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バチ?知恵熱?
「仏」や「悟り」についてくだらない質問するな ということなのか2日ほど寝込んでしまいました。 性懲りも無く質問です。 1.仏は人を評価するのですか?(この人はレベルが高いとか低いとか・・・) レベルの高い人と低い人には「教え」が変わりますか? 「教え」は変わらずとも「教え方」は変わりますか? 2.仏はレベルの低い人が最終到達点を訊いても「フッ!お前には到底分かるまい」って思いますか? 3.仏は救いを求めるレベルの低い人に何のこっちゃ分からず納得できないまま修行をさせるのですか? 4.仏は積極的に救いを求めないが苦しんでる人に手を差し伸べますか? それとも救いを求めてこなければ無視ですか? ※レベルの高い低いについては突っ込まないで下さい。 社会的地位は関係ないです。人としてのレベルです。
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1.(仏にたずねることではあるが、)仏は人を差別しない。 質問を受ければ、やさしく丁寧に教えてくれるので心配は要らない。 2.仏は、衆生がやがて仏になることを知っている。どちらかというと、 いつかは必ずわかる時が来るだろう、そう思っていると思います。 3.繰り返しになりますが、仏は人を差別しない。 また、如来は道を勧めるが、強制はしない。求める人が、自ら 修めるのが本当の修行(道)だからです。 4.仏は仏道を以って普遍に教えを説かれると聞いた。また、世の善き 人々の口からは教えが生じて、人々を(明るいところへと)導くだ ろう。もし、世に、教えの聞こえぬところがあるならば、如何にし ようかと観じるべきである。何故ならば、それを実行することが 諸仏の実行する道(=ダルマ)を修養することに他ならないのだから。 ※社会的地位とは一切関係なく、仏は教えを説きます。 道について尋ねることに、何の心配も要らない。人々に善き事を問うのに何の心配も要らない。まして仏に問うのに、心配する事なんて微塵も無い。ただ、自分自身はこれを問いたいのか、と、自問する事については、大いに自分自身の本心について知り究めるべきであると言えるでしょう。 自分自身の本心に適っているならば、人は道を逸れない。自分自身の本心を正しく覚った人が、仏に他ならない。 自分に遠慮しないように、人に道を尋ねることを、遠慮すべきではないと私は思う。問うた人と、問われた人と、双方によく、それをはたで聴く人と、伝え聞いた人にも、よいことを、遠慮はしなくて良いと思う。 いつでも人は、真摯に語り合ってよいのだと思う。 たとえそれが、場違いで、KYであったとしても、当人達だけでなく、場に居合わせた人々にも、よきことがあるのは間違いないから。
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- kigurumi
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<死ねば誰でも仏になる>とか、そんな言葉があったような。 仏陀って人は、例え自分の妹が目の前で大勢の男らにレイプされようと、自分を殺しにかかってこようと、一切興味無しというマンモスうつ病のようなパーソナリティーだとされます。 普通 人間には自己防衛本能がある。 目の前で妹や母親がレイプされていようと、自分のことではないので「くわばら くわばら」と見てみぬふりができたとしても、自分に襲い掛かってこられたら、無抵抗ではいられないもの。 ところが仏陀は「俺が今から殺されるって? 俺にはかんけーねー」って無関心なキャラ。 ましては 他人のことなど どうでもいいってキャラだったわけです。 で、何に対しても興味なかった彼で、「ついに俺は人間を超えて執着の一切を断ち切ることに成功した」だったはずですが、残念なことに、彼はまさに物になる寸前で、情けという感情がわずかに、ほんとうに ほんのわずかに残っていたわけです。 そのわずかな情け心のせいで、完全に物になる直前で、「ああ 他の人があれだけ苦しんでいるので、俺がとっとと物 つまり死体になってしまっているわけにはいかない。だって俺にはまだ完全に執着を断ち切っていないのだから。だってまだ生きているのだから。何も感じない感情の無い物質ではなく生物なのだから」となり、「っちっくしょーーー」と思いつつ、みんなのところに戻ったのだそうです。 本当に事つきて死体になっていたら、もう完全に感情ってものが無く、痛いも辛いも楽しいも悲しいも喜びも一切感じることない。 これが極楽なわけです。 極楽 つまり なーーんも感じないってこと。 何も無いってこと。 だって認識する機能が全部シャットダウンして、崩壊したのだから。 最近ではうつ病や神経障害の人に対する治療が進んでいるので、一度シャットダウンしたとしても、再度回路を開くことは可能なときもありますが。 それも死んでしまっていたら無理。 という話を聞いた後、もう一度質問を読めば、自分で答えられると思います。 で、その後のバージョンと思えるものに、一切無関心ってのは、生きている人間には無理で、何かに執着してしまうってのが人間の性。それこそ人間らしさ 生きている証。 でも あまりにも執着してしまうと苦しみを産む。 ということは、なにごとも ほどほどが 一番安全圏だな となったようです。 人間って面白いこと考えるわけで、1人の人が考え出したことを、次の人がちょっとずつ修正していく。 これ 現代の哲学もそう。
お礼
僕もそう思っている部分があります。 できたらそれを払拭して欲しくて一連の質問になっていると思います。 ありがとうございました。
- rurubonpp
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1、人を評価するというか判断していると思います。そして教えはすべて同じですね。教え方は違います。出家と在家の修行は違います。また、まったく瞑想も呼吸法もしたこと無いという人と経験者とか教え方が違います。一番その人にあった修行をさせます。 2、最終到達点というか、解脱の内容ですね。「無理」と思っていた節がないわけではありません。解脱とか本当の悟りの内容は、仏にならないとわかりません。言葉では言いあらわせられないもののようです。ただ、一言「ニルヴァーナ」ということだけです。 後世悟りについて、色々言われていますが、あれは修行者や仏教学者が言っているのであって、仏が言っているわけではありません。 3、修行のわからない人には、わかるところから始めます。その人物の前世からのカルマを見て、一番適切な修行をさせるわけです。 4、仏は苦しんでいる人がいれば、分け隔てなく助けると思います。しかし、もう仏は死んで現世にはいないわけです。ただ、現世の人や生き物が救われるように、遺品を残しているだけです。救われたいのであれば、信心は別にしてそこに出向く必要があります。 また、霊的世界にいる仏に救われたいのであれば、現世と霊界の壁を突き破るだけの精神力が必要です。 現代では様々な宗教や価値観があり、仏の救いの手を跳ね除ける行為をする人がいるのも事実です。法事に出かけて拝んであげても、遺族の者は新興宗教に夢中で、まともに手を合わせない人がいるわけです。
お礼
時間が掛かりそうなので、取り急ぎお礼まで ありがとうございました。
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お礼
素晴らしいご回答、ありがとうございました。 変なヤツに掴まったので締め切ります。