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なぜ菩薩にはいろいろ種類があるのでしょう

仏教に関して質問させてください。 菩薩は「悟りを目指して修行中の人」「あえて成仏せず衆生を救う者」と聞きます。つまり「菩薩」は固有名詞ではなく、成道前の地位とか、階級みたいなものを指す言葉に思えるのですが、実際には「普賢菩薩」「文殊菩薩」など、ほとんどそれ自体が固有の信仰対象のような存在になっており、しかも非常にたくさんの種類があります。さらに観音菩薩にいたっては、これまた変化観音のバリエーションがたくさんあります。 これはどういったことなのでしょう。いつから、どういった経緯で「成道前の人」を指す言葉であったはずの「菩薩」が、仏の仲間入りをしたのでしょうか。大乗仏教が進むにつれて、菩薩の解釈が変わってきたというようなことなのでしょうか。 仏教についての本をいろいろ読みましたが、たいていは「菩薩にはさまざまな種類があります」という説明からはじまっていて、「なぜ、そうなのか」を書いているものはあまりないように思えます。ご存知の方がいたらお教えください。よろしくおねがいします。

みんなの回答

  • kagawa406
  • ベストアンサー率16% (26/155)
回答No.4

法華経を信奉している仏教徒です。無量義経徳行品第一のはじめに29人の菩薩が出てきます。漢訳ですので覚えやすく日本人にもなじみのある菩薩もいます。おもうにサンスクリット語をあつかうインド哲学は 中国人とは発想がずいぶん異なっていると感じるお経です。もしかしたらボーディサットバは 仏さまの得た悟りに 向かっていくひとりひとりの修行者の具体的な名前であって、そのことにこそ意義があると教えられているのだとおもいます。

sarasate2010
質問者

お礼

kagawa406さん、お答えいただきありがとうございます。 「ボーディサットバ」は、サンスクリットの「菩薩」の語源ですよね。 私が不勉強で申し訳ないのですが、そのボーディサットバが、「修行者の具体的な名前」ということの意味が、ちょっと理解できませんでした。まことにすみません。 無量義経徳行品第一なる教典ではじめて、それまでの「成道前の修行者」とは違った意味の菩薩、つまり「菩薩なる名前の仏」が、登場したということなのでしょうか?  それとも原語と漢訳とで、「ボーディサットバ」の意味合い自体が、ちがってきているということでしょうか。 いただいたお答えを参考に、また調べてみたいと思います。ありがとうございました。

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回答No.3

自信は全くないですが、菩薩は仏の修行中の姿だったはずです。色んな菩薩が登場するのは、ニゼンキョウで色んな方便が有ったからだと思います。もしかしたら、地湧の菩薩だけは、仏のことではなくて、我々のことを言ってたかもしれません。(法華経のどこかに書いてあったとおもいます。) 同じ仏教でもこんなにも宗派が分かれてしまいました。菩薩も途中の坊主が教えを自己流にしてしまったので、収集がつかなくなってしまったんだと思います。

sarasate2010
質問者

お礼

Executioneさん、お答えありがとうございます。 いろいろな宗派が出てきて、それぞれの立場によるそれぞれの菩薩を創造した、つまり菩薩の乱立状態になってしまったということなのでしょうか。 ニゼンキョウというのは、教典のことですね? その中で仏教流布のための方便として、さまざまな菩薩が考えだされたという解釈でいいでしょうか。 このお答えをもとに、またいろいろ調べてみたいと思います。ありがとうございました。

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  • 4017B
  • ベストアンサー率73% (1341/1821)
回答No.2

>「なぜ、そうなのか」を書いているものはあまりない はい。それはぶっちゃけて言えば“金のため”だからです。同じ様な物として、例えばキリスト教には多数の「聖人」がいます。365日、全ての日に何らかの「聖人の日」が設定されています。つまりキリスト教の聖人にあたる物が、仏教(日本仏教)に於ける菩薩だと思って下さい。まあ金のためと言うのは言い過ぎなら、信者獲得のためと言い換えても良いでしょう。 古代ギリシアでも、それぞれの階級や性別、職業別に信仰するため、数千の神々が生み出されました。キリスト教や仏教、イスラム教などの新興宗教は、生まれた当時は厳格な一神教を標榜し、信者もそれを守っていますが。世界宗教になっていく過程で、ある程度の世俗化は避けられませんでした。イスラム教はかなり原始宗教の形を維持して現在に至ってますが。キリスト教と仏教は、当初のブッダやイエスが説いた教えとは随分と違う物になっている事は否定出来ません(それを聖職者たちは“解釈”と言います)。 偶像崇拝禁止!飲酒肉食禁止!セックスもまかり成らん!!~というのでは、普通に考えて誰も信者に成りませんよね?ですのでキリスト教も仏教も、出家信者や聖職者を除いた一般信者にはかなり規律を緩めて布教せざるを得ません。かと言って、神聖なる開祖(ブッタやイエス)の教えを勝手に変える事も出来ません。そこで登場するのが「聖人」であり「菩薩」なのです。 聖人や菩薩は、禁欲生活を嫌う一般人に近い存在として設定されます。例えば仏教では准胝観音を信仰する者は飲酒姦淫をするべしと説いています。冒すべからずの絶対的存在であるブッダには手を触れず、汚い事はその弟子や仏の使いにさせようという発想です。もちろん一般的には悪行とされる行為にも、何らかの最もらしい理屈付けがなされて、例えば「飲酒は“適度”なら体内から身を清める」などとして、居酒屋や造り酒屋などに携わる人達にも配慮して信者獲得に努める訳です。 P.S. 元々、仏教では信者は必ず頭を丸めて寺に入門出家しないとなりません(お坊さんになる事=信者になる事だった)。しかしそれで社会的に機能不全を起こします。世界宗教になるために、仏教に「菩薩」という考え方が生み出されたのは、時代の要求であり必須だったと思います。今でもタイではその考え方を一部守り、一家の男子は一生の内に1度は剃髪出家しないといけないという伝統があります(女子は出家経験済みの男性と結婚するか、息子を出家させると功徳を積んだと解釈される)。 またキリスト教では上記の様な大衆迎合的な考えを嫌って。厳密に原始キリスト教に近い教義を実践すべきだとして、新たにプロテスタント派が生まれ、こちらも一大勢力となって世界宗教になっています。

sarasate2010
質問者

お礼

4017Bさん、お答えありがとうございます。 キリスト教の聖人については、何となくの理解しかないのですが、要は菩薩も、聖人も、崇高な教えと俗世の間にワンクッション置く存在として考えられたものということでしょうか。 そしてそれは、我々俗世の人間よりの存在ということに設定されているのですね。ということは、在家信者に都合よく(?)誰かに考えだされた存在なのでしょうか。 お答えについては、「宗教が拡大するにつれ、世俗化、変容を余儀なくされ、そのために聖人とか菩薩といったものが考えだされた」という受け取り方をしましたが、正しいでしょうか。 たしかに、タイのような厳格なものだったら、社会がたちゆきませんね。 理解に一歩近づけた気がします。ありがとうございました。

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  • alice0202
  • ベストアンサー率58% (7/12)
回答No.1

こんにちは。 菩薩は確かに、質問者様の言う取り、悟りを目指して修行中の人ですね。 菩薩など、多く仏像があるのは、それだけ人々の悩みが多かったことを意味しています。 悩みが多く、仏教に頼るからこそ、偶像崇拝をします。 何かしら目に見えたものがほしかったんでしょうね。 菩薩の解釈は大乗仏教が進んでも変わってはいません。現在でも、僧侶の方々は菩薩です。如来や菩薩や羅漢などをまとめて仏と呼んでいるだけですよ^^

sarasate2010
質問者

お礼

alice0202さま、お答えありがとうございます。 人々の悩みがあまりに多く、そのための救いとして偶像が必要だったということですね。 現在でも、僧侶の方々が菩薩ということも、納得しました。 それにしても文殊とか普賢とか観音とか勢至とか地蔵とか、誰がどういう風に考えだしたのでしょうね。ほんとうに不思議です。 お答え、ありがとうございました。

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