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《神は有る》のみや《神は無い》のみはアホバカ教
神は 《神は有る》なる表現も《神は無い》なる表現をも 許容する。 どちらか一つに定まったとしたら それはどちらにしても 人間が勝手にそのように神を規定し創ったに過ぎない。 あるいはつまり その人間たる人が 神は何であるかが分かったと言っていることになる。 つまりは その人は神になったか もしくは神と同等の存在になったことを意味する。 あり得ない。 あり得るのは 神をその人の人間という見方に引き下ろして来たというだけである。 《かみ》は 言葉でもあるから いかようにも想像し作文することが出来る。 《神は存在する。これを信じないのはバカだ》派も《神などはいない。いるというのは阿呆だ》派もいづれも ひとしくアホバカ教である。 人間が神になったつもりでいる。 なんで神の心が人間に分かるのか。 という問いです。
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お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ いや、ですから、象徴としての神を否定しているわけではない、と申し上げたはずなんですけどねえ。 / 絶対的な摂理とか法則とかいうものがあることぐらいは誰も否定していないんじゃないですか? ☆ そうですか。そちらの議論をしっかりと捉えられなかったみたいですね。 ただし ★ 絶対的な摂理とか法則とかいうもの ☆ というのも ビミョウですよ。非知や絶対や無限も 神本体を知ろうとするための補助線ですが この摂理や法則は もっと二次的な派生としての概念であるように思います。 摂理は 真理として 1.5次的かも分かりませんが。 ただし 《かみ》という言葉も あくまで神本体にとっての仮りのシルシであり補助線です。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ しかし、象徴なり、単なる擬人化ではなく、意志を持つ存在として「人化」してしまうから問題ではないか、というのが無神論の本質的立場だと思います。 そういった牽強付会的な神解釈から、 >( g ) この創造主なる愛の神・真理の神であるなら 《すくい主》でもあるはずだ。 : といった勘違いが生まれ、自己救済としての自爆テロなども納得されたりする。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ (あ) 《人化》は 表現の問題です。分かりやすく言ったまでです。神は人ではないのですから。 (い) 天にましますわれらが父よというふうに父親として呼びかける存在とするのも 表現の問題ですし あくまで補助線としての物語です。 (う) 仮りの説明や補助線としての物語をつかまえて問題だということが 《無神論の本質的立ち場》だとは考えません。無神論の本質は 信仰であることです。あくまで派生的な事柄についての批判的な見方だとなるはずです。 (え) 神を《すくい主》として仮りに説明することから 人間の《自己救済》の話は出て来ません。自己救済が出来るのなら 神は要りません。 (お) 神をすくい主と見るのは 派生的な事柄でありそのように補助線を引いただけのお話ですが 非知の想定から派生するという限りで 《勘違い》ではないですよ。勘違いと見るから 自爆テロなどの自己救済の話が仕立て上げられて来ます。 勘違いでない時には すくい主としての神と我れとの関係が保たれます。 ★ しかし、それは、あくまで幻想としての、虚像としての救い主であるはずです。 ☆ ビミョウに違うと思います。 (か) すくい主なる神の仮象は 派生的な事柄としては想定された神に合っています。 (き) すなわち そのすくいが どれだけ経験事実となるかは まったくすでに初めから関知していない(定まらない)かたちの補助線としてあります。 (く) 《幻想・虚像》ではなく 《現実か夢かが 人間には分からない》ナゾとしてその物語が持たれています。 (け) つまり 或る人にとっては 現実となったという場合があるかも知れないのです。しかもその・その人にとっての現実は 万人にとって検証されることはないと言うべきでしょう。 (こ) 万人にとってその同じ現実が共有されたとすればそれは 信仰が多様性としてあるのではなく 一様なかたちとなって持たれているときだとなります。そういう時が来るのかどうなのか。・・・ ★ つまり、信仰者自らが、なんの迷いもなく一途に信仰する、という、その行為そのものによって生み出されているのが「救い主」でしょう。 ☆ (さ) それは 信仰者としては 特殊な事例であり おそらく例外的事態でしょう。 (し) 派生的な事柄は 仮象です。補助線です。補助線が 神本体ではないのですから その《すくい主》論が《信じる》の対象になるということは あり得ないことです。あったとしたら 例外です。つまり 信仰としてマチガイです。その《一途さ》は 何の意味もありません。 ★ 神がいるから信仰するのではなく、信仰するから神が生まれる。 ☆ (す) 《神がいる》とは だれが言ったのですか? だれがそのことを証明したのですか? (せ) 《神が生まれる》とは どういうことですか? 神はすでに想定されています。それが あらためて生まれるという意味ですか? ――それが意味を持つのは すでに始まっている信仰が深められるという場合のことでしょうね。《神が生まれる》わけではありません。 ★ 要するに思い込みが神を生むわけですが、 ☆ (そ) という神であれば そのような頭の中のただの観念の神として 生んだと同時に死んでいるでしょうね。《思い込みやその想念じたい》は まだつづくとしても。 (た) このあたりから あなたは 神ではない神を持ち出しています。 ★ 思い込みによって救われることはしばしば起こり得ますから、それはそれで効用があるでしょうし、とやかく言われる筋合いはないとは言えます。 ☆ (ち) つまり それは 想定されるべき神ではないのですから 問題外の外の論外です ここでは。 ★ そんなことをしなくとも、そもそも、個の存在というものは、あくまで偶然の産物にすぎないのだ、という客観的事実を認めるだけで、風通しは大いによくなると思いますけどね。 ☆ (つ) 《客観》という問題があるようですが それを除いても おっしゃていることがよく飲み込めません。そんなうまい手があるのですか? (て) ★ 「(意志を持つ)神」 ☆ は おかしい。 ★ 象徴としての神は、当然の如くいます(あります)。 ☆ ということでしょうか。神が《意志を持つ》というのは これも派生して来た事柄です。 (と) だとすると この《象徴としての神》について もっとしっかりと定義を尋ねておくべきでした。よく分かりません。 (な) もしその象徴を――非知としての想定ではなく―― 人間が経験事象にかかわる概念として持ち何か特殊な意味合いを持たせて みんなで共有している。といったことだとすれば それは神ではないですね。おままごとの神でしかありません。 ★ それとも、非思考の場の事は信じるが、思考の場のことは信じない、ということでしょうか。 ☆ (に) 《非知なるナゾ》を受け容れたなら わが心に《非思考の庭》が成るという。そしてこれが 信仰なる動態であると。 (ぬ) 思考やその緑野と 信じるとは 関係しません。なじみません。《宇宙人》も 経験事象です。