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神を信じるってどう言う意味?
よく神様を信じている人と話すと、神様を信じて祈れば救われるとか、救われたとか話を聞きますが、どうも納得がいきません。 何故なら、神様を信じていなくても、それなりになる人は多くいますし、信じていても救われない人もいるからです。 まあ、そう言うと、「神を感じた事がないから」なんて事を聞きますがたとえ、何らかの存在や感動、快感、救いを感じたとしても、それが必ず結果に表れる訳でなく「感じた、体験した」だけで終わってしまう場合も在る訳です。 そんな人、何人も見てきました。 そう言う訳で、結果から考えると、神の存在と、救いは、ある意味、別のモノであり、神を信じれば救われると考えるのは変な思い違いなのではないでしょうか? そこで思ったのですが、「神を信じる」ってどう言う意味なのでしょうか?
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- owlsjp
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例えば、目の前に猫がいたとして、それを見て「私は猫がいることを信じる」とは言いませんよね。信じるも何もなく、単にそこにいることを「知っている」のですから。 そういう意味で、「信じる」というのは、「神がいるかどうかわからないけど信じたい」という個人の希望、都合を表しているのです。 もし仮に真の神がいたとして、自分の都合で「信じる」とか「信じない」とか言う人間がいたら、「勝手なやつだ」と思うでしょう。 そういう意味で、「信じる」と言っている人は、「信じない」と言っている人と同じレベルです。傲慢であると言う意味において。
No.20です。「信じる者は救われる」というのは、頭で信じる者ではなく、心から信じる者が救われるという意味です。どんな状況に置かれても「自分は幸せ者だ!」とか「希望はある!」と心から信じている限りはその通りなんでしょう。「救いはある!」と信じていればこそ希望の光が見えるのです。まぁ、後になって『神も仏も無いもんだ』と落ち込むかも知れませんが、それはまた別の話。宗教というものは、どの宗教でも心から信じることを要求します。頭で信じてもご利益はないのです。 信じていればこそhttp://www4.plala.or.jp/k-k/komoku011.htmlマイナスをプラスに転換できるのでしょう。この類と一緒だと思います、ハイ。
お礼
再度、回答ありがとうございます。 なるほど、そう言う事で在るならば、信じる対象は、神でなくてもいい訳ですね。 本来、信じる信じないは個人の勝手なのに、心からを要求すると言う部分は宗教というものの必要悪みたいなものなんでしょうかね。
- katyan1234
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それじゃ聞くけど正しい信仰とはなんですか? 新約聖書に教会に行きなさいとは書いてないよ。 信仰とは神様と信じる人の間の契約ですから他人にはわかりません。 聖書には信じれば救われると書いてます、そのほかの条件をいれてしますとキリストが十字架にかかり私たちの罪を取り除くという事は意味はなくなりますよ。あなたのキリスト教に関する知識を取り除き御言葉に目を向けてください。 聖書は神は一人子を給うほどにこの世を愛してくださった。それは、御子を信じるものが一人も滅びないで、永遠のいのちを持つためである。 信じ方については書いてないですよね。だからあなたが信じたといえばそれが神様との契約です。もし条件をつけたら条件をクリアしたひとしか救われないと言う事になり上の御言葉とは反しますよ。 だから正しい信仰もなく 正しくない信仰もありません。もし間違っているなと思うなら悔い改める事が出来る。もう一度父の元に戻ろうと言えるのが正しい信仰です。 意味理解できますか?自分から見て判断するのではなく神様の立場から見て判断するの、だから教会に行きとなりの人がどのような信仰があるのかわかりません。しかし御言葉に目をとめているなら信仰があるのです。 信仰は神様と歩む事、だから正しいとか間違いとかもありません。 もし私の信仰が間違いだというならあなたが裁く権限あるの?あなたも裁かれる立場にあるはずだよ。 日本人悪い考えだよね。信仰とはいかにあるべきか?こうしなければいけない。○○してはいけない。永遠に感謝できないよ。もっと自由になりましょう。 >感じた、体験しただけで終わってしまう場合も在る訳です。 それでもいいよ。それがその方の信仰です。それでとめても問題はありません、その方の信仰の問題です。 聖書から学びましょうか? 12年もの間、病気が治らず、医者に全財産を使い果たしたが、誰からも治してもらえない女性は、イエスのことを聞き、信じました。このお方が私を治してくれる、と。そしてイエスの後ろから、そっとその服の端に触りました。「この方の服の房にでも触れれば必ずいやされる」と信じて。 彼女から見れば そこで人目を忍んで、後ろからこっそりと。しかし、縋(すが)る思いでイエスに触れた そしてイエスは言われた 娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。 このお方に触れさえすれば、かならず癒される、そう信じた。このお方にと信頼して触れた信仰。でも素晴らしい信仰であったかどうか、大きな揺るがない信頼であったかどうかは疑問です。もう他に頼れるものが無かっただけかも知れない。私たちにはわかりません ただどんなに小さな信仰・信頼であろうとも、からし種一粒ほどでもあれば、主は働いてくださる。と信じること これが本当の信仰です。
お礼
正直なとこ、私自身は神に関して言えば、存在しているとも、存在いないとも思っています。 神を信じない、人の意見にこんな理屈があります。 もし、本当に聖書に書いてあるような全知全能の神がいたとして、何故、最初から人間を苦しまないよう、間違いを起こさぬように創らなかったのか。 初めからそうであるならば、誰も苦しまず、今よりも遥に栄えた世界があるはずだ。 最初に、その考え方を聞いた時、成程ねって思いました。 それは、逆に神が存在すると考えれば、聖書の内容を読んだまま受け取ってはいけないと思ったからです。 出だしから、矛盾だらけだしね。 それにね、本当に、何も考えず、心で神を感じるのが信教ならば、聖書なんて必要ないでしょ。むしろ、邪魔な知識ではないでしょうかネ。 なのにあなたは、何故か、聖書までまんま信じているご様子。 本当の信教の在り方とは、心と体で、感じ考える事が本来の、姿勢らしいです。 あくまで、私の個人的な意見ではなく、この質問を通して得られた、私なりの回答ですが。
- katyan1234
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ごめん一つにして書けばよかった まるで、恋愛している時のような感じの、回答ありがとうございました。でも、それって、趣味ですよね。感覚味わうための。 趣味じゃないよ。信仰は頭で理解するんじゃないの、心ですよ。 心に植えつけられた御言葉を行いなさい。御言葉には魂を救う力があると言う言葉がありましたか。 信じるというのは信じると言う事、ある方は聖書の言葉であり、ある方はキリストと言う存在を信じ、ある方は教会を通し、ある方は賛美、祈りと色々ありますね~ 信仰と言うのは内に向かう聖書を通して自分を見ると言う方と 聖書に書いてある事を行うと言うタイプの2通りありますね。 まあキリストを信じれば救う。ここには条件がないので信じれば救われているんです。 あなたと神様の関係で聖書につながっているなら信じているという感じ。 ほんの少しでも信じているなら信じてます。完全に信じなければならないなんてありませんからね。後はその人の信仰の深さでその人が決める事になりますか?だからどのような状態で救われたのか? 多く許された者は多く愛すると言う事になります。
お礼
この質問は、神がいる事を前提になっている事にお気付きでしょうか。 その上で、どう言う形で神を信ずる事が正しいのかを問うのがこの質問の主題です。 katyan1234さんには申し訳ないですが、あなたの言っている事は、本来の正しい信教の形ではではないようです。 回答ありがとうございました。
- katyan1234
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聖書読めば読むほど、人間が望む神と、本来のそれとはかけ離れて思えるのは、僕だけでしょうかね。 まあ普通聖書知らない時に考える神様という知識はは私たちの希望をかなえてくれる神様で、神様に祈ってたらかなえられる。しかしよく考えたらその考えは私たちの奴隷になっています。 ところであなたはどんな神様だと思ってました?私は神なんて信じてどうなるの?馬鹿じゃない、毎週教会ばっかり行って馬鹿じゃないかと思ってた。 >内に存在している・・・って事は、神の存在も救いも自分次第って言うことですかね 信仰のある方の表現ですね。だって信じると言うのはあくまで自分の心だからね。信じてなく祈っても何もおこりません。 だから時々教会に行っても信じることが出来ないですよ~と言う方がいます。本当に信じたいなら神様の言葉聖書に目を向ける事になるかな~ 聖書を読んでいると言う事は信じないと言う方は聖書を読みません。 あなたの心の中にあるものが求めているんだと私たちは考えてます。 まだ理解はできていなくても 後はあなたの選択かな~ 信仰は求める。つまり心の中にある神様を呼ぶというのかな~
- em9845
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聖書を読んでいて「信じる」という言葉は二種類の適応あるということを最近知りました。具体的には客観的に「信じる」ということと、主観的に「中へと信じる」(英語はbelieve into)という二種類の使い分けがあることを知って、わたしも「なるほど」と思ったので、参考までに抜粋を記載します。 以下は私が最近読んでいる、オンライン聖書回復訳(http://www.recoveryversion.jp/)の抜粋です。 ヨハネ3:16 神はそのひとり子を賜わったほどに、世の人を愛された.それは、彼の*2中へと信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を持つためである。 3章16節 フットノート2 主の中へと信じるとは、彼を信じること(ヨハネ6:30)とは異なります。彼を信じるとは、彼が真実であり、実際であると信じることです。しかし彼の中へと信じるとは、彼を受け入れて、彼と一つに結び付けられることです。前者は客観的に事実を認識することであり、後者は主観的に命を受け入れることです。 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=43_3_16_0_2 ヨハネ6:29 イエスは答えて言われた、「神が遣わされた者の*1中へと信じること、これが神のわざである」。 6章29節 フットノート1 主の神に対する観念は、人が彼の中へと信じること、すなわち、彼を命また命の供給として受け入れることです。これが命の木の原則です。命の木は、創世記第2章に見られるように、命をもたらします。これは、死をもたらす知識の木の原則と正反対です。 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=43_6_29_0_1 ヨハネ6:30 彼らは言った、「わたしたちが見てあなたを信じるために、あなたはどんなしるしを行なわれるのですか? どんなわざを行なわれるのですか? 1コリント2:9 このように書かれているとおりです、「目が見たこともなく、耳が聞いたこともなく、人の心に思い浮かんだことのないものを、神はご自身を*3愛する者たちのために備えてくださった」。 2章9節 フットノート3 神がわたしたちのために定め、備えられた深く隠された事柄を認識し、それにあずかるために、わたしたちは彼を信じるだけでなく、彼を愛することが必要です。神を畏れ、神を礼拝し、神を信じる(すなわち神を受け入れる)ことだけでは不十分です。彼を愛することが、不可欠の条件です。神を愛するとは、わたしたちの全存在―霊、魂、体を、心、魂、思い、力と共に(マルコ12:30)―完全に彼の上に置くことです。これは、わたしたちの全存在を彼に占有していただき、わたしたちが彼の中で失われることです。その結果、彼がわたしたちのすべてとなられ、わたしたちは日常生活の中で、実際的に彼と一になります。このようにして、わたしたちは神と最も近く、最も親密な交わりを持ちます。そして、わたしたちは神のみこころの中に入って、心の秘密をすべて理解することができます(詩73:25.25:14)。こうして、神のこれらの深く隠された事柄を認識し、経験し、享受し、十分にあずかるのです。 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=46_2_9_0_3 人の霊、魂、体については下記リンク参照 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=52_5_23_0_5 http://www.church-in-suzuka.com/suzuka_mystery_of_human_life.html 結論として、「神を信じる」ことを通して救われるためには、救いである存在を受け入れる必要があるということなんだと、理解しました。病人が癒されるためには薬を飲ま(受け入れ)なくてはならず、薬を飲むためにはそれを処方した医師を信じなければならない。聖書ではこの薬も医師も「神」という存在であり、医師(神)の言うことを信じて、薬(神)を受け入れるという事ではないかと理解しました。 あくまで、わたしの理解ですので参考までに。
お礼
救いである存在を受け入れることが、信じる事の意味だとお考えなのですね。 回答ありがとうございました。
- kigurumi
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>内に存在している・・・って事は、神の存在も救いも自分次第って言うことですかね。 キリスト教は「神にゆだねる」ということをモットーとする他力救済なですね。 それに対して仏教は自力救済。 アリストテレスの師匠であるプラトンは、人間はイデア界(普遍・完全な世界)にもともといたとしたんですね。 ところが肉体という有限の属性の殻に閉じ込められたため、限界者となり苦痛を感じるようになったと考えた。 それで、元のイデア界を知りえる人の言うことに従っていれば、イデア界を知る能力が無いものでも、間違いを犯さないようになる って考えたんです。 プラトンの考えは、キリスト教にひきつがれ、教皇を頂点とするイデア界を知りえるとされる聖職者の言う通りにしていさえすれば、幸福になれるって信者に言ったんです。 プラトンの弟子のアリストテレスは、一部の人のみがイデア界を知りえるのではなく、誰でも可能だって考えた。 両極端は結局人に苦痛を与えるので、その中間がよろしい とした。 例えば食べることは幸福感を増しますが、食べ<過ぎる>と腹痛起こしますよね。 例えば、勇気が無いために、物を取られても黙っているしかなく、不自由な生活をするのなら、自分がいくじなしのせいで不幸になるわけです。 そういう勇気が不足な人は、勇気を出せばいいわけです。 あまりにも勇気がありすぎた人が、独裁者に立ち向かうとどうなるか。 勇気があるのではなく無謀も不幸を産む。 竜巻に喧嘩売っているようなもので、過剰な勇気のために殺されたり、戦って圧倒的戦力で負けて土地を奪われるのなら、少し抑える。 過剰と不足が不幸の発生原因だとしたのがアリストテレス。 過剰と不足の中間をアリストテレスは中庸とした。 人の美・アレテー・徳であるとした。 >なんか、仏教的な部分を感じさせる考えかたですね。 ぴんぽーん! http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%BA%B8 『仏教の中道と通じる面があるとも言われるが、仏教学者によれば違う概念であるという。』 んーー 中道ねぇ・・・ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E9%81%93 『たとえば、厳しい苦行やそれと反対の快楽主義に走ることなく、目的にかなった適正な修行方法をとることなどが中道である。』 まっ 要するに過剰すぎたり不足すぎるのは、精神上もよろしくないってことですね。 で、、、、智恵のことが<神>という記号で語られている古代文書を理解せず直訳してしまうと、あらぬ方向に青い鳥を探すことになる。 灯台元暗し。 なんだぁ 自分の中にあったんだぁって気づける人は、他力じゃなくて自分の中に答えを見つけようとする。 1人じゃ無理な場合は、ここで質問して智恵を分けてもらったりする。 信者の神の概念は 智恵とは違う。 使徒信条にあるとおり、天地を作り、ピラトに殺されて3日後に生き返り、最後の審判で死人も蘇らせ裁判をして天国行きと地獄行きに分類をする者を神だとしている。 どうしてそういう概念になったのか、信者は知らない。 エジプトの神がイエスという名前になったと信者は知らない。 彼らは「神を知っている」とは決して言わない。 「神の存在を信じる」という。 <知っている>と<信じる>の違いわかりますか? 知っているって人は、自分の中に持っている。 信じるって人は、自分の外にそれが存在すると期待しているだけで、知っていなくてもかまわないわけです。 「わかった」と英語で言うとき「I know!」「I got it」と言う。 「I hope」とか「I believe」とは言わない。 旧約聖書のヨブ。 品行方正で、誰からも立派な人だと尊敬され、とっても敬虔深いユダヤ教信者って設定です。 彼は家を失い家畜を失い子供を失い自らも重い皮膚病になった。 彼はとうとう神の前に立った。 「私が一体どんなひどいことをやったから、こんな目にあうのか教えてください。私はバカだからこうなる原因がさっぱりわかりません」 この後、ヨブと神との対話が続くのですが、実はヨブ作家の自分自身の智恵の対話。 彼は自らの智恵をもってこの理不尽さに納得した。 自力救済ですね。
お礼
>知っているって人は、自分の中に持っている。 信じるって人は、自分の外にそれが存在すると期待しているだけで、知っていなくてもかまわないわけです。 そっかー、知らないっまま、期待してるんですね。 なるほど、それなら何となく分かるような気がする。 ギャンブルしたときによくある当得体の知れない確信、あれに近いですね。 最初は期待なのいつの間にか確信に変わっているあれですよ。当たる当たらないは別として。 回答ありがとうございました。
- kigurumi
- ベストアンサー率35% (988/2761)
>何か話が逸れていませんか?(-_-;) ん? 操作すれば、人に無いものをあると知覚させることができる って現実使われている方法を紹介したんですけど、、、 えっとですね。 「信じる者は救われる」という一文だけピックアップしたらダメなんですね。 例えば、<与えよ さらば与えられん> この一文だけだと、与えたらかならず自分も与えられれるようになるから、貯蓄せずにどんどん教会に寄付したほうがお徳 ってなりますよね。 そういう単純な意味じゃないんですよ。 その前に書かれている文書を読むと、智恵を伴って与えた場合は、善い報いがあると言っている。 <貧しいものは幸いなり> これは貧乏であることは幸福だって意味じゃあ ちっとも無い。 聖貧であることが幸福だって意味じゃあ ちっちも無い。 心が貧しくいじきたないものは、改心する機会があるから幸福だって意味じゃあ ちっとも無い。 貧しい者ってのは、神の前に立つまでになった人。 例を挙げるとヨブ。 (といってもヨブ物語知らないですよね。 まあ 機会があったら読んでみてください。) 要するにヤコブ(後のイスラエル)と同じく、神と対決した人がヨブ。 (ああ、イスラエルの物語も知らないですよね。) 哲学、フィロソフィア。日本語だと愛智。 古代は智恵を擬人化し、女性品詞として語った。 ダビデの歌など恋人へのラブレターだと思われているが、実はその恋人とは智恵のことなんです。 智恵を伴った信仰者は救われるってイエス作家は言っている。 目が見えない人を目が見えるようにしたというエピソード。 これは肉体的な問題ではない。 無知者に智恵を与えたことで、今まで分別できなかったことが、分別できるようになった という意味。 目が見える、目が見えないってのは、ヘブライ語の慣用句で、分別がつくつかない って意味であって、肉体的なものじゃあないんです。 智恵が人間を救ってきた。 智恵が人間の恋人。 智恵という恋人によって救われる。 これがユダヤ人の哲学。 >神の存在と、救いは、ある意味、別のモノであり、神を信じれば救われると考えるのは変な思い違いなのではないでしょうか? 智恵は存在しており、智恵がその人を救うってのは事実。 <神>という語彙を<智恵>という語彙におきかえみて考えてみてください。 智恵が存在すると私達は知っている、その智恵によって救われると私達は知っている。 キリスト教が、全知全能の神が人間の外に存在するとしているが、外じゃない 内です。 この事に気づいたのがアリストテレス。
お礼
内に存在している・・・って事は、神の存在も救いも自分次第って言うことですかね。 なんか、仏教的な部分を感じさせる考えかたですね。 回答ありがとうございました。
- Y Y(@yy8yy8az)
- ベストアンサー率17% (89/501)
信仰に入る動機といったようなことから考えてみました。 今の苦しみから救われたいという‘逃げ道’から。(ご利益信仰) 神や仏の世界に少しでも近づきたいという‘向上心’から。(求道心) 神秘の世界に引かれて。(霊魂、あるいは霊感?) いわゆる先祖供養。はたまた輪廻を信じて。 マインドコントロールによるもの。 まだあるでしょうか。 こうしてみると‘神を信じる’の意味の答えは一つではないのかもしれません。《これが今回の回答です。というより感想かな》 summerwintさんは、信仰には‘盲目的な要素が付きまとう’という点を疑問視しているのですよね。 食べられるからといっても、すべて身体に良いという訳ではないのと同じで、信じることが出来ても、必ずしも‘良い’とは言えないのでしょう。 また視点を‘動機’から‘「神」をどう捉えるか’に替えて考へてみると、別の答えが出てくるかも。
お礼
・・・こうして皆さんの話をいて、考えてみると、神を信じるとその意味は、人それぞれ違い、個人的で、これまた善悪とは別の所にあるのだと思えてきました。 よくよく考えて見れば当たり前のことですが・・・。
- tokkey
- ベストアンサー率42% (16/38)
私はプロテスタントのクリスチャンです。 質問者さんの問いへの答えにならないかもしれませんが、私はこう考えます。 神をただ、信じている人とは、神の存在を信じている人のことです。そして、神を信じ救われている人とは、神様から愛され大切にされていることを信じている人のことです。
お礼
回答ありがとうございます。 ですから、何故そう信じられるの?って言う質問なのですが・・・。
お礼
その意見に関して言えば、どう意見です。 分からないことや、見えないものの方が多いこの世界で、神は存在しないと言い切る事と、誰もがはっきりと存在を確認ないものを在るから信じると言い切る事。 どちらも確かに、傲慢に感じます。 回答ありがとうございました。