• ベストアンサー

何で人間(全体)っていうのはできが悪いのか

人間っていうのは、総体的には、たいして上等な生物とはいえないようです。自分さえよければというマナー違反は横行し、このサイトでもQ&Aという原則などどうでもいいといわんばかりの主張の押し付けやら、質問さえ理解しようとしない傲慢さやらで、せっかくの疑問解決の趣旨が風前の灯のようです。2ちゃんねるだって便利なツールであるはずなのに、荒れまくりでろくな議論はほとんどない。 それらの現象は、つまり、少数のまともで理解力包容力ある人物が、大多数のろくでもない心根や理解力の不足しているものたちに圧倒されている、と言うことであるように思えます。つまり、まともな品質の個体が少ない。 そういう、人間のろくでもなさ、傲慢さ、理解力のなさというのが社会的総体の姿になっているように思われ失望感が襲ってくるわけですが、こういうのはやはり、人間の限界性(いい個体は少ない)から来るのでしょうか。それとも、なにかがうまく行きだせば、今度は多数が品質のよいものに変化し、居心地がよく充実感や愛情にあふれた社会が実現するのでしょうか?

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • larme001
  • ベストアンサー率44% (271/608)
回答No.12

人間が他の多くの生物と区別させうる点をひとつあげろと言われたら、おそらく「人間だけがこれほどまで複雑な感情を持っている」ということになります。人間は、科学技術や社会、はたまた自分たちの誕生や生きる意味など様々なものに思考し、感じる生物なのです。それにより、思いやりとか優しさなどが生まれると思いがちでしょうが、逆にいえば悪意だって生ずるのです。ねたみや嫌いという感情は、好きや優しさと反対の感情であるだけで生じること自体はごく自然なことなのかもしれません。逆にいえば、そのねたみや嫌いなどの感情から生じる悪意や無理解というものを人間の中から完全に否定することは、その逆の好きや好意、優しさという感情すべてをも否定することになるのかもしれません。 以前読んだ本に、学校では「やさしくする」とか「恨む」とかはダメとしか教育しないのはおかしいというのです。なぜかというと、ある人間が別の人を「好き」になる行為というのは、いろいろな細かい理由はあるにせよ、結局のところその理由というのは漠然と「ただ、何となく」でしかないだろう。(特定の理由があるとすれば、それがなければすきでなくなるはずだが、そんなことはない場合がほとんどな為)それなら、逆に人を嫌いになる理由というのもいくつかの理由はあるにせよ「ただ何となく」というのもありうると。人類の歴史の中で差別や戦争が起こったのは、いろいろな理由があるにせよ、結局は「ただ何となく嫌い」ということもあるのではないかと。その本は、「人間は、好きもあれば嫌いもあるのは仕方ないことだが、ただ人間が社会で生きていくとはその好きと嫌いを露骨にするのではなく、自分と社会のかかわりの中で上手くやりくりしていくことだと述べていました。 人間が「愛情にあふれた社会をつくれるか?」とすると、わかりません。ただ、人が他人を嫌いになること、中傷することを単なる「悪」ととして完全なまでに排除することは、人間の本性にかなった行為ではないのかもしれないということです。いくら人格にあふれた人だって、苦手な人やそうでない人がいたりするはずです。人格主義者ならば、それを「邪念」とか「自分の弱さ」などと言って極端に嫌うのかもしれません。ただ、それを一般社会に強制することは、他人を露骨に見下す価値観を持つ人間を裏で見下していることに他ならないような気がします。つまり、人間には「悪」があってもよいという前程で、それでもおのおのが理想とする社会を現実することが、結局人間の目指すべき社会なのかもしれませんね。 なんだかずれたようなきもしますが、個人的には「人間は生まれつき良心をもっている」ということは信じたいです。ただ、愛情あふれる社会をつくるというのは、愛情が全てと信じ込ませることが全てとは思いません。残念ながら、いわゆる盲目的な宗教が悪用するのがこの手ですよね。結局「必要悪がある」とはいいませんが、仮に人間が本質的に良心的に生きたいと願っているとするならば、すべての価値観を受け入れた上でそのような社会が現実になる日も来るのかもしれません。

garcon2001
質問者

お礼

優しさ思いやりは、悪意や無理解と対を成すものであって、一方にだけいけるわけではない、と言うのは真理でしょうね。そういう陰陽はあるにしても、やはり、人間によって、明るい素直な人間であるのか、それとも逆なのかの総合点という者がある。 もし、総合点が高いことが普通であり普遍的であれば、ご指摘のような「なんとなく嫌い」も問題にならないほど世の中から消失しているように思えます。悪がある、ということをもっとおおっぴらに当たり前に捉えることができるくらいの習熟性が社会に求められているはずです。

その他の回答 (12)

noname#101110
noname#101110
回答No.13

>人間っていうのは、総体的には、たいして上等な生物とはいえないようです こういった括りはおそらく人それぞれで、ご自由に、としかいえないと思いますが、こういった分析からどのような演繹と結論が出てくるかということこそが重要なんだと私は思います。 >少数のまともで理解力包容力ある人物が、大多数のろくでもない心根や理解力の不足しているものたちに圧倒されている、 これも質問者様の主観が多分に入った偏見にちかいものだと私は考えます。特に >大多数のろくでもない心根や理解力の不足しているものたちに圧倒されている、 こういった部分の裏づけはあるのでしょうか?私はシステムそのものが機能している限り、少なくも現状として善が悪に圧倒されているということはいえないと思います。 >人間の限界性(いい個体は少ない)から来るのでしょうか。 ま、そうでしょう。限界というものは現にありますが、絶対的なものではなく、時系列で常に揺れ動いているとは思います。 ともかく正義の旗がこちらにある限り、そしてあきらめない限り勝利の可能性はなくなりません。 現状としてのネットの状況が巨大ゴミ箱に近いと見ることは可能ですが、 >なにかがうまく行きだせば、今度は多数が品質のよいものに変化し、居心地がよく充実感や愛情にあふれた社会が実現するのでしょうか? そう思いたいですね。 幸島の猿のいも洗いではありませんが、ネットがグローバル電脳として近未来の世界国家の哲人政治の中心として急激に動き出す可能性は充分に秘めていますし、その方向で期待したいと私などは思っています。

garcon2001
質問者

お礼

明るく考えることも必要ですし、またそう考えないと本当に暗いままで変わらないですから。

  • sheep67
  • ベストアンサー率28% (36/128)
回答No.11

何となくこれは類は友を呼ぶ、という感じにも受け取れます。 客観的に見て欠点のない人などいないので、人の駄目なところを見れば、世界中だめ人間ばかりです。 言われている少数のまともで理解力包容力のある人間も、多分もっとさらに詳しくつきあえばだめ人間です。 それは人に対する見方が、僕は個人的に変だと思います。 今この瞬間のその人が、良くできた人間かだめ人間かではなく、 その人がどう生きようとしてるか、今はだめでも今後良くなろうとしてるのか? あきらめて挫折してるのか?などを理解することが、人を測る目安になると思います。 能力不足がだめなのなら、赤ちゃんは全員だめ人間で生きる価値もなくなりますし、 子供は皆理解力がないから全員だめになります。つまり地上から人は居なくなります~~極論ですが。 今客観的に相手の心理状態や能力を物差しで測るのでなく、 本人の状況や向上心、何より人は生まれつき肯定されるべきであること~~ などなどを加味する必要があるのでは? 例えば生まれつき劣悪な環境で育って、それでも死なずに犯罪を犯してでも生きている、と言う人がもしいたら、自分で自分を殺さないだけ尊敬に値します。 どうでしょうか? どうしても、見た目の能力や性格の良さではなく、相手の置かれた状況や、持って生まれた能力など、短時間でははかれない部分を観察する必要が、根本的にある、と思うのですが。 生まれてから現在までの長い時間空間的な状況変化の中で、その人が人生をどう泳いできてるのか?が本質的価値であって、 今この瞬間だけをばっさり切り取るような人に対する価値判断は、刹那的であり、会社の面接ではないのですから、安易な判断は止めた方がいいと思います。理想として。 全く同じことをしている人でも、その人の裏事情によって、いい人になったり悪い人になったりします、本当に! あ~、偉そうに書いてますが、上の話は、あまりに理想論であることは割り引いて読んでください。 極限そうだ、というだけです。

garcon2001
質問者

お礼

あまりにも曖昧な捉え方だと思います。そんなことを言い出しては、結局人間とサルが同一次元に落ち着いてしまうのではないでしょうか。やはり現在ある程度納得できる指標で、人間はもっとよくなる可能性を持っているのに、どうも落ちたところでとどまっていると。

noname#91781
noname#91781
回答No.10

ハハ、あなたの質問を読むと、 泥棒が、「この世から盗っ人がいなくなるようなことがあるんだろうか?」と自問してるようですねw あなたのグチ(失礼!)は、このサイトを利用したことによって感じたことからのようですが、 それは、そもそもあなたがこのサイトの利用の仕方を完全に間違っていることによるのではないでしょうか。 このサイトは、単純に自己の疑問や質問を提出し、それに寄せられる多くの回答の中から、解決につながるヒントを自身で見出すことにあります。 不必要な回答、勘違いな回答、傲慢な回答イロイロあるでしょうが、その中から、自分に有為なものを見出しそれを利用すればいいだけのことです。 このサイトは、別に立派な人格者を探すところではありませんし、イヤな意見を無理に受け取らざるを得ないところでもありません。 あなたのこれまでの質問履歴を確認しますと、あなたは、差し迫った質問・疑問を解決するためというより、このサイトを自己の主張をもとにコミニュケーションの場として利用してるように感じます。 私から見ると、このサイトの主旨さえ理解しようとしない傲慢さや理解力や包容力の欠けているのはあなた自身のような気がしますが(そうでなければお詫びします)。

garcon2001
質問者

お礼

もちろんそういう姿勢が最適であり正解なのでしょうが、やはり根本的な疑問「なぜこんなにも欺瞞やマナー違反、不当非難あるいは自虐というものが氾濫しているのか?という疑問は常に湧き続けます。私自身は >このサイトは、単純に自己の疑問や質問を提出し、それに寄せられる多くの回答の中から、解決につながるヒントを自身で見出すことにあります。 不必要な回答、勘違いな回答、傲慢な回答イロイロあるでしょうが、その中から、自分に有為なものを見出しそれを利用すればいいだけのことです。 こういう趣旨なのだとは知りませんでした。

  • okgoo08
  • ベストアンサー率51% (109/211)
回答No.9

こんばんは >人間っていうのは・・・まともな品質の個体が少ない garcon2001さんは集団構成の「2:6:2」の法則ご存知ですか? http://premium.nikkeibp.co.jp/bits/bits_column/column_d40_01.shtml よくビジネス界でもちられる法則です。 よく働きその集団で評価が高い人20% 普通に働く人         60% 働かずその集団に貢献しない人 20% これはアリの研究から見つけられた法則なんですけど 人間にも当てはまると言われています。 このQ&Aサイトを1つの集団とすれば 善良かつ優秀な回答者    20% 普通の回答者        60% 誹謗中傷や揚げ足をとる回答者20% と当て嵌められる思います。 そこでダークサイドの回答者20%を排除したら どうなるでしょうね。 その優秀もしくは普通であるはずの集団でまた 「2:6:2」の法則が発動される。 その逆に排除された者だけで集団を構成しても 同様な事が起こる。 ですから、まともな品質の個体が少ないのではなく 生物本来の何かが働いているとしか言い様がないのでは? >人間のろくでもなさ、傲慢さ、理解力のなさ・・・社会が実現するのでしょうか? 社会総体も1つの集団と見なせば、上記の法則に当てはまる訳で 未来永劫その様なユートピア的な社会は来ないと思っています。 人間も動物である限り、獣性が本来備わっています。 例えが良いか悪いか別として 認知症の中には、人間の獣性が現れる症状がケースがあるようです。 布団の中を棲家とし、食事以外はそこに篭もり 近づく者があれば警戒し、手を出そうもなら、危害を加えられると 抵抗する等まさしく獣状態になるそうです。 認知症は脳の萎縮が見られます。 萎縮が見られるのは大脳皮質の灰白質と呼ばれる 脳の表面にある皮質の萎縮しか見られません。 そこには情動を抑制したり、、認知や思考、判断などの 知的活動を行なう前頭前野等が有ります。 人間が人間たる由縁の部位が萎縮するのです。 大脳皮質でも白質と呼ばれる部位は萎縮しません。 白質は脳幹(低次の脳といわれ、本能的な行動や記憶を司る)部位です。 つまり、人間が生み出されて以来の脳がそこにあるのです。 ですから、高次機能部位が萎縮するとより動物的な面が現れます。 ホモ・サピエンスとそれに近い類人猿のチンパンジーのDNA構造差異は1.数%と言われています。 人間は「人間とは何ぞや」とか「我思うに我有り」なんて考える程 生物学的には高尚な動物ではないと私は感じます。 それにアイデンティティーに基づく絶対評価より 他者と比較する相対評価に重きを置く風潮ですから 殺伐とした社会になりつつ有ります。 絶対評価を持つ事は行動や思考にブレがなくて よい事だとは思いますが。 結局は人間はある一面だけで計る訳にはいかないって事でしょうね。 garcon2001さんも一方向からの知識だけではなくて 他方面の知識を広く得られ、多面的に見られた方が 自分で明快な回答を得られるのではないかと感じます。

garcon2001
質問者

お礼

たいへん納得できるご回答でした。 人間や社会の姿を的確に捉えられていると思いますよ。結局は、人間と言う半分サルの動物がえらそうに制度を作ってその実内面は動物臭を漂わせて仮面かぶって生きている、という姿が真実に近いのではないでしょうか。

garcon2001
質問者

補足

正規分布の自然法則なんでしょうね。

回答No.8

品質の劣悪なわたしが言うのもなんですけど・・・ >人間のろくでもなさ、傲慢さ、理解力のなさというのが社会的総体の姿 犯罪が少なく、教育レベルが高く、豊かな社会的総体に生きています。 と言う人もいまだに少なくはないように思います。 ある個人は社会的総体なるものをどうやって把握するのでしょう。 おそらく、歴史、教育、新聞、TV、ネット・・等々の膨大な情報から、 自分が取捨選択して社会的総体のイメージを作り上げるんでしょうね。 そうすると社会的総体がどこにあるかというと、 自分の外側に厳然と社会的総体が存在していると自分が把握している のですから、結局、社会的総体は自分の中にあります。 なので、まず、正確な情報と再選択、再構成がその個人の社会的総体を 大きく変化させるでしょう。 >自分さえよければというマナー違反は横行し 自分の外側にある社会的総体の住人を非難しているのですが、 他人事ではないと思うんですね。 >なにかがうまく行きだせば、今度は多数が品質のよいものに変化し、 居心地がよく充実感や愛情にあふれた社会が実現するのでしょうか? これは、一義的にご質問者様の社会的総体の問題なのですから、 具体的にご質問者様が行動なさることにならざるを得ないでしょう。 さまざまな意味で重要なのは気づきだと思います。 敏感なこと。自分のマナー違反、自分の傲慢、自分のろくでもなさ、 理解力の欠如に気づくことから始まるでしょう。 劣等なわたしの傲慢な独り言です。お聞き流しください。

garcon2001
質問者

お礼

まさしく、傲慢そのものの回答です。実にけしからんです。

  • pupurpu
  • ベストアンサー率15% (29/192)
回答No.7

人間を作るという言葉どうり、性悪さを持っているのが人間ですね。 しかし、心の姿がそのまま言葉や態度、行動に素直に出ます。  ということは、道理というものがありますから、傲慢や性悪という心根はそのまま人生に投影されます。ないように隠して生きてても、そういう人生になっていきます。 そういう悪い想念が沸いてくるというのは実は自分で作ってるというより、おしっこのようにわいてくるものでそれを判断して自分を戒めるというのは忍耐などで立ち向かうしかありません。つまり精神力。  傲慢や性悪さという他者に対する害は結局自分の人生を作り、その傲慢さで因果応報、報いを受けますよ、といい人生を歩む必要な知識を最近は教えてないんでしょう。  傲慢は因果でいえば、相手が嫌がるという結果から、嫌われる、評価されない、人が離れていくという物理のような現象として現れると把握します。嫌われますね。私は嫌いです。  もともと宗教や哲学で扱うもので、いい人生を歩むためという本音を忘れて、詐欺師のような人たちが宗教を手垢で汚してしまってますから。哲学、宗教で教えてる心の美しさを相手に与える出すことで、他者との関係をよくするという当たり前が伝わってない時代になってますね。  確かに2ちゃんネルを見た感想は、汚い本音をよく隠して生きてるなぁ。こんなに汚いのかと思います。また、そういう心で人生歩むのは苦しいだろうなぁと思います。私の中からも正直に沸いてきますが、だいたい自分に力がなく叶わない愚痴で、これは何も人生の問題を解決してくれません。結局人にいやな思いをさせて何の進展した結果は出ませんね。  質問の内容はよくわかります。私は逆に人間のすばらしさとは、心の美しさとは、と逆の良い面を考えるという視点もあると、ふっと思いました。  ある言葉を思い出します。 あなたの食べるものはあなたになる。いいものを見、いいものをきいたほうがいい。という言葉です。  それを聞いてから、何も考えず見ていたホラー映画などはあえて見ないように決めています。心が鈍感になるように思うのでやめるようにとうざけるようにしてますし、テレビのニュースも残酷なニュースばかり流して視聴率を稼ごうといういやな思惑を感じますので、あえてニュースは嫌いです。毒されて感覚麻痺を防ぐためにやってます。  また最近は人に本音の気持ちをあえて言葉にして伝えるようにしてます。傲慢は行き過ぎたわがままで、あなたは都合が良いかもしれませんが相手は嫌な思いをしますよ。そういうことぐらいは人間ならわかりましょうと幼児に言うように伝えます。心は見えませんからあえて言葉にして嫌がってるというように伝えます。また付け加えて、自分もそれは嫌だと思うということは伝えるようにしています。身近な生活の周囲はそうやって防衛してます。  傲慢というのは大体失敗と失意の結果を出してます。いい例が失恋ですね。別れるなんてないという傲慢から振られて泣く。そういう傲慢は人が自分の都合どうりにいかなくして失敗する原因ということを知ったほうが良いでしょう。毒も薬になるといいますが、おろかものは体験しないとわからないですから泣くような失敗が多いと思います。そして自分を改めるというのが正常でしょう。そういうのはいっぱいいますが、あなたが怒ってる、失望してるように、そういう反応が返るのが原因の結果だと思います。みんな同じことを思うと思いますよ。  私は大体その結果が出るというのを見てかわいそうだと思います。  また、仏教できいた話ですが、人を見下す人は絶対に人の上に立てないと聞いたことがあります。因果応報というのは怖いですね。絶対らしいですよ。絶対出世はできませんということでしょうか。自分で未来の結果を作っているという自覚がないとどんどん傲慢になって、いきずまって助けてもらえず、嫌われていく。結局自分で何とかしないといけない。 しかし、自分ひとりで生きてると思うなよという現実にぶち当たる。 そういう道理ってありますから。怖いですね。自分で不幸を作らないようにしていきたいものです。麻生総理にも傲慢さを感じますが、今はぐっとこらえて出さないように笑顔を演技してるのがよくわかりますが、高い地位になればなるほど、激しく現れるんでしょうね。これも本音が結果につながってるような気がしますが、まぁ大変な仕事だなぁと悪口を言わないようにフォロー入れます。  だいたい自分に自信がない人ほど逆に偉そうな態度をとりますよ。 人間は弱い生き物というところから出発して理解すると、教育の重要性、他者の心に対する創造力が大事ということわかってくると思います。この世は本音しか通用しませんから、汚い本音隠して生きるというのは自分にうそついて生きてるように苦しいでしょうね。きれいな本音を出して生きるというほうが爽快だと思います。生き方の問題は心の問題を含みますね。私は宗教や哲学はいい人生を歩むための知恵もあると思いますが、もともとそういうものだと思いますが、ずいぶん金儲けや詐欺で犯罪をおかし悪いものにしているという冷静な認識を持ちます。  なぜなら、そういう文献には他者とうまくいくことが幸せであり、またいい気持ちを相手から引き出すのも自分の行為で自分力というのを読むとそうだなぁと納得します。言葉ひとつで相手は感情出しますから。 結局、その心情を自分が引き出したり与えるというのが本当の自分の姿でしょう。本当の自分は他者目線で相手に何を与えるかが本当の自分なのだと思います。そういう意味では自分の思いばかり見るのは自分に盲目ということでしょうね。傲慢という精神は独裁の心です。最近思うことは、自由主義の心と共産独裁の心という視点を思いますが、私は傲慢とは共産独裁の心だと思いますし、自由主義の中にもそういう心を持ってる人または、傲慢を出す人というのはいるんだという事を思いますよ。 >>居心地がよく充実感や愛情にあふれた社会が実現するのでしょうか?  自分の生活範囲で私は作る努力をし、いい本音をあえて言葉に 変えるように心がけてます。身近で実現できますよ。家族や恋人、友人。その場合本音は聞きずらいし、いいにくいしかしあえて汚いことをいってもきれいな方向に取るという両者の訓練が必要かもしれませんね。  私は汚い本音はきたないとすごく思うというのは正直に伝えてから、改める意思もあると伝えたうえでストレスを聞いてもらいますし、すっきりと聞いてくれる人もいます。だいたい愚痴などは聞いてもらってすっきりするというものですが、サイトのあれまくりもストレス発散かもしれませんね。その奥には人生相談の悩み苦しみが隠れてるのかもしれませんね。  人間成長は時間がかかると思います。頭でわかってても腹ではわかってない。本音で思えないというのもありますから。苦労しないと人の痛みはわからないので人は苦労するんでしょう。傲慢というのも日本独自の権力に弱い体質だと思います。  頭いいより人間の心が優れてるほうが上というのが現実だと思います >>>上等な生物とはいえないようです そういうことを題材に人間は地球に寄生した寄生虫だという漫画がありましたね。環境破壊が叫ばれ始めたころ、人間は地球にとって害があるという人間否定の考えがありましたが、20年も前にはそういうことが言われてましたね。しかし人は今分別ごみをしたりエコという認識をもってるのも事実で、悪い面だけではないというバランスを持つことで、失望から抜けて冷静になれるのではないでしょうか。人はおろかで性悪で、弱くて臆病で怠け者で人を愛し人と遊び笑いあって悩み失敗し抱き合ったり、そういう生々しい人間が力もなく必死に生きてるのは人間賛歌の思いです。いとおしい存在だと思います。腹もたち失望もして、でもがんばって生きてる人間存在が涙でるような感動を感じたりします。  

garcon2001
質問者

お礼

人間の本性は悪であります。そうしなければ結局人は生きていけません。ただ、それはそれ、人間の原始的レヴェルでの話であって、もっと表層的で社会的なところに、そういう野蛮さを現すこと、これは人間として恥であるといえるでしょう。なんというか、傲慢であるのは恐れからともいえるのではないか。その幻想に振り回され、マイナスの方向に行ってしまう。浅はかなものです。ますます、心の浅はかさが時代とともに増大しているとも言えます。この世は、精神に悪いもの、人間を退化させるものにあふれているようです。それに毒されないことはなんと困難だろう?わざわざあり地獄をそこらじゅうに作っているようなものです。馬鹿な動物ですよね。  本音の上手い出し方で、相手を立てる、そういう心の訓練ができていればずいぶん世の中はよくなるでしょう。

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.6

前回あなたの質問に対して、返信をしたものです。 返信に対して、・・・・・と思ったが、既に締め切られていたので、助言できなかった。 『別に科学的根拠を持って質問しているわけではありません。XとかYとかありますけども、そういうことからはなれて、宇宙には起こらないことを想定しているわけです。」という返信を前回いただきました。 私が書いたことは現実の話ですが、あなたが望んだのは現実のことではなく、妄想話だったってことですよね? 妄想話を募集したのに、現実の話をされてがっかり? がっかりしたってだけでは済まず、「夢が無い人が多すぎて 世の中つまんねー もっと楽しい話を聞かせて喜ばしてくれよ」ってことですか? んーー それはですねぇ・・・ 宇宙人とか超常現象を楽しむ会とか いろいろありますから、そっち系のサイトに投降すればよかったと思うんです。 「俺は実はスーパーマンで、この前土星のわっかを振り回して遊んできた」とかそんな種類の話がゴロゴロ書いてある。 「おい! わっかはガスだからスッパマンでもつかめないぞ」ってつっこみいれるのは大人気ない。 大ホラをもっともらしく話を作り競い楽しむって暗黙の了解があるので、「んなわけねーだろ」って突っ込みを入れる人はいない。 酒の席で「いやあ まいったよ、 道を歩いていたら、たくさんの美女がよってきて、つきあってくれってせっついてきて。振り払うのに苦労したよ ガハハハ」 「俺なんて、○○って女優から電話かかってきて、つきあってくれって懇願されてよぉ 愛人でいいから是非ってお願いされちまったよ ガハハハ」って妄想話の対決をしまくって大笑いしても可。 彼らは会社の会議の最中にそんな話は決してしないという分別をしっかり持っている。 その場に適した話の内容を臨機応変に切り替えができているので、「マジに言っているの? 大丈夫?」とか野暮なツッコミを入れる馬鹿はいない。 で、、、、分別、認識、判断力ってのは確かに人によって違う。 哲学は人の生き方にも関わる、宗教も人の生き方に関わる。 だからといって、経典の現実ありえない話を真実・現実だとして語られても困る。 哲学と宗教の違い。 哲学は現実に即した内容であること。 宗教は空想・妄想話をでっちあげて、事実だと言ってもオッケー。 従って哲学カテで、宗教に関することで妄想発言をすると、つっこみいれられる。 「おいおい ありえねえ」って。 「願えばかなう」って言うが願っても現実起こりえないことは起こらない。 妄想を使えば、頭が鹿で胴体が馬の動物も存在すると言えてしまう。 妄想を使えば、人間は努力と願いが強ければ、スーパーマンのように空を飛べると発言できてしまう。 子供なら、まだ経験値が少ないので、世の中の認識が曖昧なので、空想の中でのみ起こることと、現実の区別がつかないと、発言内容が容赦されますが、大人だと酒の席とか友達とふざけっこする時とかじゃないと、「頭大丈夫? だいぶ疲れているようだね」って言われてしまう。 ましてや会議の席とかマジ相談の掲示板とかだと、ヤバイ人だと思われる。 私は前回と今回の文章を読んで、あなたが会議の席とか授業中とかに妄想発言をしないという分別がつけられる人なのかどうかわからない。 絵空話や空想や妄想を哲学じゃないんです。 あくまで現実のことをテーマや内容にするってのが最低限のルール。 じゃないと哲学は宗教とか娯楽と同じレベルってなり、哲学は学問ではない ってなりますから。 哲学でも倫理の授業でも「ピカチューは空を自由に飛びましたから、人間も自由に飛べるるんです。これから屋上に登ってピカチューになったつもりで空に飛びましょう」ってしないですよね。 フランスの少年は、現実と架空の区別がつかずピカチューになったつもりで、窓から飛んで現実人間は飛べないので墜落して死にました。 「ハリーポッターに会いたいのですが、どうやって彼に会えますか? 魔法を教えてもらいたいので、どうか教えてください」ってのは、哲学じゃないです。 「ハリーポッターは作者のもう一つの人格で、ハリーは作者自身。彼女は社会に対する恨みつらみを直接暴力を行使して社会に復讐せず、小説にハリーというもう1人の自分のダークサイドキャラを登場させ、世間に魔法という暴力を使い復讐させたことで、社会に対する憎しみのエネルギーを消費でき、犯罪に走らずに済み、苦境の人生において勝ち組に入れたのではないのですか」という質問なら、哲学になると思います。 こういった内容なら、ハリーポッターという架空の存在が、実は実在人物であるとなり、現実に沿った内容の質問になると思うのですが、、、、 <人間はロクでもない、傲慢、理解力の無さ> それも妄想と現実の区別がつくのに重要な要素です。 空想と現実の区別がつかないと、世間はロクでもない=現実は楽しくないから妄想の世界に浸り自慰して楽しんでる それが悪いか 悪いと思うのなら、妄想話じゃんじゃん作って俺を楽しませろてんだー って「あんた何様のつもり?  傲慢な奴だ」ってなっちゃいます。

  • tonimii
  • ベストアンサー率30% (185/607)
回答No.5

いわゆるリア充はネットの世界で、こういうところには来ないでしょう。 あなたのいう良い個体は社会でたくさんいますよ。 しかし、どこからどう見て良いのかは人によってさまざまです。 犯罪者から見て警察は悪人ですし、同業者は皆ライバルですから。

garcon2001
質問者

お礼

やっぱりそうなのでしょうか?しかし、リア充であろうと、そうでなかろうと、質の良さというものには影響されないのではないでしょうか?もちろん人によって「善」というものは違います。

  • heyboy
  • ベストアンサー率21% (1852/8730)
回答No.4

他のネットでもそうですが 所詮はヒマな野次馬の塊ですから それに期待する方が間違っているでしょう。 その上、最近の質問も その野次馬に合わせるような 低レベルな質問が多いから なおの事さら仕方ありません。 つーか、この質問自体も 「バカな人間はどうしてバカなんですか?」 って言うのと同じです 嘆くよか自分自身で自己解決していくしか ないと思うんですけどね。

garcon2001
質問者

お礼

私も結局ヒマな野次馬である気はします。 ただ、一応真実を常に求めてはいる。それを忘れなければ、そう大きく道を踏み外さないだろうと自負しています。

  • 4371743
  • ベストアンサー率26% (174/663)
回答No.3

非常に難しい質問ですね。 見方によっては反発さえ生みかねない。 あなたは上から目線で見ているのかととらえることもできる内容です。 さて、解答ですがこれは無理だと思います。 なぜなら人は少しでも幸せな生活を送りたいと考えます。 当然比較対象は周りの人とか知っている人と言うことになるでしょう。 常に競争なのです。 それがよい方向にのみ向けばいいのですが、あなたのおっしゃる通り自分のために手段を選ばない輩もいるわけであり、これが問題となっているわけです。 世の中の犯罪等はすべてこういった規律を守らない人がいることに起因するのです。 つまりすべての人が規律を守りその範囲で競争をするようになれば、あなたの言うところの「居心地がよく充実感や愛情にあふれた社会」が実現すると思います。 問題は今現存するものをどうするかです。 世の中には必要悪と言うのが必ず存在しています。 毒を以て毒を制すという言葉があるように、一般の人が対処できないことを彼らに頼んでやってもらうとか。 あなたは全ての悪を潰すことができますか。自分の身が滅んだとしても。 常識ある人はこんなハイリスクノーリターンなことはしないと思います。 共存共栄が今の世の姿であり、人は皆それに対応して生きていくのです。

garcon2001
質問者

お礼

競争や比較対照がない社会生活はありえないでしょうからね。もしありえたら、恐ろしく停滞したものになるでしょう。必要悪と言うものあることだと思います。が、それはそういう質の悪い人間に起因するものではないか?もし人類が押しなべて優秀であれば、問題ないかもしれません。

関連するQ&A