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五百塵点劫の時間は、本当にたとえ話か?

釈迦の経典には、多くの数の単位が記されています。 那由多阿僧祇劫、五百塵点劫など。 検索すると大体「とても長い時間をあらわす例え」 という内容の解説が出てきます。 これ… 本当に「例え話」(例え時間)なのでしょうか。 五百塵点劫に限った事ではないのですが 本当にタダのたとえ話だとしたら、どうしてこんなに数の単位を各種の経典にて「具体的に」述べ続けたのでしょうか。 昔のインド人だって、目が点になるような単位でしょう。 それこそ、現代の日本語訳と同様に「はるか昔に」「久遠の昔に」と 当時のインドの言葉で表現すれば、それで十分だったのではないかと思うのです。 そこをわざわざ、五百塵点劫などと気の遠くなる数を重ねて表現するのは 古代の天文学のように、なにか確たる実測(理論的実測)に基づいて 釈迦が表現していたのだろうかと考えてしまいます。 末法思想の正像末の説明とか、五の五百歳とか その辺りの時間・年数の数え方が 内容と共に割と現実的な事もあって 「五百塵点劫=(長い時間の)例え」という多くの解説に疑問を感じます。 なんとなく・・  地球や太陽系さえ生まれる前の話になりそうな気がするので (下手するとビッグバンまで遡る?w) 理論的とはいえ、実測を考える方がおかしいのかもしれませんが…。 多少、オカルティックに傾いても構わないんで 「釈迦の言う経典上の時間単位について」考えた事のある方の意見を聞かせて下さい。 オチがまさか、 インドは0の概念を見つけた国だったから 数遊びと言葉遊びを掛けて、難解な経典読解の合間に 当時の僧侶という名の学者たちが息抜きとして遊んでいた… とかだったら脱力しそうw 釈迦の言葉を文字(書物)に編纂したのは後世の僧侶たちだと言うし… 頭の良い人たちは、凡人には考え付かない遊び方をしそうな気もする・・w (明日から1週間ほど忙しくなるので、 頂きました回答の確認は遅れますが、必ず御礼します。 m(_ _)m  よろしくお願いします。)

みんなの回答

回答No.2

No.1です お礼を頂戴しました。 お礼の中に些か気になる部分がありますので追加の説明をさせて頂きます。 >いっそ数など説明しないで、時系列年表的に語っていけば十分だったのでは…と思ってしまうんです。ざっくり「~~の時代」という感じでね。 インド人というのは古来歴史というものに興味を持ちませんでした。 イギリスが植民地化した後に過去を記録するようになりました。 歴史大好きの中国人もインドについては仏教関連についての記録があるだけです。 結果的に現在も歴史学者が正確なインド史が書けずに苦労しています。 物を史料とする考古学頼りです。 つまり、仏教やヒンズー教などに対して「~~の時代」という記述は期待できないということです。 >それを釈迦が気付かなかったはずはないと思うのですが、そこを敢えて・・という所が気になります。 釈迦自身はキリストと同様に一切記述を残していません。 仏典(経文)が如是我聞(我れかくのごとく聞けり)で始まるのはこの為です。 つまり、釈迦自身が気がついていたのかいなかったのかは誰もしりません。 >それこそ、経典の中には弥陀のように架空仏(他の世界の仏)の話もありますから、 ??? 仏というのはあくまでも概念の産物です。 初期仏教の遺跡に仏像はありません。 仏教がインド北西部のガンダーラ地方に広がった際にギリシャ彫刻の影響を受けてこの概念を人の姿に似せてつくるようになりました。 仏像の姿にいろいろな約束事があるのはこの為です。 このような意味からすれば全て架空のものです。 人が死後成仏するというのは日本仏教特有のものです。 釈迦が仏の一員に加えられたのは、仏という意味が悟りを得たものという概念からきたことに由来します。 釈迦は以前にも存在していて輪廻転生でたまたま現世に現れたと解釈されるようになりました。 これに対して大乗仏教では、人であった釈迦が修行で悟りを得ることができたのであれば我々も修行次第で仏になれると考えられるようになりました。 これが空海の言う即身成仏です。 日本で即身成仏を果たしたのは空海のみとされています。 蛇足 誠に僭越ですが、質問者さんが日常的に触れておられる日本仏教の来歴とその性格の超概要を説明させて頂きます。 釈迦が亡くなった直後から500年ほどの間に生まれた仏教を部派仏教(上座仏教)と呼びます。 現在、タイやミャンンマーなど南アジアに伝わって現在も残っている仏教です。(南伝仏教) 釈迦が亡くなった500年ほど後に大乗仏教と呼ばれるものが生まれました。(北伝仏教) これがカイバル峠を越えて中央アジアに広がりやがて中国に伝来しました。 この時に鳩摩羅什という西域の語学の天才が古代インド語のサンスクリット語で書かれていた経典を中国語つまり漢文に翻訳しました。 その後、孫悟空で有名な三藏法師、玄奘三蔵がインドから持ち帰った経典を漢訳しました。 この二人の漢訳経典が中国での主要な経典です。 これに中国で作られた経典(偽経)が加わり中国やチベットなどでの大乗仏教には5000余巻の経典が成立しました。 中国で仏教が定着する際に中国人の考え方が数多く取り入れられました。 位牌や墓、回忌供養などというものはインドには現代でもありません。 インド仏教とはズレがある中国仏教ができあがりました。 この中国仏教が日本へ伝来してきて日本人の考え方が加わり現在の日本仏教の形となりました。 法華経を唯一無二の経典とする日蓮宗などは典型的な日本仏教です。 インド内部でも7世紀前後にヒンズー教を取り入れた密教が生まれこれも中国経由で日本へ入ってきました。 帝釈天、不動明王など天、王とつくのはヒンズー教由来の神仏です。 つまり日本化された現在の日本仏教の知識だけで、釈迦が何を考えていたのかを推定するのは極めて難しいということです。 現在も仏教学者が苦労しています。 漢訳の際に単語をそのまま訳した部分と訳者が意訳した部分とサンスクリット語の音をそのまま漢字の音で表記した部分があります。 漢字は元来表意文字ですので、日本での解釈には漢字の意味に引きずられているものもあります。 ご質問の那由他もサンスクリット語の"nayuta"を音訳したもので元来は極めて大きな数量という意味の言葉でした。 これを数の単位として用いたのは中国で元の時代でした。 観音さまの名前もサンスクリット語ではアヴァロキテシュヴァラ(avalokitasvara)です。 漢訳では単に観音菩薩と呼ぶだけではなく経典によって観自在菩薩、観世音菩薩などと記載されています。 表意文字である漢字で記載されたことから、観自在とは何か観世音とは何かなどという議論が生まれました。

noname#228784
質問者

お礼

再びの詳細な回答を頂きまして、 ありがとうございました。 (_ _〃))

回答No.1

>どうしてこんなに数の単位を各種の経典にて「具体的に」述べ続けたのでしょうか。 仏典では、物事を分割して四苦八苦十二因縁など数値で表現する思考方法が採られています。 人の思考についても単に潜在意識とはせずに末那識・阿頼耶識と段階的に区分します。 さらに見聞きするなどのことも単に見聞きするだけでは止まらず見聞きしたことによって六つの識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)が生じるというような思考方法が採られます。 インド哲学に基づいたヒンズー教や仏教とキリスト教やイスラム教との根本的な表現方法の違いです。 >現代の日本語訳と同様に「はるか昔に」「久遠の昔に」と当時のインドの言葉で表現すれば、それで十分だったのではないかと思うのです 「はるか」「久遠」という言葉は受け取る人によってイメージが異なります。 江戸時代をはるか昔と考える人もいれば、縄文時代をはるか昔と考える人もいます。 久遠の昔も人類が誕生した昔を久遠と考える人もいればビッグバンなど宇宙の始まりを久遠と受け取る人もいます。 仏教の思想ではこの個人の意想に依存した考え方や言葉を嫌います。 個人の知識や人生体験に基づいた判断を分別として、それが全ての苦の元であるから捨てろというのが釈迦の考え方です。 無分別の分別というような言い方をします。 過去、現在、未来もどの時点を持って区分けするのかと考えます。 過ぎ去った時を過去とするのであれば一年前も一時間前も一秒前も過去ということになるではないか、というように物事を突き詰めて考えて行きます。 一方で、五百塵点劫と数値化することでそれよりもさらに昔の三千塵点劫などと表現することが可能になります。 >古代の天文学のように、なにか確たる実測(理論的実測)に基づいて釈迦が表現していたのだろうかと考えてしまいます。 日常的には使われない大きな数値や小さな数値について考えるのは命数法と呼ばれ人類共通の考えです。 中国語の阿僧祇や恒河沙などに対して英語でもtrillion、quintillionなどという数値の桁を表す言葉があります。 いずれも理論的実測に基づいたものではありません。 現在も国際規格としてPCの能力を表すときに使われるキロ(K)メガ(M)ギガ(G)などという接頭語が決められています。 >頭の良い人たちは、凡人には考え付かない遊び方をしそうな気もする 遊び方というわけではありません。 古代ギリシャのアルキメデスも砂粒を数えるものなどという著書を残しています。 天空(宇宙)の広さを表すさいに巨大な数値を考え出しています。 >釈迦の言う経典上の時間単位について 法蔵菩薩が五劫という長い間思案をしてやがて阿弥陀如来になったということを記載した仏典もありますが、仏の世界には人間界のような時間というものは無いとされています。 法蔵菩薩の五劫も人間界の時間で言えばという意味です。 何時の時代に現れても仏は歳をとらないのはこのためだとされています。 人間界における時間については宗派によっていろいろな考え方がされます。 同じ1時間でも、試験の際には時間は短く感じ待合室などで待っているときは長く感じるように個人の意識によるものだという考え方もあります。 釈迦のように悟りを開けば、過去も未来もなく全て現在だという考え方もあります。 単に刹那、刹那が積み重なったものだという考え方もあります。 輪廻転生のように、時間は一方的に過ぎ去るものではなくグルグル回っているものだという考えもあります。 時間というものについては現代の物理学でも定義がありません。 定義以前に存在するものとして理論式などが組み立てられています。 日常的な時間は地球の自転を基にした時計の時間ですのでご注意下さい。 現在の時計の時間はセシュウムが持つ物理現象を基準としていますがうるう秒と言われるように地球の自転との差を修正しています。 時計の時間を時間とすると時計が無い時代さらには地球が存在しなかった以前には時間が存在しないことになってしまいます。

noname#228784
質問者

お礼

回答をありがとうございます。(_ _〃)) 仏教では「個人の概念によって変わる理解や時間感覚を避けるために、数を具体的に示した」という事ですね。 (´ーωー) そうですね。 確かに、経典には識の種類などの他にも 数の表現はたくさん出てきますが 説明がきちんとあるものも多い分だけ、気になってしまいます。 いっそ数など説明しないで、時系列年表的に語っていけば十分だったのでは…と思ってしまうんです。 ざっくり「~~の時代」という感じでね。 【Aの時代に起きたXという事象】 【Eの時代に起きたYという事象】という感じで。 具体的に数(年数)を表現しなくても、説法の用を成せるはずなんです。 時系列の解説が必要なら「Yの事象はB時代の前に起きていた」とか言えますからね。 それを釈迦が気付かなかったはずはないと思うのですが、そこを敢えて・・という所が気になります。 それこそ、経典の中には弥陀のように架空仏(他の世界の仏)の話もありますから、数の話も理論上の実測があるんじゃないかと思ったり・・。 こんな変わった質問に丁寧に回答を頂きまして、 ありがとうございました。参考になります。m(_ _)m (゜ω゜;) 今の時間がセシウムで測られてるとか、知りませんでした。 私の中で時間は日時計くらいで、まったく考えた事なかったです(汗)