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奇形に対する嫌悪感について

奇形に対する嫌悪感について 私は理性的な人間ですので、強靱な精神力でそれを隠す事ができます。しかし無くす事はできません。そこで考えました。アポトーシスやネクロージスにまで遡る、突然変異に対する盲目的な否定、攻撃こそが本能的にあるのではないかと。 「不気味の谷現象」は認識のテーマですが、上記に裏付けされたシステムではないですか? 小学校に入ったとき、私は同級生を好奇心により傷つけてしまい、それ以来悩み続けています。あの時の私は社会通念上は攻められても、その本質には罪は無いのではないかと。 それとももしかして、全く違和感なく受け入れられる人が大多数なんでしょうか・・・

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  • qualheart
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回答No.4

>突然変異に対する盲目的な否定、攻撃こそが本能的にあるのではないかと。 あると思います。 まったく違和感なく受け入れられる人はほとんどいないと思います。 >社会通念上は攻められても、その本質には罪は無いのではないかと。 その通りだと思います。 ただ、本質的に罪がなければ罪にならないというものではないとは思います。 罪のある行動は、理由がどうあれ犯した時点で罪です。 まあ、それは十分承知していると思いますけど。 子供の時は盲目的な否定感情ゆえ攻撃的な行動に出てしまったと思いますが、今なら突然変異に対する嫌悪感はあったとしても、短絡的に攻撃的な行動には出ないと思います。 そう考えると、突然変異に対する盲目的な否定感情があったとしても、人は必ずしも本能的に攻撃するわけではないということも分かります。 それを制御するのが、知識であり経験だと思います。 子供の頃はまだそれが足りなかっただけと言うことでしょう。 そんなに自分を追いつめず、過去の自分の過ちを許してあげましょう。 本質には罪は無いからといって子供の頃の行動が正しかったと言えるわけではないですが、少なくとも情状酌量する余地はあったと思います。 また、何よりご質問者様はそれを深く反省されていますし。 ご参考まで。

noname#116136
質問者

お礼

ありがとうございます。 でも難しいテーマですよね。小学校に上がる前に、それを教えられても分からないですよね。実際に出会うまでは。 大人になったらそういう事を気遣うように子どもに教えようとずっと思ってきましたが、その場に居合わせでも無い限り実際には説明のしようもないというか・・・。

その他の回答 (4)

回答No.5

結論からいうと、先天的な身体的奇形に限らず、後天的な障害(脚を引きずるようにしか歩行 出来ない人・事故で指を失った人など)や見た目の異常(顔などに痣や火傷の跡があるなど)は 人間が生物的に嫌悪するようにプログラムされている事に由来します。 逆に嫌悪感を感じないと思われるのは、血色のいい人や、顔立ちや体つきが左右対称な人など が該当すると思われます。 これは子孫を残す上で、生存に不適な遺伝子を回避する目的と、怪我や病気を患う個体は 生存率が低いという判断から生じる、原始的な回避感情です。 そして、これは例え相当な外見的異常の人に尽くすような人であっても例外なく持つ 感情でもあります。 プロのカウンセラーに試されるのは、その感情を否定することではなく、理解した上で 受容することにあります。 書けば簡単ですが、臨床心理を学びながらもこれでカウンセラーの道を諦める人も居ます。 普通の人はそこまで出来ませんので、内心はともかく態度には出さないのが礼節という ことになっているようですね。 小学生時代の事については、私はさして特異なこととは思いません。 子どもとは純粋であると同時に残酷であり、思ったことを素直に口にします。 私は信仰を持ちませんので、罪の購いなどはよく分かりませんが、子どもであれば奇形の子が 近くに居れば、からかったり嘲笑することはむしろ自然な反応だと思います。 (少しませている子なら、それを止めに入るかも知れませんが、あくまで倫理感と同情からの行為でしょう) 私から見れば、そのことを今でも苦にするあなたは大変立派だと思います。 大抵の人は忘れますし、大人になってもからかうかも知れません。 過去のことは変えられません。 しかし、自分の認識は変えられます。 そんなに自分を嫌な人間と考えず、これから外見等に異常のある人に接する時に、 どうすればよいかをお考えになった方が有益だと考えます。

noname#116136
質問者

お礼

カウンセラーのお話しは新鮮で参考になりました。 悩みが晴れるご回答をいただきました。ありがとごうざいます。

  • cincinnati
  • ベストアンサー率46% (606/1293)
回答No.3

「小学校に入ったとき、私は同級生を好奇心により傷つけてしまい、それ以来悩み続けています。あの時の私は社会通念上は攻められても、その本質には罪は無いのではないかと。」 罪の意識というのは内的な認識力が成熟して、ある日突然現実的な苦しみとなるものと考えています。幼児期においては罪と大人が考えることに関して何ら罪悪感を持たないというのが自分を観察してみて思わされることです。従いまして通常罪の意識というのは同時に後悔の感情を伴うと思います。 人々は長じてくると「若気の至りで」などと若い時の失敗をほろ苦い感情とともに,回顧します。人々が行ってきたことがほろ苦い程度であれば人々はこれほど悩まなくてもよかっただろうにとも思います。この罪の意識が人の内面を鍛えてきたことをプラスの面としてとらえたとしても日常的に脳裏に覆いかぶさる暗雲のごとく人生そのものを不快なものにしてしまうマイナス面を放っておくことはあまりにも非建設的と思われます。 聖書の言葉に「真理はあなたがたを自由にする。」とあります。罪からも自由にしますということだと思います。 「それとももしかして、全く違和感なく受け入れられる人が大多数なんでしょうか・・・ 」 人日は自分と異なるものに違和感とさらに昂じると嫌悪感を抱きます。そもそも人は罪びとだからだと思います。しかしそのような感情にとらわれたときにこれは何かふさわしくない感情だと思うところに人間の良さが出ていると思います。無意識のうちに人は善や美や真なるものを求めているところがあります。 聖書によれば「人は神のイメージに似せて作られている」と語られています。その性質が奇形の人に対する嫌悪感を持つことに不適切感を抱かせるのだと思います。

noname#116136
質問者

お礼

すばらしいお話、ありがとうございます。聖書ということで、これが人類の歴史上でも扱われているテーマであるとわかりました。為になります。

  • shuusan101
  • ベストアンサー率28% (360/1247)
回答No.2

奇形に対する嫌悪感はあります。 大半が奇形と共に、友人としてお付き合いしたくないほど、性格が悪いからです。 私が見たなかですが、奇形ではあるが精神的に一般人な人はもちろん嫌悪感はないです。

noname#116136
質問者

お礼

なるほど。しかしそれはまさにそれ故にではないでしょうか。 ちなみに私の述べた対象者は、障害に負けない強い人でしたね。

  • Willyt
  • ベストアンサー率25% (2858/11131)
回答No.1

 全く違和感なく受け入れられる人は皆無じゃないでしょうか。良識ある人はそれを表面に出すことなく、さりない態度を取るように心掛けているのです。  しかし現在の日本の状況を観察していると好奇心を全くと言っていいほど隠さない人が多すぎるような気がしますね。私はもっと学校や両親の子供に対する躾けが必要だと感じています。

noname#116136
質問者

お礼

おっしゃる通りですね。そして私は(小学一年の時ですが)典型的な好奇心の塊で、初めて見た先天的障害をどうしても理解したくだれかれ構わず聞いて回ったのです。 想定外とは言え、学校にあがればもしかしたらそういう子もいるのだと事前に聞いていれば…と今でも思うのです。

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