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ぶっきらぼうは いただけませんか?
【Q‐1】 まっ 罪ではないでしょうが ぶっきらぼうは 負の印象でしょうか? 【Q‐2】 愛想のよいわるいは 対話や議論の文章に 関係しますか? 【Q‐3】 ひとは ぶっきらぼうが その地であるのでしょうか? それとも 何らかの愛想があることが 地であって その上に 愛想の多い少ないや よい悪いが 図柄となって 実存していますか? 【Q‐4】 《愛想》とは 何でしょう? あるいは 《社交性》とは どういうことでしょうか? つまり 《ぶっきらぼう》には 社交性は ないでしょうか? 自由にご見解を述べて ご回答をお寄せください。 【Q:けんかをしては 何故 いけないのか】には たくさんのご回答を寄せていただき まことにありがとうございます。これは 続編のごとくになりますが よろしくどうぞ。
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bragelonne様、いつもわたくしを諭して下さって本当にありがとうございます。 わたくしとのやりとりが「bragelonne様が何らぶっきらぼうでもなんでもない」ことを証明しているかのようです。 お題:ぶっきらぼうvsのっぺらぼう >わたしの思うに その中味が《未整理・未整頓》であっても 《いま・そこにいる存在》のほうが 哲学や自然科学のとうとい営みよりもやはり《えらい》のです。この大前提に立って と言いますか この大前提じたいが 《わたし》の問題 すなわち それとしての《他人》の問題なのではないかと思っています。さて いかがなものでしょう? はい、おっしゃる通りでして、だからこそ【のっぺらぼうが多数派】なこの時代だからこそ【哲学や自然科学のとうとい営みよりもやはり≪えらい≫のです。】とこだわりをもって信条を貫くという意味の【ぶっきらぼう】なお方が何よりも「貴重で得難い」のだと確信するのです。 それに≪わたし≫を尊重すればするほど、≪わたし以外≫のものが相対的に尊重されなくなるのは自明のことです。 何故あえて両者の優劣をつける「必要」があるのでしょうか。 ちなみに、≪神≫と≪ハサミ≫は同じ視点で語られるものなのでしょうか。 仮に≪ハサミ≫をフーコとするならば、「主体=使用する人」によっていかようにも社会という紙切れを切り刻むことができると思うのです。 で、≪ハサミ≫にも「顔」がついていたら、気持ち悪いし、話しかけられても困ります。 やはり≪ハサミ≫は高品質な無機質なものでないと、でものっぺらぼうと思えばやはり不気味にも思えてきます(笑)。 で、切り刻む紙切れにしても、例えばありきたりの白画用紙でも、幾重にも手間暇かけて製作された温かみやぬくもりのある美濃和紙でも土佐和紙でも、どちらでもよろしいかと思われます。 まさか≪ハサミ≫で≪神≫や≪わたし≫を切り刻むなんてあり得ないと思います。 もちろん、≪ハサミ≫を用いるのが気に入らないから、≪神≫や≪わたし≫には「両手」がありますので、必要であれば紙切れを丁寧に半分に折って、つつ~っと慎重に切る方法もアリかと思うのです。 最近の子供って、不器用といいますか、なかなか「手で切る」といったような昔ながらの手法を知らないケースが多々あるように思われます。 ですから、臨機応変にハサミや手で切るなど使い分けを伝えていきたいなあ、と母親として感じます。 そして、「さて、どうでしょう?」という一つの言葉にわたくしは限りなく「哲学の可能性」を大いに予感させられます。 だって、「科学の合理性」によるならば、どうひっくりかえっても「ハイ、終わり!」に帰結する問題があるはずです。 でも哲学の思索においてはどこまでも延々と続く可能性が秘められているのですから、bragelonne様が「さて、どうでしょう?」を放棄しない限りにおいては、わたくしはこの対話を続けさせていただけるのです。 何て嬉しいことでしょう! これって凄いことです♪ >そして たしかに この全部のボウを なぜか 女性は 持ち合わせている(包みこめる)のかも知れません。 そりゃあそうです。 この一行だけを取り上げてみると、朝から顰蹙ですが、何故か意味深なものを感じずにはいられません。 a様のおっしゃる「芸術哲学」に通じるものがあるかもしれません(汗) >その試行錯誤の道のりを 尊ばない。《あやまちを侵したであろうがあやまたなかったであろうがあとから検索することなどどうでもよい》主義。 所詮≪ハサミ≫はハサミですから。 わたくしがランチに何を食べよう?と問いかけようにもこたえられないように思うのです。 ただし、韓国焼肉のようにお肉をハサミで切るなど異文化においては「エエッ!こんな用途もあるの?」という視点はユニークで面白いものだ、とは思われませんか。 また、フランスで友人と大ゲンカしたことがあります。 たかが直径10cmの缶詰のふたを切るのに台所の棚の最上段奥から「電動缶切り」を出そうと言ったときです。 わたくしは思わず「面倒なこった♪」と言ったところ、「これは便利なの!手で切る方が面倒でしょ?」と言われて「は?バッカじゃなかろかフランス人って♪」と派手にやりあってしまったのです。 キッチンにおいては「全て」を包み込める女性とはいえ、男性同様に譲れない流儀がある、ということでしょうか。 Alors, a tout a l'heure!
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- sennin-
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私は昨日から「一神教の誕生 ユダヤ教からキリスト教へ」という本を読んでいます。 私の下手な説明より「母親」に、この本を読んでもらいたいです。 99ページ 「この『神の前での自己正当化』において人は、神を神とするのではなく、自分の知っているところの 判断基準を神として、その判断基準に神を従わせようとしている。 つまりこの態度は、神が何を正しいかを決めることを拒絶する態度である。 そして神は、実は自分自身である。知恵によって人が『神のように』なっているのである。 したがってこの態度においては、神の前での義の可能性は完全に失われてしまうことになる。 神との断絶が決定的になってしまう。」 この「神の前での自己正当化」を批判するために、ヨブ記とコヘレトの言葉が登場します。 さらに、「神殿」が登場します。 母親は神殿を建設しようとしているから、私は神殿の必要性を説明したかった。 103ページ 「罪の問題があるということは、神と民が断絶しているということである。 そして神殿での儀式が神と民の繋がりを具体化したものならば、これはかけがえのないものになってしまう。 すでに確固として存在する神と民の繋がりを確認するといった程度のことではなく、神と民の繋がりが存在しないので 神殿での儀式は何としても行わねばならないものになってしまう。」 105ページ 「神殿の儀式は、その儀式自体が不十分な正しさのものでしかないことを刻々と証明している。 神との断絶が決定的になることを刻々と回避する活動であるとも言うことができる」 また誤解を与えるかもしれないけど、回答です。
お礼
sennin- さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ 回答です。 ☆ ということですからね。どうしたもんでしょう。 いっそのこと 飛躍しましょうか。ぶっきらぼうは 自由自在なのです。律法なんて すべて わがこころの神殿に おさめられています。 わたしたちは みな 一人ひとりの存在が 神の霊の神殿です。日々 つくられています。日々 つくられていきます。昼は わたしがつくり 夜は たぶん キリストがつくります。たぶん 夜は わたしたちは 日々 死んでいるのでしょう。そういう儀式を わたしは わがキリストとおこなっています。どぢゃ? これほど 自由な世の中になったと ヨブのぢいさんもほかのコヘレトたちも 集まって来て よろこんでいるでしょう。 もう 罪だの義だのと 言わなくてよいのですよ。すべて 飲み込まれてしまった。なにを今さら 引っ張り出してくるのでしょう? それは あの木の上から まだ 息を引き取らないうちに 勝手に 引きずり降ろすことになりませんか? 神と民のつながり ですって? そんなものは 初めから そして お望みなら 終わりから 出来あがっているに決まっているぢゃないですか。いまさら 何をぶつぶつ言うのでしょう。それは ふたたび あの木の上に はりつけにしようとすることではないでしょうか。 sennin- さん よろこべ。ときは近づいた のではなく もう来てしまっている。なぜ 山は逃げるのか。なぜ 海は しりぞくのか。 ★☆ 誤解を与えるかもしれないけど、応答です。
- Zohar
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・・・なんと言えばいいのか。 カトリックとプロテスタントは戦争していたようですね。 何も言われないよりはずっと良いけど、 はっきり駄目と言ってないよね? いや、わかるけど、でも。 これからどうしよう。bragelonneさん。 できるなら、私は和解したいけど、どうなんだろう?
補足
Zohar さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 Zohar さん Zohar というからには――ちょっと 検索して初めて分かったのですが―― ユダヤの信仰ではなかったのですか? ユダヤならいざ知らず キリストの神に ★ カトリックも プロテスタントも ☆ ありません。あり得ません。個人の信仰の観念共同としての宗教は 忘れてください。そんなものは へのかっぱです。 わたしは たしかに 水による洗礼を受けていません。 ▲ (ローマ書10:9-10) ~~~~~~~~~~~~~~~ 口でイエスは主であると公に言い表わし 心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら あなたは救われるからです。実に 人は心で信じて義とされ 口で公に言い表わして救われるのです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ たとえば この聖句をとおして キリスト者と自称しています。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ これからどうしよう。bragelonneさん。 できるなら、私は和解したいけど、どうなんだろう? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ なにを気の弱いことを言っているんですか。理論や見解やあるいは くせや手法にかんしては 互いに差異を認め合って 批判しあっていけばよいでしょう。けれども ひとと ひととのあいだに どうして 差異があるのでしょう? あったら たしかに ぶっきらぼうではいられないかも知れません。 すべてを終わりから 初めてください。何か和解すべきことがあったから 和解をすると見るのではなく すでに はじめに 和解しあっているというところから ものごとを始めてください。いちいち めんどうなことは ありません。神をなんと思っているのですか。自分の・人間のあたまの中にでも おさまるとでも 思っているのですか? というわけで つぎのように わたしは わたしで 減らず口をたたいています。 ▲ (コリント前書1:27) ~~~~~~~~~~~~~~~~ ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ちなみに そのあとをも 引いておきましょうか。 ▲ (コリント前書:承前 1:28-29) ~~~~~~~~~ また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。 それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この際 わたしは 引用魔になりましょうか。 ▲ (コリント後書2:14-17) ~~~~~~~~~~~~~ 神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。 救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。 滅びる者には死から死に至らせる死の香りであり、救われる者には命から命に至らせる生命の香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか。 わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ あぁ 権威を笠に着てしまいました。ま いつも かな。
- Zohar
- ベストアンサー率0% (0/4)
こんにちは。 こういう物語があります。 イエスとマグダラのマリアは結婚して子どもがいる、と。 マグダラのマリア http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B0%E3%83%80%E3%83%A9%E3%81%AE%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%A2 レンヌ=ル=シャトーの謎 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%8C%EF%BC%9D%E3%83%AB%EF%BC%9D%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%88%E3%83%BC%E3%81%AE%E8%AC%8E メロヴィング朝 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%AD%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B0%E6%9C%9D >神話と伝承 >メロヴィング朝の始祖は、ナザレのイエスとマグダラのマリアの子の血を引く云々。[1] 聖杯伝説 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E6%9D%AF%E4%BC%9D%E8%AA%AC >レンヌ=ル=シャトーの謎─イエスの血脈と聖杯伝説』で、 聖杯をイエスの血脈と関連付ける考えを示した。 >これは、ダン・ブラウンの『ダ・ヴィンチ・コード』にも借用されている。
お礼
Zohar さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ですけれど 公認の聖書記事にも 大食漢で大酒飲みだと言われたと書かれていますよね。 たしか 木に向かって 枯れよとか言っていましたね。イエスは。負け惜しみでしょう? うづくまって 地面に線か字を書いていたのでしょう? 罪の女の場面では。 もし ほんとうに問い求めようとしているのなら わたしの過去の質疑応答を読んでみてください。しっかりと説明していますから。 要は イエスは まったくふつうの人間であり 同時に キリストと呼ばれるようになったなぞの存在です。わたしたちが 信じるのは――つまり それは 無根拠というなぞの存在との関係を言うのですが―― むろん 人間イエスではありません。 ただし 微妙ですので ことばを添えますが さらにこのキリスト信仰としては そのドグマとして(ただの想定であり 論証不可能であるのに 人間の言葉で表現してしまったものとして) 要するに このナザレのひとは 人間であると同時に神の子であり神であったと言っています。 神は なぞですから 霊という呼ばれ方をしており この霊は 或る程度は いわゆる仏性と呼ぶものにも似ています。つまり それが 誰もに宿るという意味でです。 物語の持つ衝撃力に耐えきれず 次つぎと 経験存在としてのイエスの部分について 経験的な行為や現象を さらに物語って行ったといったところでしょう。 血筋によらず 肉の意志によらず 人間の意志にもよらず・・・と書いてあるでしょ? まだ 息を吹きかけられませんか? (えっ なんで このぶっきらぼうのわたしが 宣教するの?!)
- zatousan
- ベストアンサー率55% (156/282)
初めに断っておきますが、 僕はぶっきらぼうを罪だとは思いません。 十人十色、と思っています。 しかし、聖書では、 テモテへの第二の手紙3章1~3節 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 1)しかし、このことは知っておかねばならない。終りの時には、苦難の時代が来る。 2)その時、人々は自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、高慢な者、神をそしる者、親に逆らう者、恩を知らぬ者、神聖を汚す者、 3)無情な者、融和しない者、そしる者、無節制な者、粗暴な者、善を好まない者、 4)裏切り者、乱暴者、高言をする者、神よりも快楽を愛する者、 5)信心深い様子をしながらその実を捨てる者となるであろう。こうした人々を避けなさい。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ だそうです。(融和しない人=ぶっきらぼう) お耳汚しまでに、、、。
お礼
zatousan さん ご回答をありがとうございます。 直前のお応えにも書きましたが zatousan さんと Zohar さんと そして Lazarus- さんとは 似通った内容を書いてきますので こんがらがりますね。 zatousan さん 今回は いやに おとなしい(失礼!)ご回答ですね。あるいは おとなしすぎはしませんか? あるいは 少し見方を変えると いささか律法主義くさいとも見えますね。 これらの悪者の列挙は やや 紋切型に思えます。パウロその人の文体ではないように見受けられます。 ううーん。いっそのこと すでに今 新しい天と新しい地との話をしてみては どうですか? ちょうど 別の質問のほうで わたしが やらかしたので 言うということもありますが 《終わりの時代》などというのは どうも ゆううつですね。つまり 《永遠の現在》とも言いますしね。 もっともっと自由に もっともっとさらにもっと自由に 自説を展開していかれたら どうでしょう? すべてがゆるされている。すべてが益になるというわけではない。すべてがゆるされています。すべてが 益になるというのではありません。 でも 最大限に自由に! そのさらに一歩先の自由を! 世紀のぶっきらぼうからでした。
- Zohar
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欠けているものがありました。 ヨハネによる福音書11章43節 こう言ってから、「ラザロ、出てきなさい」と大声で叫ばれた。 すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。 >ぶっきらぼうは いただけませんか いただけません。 対話しないと。それに、隣人愛は律法です。 。。。私が言っても説得力がないけど、それでも。 >死後のことなら むしろ 《輪廻転生》のほうの問題なんですけれど。 いいじゃないですか。べつに。キリスト教は奇跡が登場するから 比喩や物語ってことにしないと問題だらけですから。 「文字は殺すが霊は生かす」、でしょう。
お礼
Zohar さん ご回答をありがとうございます。 Zohar さんと zatousan さんと そして Lazarus- さんとは 回答内容が 似通っていて こんがらがりますね。しかも Zohar さんが ラザロの話を出してきますしね。 元気を出してきた Zohar さんですね。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >ぶっきらぼうは いただけませんか いただけません。 対話しないと。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ はい。分かりました。これからも さらに 気をつけて ちょっとの隙間をも逃さずに 対話をねらっていきます。 ただ 《ぶっきらぼう》というのは――この質疑応答の初めから―― すでに 対話をしていて その表現が 必要最小限にとどまるといった傾向を言っているのです。引っ込み思案ではないのです。 それに対して 《のっぺらぼう》というのは けっきょく 一般的な知識や社会情況や あるいは何つけても いわゆる一般論は 言うが 自分の意見や意思表示は 言わないし しない。こういうくせ(エートス)のことを言っています。顔がないという言い方で 言います。知識は すごいのですけれどね。 あと 律法が 文字のことだから 気をつけましょう。石の板にではなく 胸の板に書きつけられた律法のほうで まいりましょう。 Zohar さんと わたしは 或る種の仕方で 競争ですな。 まだ ことばが 足りんようですな。まだ 布を巻いているのかい?
- Lazarus-
- ベストアンサー率0% (0/1)
こんにちは。 サマリア人 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%A2%E4%BA%BA Hillel the Elder http://en.wikipedia.org/wiki/Hillel_the_Elder ナーブルス http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%B9 問題はここからなんですけど。。。 bragelonneさんはフランスに詳しいですよね? どう思いますか? ラザロ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%B6%E3%83%AD サント=マリー=ド=ラ=メール http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%88%EF%BC%9D%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%83%BC%EF%BC%9D%E3%83%89%EF%BC%9D%E3%83%A9%EF%BC%9D%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%AB サント=ボーム山塊 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%88%EF%BC%9D%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%A0%E5%B1%B1%E5%A1%8A マリア (マルタの妹) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%A2_(%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%81%AE%E5%A6%B9) マルタ (マリアの姉) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%BF_(%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%81%AE%E5%A7%89) タラスコン http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%B3 アルフォンス・ドーデ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%87 最後の授業 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%80%E5%BE%8C%E3%81%AE%E6%8E%88%E6%A5%AD
お礼
Lazarus- さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ですが これだけでは いったい どういうことの《補足要求》であるのか。・・・ ひとつには 要するに 伝承・伝説がつくられているということではないですか? 死後のことなら むしろ 《輪廻転生》のほうの問題なんですけれど。どうしたものですかね。 ううーん。分かりません。もう少し説明をしてくださいよ。
補足
お礼欄は ぶっきらぼうでしたか? ★ フランスに詳しいですよね? ☆ ったって 限られていますよ。 《マリアたち》の伝承・伝説については No.71の Zohar さんへのお応えの中で 少し 触れて 述べました。どう扱うか どういう性質の物語であるのか そういう視点ですね。 マルタだったか 妹のマリアだったかが イエスが訪れてきたとき もてなしの食べ物のことなど そっちのけで ぶっきらぼうだったわけでしょ? 何でも いいですから もう少し ことばを継いでくださいませ。
- Zohar
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まったく。。。 帰ってきました。 >哲学信条を「ゆづる」ということは、はたしてあり得るのでしょうか? あり得ます。 >こうやって投稿しているからには これは 理由になりません。理由を述べないのなら 投稿もしない。 >または それでも 投稿したなら 無視されてもかまいませんと 断わっておいてください。 bragelonneさん 断っておきます。 無視されてもかまいません。 ヨハネによる福音書第1章 彼は証しをするために来た。 「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。 『主の道をまっすぐにせよ』と。」 洗礼者ヨハネ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%97%E7%A4%BC%E8%80%85%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%8D >ヨハネは当時の領主ヘロデ・アンティパスの結婚を非難したため、捕らえられ、首をはねられて処刑された(マタイ福音書14:1-13) [1]。 >ヘロデ・アンティパスの家令(執事)の妻が首を埋葬した。キリスト教伝承では首はのちに再び発見され、 >コンスタンティノポリスにもたらされたとされる。 あれ。。? なにかが。。。 物語の作者はいったい誰?
お礼
Zohar さん ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >哲学信条を「ゆづる」ということは、はたしてあり得るのでしょうか? あり得ます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ よく読んでいるのぢゃないですか。この回答に 理由をつけるといいでしょう。わたしが すでに 述べていますが それに 批評・批判を与えるといいのでは? ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ まったく。。。 帰ってきました。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ こんな質問への回答とこんな質問者とのやり取りを 二度以上つづけるつもりなど いっさい なかったのに というところですか? わたしも 対話上手のようですね。 ★ bragelonneさん 断っておきます。 / 無視されてもかまいません。 ☆ わが外交の勝利ですね。では あとは 勝手に料理しておきます。 ★ 「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。 / 『主の道をまっすぐにせよ』と。」 ☆ 洗礼者ヨハネに当てはめようって魂胆ですか? 似ていますか? たぶん もうすでに 道は まっすぐになっているから そのように局面は はっきり 大転換しているでしょうね。その意味では 何のつながりもないですね。 けっきょく ★ 物語の作者はいったい誰? ☆ であるかを つきとめた上でないと 何も思想としての態度を採れない・採りたくないというところでしょうね。そういうやり取りは すでに じゅうぶん して来ました。都合のわるいところでは とんずらでした。とだけ 言っておきましょう。 でも 過去の質疑応答を 読めばいいぢゃないですか。ね。わたしは それらにかんして noname#80116 ですが。
> もう一点です。noname#83027さん・・・・ > どうも 何も わたしは 分かっていないようです。ご破算で願いましてはとしたほうがよいように思いました。 お話がよくわかりませんが、気分の問題でご破算としてよろしいのでは。 ことは2点しかありません。 1、bragelonneさんのご質問で抹消されたほうの『日本語は論理表現にふさわしくないのか』において、 この方が地雷は僕のことですかと言っておられたこと。 わたしといやな絡みのあった参加者の文体が透けて見えましたから、 なんかあるわけですよ。わたしの職業的自信としては。意地悪くも地雷と呼んでしまいまして。 2、noname#83027さんの質問『「取扱い注意」のラベルが貼られる心』の応答中に わたしの質問におけるbragelonneさんへのお礼中の語句が明記されていること。 この2点以外に、 bragelonneさんがお関わりのことは何もないでしょう。 お気を遣って何かなさっていたとは気づきませんで。。。 付け加えれば、『「取扱い注意」のラベルが貼られる心』において 思索家の集うサイトへの外部リンクを貼って既存関係の露わにされた投稿を読みましたから、 わたしとしてはなるほど関係者かと思うわけです。 例の「地雷」は起爆したようだとnoname#83027さんに申し上げた次第ですね。 それ以外に思い当たることは、わたしにはありません。 好きなタイプでもなさそうですしね。。。
お礼
amaguappa さん ご回答をありがとうございます。 いやぁ 健忘症と能天気とは このことかと。・・・・ 《取扱注意》とかで 検索したりしましたが 一向に 見つからず 諦めたのでしたが あの《日本語は》のほうでしたか。《地雷》はたしか 言われたかれが あやまっていたと記憶していて もう何ともないのとちがいますか? でも そのあと 尾を引くように noname#83027さんは あなたの書いた語句を 勝手に分かるように使ったということですね。しかも あたかも予言どおりに 地雷が起爆したようだということですね。 こうなれば ですね。やはり さらにさらに対話 ですよ。問題は どこで やるかですね。ぶっきらぼうに絡ませて ここで やっていただくのが いいのでしょうかねぇ。 あぁ わたしも 今回 noname#83027さんについて 新規参加のあと 少し 知るようになったことがありますし また amaguappa さんも よく読むと ★ わたしといやな絡みのあった参加者の文体が透けて見えましたから、 / なんかあるわけですよ。 ☆ ともおっしゃっている。つまり これは 《わたし bragelonne とは別のこと》ですね。でしたら どこまでも対話で行かれたら いいように思うのですが どうでしょう? 第(2)点について 確認がまだ 取れていません。《取扱い注意》のほうでは むしろ 《対応のしづらい》相手の場合に触れていた箇所がありましたが これは また別の人であるようですし。とりあえず そんな報告と 提案です。
> 《わたし》の主観はどうなのかと その中味に 人びとのあいだで主観共同化に耐え得る内容があるかどうか > 言いかえると あるのは 主観真実とその妥当性としての共同主観性であるのではないか 主観とおもっているものは、共同主観をそれなりの解像度・解析度で焼き直したものですから、 焼き直しの点で高性能な人々もいれば、割れた鏡や曇ったレンズみたいな人々もいます。 仕方がないですね。 公私の照らし合わせは、主観よりもethics 倫理の問題として考えるべきであろうと思います。 現実において議論をする者であるには、ロゴスを持つ者であるには、 資格、資質ともいうべきようなものが問われるべきではないでしょうか。 ここから始めるほうが本質的ではあると思いますね。 宗教指導者や政治家は、その主観真実を妥当なものとするようなシステムを作り上げます。 共同主観から主観へ、また主観から共同主観へ、と螺旋運動のように渦巻いている意識総体が歴史にはあるのでしょう。 この運動そのものをコントロールすることが有意義な哲学であろうし、それは倫理に根を下ろすものになるだろうと思います。 ぶっきらぼうからロゴスへ、ロゴスから共同主観へ、そして意識総体の螺旋運動と倫理哲学へ、 とわたしの場合は話が進んでいきますけれども。知の整理方法は人それぞれ違いますからね。
補足
amaguappa さん お早うございます。と言っても だいぶん 日も上がってまいりました。今朝は 遅く起きたにもかかわらず ご回答を数件もらっていて てんてこ舞いです。ご回答をありがとうございます。 ★ 知の整理方法は人それぞれ違いますからね。 ☆ このような手続き上の相違 つまり この相違だけの問題になってきましたでしょうか。 とは言っても 理論をつくる者にとっては 異論反論が 一人ひとりにあるでしょうし しかもそれであるからこそ 互いに 自己の理論の整合性が さらに整理されていくのでしょうね。 表現がちがうなと思ったところを 二件 お伝えしてご返答といたします。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 主観とおもっているものは、共同主観をそれなりの解像度・解析度で焼き直したものですから、 焼き直しの点で高性能な人々もいれば、割れた鏡や曇ったレンズみたいな人々もいます。 仕方がないですね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 生まれてこのかた うそをついた時から ひとは 《割れた鏡や曇ったレンズ》であると言いきったほうがよいと考えます。 そこで 次の問題です。 ★ 公私の照らし合わせは、主観よりもethics 倫理の問題として考えるべきであろうと思います。 ☆ わたしの場合 すべての基礎に 《曇った割れガラスの主観》があります。この主観たちの井戸端会議が 基礎です。この実践において わたしは 失敗のような事態に遭いましたので 大きなことは言えませんが 動態でありつづけるという大前提でもありますので さらに進めています。 つまり 公私のいづれも 一人のひとの主観におさまっているし また 倫理も論理も 理性も感性も やはりおさまっているという出発点の捉え方です。区別はあるでしょうが 段階や優劣の差は 置かないのが ふつうです。 ★ 現実において議論をする者であるには、ロゴスを持つ者であるには、 / 資格、資質ともいうべきようなものが問われるべきではないでしょうか。 ☆ これは たしかです。そのわたしの意味は こうです。つまり基礎であり基盤である井戸端会議の上に 必要に応じて 専門的な議論をする場が 持たれるでしょうね。 ★ 宗教指導者や政治家は、その主観真実を妥当なものとするようなシステムを作り上げます。 ☆ これは そうだとも それでは まだ足りないとも 応答すると思います。既成事実にもとづき なるべく波風を立てず破壊も行なわないようなかたちで 現実の秩序を優先するというとき そのとおりでしょうね。 まだ足りないというのは ★ この運動そのものをコントロールすることが有意義な哲学であろうし、それは倫理に根を下ろすものになるだろうと思います。 ☆ このご指摘の事態そのものだと考えます。 それなのに 言い方が違うと思った(感じた)のは 最初の《曇りガラスの主観》の問題ですね。《宗教指導者や政治家》も この同じ主観を出発点に持つ主体だという意味です。つまり言いかえると 先の専門家たちによる《専門的な議論の場》 これとて 割れたレンズの主観が やはり 出発点であるからには その基礎は どうしても 井戸端会議にあると思われます。 というよりも この《主観真実を妥当なものとするようなシステム》は けっきょく いろんな人たちのさまざまな言い分を聞いて取り上げ 交通整理するかたちで 施策をつくり 高度に政治的な判断に あとは ゆだねるということだと考えられます。 で いつも一言多いぶっきらぼうが べらぼうな話をしますと ★ ロゴス / 共同主観 / そして意識総体の螺旋運動と倫理哲学 ☆ と説明されるとき わたしには思われるのですが すべては 一介の・ちりあくたに過ぎない《わたし》の主観 もしくはさらに べらぼうに言えば その感性にこそ 潜在的な判断力があるのではないか。こうなってしまうのですが どうでしょう?
Bonsoir, monsieur. 【★ この「ゆづる」はキリストの教え「右の頬を殴られたら、左の頬を出しなさい」にも通じるものか】 >《理念》というものは 果たして いかなる意味があるのか・実践と どうつながるのか >○ しかるべき抵抗も排除しないと考えています。 上述の件に関して、わたくしは数日間思考停止状態となりました。 ≪理念≫として理解し得ても、仮に我が子に危害が及んだ場合、現実的な実践として、とてもこの≪理念≫を抱くことはできないと思われるからです。 前提条件として実践できそうもない≪理念≫というスタンスはあり得るのでしょうか。 【哲学は すべてをうたがえとも言います】 これはデカルトさんの例の主張でしょうか。 【イスラエルとパレスチナ】 >解決策が 思い浮かばなくても とにかく 双方が 対話のテーブルに就く・そして話し合いを たとえ半永久的にでも つづける。 はい、おっしゃる通りかと思います。 数千年に渡るいがみ合いと戦争のツケが未来のある時点から解消される、お互いの積年の思いが氷解するわけがあり得ない、というのは彼等当事者たちが一番良く認識しているのではないでしょうか。 求められていることはいかなるレベルであれ「対話」をすること以上でも以下でもないかのように察せられるのは気のせいでしょうか。 但し拉致被害者の場合は家族会並びに被害者の方々の年齢的な制限上、より早急な具体的な解決策が求められてしかるべきかもしれないと思いました。 以上となりましたが、最後にもう一つ。 哲学信条を「ゆづる」ということは、はたしてあり得るのでしょうか? bragelonne様流に「ぶっきらぼう」にお答えいただきたいと思います。 ありがとうございました♪
補足
mashumaro2 さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ★ 【★ この「ゆづる」はキリストの教え「右の頬を殴られたら、左の頬を出しなさい」にも通じるものか】 ☆ たとえば 軽水炉に重油を供給したり 食糧援助をしたりと 《左のほほをも向けてやっている》と思いますよ。 ★ 【哲学は すべてをうたがえとも言います】 / これはデカルトさんの例の主張でしょうか。 ☆ 澄みません。漠然と そういう言い方をするものだと思って使いました。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 哲学信条を「ゆづる」ということは、はたしてあり得るのでしょうか? bragelonne様流に「ぶっきらぼう」にお答えいただきたいと思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは 議論の起こるところだと考えます。ですが 哲学信条というように 非思考の信仰に近い領域での知性もしくはむしろ意志のはたらき これに関しましては 1. あり得る と考えます。 2. それは 《ゆづる》の意味にもよるのではないでしょうか。 3. つまりぎゃくに 経験科学の知識については 難なく《ゆづる》と見えますが それは 《より良いほうを選んだ》に過ぎないと考えます。 4. 相手の見解を 肯定し 賛同するというのは 自分の面子を捨てて 相手にゆづっているようですが 妥当性を優先させただけであって ゆづる必要もなかったとさえ思われます。 5. 相手にゆづったのではなく 実利性や損得勘定を 面子やゆづる精神よりも 優先させた。 6. それが証拠に 口では 相手をたたえていても 心ではゆづっていないことが しばしば 露呈する場合があります。 7. 口では ゆづっていないのだが 相手の言い分を認めて 実際には その言い分のとおりに 実行するという場合もあります。 8. ここで やっと 初めの(1)の答えに戻ります。 9. 平俗的に表現するならば (7)の場合の人間というのは その場ないし情況に 自己の面子をゆづったということではないでしょうか? 10. わけの分からない表現を用いるならば 《神の弱さは 人間の強さよりも強く 神の愚かさは 人間の賢さよりも 賢い》です。これゆえに ひとは ひとに 半歩ゆづるということを成し得ます。哲学信条にしても そうです。 どうでしょう?
お礼
結論:第二階がなかりせば けんかは 仲間うちのむしろ交流であり 交通のひとつのかたちであった。のではないか? どうでしょう? * あるいは イリ歴史知性の中から ヨセ超歴史知性が出たのと 似てはいるが 少し違うアマアガリも見られました。その後 歴史知性が 理性として・理性なる神として 歴史を超越するかたちで あがめられるようになった。のではないか? * 内面において自己崇拝的な《ヨリ》を《復活》させてのように あらたな歴史知性として立った《コギト》知性。これによれば たしかに もはや 人びとの知性は 針ねずみのごとき容貌を現わして来た。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《コギト》について 悪口のみを言っています。偏見です。《はさみ》説を普及させる必要があります。 かくて 世界は 《ヨリ・イリ・ヨセ // コギト》なる知性の入り交じる交通関係網より成るとなるでしょうか。粗削りですので よろしければ たたき台として どうでしょう? 現代には 《純粋な》ヨリは いないでしょうね。イリ歴史知性に 一たんは 目覚めたのに ふたたび どういうわけか ヨリの眠りのほうへ 傾いていく。それが のっぺらぼうなのかも知れません。 まなざしをもっぱら上から注ぐ超越知性のヨセも ふつうのイリ歴史知性が 本籍です。コギトも 同じくです。コギトを イリが使うのと ヨセが使うのとでは 微妙に 違ってくるのではないでしょうか? 二階建て構造は むしろ 逆立ちしていないでしょうか。
補足
mashumaro2 さん もう一度お早うございます。ご回答をありがとうございます。 興味本位から入ります。 ★ キッチンにおいては「全て」を包み込める女性とはいえ、男性同様に譲れない流儀がある、ということでしょうか。 ☆ あぁ これも 或る種の ぶっきらぼう ですね。よかった よかった。と言っても いけませんかね。 なるほど 上手におっしゃる。フーコは はさみであると。(フーコーを改め フ―コ とわたしも します)。例の passcard さんから そういうふうに一度指摘されていたのですが たとえば次のような指摘も あたまに残っていました。 ▲ (今村仁司:構造主義 『現代思想を読む辞典』1988)~~~~~~ ・・・ 構造主義の《構造》概念に関する認識論的諸問題 さらに構造主義が秘かに想定している存在観の諸問題を吟味することが残されている。 構造主義の科学は完了しているのではなく 今後も批判と討議を経て発展すべき未来に開かれた学問である。 構造主義に反対することは 認識論的にみて反動的である。したがって 構造主義の認識上の成果を踏まえつつ 同時に認識論上と存在論上の批判的検討を条件として私たちは前へと一歩進まねばならない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《構造主義が秘かに想定している存在観》 これですね。認識論は はさみでしょうが 思想つまり すでに 生活態度の問題にも 入って来ているようにも感じたのでした。《無主体》説では 困ると思います。ぎゃくに 認識論だけなら・つまり はさみであるなら 道具であるということですから 無主体は 当然ですね。 ○ 鬼に金棒 ☆ この表現は 鬼も金棒も 話し合い主義にとっては まずいですね。戦略・戦術だとか 男性軍・女性陣だとかも そろそろ 代わりの表現を探すべきでしょうね。《大船に乗った気持ち》も どうも古いですね。 さて 前編からのつづきとしましては mashumaro2 さんと《過激性》を競うという誘惑にかられました。 ☆☆ (【Q:けんかをしては 何故 いけないのか】No.78補足欄)~~~~~~ その昔 ひとが死ぬということを知ったとき ひとは その存在の時間的な存在性に・そしてその時間的な存在が互いにいとなむ世界に みづからの意志において 《イリ(入り)》しました。歴史知性の獲得です。 その以前には なにごとにも《ヨリ(寄り・依り・憑り)》する原始心性でした。アニミズム心性でしょうか。 歴史知性を確立していくにつれ 《ヨリ心性》に留まっている場合をどうするかという議論が起き 片や そのまま 《イリ知性》の漸進的な歩みを説く人びとと そして 片や そうではないと言って この歴史知性の潜在なるままの《ヨリ》原始心性を 《ヨセ(寄せ)》るのだと主張する人びとが出て 対立します。 結果は ヨセなる言わば超歴史知性の側に イリ知性の側が 国ゆづりするというかたちで 譲歩し従属することになりました。 途端に それまでの社会は いわば平屋建てであったものが 二階建てに早変わりしました。むろん 二階には スーパー歴史知性なるヨセ派が 住まうということになります。 この二階から 説いて言うには 第一条として ▲ 一に曰く、和(やわらぎ)を以(もち)て貴(たふと)しと為し、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。 ☆ でした。そののちにも 大きく王位を争う六七二年の乱をはじめ 自分たちの雲の上では 波風を立てても よいが 下々では ならぬと言う。その以前には 蘇我氏と物部氏が 仏教受容かどうかで 争ったとき 聖徳太子は 前者の軍に加わり戦っておきながら 上の条文をこしらえた。 ということは 《ヨセ》なる知性は 別格であって 人びとは その知性に対して 波風を立ててはならないと言っている。ことになるのでしょうか? どうでしょうか? ヨセなる超歴史知性:天つ神 イリなる歴史知性: 国つ神 ヨリなる原始心性: うつ(現)しきあをひとくさ(青人草) あるいは ○ 罪には ヨセなる第二階を侵そうとする天つ罪と イリなる第一階で争われる国つ罪とがある。 ☆ という世の中が 出来あがって行きました。とさ。