• 締切済み

神を信じるってどう言う意味?

よく神様を信じている人と話すと、神様を信じて祈れば救われるとか、救われたとか話を聞きますが、どうも納得がいきません。 何故なら、神様を信じていなくても、それなりになる人は多くいますし、信じていても救われない人もいるからです。 まあ、そう言うと、「神を感じた事がないから」なんて事を聞きますがたとえ、何らかの存在や感動、快感、救いを感じたとしても、それが必ず結果に表れる訳でなく「感じた、体験した」だけで終わってしまう場合も在る訳です。 そんな人、何人も見てきました。 そう言う訳で、結果から考えると、神の存在と、救いは、ある意味、別のモノであり、神を信じれば救われると考えるのは変な思い違いなのではないでしょうか? そこで思ったのですが、「神を信じる」ってどう言う意味なのでしょうか?

みんなの回答

  • katyan1234
  • ベストアンサー率18% (347/1849)
回答No.23

>救われない人もいるからです この救いと言うものが信じるまでの意味と信じた後の意味が異なるんです 経済的なものではなく心の中の喜びと言う感覚かな~ >、「神を信じる」 そのままです。これしかいいようがない。信じる道と信じ方は違いますがね、頭を休めて目を閉じてください。そして祈る事、 英会話に習う方がいて 俺は絶対にクリスチャンにならない、英語のみ聖書勉強はしないと時間が終われば帰る方がいた。2年後かな? ある時期に「もう終わったよ」というが帰らないで残っていた。 あれだけ俺は信じない、神はいない。という方が何故か信じてしまうときがあるんです。私も仏教でしたからね~ 行う事ではなく神様の臨在を感じる事、聖書を読んで聖書が自分のレターだと言う人、同じ聖書の箇所を読んで今日もまた発見した~と言う方もいますね >神の存在と、救いは、ある意味、別のモノであり いいえ神そのものキリストそのものが天国を表現する場合もありますから同じのときもあります。聖書は神を信じれば救われる。つまり信じているなら救われているんです。この事に気がついた2年後だったかな~ とにかく日本人には不思議な世界です。がんばる必要はないというががんばれる、信じなさいというが無理して信じていく必要もない。 自転車に乗れてはじめてわかる感覚、車スキーが出来てわかる感覚と言えばいいのかな~

maimaisus
質問者

お礼

んー、まるで、恋愛している時のような感じの、回答ありがとうございました。 でも、それって、趣味ですよね。感覚味わうための。

  • katyan1234
  • ベストアンサー率18% (347/1849)
回答No.22

>だって神を信じる前にやっとく事は多くあると思うですよね。 いいえ、信じたいとも思わなかったし、何もないよ。神に導かれた結果ですか >人によっては、神を信じる必要もないと思うのですが はいそうだよ。信じたくない人もいるし、信じられる事の出来ない人もいるし、信じ方が間違っていたと言う人もいるよ。信じたくない人に伝える気持ちはないよ。 >クリスチャンの皆さんは何の為に神をしんじているの? これはもうぞれぞれ他人の心をのぞくことは出来ないし、まあ信じている中で心が安らぎ生きる活路が見出されると言う感じかな~ よく逃げているだけという方もいますが本当は逃げるのが信仰じゃない 自分の壁にぶつける。これが本当の信仰だね。 信じて教会で話す機会があってみんなの前で話すことは出来る。これだけでも自分にとってプラスだよね。祈りのよってまあ偶然かも知れないが左の耳が諦めなさいと大学病院で宣告されていたが直った。 元々仏教徒でさ、神なんて信じてどうなるの?と言う感じだったけど しかしそんな私でさえ神様は愛してくださっていたという感覚ですね。 これだけは信じて理解できるものでいくら説明しても無理と思う。 頭で考えるのではなく感じるというベースがあって信じられるという説明になるかも、まあ信じる道は色々あってこうだ!とはいえない。 私が神を呼んだのではなく神様が私を呼んだ。と言う言い方になるかも (個人的に) まあこんな感じ まあ2000年続くベストセラー外人の考え方が聖書を土台にしていきてるから機会あれば読んでください。質問あるならまだ続けますが・・

maimaisus
質問者

お礼

なるほどね、そんな感じですか。 でもね、聖書読めば読むほど、人間が望む神と、本来のそれとはかけ離れて思えるのは、僕だけでしょうかね。

回答No.21

 ‘結果から考えると神を信じれば救われると考えるのは変な思い違い’であるように私も思います。  大昔は自然の驚異とか闇の世界への恐怖に畏怖を感じて、目に見えぬ不思議な力の存在に畏敬の念を持ったのが信仰の始まりのように思います。  現代は一人ひとりの満たされない心を補うべく、宗教に活路を見出そうと言う傾向があるようです。  ‘宗教は心の逃げ道’  あながち、間違いとは言えないのではないでしょうか。  このような心持で宗教の世界に入る人のほうが多いかも知れません。  その‘信仰心’には高低や強弱があるように思います。  maimaisusさんの感想は、ごく一般的なレベルでの信仰心を取り上げたもの、ではないでしょうか。  でも‘ある意味、別のモノ’という感想を述べていますね。  ここに、一般のレベルでない‘信仰の存在’を感じとっているように思います。  砕けた言い方をすれば、ご利益信仰って本当の信仰?といったような気持ちが今回の質問となったのではないかと推察します。  それにしても、kigurumiさんの回答の怖さを、私の回答にも感じたとは。  理性が欠落した‘盲目的な信仰心’の恐ろしさを感じた、という事なのでしょうか。  

maimaisus
質問者

お礼

 再度回答ありがとうございます。 >理性が欠落した‘盲目的な信仰心’の恐ろしさを感じた、という事なのでしょうか。 正にその通り。 世の中そんな人いっぱいいるよね。 良い方向になら良いけど、悪い方向に向かうと修正がきかない盲目状態最悪でしょ。

noname#132831
noname#132831
回答No.20

 まず留意しなければならないのは、『神』の持つ意味合いが昔と現代日本ではずいぶん違っているということです。死や戦争や病気と隣り合わせの中で言う『神』と、現代で言うそれとは感覚として別物でしょう。昔の人は苦難に対しての救いを神の存在を前提とした世界観で捉えることで得ていたのです。いわゆる宗教の精神安定剤としての側面です。現代では医学・科学・心理学・哲学など様々な知識で読み解こうとします。身の回りで起こる出来事をどういう文脈で捉えるかが違っているだけで、人間は直面する状況を効果的に解釈しようとしてきたことに変わりはありません。例えば聖徳太子にとって仏教は時代を読み解く最先端科学だったのです。現代においてもすべてが解明されたわけではありません。神を信じるとは神の存在を前提とした世界観を信じる―世の中を読み解こうとする―ことです。矛盾のない首尾一貫した世界観を築くのは個人の力では難しく、宗教学者が脈々と研究してきました。「どうすれば幸せになれるのか」「どうすれば争いはなくなるのか」「死後の世界はどうなっているのか」など、神を中心にポンと据えて矛盾のない世界観を構築しようとしてきたのです。現代ではそれが脳科学や遺伝子学に取って替わっただけで、どのみち素人の私たちが真偽のほども判らぬまま信じているという点においては一緒なのです。さし当たってその解釈の仕方で困らなければ、神を信じていようが心理学を信じていようが矛盾は露呈しないのです。正しく考えているかどうかは、その解釈の仕方が効果的かどうかで判断されるのです。

maimaisus
質問者

お礼

なるほど、そう言われてみればその通りですね。 ありがとうございました。

回答No.19

 maimaisus さん  ヒンドゥに発祥した宗教でしょうか、思想に信奉しております。 〔よく神様を信じている人と話すと、神様を信じて祈れば救われるとか、救われたとか話を聞きますが、どうも納得がいきません。〕  ◎投稿者:そんなことばを聞いた様な気もいたしますが、そういうフレーズで語る人や文書・図書には遭遇しておりません。   救われるってどういうことなのでしょうね。   何か困難が解消するとか、願いが叶うか。そういうことかしら。   どうもその辺りから判らないですね。 〔何故なら、神様を信じていなくても、それなりになる人は多くいますし、信じていても救われない人もいるからです。〕  ◎投稿者:そうかもしれませんね。つまり信じている人も信じていない人もいる、生活している。日々無事である。   まぁ何か原因で困ったことにもなる、ってことですね。   自分で信じているといっても、思っても、結局、信じていないと思っている人と状況は同じだという事ですね。 〔まあ、そう言うと、「神を感じた事がないから」なんて事を聞きますがたとえ、何らかの存在や感動、快感、救いを感じたとしても、それが必ず結果に表れる訳でなく「感じた、体験した」だけで終わってしまう場合も在る訳です。そんな人、何人も見てきました。〕  ◎投稿者:つまり神を感じたことがない、maimaisus さんも、感じたり経験したことがある人も、同じように信仰にまでに行かない人が多いということですね。そうかもしれませんね。   人って皆。 〔そう言う訳で、結果から考えると、神の存在と、救いは、ある意味、別のモノであり、神を信じれば救われると考えるのは変な思い違いなのでは?〕   ◎投稿者:冒頭の“救われるということの中身”の問題もないでしょうか?   それと更に、“神”とか“信ずる”とかの中身。   あぁ、そうか。そういうことをご質問なんですね 〔そこで思ったのですが、「神を信じる」ってどう言う意味なのでしょうか?〕   ◎投稿者:なんだ、全てが一にして多に現象しているかのような、実在の神でしかなかった、と知ってしまうことです。   それだけのことで何も変わりませんよ。   救いですか?何かが別なんでしょうかね。   透徹してわかってしまうと、どうだと思いますか?   つまりそんなところです。それだけのことです。   私の勉強してるもの?Self-Realization FellowshipっていうところのParamahansa Yoganandaの教えです。   そこの受け売りです。回答や経験者、そして自身ありにチェックを入れないことにしました。

maimaisus
質問者

お礼

んー、そんな観方もありなのかもしれないですね。 回答ありがとうございました。

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.18

No5です。 >悪い方向で使うと恐ろしいよね、集団催眠。 ヒステリーという症状がある人がいる。 フロイトが発見したのですが、歩けなくなった女性に催眠をかけて、過去のことを語ってもらったところ、歩けなくなった原因がわかった。 姉の夫が好きだったのですが、その気持ちを押し殺していた。 姉が死んだ時、その夫がよく座っていた椅子に腰掛けて、「これでお義兄は自由になれた」と思った。 その後から足が足がしびれるようになった。 人の夫に恋をしており、好きな相手の妻である姉が死亡したことで、自分にもチャンスがめぐってきたと喜んだわけですが、倫理に反することを思ったとして、自分を罰したわけです。 自己暗示で、歩けなくなった。 ヒトラーの演説、あれも一種の集団催眠があったと思います。 種類は驚愕法。 ヒトラーは催眠を群集にかけようという意志は無かったのですが、あの演説の仕方だと集団催眠が起こる。 悪徳商法でも集団催眠は使われる。 悪徳商法の取材をするため、レポーターと隠しカメラを持ったカメラマンが現場に潜入。 レポーター、、、かかっちゃいました。 取材をするということで、術者の言葉に集中してしまい、かかってしまった。 カメラマンは、映像の撮影に集中したので、術にかからなかった。 レポーターに聞くと、「だってこの布団 とても欲しかったんだもん・・ でも この布団いいでしょーーー!」って歓喜の表情。 本人は自分がマインドコントロールされたので、50万する布団が欲しくてたまらなくったのだと気づいていない。 まあ 本人が原価1万の布団を、50万で買いたいというのなら、それはそれで自由ですが、、、 宗教もそうです。 例え、マインドコントロールされて、快楽を感じてやみつきになったというのなら、それは趣味の世界ですから家族以外は口出しすることじゃない。 だけど、じゃあ 集団催眠により安い商品を何十倍もの値段で勝ってしまう催眠にかかりやすい人が、ローン地獄に陥ってもいいのかというと、いいとは言い切れない。 詐欺師が大手を振って歩く世の中がいいわけないですから。 宗教音楽は独特の音階で構成されており、催眠効果があると言われている。 この音楽をならされて暗示をかけられたら、真面目な人ほど またたくまに暗示にかかってしまう。 いい加減な性格の人だとかからない。 私はかからない体質なので、宗教音楽が流れたところで、信者のように涙したり、その後歓喜の表情になったりしない。 信者だと音楽が流れたのがサインとなり、身体機能を変化させる。 いつだったか、ある場所に大勢の信者が集まった事件があった。 マリア様が降臨しているという。 日本のテレビ局も現地スタッフを派遣して撮影させた。 人々は涙を流しながら「ああ マリア様」って言っている先をカメラで捉えたが、何も写っていないし、取材班の誰もそれらしき者は見えなかった。 集まっている信者に人に「見えているんですか?」と聞いたところ、「はい」感涙して答えた。 「どのような姿ですか?」と聞くと、「ああ。。。マリア様」としか答えなかった。 見えてはいないが、脳の中ですばらしいものが存在しているとスイッチが押されているので、どんなとは答えられないが、涙が止らなくなるという。 集団の場合、1人が言い出すと、他の人もそういう認識に脳が切り替わりやすい。 集団の暴動もそれ。 ウイルスのようにつぎつぎ感染していく。 集団催眠、自己暗示、使い方によってはいい結果を生むんですが。 コントローラー つまり催眠をかける人次第だと思います。 その人が悪人なら、信者を使って世の中に悪をもたらす。 そういえば、20世紀のスクープとして、バチカンが麻薬企業やポルト企業の株を買ってもうけていたって事件があった。 信者の寄付金を元に、稼いで財産を増やした事件で、、、 うーーん、信者は「世の中にポルノと麻薬をはびこらせた我らの神を信じなさい。私はそんな善なる神の存在を日々感じています。この偉業をなしている善なる神があなたにはわからないなんて かわいそう」ってことなんでしょうね・・・ 信者の信頼を失うとして、スケープゴートをたてて、ロンドンはしに吊るした。これで捜査はもうできなくなった。 マインドコントロールされている人の方がかわいそう というか 救いようが無いからそうなったわけで、、、、

maimaisus
質問者

お礼

おっ、おお。 何か話が逸れていませんか?(-_-;)

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.17

神を信じたからこの世でいいことがあるとかないとかということはないですね。 それは単なるセールストークと同じですね。 特に病気なんかでそんなの良く聞きますが、病気は心の病に密接に関係してますから心の病が改善すればよくなる病気もたくさんあるのですね。信じてよくなるのは心の病でしょうね。 目に見えない神仏を信じて敬うという行為は人間だけが持つ本能ですから、その本能まで捨てると猿や犬と同じ土俵に入ってしまいますからね。賢いチンパンジーよりは人間でありたいということでしょうね。 更に、付け加えれば、神仏を信じていると生きている間でなく死後にいいことがあることは確かですよ。死後の保険と思えば神仏を信じることぐらいはたやすいものですね。

maimaisus
質問者

お礼

ふーん、そんな風に考えているんですね。 なるほど。 回答ありがとうございました。

  • katyan1234
  • ベストアンサー率18% (347/1849)
回答No.16

クリスチャンから言えばそのままですね。神をしんじなさい。 この信じると言っても様々な信じ方がありますからね。 神様と信仰者の契約とでも言えばいいのかな~

maimaisus
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 正直、その意味がわかりません。 だって神を信じる前にやっとく事は多くあると思うですよね。 本当の幸せをつかもうと思うなら、信教はその為の手段の一つではないでしょうか。 そう考えれば、人によっては、神を信じる必要もないと思うのですが。 クリスチャンの皆さんは何の為に神をしんじているのでしょうか?

回答No.15

はじめまして、当方、賢くありません。 断言出来ます。 私は、無宗教者ではありますが、無神論者では、ありません。 ちなみに、うちのかみさんは、キリスト教の信者です。 他人を勧誘なんかしては、おりません。 なかなか、良い奴です。私も、神を信じてはおりますが、まだ 実際にお会いいたした事は、ありません。 したがって、神様の名刺も貰った事は、ありません。 私が、神を信じているのは、自分が、弱いからです。 何かに、すがっていないと不安で、しょうがないからです。 競馬で、大穴が、当たってくれーから家内安全まで、多岐にわたり 日々祈っております。神とは、なんぞやと私に問われても正直 解りません、断言出来ます。私は、賢くないから!! ピッポのアウグスチヌスでさえ答えは出ませんでした。 それが、こんな、凡人に解る訳が、ありません。 私の場合は、ただ、自分の身勝手な欲望を叶えてほしいから! 信じる者こそ救われる アーメン しかし、競馬は、当たりません! 話は、変わりますが、vv8vv8azさん、あなたの意見は、素晴らしい 断言できます。私の目に、狂いはありません。 時々、思い違いをすることは、多々ありますけどね。 ごきげんよう!!こう思ったのは、あなた様で、丁度、五百一人目です。 御免してね。

maimaisus
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 好きだなーそう言うの。

回答No.14

以前書いた日記からの転記です >>> 「奇跡が起こったから、○○を信じる」 ○○を信じる側から見ても、○○を信じない側から見ても、おかしな話です。 「奇跡」という外部の状態にあまりにも引きずられすぎている。 「私(あなた)自身、どう考えるのですか?」というところが、すっぽり抜け落ちている。 「奇跡が起こったから、○○を信じる」は、「奇跡」と認識するものに、すべての拠り所を求めようとするがため、本当の意味で「信じている」とはいえない。 また、 「△□が言ったから、○○を信じる」も、「信じる」の拠り所を△□に求めているので、本当の意味で「信じている」とはいえない。 で、どんな場合でも、最終的には、「この私が、こう認識し、こう考え、こう思うから、○○を信じる」となる。 すなわち、最後の拠り所は「信じている」自分である。 「奇跡が起ころうと起こらないとにかかわらず」信じるべきものは信じる。 ただし、都合の悪いものにふたをして信じるのではない。 <<< さて、次の文章は、一般的なものです。 === 「ゲーム」は「快感」をもたらすことがある。特に「攻撃する」ことで「快感」が得られる率が高くなると想像されるので、「ゲームで攻撃すれば快感が得られる」ということを「信じる」かもしれません。(実際にはそうでない場合もある) === 上記「ゲーム」を「神」、「快感」を「救い」、「攻撃」を「信じる」に置き換えれば、全く同じことが言えるはずです。 神という概念は、個人のレベルで考える時には、如何様であっても良いと思います。その概念に向き合うことで、自身が自身で判断して「よい方向」に向かいうると思うときには、まさにそう信じている自身を信じていいでしょう。それは、まさにおまじないの類にとどまるのかもしれませんし、神秘の向こう側なのかもしれません。 しかしながら、神という概念を、共有しあおうとするとき(正に宗教化するとき)、問題が生じ得ます。 たとえば、同じ宗派に属するAとBがいて、 お金に困っていたAにとって神頼みをしたら、一万円札が落ちてきたとき、 ビルの屋上で鼻をかもうとしてハンカチを取り出したらポケットから落ちた1万円札が飛んでいったBがいた。 とか。。。 そんな話は別にしても、有名な論理があります。 「信じるものは救われる」の対偶をご存じでしょうか? 「救われないものは信じていない」です。 「救われない」上に、さらに「信じていない」という烙印を押されかねないのです。

maimaisus
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 何だか、現実の理不尽さを感じさせるお答ですね。