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何で人間(全体)っていうのはできが悪いのか

人間っていうのは、総体的には、たいして上等な生物とはいえないようです。自分さえよければというマナー違反は横行し、このサイトでもQ&Aという原則などどうでもいいといわんばかりの主張の押し付けやら、質問さえ理解しようとしない傲慢さやらで、せっかくの疑問解決の趣旨が風前の灯のようです。2ちゃんねるだって便利なツールであるはずなのに、荒れまくりでろくな議論はほとんどない。 それらの現象は、つまり、少数のまともで理解力包容力ある人物が、大多数のろくでもない心根や理解力の不足しているものたちに圧倒されている、と言うことであるように思えます。つまり、まともな品質の個体が少ない。 そういう、人間のろくでもなさ、傲慢さ、理解力のなさというのが社会的総体の姿になっているように思われ失望感が襲ってくるわけですが、こういうのはやはり、人間の限界性(いい個体は少ない)から来るのでしょうか。それとも、なにかがうまく行きだせば、今度は多数が品質のよいものに変化し、居心地がよく充実感や愛情にあふれた社会が実現するのでしょうか?

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  • larme001
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回答No.12

人間が他の多くの生物と区別させうる点をひとつあげろと言われたら、おそらく「人間だけがこれほどまで複雑な感情を持っている」ということになります。人間は、科学技術や社会、はたまた自分たちの誕生や生きる意味など様々なものに思考し、感じる生物なのです。それにより、思いやりとか優しさなどが生まれると思いがちでしょうが、逆にいえば悪意だって生ずるのです。ねたみや嫌いという感情は、好きや優しさと反対の感情であるだけで生じること自体はごく自然なことなのかもしれません。逆にいえば、そのねたみや嫌いなどの感情から生じる悪意や無理解というものを人間の中から完全に否定することは、その逆の好きや好意、優しさという感情すべてをも否定することになるのかもしれません。 以前読んだ本に、学校では「やさしくする」とか「恨む」とかはダメとしか教育しないのはおかしいというのです。なぜかというと、ある人間が別の人を「好き」になる行為というのは、いろいろな細かい理由はあるにせよ、結局のところその理由というのは漠然と「ただ、何となく」でしかないだろう。(特定の理由があるとすれば、それがなければすきでなくなるはずだが、そんなことはない場合がほとんどな為)それなら、逆に人を嫌いになる理由というのもいくつかの理由はあるにせよ「ただ何となく」というのもありうると。人類の歴史の中で差別や戦争が起こったのは、いろいろな理由があるにせよ、結局は「ただ何となく嫌い」ということもあるのではないかと。その本は、「人間は、好きもあれば嫌いもあるのは仕方ないことだが、ただ人間が社会で生きていくとはその好きと嫌いを露骨にするのではなく、自分と社会のかかわりの中で上手くやりくりしていくことだと述べていました。 人間が「愛情にあふれた社会をつくれるか?」とすると、わかりません。ただ、人が他人を嫌いになること、中傷することを単なる「悪」ととして完全なまでに排除することは、人間の本性にかなった行為ではないのかもしれないということです。いくら人格にあふれた人だって、苦手な人やそうでない人がいたりするはずです。人格主義者ならば、それを「邪念」とか「自分の弱さ」などと言って極端に嫌うのかもしれません。ただ、それを一般社会に強制することは、他人を露骨に見下す価値観を持つ人間を裏で見下していることに他ならないような気がします。つまり、人間には「悪」があってもよいという前程で、それでもおのおのが理想とする社会を現実することが、結局人間の目指すべき社会なのかもしれませんね。 なんだかずれたようなきもしますが、個人的には「人間は生まれつき良心をもっている」ということは信じたいです。ただ、愛情あふれる社会をつくるというのは、愛情が全てと信じ込ませることが全てとは思いません。残念ながら、いわゆる盲目的な宗教が悪用するのがこの手ですよね。結局「必要悪がある」とはいいませんが、仮に人間が本質的に良心的に生きたいと願っているとするならば、すべての価値観を受け入れた上でそのような社会が現実になる日も来るのかもしれません。

garcon2001
質問者

お礼

優しさ思いやりは、悪意や無理解と対を成すものであって、一方にだけいけるわけではない、と言うのは真理でしょうね。そういう陰陽はあるにしても、やはり、人間によって、明るい素直な人間であるのか、それとも逆なのかの総合点という者がある。 もし、総合点が高いことが普通であり普遍的であれば、ご指摘のような「なんとなく嫌い」も問題にならないほど世の中から消失しているように思えます。悪がある、ということをもっとおおっぴらに当たり前に捉えることができるくらいの習熟性が社会に求められているはずです。

その他の回答 (12)

回答No.2

出来が良い人が居るから、「こういう部分の出来が悪いのだ」と指摘できるわけですね。そして、そういう部分が修正されて、元々のレベルよりみんな「出来がよく」なれば、さらに上の「出来の良い人」がその中から出て来て、延々と繰り返します。人間は、そのように成長してきたのです。だから、どの時代のどの切り口で見ても「出来の良い人悪い人」が居るのは当然で、もしも「全員の出来の良さが究極に高まった」時、おそらく人類進歩が無くなり、誰も努力せず、何だかわけがわからないままに一気に衰退していくものと思われます。

garcon2001
質問者

お礼

相対評価が可能になるためには、階層とか差異がなくてはならないと言うことはあります。2:6:2の法則と言うのがあって、できのよい人だけを抽出して新グループを作るとやはりそれはできの悪い人間の割合を一定に含むあらたな2:6:2になると言うことのようです。ただし、これが人類にとって必須の構造であるのか、実験してみないと分からないのではないでしょうか。

  • au-soleil
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回答No.1

万物の創造主、神がそのように創造されたのでしょう。なーんちゃって! 結局のところ、人間は高等動物でありながらも、不完全な弱い動物なんですよ。宗教を語るつもりはありませんが…その弱い人間は神を頼り、力を与えてくれる事を願いながら日々生きるのだそうですよ。 歴史を紐解いても、古代からいつの時代も人間は、その>充実感や愛情にあふれた社会が実現する<ために試行錯誤し、今だに完成出来ず、なお画策しているのだと思いますよ。 今後の事は神のみぞ知る…。チャンチャン!

garcon2001
質問者

お礼

知能的に高等動物でありながら、もっと奥のほうの心情的情動的なところは動物的でコントロール効かないない傾向があります。だから、何かを頼ってよすがにするという構造なのでしょうね。

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