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スッタニパータは直説の経典ですか
スッタニパータは釈迦の直説の経典という意見がありますが、これは正しいのですか。自分は、経典は全部釈迦の没後にできたものと理解していましたが。ウィキペディアをみてみても、古いとは確かに書いてあっても直説とは書いてないようです。
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- azu-kit
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私はスッタニパータをもっとも信頼できるお釈迦様の言葉と思っています。 こういった理由です。 1.成立年代が最古であること。 2.阿含経という膨大なお経が最初に成立したこと。 3.しかも、「アショーカ王」という大王がそのそのお経を元に 栄えている仏教教団に帰依し、その教えを実践したこと。 4.数々の大乗仏典が阿含経成立以後に生まれたこと、 紀元前100年から紀元後500年ぐらいのあいだに。 5.初期の仏教教団が、修行実践型だったので、どうしてもあったかいところで 修行したほうが都合がよく、その拠点をスリランカや南アジアに移して行った、 という歴史。 彼らは、お釈迦様の骨、つまり仏舎利を守ってインドから南のほうへ移動して いった。 6.北のほうへ移動した仏教はおもに富裕な貿易商人などが新しい仏教を作ろうとして 寺院を建立していった。彼らに守られた僧侶たちが、新しい経典を次々と 創作していった。 どうしても在家信徒に都合のいいお経になってしまった。 末期に入ると、元のお釈迦様の言葉は無視され、逆の論理さえ作られた。 7.お経の現代語訳を読んでみると、阿含経のほうがより具体的な教えで書かれているが、 大乗仏典は、菩薩の哲理が延々と述べられており、人間としてお釈迦様の生活臭が ほとんどしない。 8.私はスッタニパータを1976年ごろから読み始め、お経として何度も読み返した。 読むのも面倒くさくなった頃、心臓神経症を患い、不安定な心に悩まされたとき、 その経典のお釈迦様の言葉が救いになった。1986年ごろです。 9.いま、ほとんどスッタニパータを読んでいないのに、未だに時々その中のお釈迦様の 言葉が出てきます。 10.原始仏教と大乗仏教とでは思想、哲学が明らかに違っている。それが把握できれば、 自然にどちらが自分に役に立つかわかってくる。 以上、学問的にはあきらかに阿含経のほうが、真説といえます。信仰の問題に成れば、 話は変わって来るかもしれない。
- 7zigennDNA
- ベストアンサー率42% (8/19)
仏教の経典については、直説か、伝聞か、創作かと、 目くじらを立てても意味がないと思います。 お釈迦様は、亡くなる前に、自燈明を説かれ、 これからは、各自、自分の道を照らすよう、言い残されていると聞きます。 如是我聞(私はこのように聞きました。私の心にはこのように響きました。) で始まる経典が、次から次へと産み出されてきたからからこそ、 仏教の教えは、その時々の状況の問題に答えることができ、 活きた教えとして、現代まで続いてきたのだと考えます。 仏教だけでなく、世界的に広まり、今に伝えられている宗教は、 いずれも、一字一句、経典を金科玉条のように固定的に扱ってはおらず、 その時々の状況に答えられるよう、宗教指導者が解釈しなおしてきました。 経典については、間違っているかどうかではなく、 どう解釈するかを問題にすべきだと考えます。 創作であっても、お釈迦様の本意を解釈したものであれば、何の問題もないと思います。 ただ、それを「仏教=お釈迦様の教え」とする事に抵抗を感ずる方がいても仕方ありません。 私は、経典に精通した方が、「自燈明」の教えに基づいて創作されたのであれば、 それも、立派に仏教に連なるものだと考えます。
- 馬鹿 禿(@baka-hage)
- ベストアンサー率67% (99/146)
返事が遅れ申し訳ありません。パソコンが開けられず、お返事できませんでした。 >>これは別にbaka-hageさんのことを非難しているわけじゃありませんし、丁寧に答えてもらって感謝しています。名称の使い方に正直違和感を感じたのは事実ですけど。 ちょっと、私の言葉も悪かったですね。申し訳ない。確かに私の研究の専門分野は、日本仏教の主体的研究です。しかし、今の仏教学界は(どの分野でもそうだと思いますが)簡単じゃないですよ。主体的立場の研究をしていても、いやでも客観的立場の研究は介入してきます。 私自身はサンスクリットとパーリは簡単なものなら何もなくて訳せますし、辞書があれば普通に訳せます。(英パ辞典と照らし合わせながらなんで、疲れちゃうんですよ。僕はもうやりたくない作業です・・・) 確かに >>私も専門家なんですが、どちらかというと2の立場が専門なもので、私の分かるのはこんな所ですかね。 っていうは誤解を生みますね。申し訳ないです。ただ、双方を知らなければ「1が前提に無ければ、2の立場は意味が無い」ということになりかねないという懸念を述べたかったのですが、 >>僕も1も2も両方大事だと思います。 しかしそんな事はもうお分かりのようでしたね。すみませんでした。 あと、専門家とそうでない人の違いは、「調べる術があるかどうか」ということだと考えています。 さて、 >>それならどこで読んだ誰の意見か教えてもらったほうがよっぽどいいわけです。後でそこから調べられますし。 ということなら、パーリ語聖典の成立の歴史に関して言えば、普通の仏教辞典で「パーリ語」と調べればでていますよ。一番簡単な辞書としては『岩波仏教辞典』がありますが、もっと詳しく知れたいということであれば、書籍を探るより、インターネットで「論文検索」と打って、「パーリ語」や「パーリ語 起源」と打てば、余計な情報の載っている書籍よりも調べるのは楽です。それに論文検索の方が、新しい情報が手に入るはずです。後はこういった研究は西欧の方が盛んで、書籍を一つ挙げますとHazr氏の『Pali Language and Literatur』に詳しく書かれていたはずです。ただ、この本は歴史的展開よりも、言語学的文学的なまとめの方が多かったかな。 >>「直説ですか」と聞かれた時、「実際には直説ではないけども、自分はそう受け取って味わっています(研究しています)」というならわかります。でも、前半の前提もなしに主体的に受け取る(研究する)というのなら、 ソウカさんについてはさておき、これも一筋縄ではいかんのですよ。いちお、パーリ語の起源説をいくつか載せておきますと、(1)お釈迦様が使っていたマガダ語(古代インド東方の言語)から発達した。(2)お釈迦様が活躍した諸地域の公用語のコーサラ語から発達した。(3)当時のカリンガ国あたりの言語(4)当時の西方ウッジェーニーの言語から発達した。代表的なものですとこんな感じですが、どれもまだ決定打には欠けるんですよ。 (4)が一番それっぽいってことは言えるんですが、(1)の立場の場合は客観的な立場からも「パーリ語聖典こそ釈迦の直説を正確に伝えている」ということも言えるんですよね。 まぁ、素人専門家に分かるのはこのくらいでしょうか(笑) >>失礼な書き方になったら申し訳ありませんが、1の立場と2の立場が都合よく使い分けられているのが宗教家の方の欠点のように思います。 いえいえ、失礼ありませんよ。その通りですから。けれども、僕はそんな立場でいたいと思うんですよ。 では、失礼します。急ごしらえの文章のため、誤字脱字乱文どうかお許しください。 合掌 南無阿弥陀佛
- 20097
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何度も書きこむのは、どうかと思いますが、せっかくですので、続きを書きたいと思います。 証明の云々というのは、いくら考えても答えの出ない事を考え続けてもキリが無く、つまりそれは、苦しみである、というのが仏教の考え方だろう、という事が言いたかった訳です。 誰かに対して怒りを感じ、罵ったり、恨み続けるのは、苦しい事です。それは、誰であれ違いは無いでしょう。そこで、怒りを抑えよと言う。そうすれば冷静になり、良い解決策も見つかるであろうと教える。 こういった事は正しいとは思えないでしょうか。 また、自分で自分の事をひねくれ者だと卑下するのは、たとえ謙遜であっても、良くありません。 うまく、質問の意図が読み取れず、回答になって居なかったかも知れませんが、書きこみ続けるのも悪いので、この辺で止めておきます。 もし良ければブログへお越し下さい。名前の所をクリックして頂ければ、URLが書いてあります。そこならば、気兼ねする必要もなく、話も続けられます。宣伝ではありませんので、気が向いたらどうぞ。
- 20097
- ベストアンサー率0% (0/0)
今日わ。補足します。 学会については、良く知りませんので何とも言えません。ただ、直説の経典かどうか、証明のしようの無い事に拘るのは、如何なものかと思います。何か特別な理由でも有るのでしょうか。 その内容を、疑ったり、鵜呑みにしたりすること無く、自分の経験等を通して、正しいかどうかを、検証し、役立てれば、充分でしょう。 真理という言葉は、少し読めば、すぐ出てきます。其の意味は、いつの時代でも、何処に在っても、誰であれ、当てはまる事だと理解して居ります。 自分の努力云々、というのは、欲や怒りなどを、抑える事に依って、汚れが拭われ、見る働きが清められる事に依って、在るがままを見て、理法を知る事が出来ると、在ります。これは、色々な部分を、多少都合良くまとめて居ます。それぞれ、詳しいページ数などは、申し訳有りませんが、ちょっと思い出せません。 他にも、自分の事は、他人によってではなく、自分でしかどうにも出来ないとか、激流を渡り、彼岸へ赴け、等色々あります。 これらの教えは、経験上、正しいと思いますし、同意される方も多いでしょう。 追及して行けば、結局のところ、釈迦や仏陀というのは、象徴や偶像にすぎず、誰が言ったかという事よりも、正しいかどうかが、問題となるでしょう。
お礼
再回答ありがとうございます。 >証明のしようの無い事に拘るのは、如何なものか 別にそんなにこだわってるわけではないんですが、質問としてはありじゃないですか。学術的にどっちなんだ、という問いです。20097さんの回答としては、「証明できない(し、別にどうでもいい)」ということですね。 >誰が言ったかという事よりも、正しいかどうかが、問題となる 20097さんは多分純真な方なので素直にそう感じられると思うんですが、僕みたいなひねくれものにも「正しい」と感じられるかどうか、自分が知りたいわけです。
- 20097
- ベストアンサー率0% (0/0)
今晩わ、初めまして。 思うに、スッタニパータが直説の経典かどうかは、確認のしようが無い、というのが本当の所ではないでしょうか。 しかし、私は、是に書かれて在る事は、この世と自分の分析として、理屈が破綻をしておらず、余分な物も少なく、経験からいっても頷ける事が多い、という事から、非常に信頼に足る仏典であると思っています。 それから、此の中に、真理は何時の時代も変わらず、自分の努力によって見る事が出来る、と書かれて在ります。是は、其の前後を読むと、説得力の有る言葉だと思われます。ならば、仏陀の直接の教えかどうか、今でも、自分の目で確認する事が出来る、と言う事でしょう。 無理かも知れませんが、挑戦して御覧になるのも、面白いと思いますが如何でしょう。
お礼
どうもありがとうございます。 >確認のしようが無い 確認できないことも含めて、今の学会ではどうなっているのかを質問させてもらいました。立場によって違う、というようなご意見があって余計にわからなくなってきたわけです。 >真理は何時の時代も変わらず、自分の努力によって見る事が出来る これってどのあたりに書いてありましたか。ちょっと思い出せないのでよかったら教えてもらえませんでしょうか。この言葉も誰が言うのかによってだいぶ受け止め方が変わってきそうな感じですね。
- rurubonpp
- ベストアンサー率26% (128/488)
専門書籍を教えて欲しいということですが、非常に多くて長くなるので、著者の名前だけで良いのであれば書いておきます。 ・まず現在進行形の最新の情報は、仏教学の研究員で講師をやっている私の友人から直接聞いています。インドでの発掘状況とかは特に。 ・大学の仏教学の教科書 ・著者名:中村元先生、水野弘元先生、菅沼晃先生、増谷文雄先生、雲井昭善先生、梅原猛先生、ヘルマン・ベック 私が読んでいるのは、大体以上の先生方の著書です。新書とか文庫本とかを入れると他にもありますが、そんなところでしょう。 中村元先生は全集が出ているので、1巻から読むと良いでしょう。 以上著者の名前を挙げたわけですが、ちょっと一昔前の諸先生方と批判されるかもしれませんね。 私の場合は専門家と言っても、学者の方ではなく修行者で宗教家の方ですから、知識も大切ですが、修行の結果こそが最も大切なわけです。 どんなに良い教えでも結果が伴わなければ意味がありませんから、結果の出る可能性の高い、直説ということを非常に大切にしています。
お礼
再度ありがとうございました。 本当は著者名だけでなく、どういう著作のどういうところに経典の歴史的な成立の問題が書かれているのかお聞きしたかったのですが・・ では中村元先生の1巻から読んでみますw
- 馬鹿 禿(@baka-hage)
- ベストアンサー率67% (99/146)
少し続けて書かせていただいております。 >>スッタニパータは直説なので直説でない経典と区別しないとダメだ、という意見があったので質問させてもらいました。 うーん。たぶんその人は「大乗非仏説」をいいたかったんじゃないかと推察します。 >>要するに、スッタニパータは「古いけど釈迦の直接の説法記録じゃない」、しかも「直説に近い」というのも、あくまで推定だということになるわけですね。 これもちょっと難しいなぁ。これって研究の立場の違いがあるから難しいんですよ。 岸本英夫っていう宗教学者がいるんですが、『宗教学』って本の中で、宗教学を四つの立場に分類して説明しています。ここでは、分かりやすく二つの立場に省略させていただきますと、 1、客観的な立場。科学的研究。「宗教現象がいかにあったか?」 2、主体的な立場。規範的研究。「宗教信仰がいかにあるべきか?」 という二つの立場です。私の最初の回答は1、客観的な立場における回答です。 しかし、2、主体的な立場になると回答が変わっていきます。この立場は、経典をお釈迦様の直説としていただき、その経典の意図を読み取っていくことに意味を見出していきますので、『スッタニパータ』はお釈迦様の直説となるわけです。 1、客観的な立場では、事実の探求はあれども、教えの探求が無い。2、主体的な立場では、教えの探求はあれども、事実の探求が無い。学問的な立場としては、どちらも実は不完全な立場なんです。ですから、双方が足りない部分を補っていくことが出来れば一番いいと思うのですが、なかなかひずみが埋まらないのが現状のようですね。 先に挙げた岸本英夫氏は1、客観的な立場で研究を行なっていましたが、2、の主体的な立場の研究者とも交流が深い人物でした。やっぱり、この双方の立場を学ぶことは大切なことで、どちらが欠けても仏教学(宗教学)をつまらなくすらだけのように思います。余談が長くなりましたすみません。 >>baka-hageさんは専門家ということですが、この問題についてどんな書籍を読めばいいのかよければ教えてください。 私は基本的には論文から得た知識で、本ですと岩波新書からでている渡辺照宏氏の『仏教』『お経の話』に、経典成立については詳しく載っていたと記憶しています。 私も専門家なんですが、どちらかというと2の立場が専門なもので、私の分かるのはこんな所ですかね。急ごしらえの文章ですので、誤字脱字乱文どうぞご容赦ください。 合掌 南無阿弥陀佛
お礼
再度ご回答ありがとうございます。 >主体的な立場になると回答が変わっていきます。この立場は、経典をお釈迦様の直説としていただき、その経典の意図を読み取っていくことに意味を見出していきますので、『スッタニパータ』はお釈迦様の直説となる ちょっと疑問なのですがよろしいですか。「直説ですか」と聞かれた時、「実際には直説ではないけども、自分はそう受け取って味わっています(研究しています)」というならわかります。でも、前半の前提もなしに主体的に受け取る(研究する)というのなら、創価学会の信者がずっと後にできたはずの法華経(だけ)を最高の直説としてあがめているのとどう違うのですか。 もう少し正確にいうと、直説かどうか、という問題は別に信仰をからめないと質問・回答できないわけじゃないと思いますが。僕も1も2も両方大事だと思います。ただ、2は1と違って必要条件じゃないのではありませんか、という意味です。スッタニパータが釈迦没後100年たってできたのを無視して直説というのなら、それは単にその個人のイデオロギーということになりませんか。 失礼な書き方になったら申し訳ありませんが、1の立場と2の立場が都合よく使い分けられているのが宗教家の方の欠点のように思います。
補足
お礼の言葉がちょっとわかりにくかったので補足です。 以下も含めて、別にbaka-hageさんを非難しているわけではないので、そう読めたら僕の責任です、申し訳ありません。 ただ質問から離れるんですが、「専門家」という言葉の使い方がアバウトじゃないか、そこに何か問題の種があるのじゃないかということを感じました。 経典の歴史の質問なら、それを実証的に研究している方が専門家を名乗るなら納得です。しかしひょっとしたらパーリ語なんかも読めない人が、偉い先生の著作を切り売りして、専門家として「直説のお経ではない」という。それならどこで読んだ誰の意見か教えてもらったほうがよっぽどいいわけです。後でそこから調べられますし。 なのに、その同じ人が別の時には「自分は修行の方の専門家だ」などといって、「修行の立場でないと経典はわからない」ようなことをいう。それなら、はなっから「修行している自分の立場では…」と書けばいいじゃないかと思うわけです。ほんとの専門家にちゃんと敬意をはらわないで、自分の立場をはっきりさせずにあっちの立場もこっちの立場でも書こうと思うから、いい加減なことを書く「専門家」があふれるのでは、と思います。 これは別にbaka-hageさんのことを非難しているわけじゃありませんし、丁寧に答えてもらって感謝しています。名称の使い方に正直違和感を感じたのは事実ですけど。
- rurubonpp
- ベストアンサー率26% (128/488)
スッタニパータはじめ、ダンマ・パダとか阿含経とか、これら原始経典群は直説あるいは直説に最も近いとされています。 仏教経典自体が入滅後100年くらいに作られたものと考えられます。それまでは口伝えの伝承だったのでしょう。インドの宗教の伝統ですね。釈尊自身も自分の教えを文字にしてはいけないと言っていたそうです。(もちろんこのことも原始経典群での記録ですが) まあ、現代のようにノートにでも記録してくれていれば問題は起きなかったのですが、そうではなかったわけです。 最初の仏教経典が編纂されるまでは、口伝えの記憶に頼っていたわけですが、問題はその記憶力ですね。どの程度の記憶力か? 釈尊の教えを伝承した人たちは、相当な記憶力の人たちだったそうです。現代でも将棋や囲碁の棋士たちの専門分野での記憶力は超人的ですね。 しかし、実際の記録で一番古いのは何かと言われれば、原始経典群なのですが、現在も発掘が行われており、どこまで釈尊の時代に近いものが発見されるか待たれるところです。 このようなことは、仏教以外にも同じようなことがありますね。 例えば、孫子の兵法とかは、原文がありません。我々が知る最古のものは魏の曹操が残した解説文ですね。 孫子の兵法を知ろうと思ったら、この曹操の残した解説書を頼るしかないわけですね。 同じように、釈尊の教えを純粋に知ろうと思ったら、最古の経典に頼るしかないわけです。 後世になればなるほど、教えというのは教団の都合の良いように変えられて行きますからね。仏教以外の宗教や歴史でも同じことが行われていますね。 それと最後に、本当に勉強したのであれば、安易にウィキペディアとかに頼らず、専門書籍を読んで研究しなさい。
お礼
どうも回答ありがとうございます。 >仏教経典自体が入滅後100年くらいに作られたもの >最初の仏教経典が編纂されるまでは、口伝えの記憶に頼っていた つまり「古いが直説ではない」ということですね。古いということと、直説ということは必ずしも一致しないのでは、という疑問で質問しています。 >釈尊の教えを伝承した人たちは、相当な記憶力の人たちだった これ自体、根拠があるのでしょうか。それにいくら記憶力がよくても100年間も正確に伝わるのはかなり難しいのでは、という気がします。 >安易にウィキペディアとかに頼らず 頼ってはいません。便宜的に参照しただけですよ。rurubonppさんはどんな専門書籍を読まれてご回答されたのか教えていただけますか。
- 馬鹿 禿(@baka-hage)
- ベストアンサー率67% (99/146)
こんにちは。少しばかりお話をさせていただきます。 >>スッタニパータは釈迦の直説の経典という意見がありますが、これは正しいのですか。 >>自分は、経典は全部釈迦の没後にできたものと理解していましたが。ウィキペディアをみてみても、古いとは確かに書いてあっても直説とは書いてないようです。 これって、ちょっと込み入った問題になっちゃうんですよね。まず「直説」ということなんですが、何をもって直説とするかって問題がでてきちゃいます。 お釈迦様はマガダ国(現在のインドのビハール州あたり)の王子様ですので、御自身が使っていた言語は「マガダ語(マガディー語Magadhi)」、または「インド東部の方言」だったといわれています。 また経典の成立についてですが、お釈迦様滅後に摩訶迦葉尊者が中心となって阿難尊者や優波離尊者など高弟たちが行なった「第一結集」のときは文字化されていません。そして、文字化されたのはお釈迦様滅後100年頃といわれています。 現存するパーリ語聖典は現在の研究では西インド成立説が有力で、西北インドの訛りであるとも指摘されています。 確かに上座部の立場においてはパーリ語聖典は現在でも釈迦の直説としていますが、上記のような立場からすれば「直説である」というより「直説に近い形で残っている」という方がいいかもしれません。 ただもう一点、「直説に近い形で残っている」と申しましたが、パーリ語聖典とて時代と共に直されてきていて、比較的新しいものですと5世紀前後という説があります。経典の漢訳が始まったのが一世紀ごろですから、漢訳の方が古い原本を漢訳していることになります。ですから、パーリ語聖典と漢訳経典はどちらが「直説に近い形で残っている」のかは、まだ私も判断がつかないというのが実際の所です。 お役に立ったかどうかは分かりませんが、私の知っているのはこんな所です。急ごしらえの文章ですので、誤字脱字乱文どうぞお許しください。参考にしていただければ幸いです。 合掌 南無阿弥陀佛
お礼
どうも回答ありがとうございました。 >「直説である」というより「直説に近い形で残っている」 スッタニパータは直説なので直説でない経典と区別しないとダメだ、という意見があったので質問させてもらいました。要するに、スッタニパータは「古いけど釈迦の直接の説法記録じゃない」、しかも「直説に近い」というのも、あくまで推定だということになるわけですね。 baka-hageさんは専門家ということですが、この問題についてどんな書籍を読めばいいのかよければ教えてください。
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お礼
>いくら考えても答えの出ない事を考え続けてもキリが無く、つまりそれは、苦しみである スッタニパータが直説かどうかは、別に頭のなかで考えるのではなくて、研究して実証することでしょう。それを勝手に苦しみと決め付けられてもなあ。ならそういう研究をしている学者はみんな苦しみの中にいる哀れな人たちなんですかね。 >自分で自分の事をひねくれ者だと卑下するのは、たとえ謙遜であっても、良くありません 別に卑下したんじゃなくて、はっきり書くと皮肉交じりのつもりなんですが。20097さんは本当に純真な方なんですね。何べんもありがとうございました。