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スッタニパータの第一人者

ご存命の方で、スッタニパータの第一人者っていますか?

みんなの回答

  • kurinal2
  • ベストアンサー率27% (23/84)
回答No.14

>まだ他に何かお話聞かせて頂けるかもしれない ・・・後で、見直してみたら、(1)だけ「本文」で、(2)~(6)は、「注」、つまり、中村元先生による「文章」のようです。 まあ、しかし、特に(6)の内容は、小生が学んだ法学の在り方と合致しているところもあり、過去の自分はよくそこに付箋を貼ったな、と、自分で感心しております(笑)

noname#257017
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました スッタニパータ、何度読み返しても心に染みます

  • kurinal2
  • ベストアンサー率27% (23/84)
回答No.13

『ブッダのことば』(岩波文庫、中村元訳) (1)P193 (2)P283 (3)P285 (4)P307 (5)P327 (6)P402

noname#257017
質問者

お礼

ありがとうございました

noname#257017
質問者

補足

まだ他に何かお話聞かせて頂けるかもしれないので、もう少し質問開けておきます。 この場を借りてすみません。

  • kurinal2
  • ベストアンサー率27% (23/84)
回答No.12

こんにちは。 >しかしそれは仏教なのか?という疑問が生じることを否定できません ん-、あくまで「教祖様」という、スタンスでしょうか。 >お釈迦様の生の法輪が聞きたかったです ・・・それは、小生も、「激しく同意」で、ゆえに、スッタニパータに辿り着いたというわけですが。 所謂「小乗仏教」から、大衆をなんとかするという方針の「大乗仏教」になる過程で、「こんなに凄いんだぞ!」という美化が、有ったんだろうな、という気は、しております。 ・・・以下は、小生がかつて読んで貼った付箋より (1)「かの聖者は、「これらの先見はこだわりがある」と知って、諸々のこだわりを熟考し、知った上で、解脱せる人は論争におもむかない。思慮ある賢者は種々なる変化的生存を受けることがない。」 (2)「足ることを知り・・・僅かのもので満足することを足るを知る(「知足」)という。」 (3)「わずかの食物で暮し・・・原義は、「世俗の信者から見て、養い易い」という意味である。(中略)「この尊師は、われらにとって、養い易い。僅かのもので満足してくれる。われらはかれを養いましょう」という願いを立てて、養う。(養い易い)というのは、このような趣意である。」 (4)「愚者に親しまないで、賢者に親しむ・・・人間の理に気づかない人が愚者なのであり、理を知って体得している人が賢者なのである。金儲けだけはうまくても、自分のもっている財産をふやすことに汲々として夜も安眠できないというような人は、いくら頭がよくても愚者であるといわねばならぬ。また、知識に乏しく、計算や才覚が下手でも、心の安住している人は賢者なのである。」 (5)「仏教は慈悲の教えであるから、まず「生きものを殺すなかれ」ということを強調している。「生きとし生けるものに対して、暴力しない」というのが、理想とされていたのである。」 (6)『滅びゆくもの、牽引するもの』 「すべては移り行くという認識にもとづいて、現実に即した柔軟性に富んだ実践原理が成立するのである。人生の指針として、こんなにすばらしいことばが、またとあるだろうか!  総じて人間の習性でろうが、年老いた者は昔を懐かしみ、昔あったものを何でも「良い(原文ママ)」ものだと思う。他方若い人は何でも新奇なものにひきつけられ、古いものを破壊しようとする。この二つの傾向は互いに矛盾し抗争する。  これは、いつの時代でも同じことである。最初期の仏教における右の詩句は、明言しているわけではないが、恐らくこういうことに言及しているのであろう。  しかしどちらの傾向も偏っていて、一面的でると言わねばならぬ。もしも昔のもの、古いものをことごとく是認するならば、進歩や発展はあり得ないであろう。またもしもすべて過去のものを否認するならば、人間の文化そのものが有り得ないであろう。文明は過去からの人間の努力の蓄積の上に成立するもので、あるからである。だから、新しいというだけで跳びついてはならぬ。  人間はどうかすると、人間の根底にひそむ、眼に見えぬ、どす黒いものに動かされて衝動的に行動することがある。だが、それは、進路をあやまり、破滅のもととなるから、「牽引する者(妄執)」に、とらわれていてはならない。  では、過去に対して、「どちらでもない中道をとるのだ」といって、両者の中間をとるならば、それは単に両者を合して希薄にしただけにすぎないのであって、力のないものになってしまう。  転換期に当って、或る点に関して古いものを残すか、或いはそれを廃止して新しいものを採用するか、という決断に迫られるのであるが、その際には、その決断は一定の原理に従ってなさねればならぬ。  その原理は、人間のためをはかり、人間を高貴ならしめるものでなければならぬ。それを仏典ではサンスクリット語でarthaと呼び、漢訳では「義」とか「利」とか訳しているが、(※)邦語でいえば「ため」とでも言い得るであろう。それは「ひとのため」であり、それが同時に高い意味で「わがため」になるのである。(※原文ママ)  人間のよりどころであり、人間を人間のあるべきすがたにたもつものであるという意味で、原始仏教ではそれを「法(ダルマ)」と呼んだ。仏はその『法』を見た人であり、仏教はその『法』を明らかにするものである(だから「仏法」ともいう)。その法は、民族や時代の差を超え、さらに諸宗教の区別をも超えて、実現さるべきものなのである。」 ・・・古本屋で、340円でした。

noname#257017
質問者

お礼

深い見識参考になりました。 スッターニパータは示唆に富んでいますね ありがとうございました

  • kurinal2
  • ベストアンサー率27% (23/84)
回答No.11

Nietzscheisdead様、こんばんは。 過去に、ここの板で、「守破離」ということを説いた方も、居られました。 どのように、思われますか?

noname#257017
質問者

お礼

お釈迦様の悟り以上の悟りはないと最近は想っています しかし例えば、「個性」という言葉がありますが、それは、矯正しても矯正しても溢れてしまうのが個性だと聞いたことがあります。 であるなら、「離」という段階にいけばもしかしたら、また別の悟りが有るのかもしれないと言うことを否定はしません しかしそれは仏教なのか?という疑問が生じることを否定できません

noname#257017
質問者

補足

スッタニパータはもっとも古いお経とのことですが、それでもお釈迦様が亡くなってからだいぶ経ってから編纂されたものです お釈迦様の生の法輪が聞きたかったです

  • kurinal2
  • ベストアンサー率27% (23/84)
回答No.10

>なんど無欲になりたいと思ったか ありがとうございました こんにちは。 「・・・なりたい」というのも、欲なので。 ここ(哲学板)でも、歴史?が有りまして。 「どうにもならない欲は、いっそ、解消してしまったら?」 というのが、有りましたが、 「・・・一時的なモノに過ぎない」という「ご回答」が、有りまして。 まあ、仏教というのは、思った以上に「自由」なものと思って居ります。

noname#257017
質問者

お礼

僕の理解では、たとえば戒律ですが、守らされるものではなく、ありがたく守らせていただくものと思っています

  • kurinal2
  • ベストアンサー率27% (23/84)
回答No.9

欲が無いと、ラクだよ。

noname#257017
質問者

お礼

なんど無欲になりたいと思ったか ありがとうございました

回答No.8

威張り散らすと引くのだろうけども、「①二度と生まれることはない」このストレートさが正解だっただろう。 あなたがコピペした、 五六九 無上の清らかな行いの究極を現世においてみずからさとり、体得し、具現していた。「〔迷いの生存のうちに〕生まれることは消滅した。清らかな行いはすでに完成した。なすべきことをなしおえた。もはや再びこのような生存を受けることはない」とさとった。 これは釈迦は神様を発見したので、自らの生の役目を全うしたと言い放ったようなものだ。 この類は、私は個別に降臨現象発生の構造として研究しているよ。 変人だよ。

noname#257017
質問者

お礼

>降臨現象発生 興味深いです、ありがとうございました

回答No.7

①二度と生まれることはない ②このような苦しみの生ではなく、次は、すばらしい生で生まれる 人には多くの場合で、「世の中の常識」と心得ている何らかの世界観がある。 個別の世界観であり、それは個人の処世術の基盤になる了解だ。 釈迦の個人的な世界観は「世界の全ては苦痛である」娑婆世界観だ。 でもこれは懐疑の種にもなるんだよ。 仏典が編纂される前にインドの風土で口伝時代が500年ほど繰り返された。 インドの風土だと、娑婆世界観とは、釈迦の特異性に関して「無の悟り」と同様にギリギリ了解可能で伝承可能な要素の一つではなかったのかとね。

noname#257017
質問者

お礼

勉強になりました、ありがとうございました

  • apple1963
  • ベストアンサー率41% (10/24)
回答No.6

第一人者かどうかは知りませんが、現在活動されてる方に 石飛道子さんがいます。 私が読んだのはサンガから出版されてた「スッタニパータ 大乗への道」です。

noname#257017
質問者

お礼

調べてみます、ありがとうございました

  • dedypraja
  • ベストアンサー率40% (88/219)
回答No.5

Suttani Pata adalah salah satu kitab suci Buddha yang ditulis dalam Pari, dan banyak peneliti dan cendekiawan sedang mengerjakannya. Beberapa dikatakan sebagai guru tentang Suttani Pata, di antaranya yang paling terkenal adalah Bhikkhu Bodhi ( Bikk Bordi ) dan Christopher Ash ( Christopher Ash ). Bhikkhu Bodhi adalah seorang biksu Buddha Pisces dari Amerika Serikat dan dikenal sebagai penerjemah Pali. Dia memiliki banyak terjemahan bahasa Inggris dari Buddhisme, termasuk terjemahan bahasa Inggris dari Suttani Pata. Christopher Ash berasal dari Inggris dan jurusan studi Buddhis di Universitas Oxford. Dia telah menerbitkan banyak makalah dan buku, termasuk penelitian tentang Suttani Pata. Namun, ada penelitian dan minat luas di Suttani Pata, dan banyak peneliti dan cendekiawan lainnya aktif di lapangan.

noname#257017
質問者

お礼

ご紹介ありがとうございました

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