと、「あっまーい」ってガブガブ食べます。 例えば 5という数字は無いと催眠をかけて暗示をかけます。 そして1から数えてもらうと、「123467・・・」と言います。 「2+3は?」と聞くと、答えられません。 暗示により一時的に5という概念が消えてしまったわけです。 ですが、暗示は永久ではなく、時間とともに消えます。 5が無い世界にその人を放り込んでおくためには、再度暗示をかけなければなりません。 I belive in God は「神の存在を私は信じます」という意味です。 何故レモンを甘いと思ったのか。 催眠術をかけられ、思考を操作されて、甘い桃だとその人が認識させられたから。 洗脳に近いものがある。 で、信者は入信した直後は、ものすごく熱心に教会に通うのだそうです。 洗脳により神は存在すると確信しているが、何かがあって1週間後に行けなかったとか起こると、入会した時のような「神は存在する」と確信がもてなくなる。 暗示が時間とともに解ける性質を持っているから。(脳は可塑性があり、下の状態に戻ろうともする) 信者の暗示が解けず、寄付金を貢いでもらうには、神の元から離れたらら救われないと言っておく。 すると恐怖心から、欠かさず教会に通ってくれるので、暗示がかけられるわけです。 聖職者は暗示をかけているという自覚は無いと思いますが、実際はそれをやっている。 音楽を使って、暗示にかける状態にもっていく。 暗示にかかりやすい状態で、「私は神を信じます」とか言わせたら、刷り込みできて、再度暗示がかかった状態になる。 教会を出る頃は、みんな晴れやかな気分になるわけです。 これは現実催眠療法でも使われている技術。 催眠をかけられたとしても、普通に生活ができる。 ただ、暗示の部分が出てくると、スイッチが入り4の次が言えなくなったり、「めがねをかけている人は見えない」、「音楽を聴くと神を想像しだす」とかになっちゃう。 >「神を感じた事がないから 実際、催眠にかかる体質の人はそんなに多くない。 レモンを甘い桃だと催眠術でやられても、実際レモンを「あまい」とむしゃむしゃ食べれる人はそんなにいない。 でも、すぐ暗示にかかりやすい人もいる。 で、側頭葉てんかんの人が、神の存在を確信しやすいが、そうではない人でも、暗示によって簡単に神が存在すると確信してしまう人もいる。 そして、一度経験したその偽感覚を、現実自分が認識したと記憶してしまう。 つまり 自分の記憶を塗り変えてしまい、偽記憶を真実だと思ってしまう。(偽記憶症候群) で、脳科学の発達で、神を認識するという人に特徴があることがわかってきた。 脳に神モジュールがある。 そこに一時的に過度の電流が流れると、神の存在を確信するしかなくなるのだとか。 人工的にやるには、オウムのヘッドギアみたいなもので、神が存在すると認識させればいいわけです。 ですが、一般信者はそのようなこと無しに、神は存在すると思っているのは、暗示も一つでしょうし、脳の病気ってのも原因の一つでしょうし、その他心理的な何かが作用している可能性もあります。 過去の人で目だっているのが、脳障害。 統合失調症を起こした人も、自分の考えを外から聞こえてきたと誤認識してしまい、それを神からのメッセージだと思うらしいです。 まあ、災害が起こって食べるものが何もなく、靴をケーキだと信じて食うとか、こういったときには暗示にかかりやすい人って便利ですよねぇ・・・・。 そういえば脳が壊れてしまうと、うんちも食べちゃうらしい。 本人の脳の中では、うんちがおいしいご馳走という認識なんでしょうね。 よくカルト宗教にはまった家族を脱会させようとする活動ありますが、必死で抵抗をしますよね。 洗脳が解けていないので、悪魔とか家族をののしる。 で、てっとりはやく軟禁しちゃう。 教会に通えなくなるし、その関係の書物は手に触れられないようにすると、暗示がとけてきて、「おかあさん お父さん ごめんなさい 私をよくぞ救ってくれました」ってなる。 親は心を鬼にして、殴られようと蹴られようと、必死でおさえつけて、禁断症状が出たわが子を助けようとするんですね。 まあ いまどきは子供の勝ってだからと、身をなげうって子供を救済する親は稀かもしれませんが。
お礼
かっ回答ありがとうございます。 それって、信じる意味と言うより、理由ですね。確かにそう言った側面も宗教は多く持ち合わせているもかもしれません。 悪い方向で使うと恐ろしいよね、集団催眠。
- narayuni
- ベストアンサー率26% (43/163)
まったくもって無宗教の私が回答するのも変ですが回答させて頂きます。 曖昧なものの話なので答えはひとつではないと思いますが、 私は神を信じるという事は「人生の説明書」なのではないかなと思います。 こういう時はこう考えなさい、こう行動しなさい。 こうしたかったらこうしなさいという教えが多い気がします(聖書や経典を読んだ事ないのであくまでイメージですが) それってまんま携帯電話の説明書などに似てませんか? 困った時にすがる、頼れる存在、それはマニュアルだったりします。 そして人生の説明書なんて存在しないと無宗教な人は思っていると思います。 が、神を信じる=人生の説明書はあるというのが宗教を信仰している人ではないかななんて思いました。 蛇足ですが私は、こういう時はこうしなさいって言われると別の事をしたくなる天邪鬼なので(これで何度も失敗してきましたが…汗) 神は信じていません。
お礼
「人生の説明書」ですか。 するって―と、それは、誰が何の為に作った説明書何でしょうかね。 回答ありがとうございます。
お礼
どーも、回答ありがとうございます。 んー別に救われたいとか、どうとかと言う訳ではなく、そう言う人たちの信教のありかたに対しての素朴な疑問なんですけどね。