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ぶっきらぼうは いただけませんか?
【Q‐1】 まっ 罪ではないでしょうが ぶっきらぼうは 負の印象でしょうか? 【Q‐2】 愛想のよいわるいは 対話や議論の文章に 関係しますか? 【Q‐3】 ひとは ぶっきらぼうが その地であるのでしょうか? それとも 何らかの愛想があることが 地であって その上に 愛想の多い少ないや よい悪いが 図柄となって 実存していますか? 【Q‐4】 《愛想》とは 何でしょう? あるいは 《社交性》とは どういうことでしょうか? つまり 《ぶっきらぼう》には 社交性は ないでしょうか? 自由にご見解を述べて ご回答をお寄せください。 【Q:けんかをしては 何故 いけないのか】には たくさんのご回答を寄せていただき まことにありがとうございます。これは 続編のごとくになりますが よろしくどうぞ。
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bragelonne様、いつもわたくしを諭して下さって本当にありがとうございます。 わたくしとのやりとりが「bragelonne様が何らぶっきらぼうでもなんでもない」ことを証明しているかのようです。 お題:ぶっきらぼうvsのっぺらぼう >わたしの思うに その中味が《未整理・未整頓》であっても 《いま・そこにいる存在》のほうが 哲学や自然科学のとうとい営みよりもやはり《えらい》のです。この大前提に立って と言いますか この大前提じたいが 《わたし》の問題 すなわち それとしての《他人》の問題なのではないかと思っています。さて いかがなものでしょう? はい、おっしゃる通りでして、だからこそ【のっぺらぼうが多数派】なこの時代だからこそ【哲学や自然科学のとうとい営みよりもやはり≪えらい≫のです。】とこだわりをもって信条を貫くという意味の【ぶっきらぼう】なお方が何よりも「貴重で得難い」のだと確信するのです。 それに≪わたし≫を尊重すればするほど、≪わたし以外≫のものが相対的に尊重されなくなるのは自明のことです。 何故あえて両者の優劣をつける「必要」があるのでしょうか。 ちなみに、≪神≫と≪ハサミ≫は同じ視点で語られるものなのでしょうか。 仮に≪ハサミ≫をフーコとするならば、「主体=使用する人」によっていかようにも社会という紙切れを切り刻むことができると思うのです。 で、≪ハサミ≫にも「顔」がついていたら、気持ち悪いし、話しかけられても困ります。 やはり≪ハサミ≫は高品質な無機質なものでないと、でものっぺらぼうと思えばやはり不気味にも思えてきます(笑)。 で、切り刻む紙切れにしても、例えばありきたりの白画用紙でも、幾重にも手間暇かけて製作された温かみやぬくもりのある美濃和紙でも土佐和紙でも、どちらでもよろしいかと思われます。 まさか≪ハサミ≫で≪神≫や≪わたし≫を切り刻むなんてあり得ないと思います。 もちろん、≪ハサミ≫を用いるのが気に入らないから、≪神≫や≪わたし≫には「両手」がありますので、必要であれば紙切れを丁寧に半分に折って、つつ~っと慎重に切る方法もアリかと思うのです。 最近の子供って、不器用といいますか、なかなか「手で切る」といったような昔ながらの手法を知らないケースが多々あるように思われます。 ですから、臨機応変にハサミや手で切るなど使い分けを伝えていきたいなあ、と母親として感じます。 そして、「さて、どうでしょう?」という一つの言葉にわたくしは限りなく「哲学の可能性」を大いに予感させられます。 だって、「科学の合理性」によるならば、どうひっくりかえっても「ハイ、終わり!」に帰結する問題があるはずです。 でも哲学の思索においてはどこまでも延々と続く可能性が秘められているのですから、bragelonne様が「さて、どうでしょう?」を放棄しない限りにおいては、わたくしはこの対話を続けさせていただけるのです。 何て嬉しいことでしょう! これって凄いことです♪ >そして たしかに この全部のボウを なぜか 女性は 持ち合わせている(包みこめる)のかも知れません。 そりゃあそうです。 この一行だけを取り上げてみると、朝から顰蹙ですが、何故か意味深なものを感じずにはいられません。 a様のおっしゃる「芸術哲学」に通じるものがあるかもしれません(汗) >その試行錯誤の道のりを 尊ばない。《あやまちを侵したであろうがあやまたなかったであろうがあとから検索することなどどうでもよい》主義。 所詮≪ハサミ≫はハサミですから。 わたくしがランチに何を食べよう?と問いかけようにもこたえられないように思うのです。 ただし、韓国焼肉のようにお肉をハサミで切るなど異文化においては「エエッ!こんな用途もあるの?」という視点はユニークで面白いものだ、とは思われませんか。 また、フランスで友人と大ゲンカしたことがあります。 たかが直径10cmの缶詰のふたを切るのに台所の棚の最上段奥から「電動缶切り」を出そうと言ったときです。 わたくしは思わず「面倒なこった♪」と言ったところ、「これは便利なの!手で切る方が面倒でしょ?」と言われて「は?バッカじゃなかろかフランス人って♪」と派手にやりあってしまったのです。 キッチンにおいては「全て」を包み込める女性とはいえ、男性同様に譲れない流儀がある、ということでしょうか。 Alors, a tout a l'heure!
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bragelonne様、こんにちは。 トンチンカンなわたくしですが、対話していただけますでしょうか。 【Q‐1】負の印象とは一概に言えないと思います。 何をもって「ぶっきらぼう」とするかにもよります。 仮に「そっけない、つれない態度、所作」「ネット上のやりとり」と限定すると、 「ぶっきらぼう」の正負の印象はあくまでも受け手の捉え方によって異なるのではないでしょうか。 【Q‐2】「愛想のよい」を「相手との対話と続ける上で最小限不可欠な努力」とするならば、「自他共に建設的な」対話や議論が延々と続いていくでしょう。 「愛想がよい」=「ぶっきらぼう(愛想がない)」なのでしょうか。 しかしながら、「ぶっきらぼう」場合のほうがしかるべき努力が欠如しているにもかかわらず、得てして対話を通り越して熱い議論が展開されるように思います。 何故でしょう。 「愛想がよい」以上に「ぶっきらぼう」の何に人は興味を抱くのでしょうか。 対話が白熱してそう映るのか、それとも「ぶっきらぼうの何か」に反応して、対話が白熱していくのか。 愚鈍なわたくしにはさっぱりわかりません。ごめんなさい。 【Q‐3】 現代の管理社会の中であっても人間は一人一人豊かな個性の塊とみなせば、ぶっきらぼうを地でいく人もいるでしょうし、また、天然な愛想の上にそれが態度として表される人もいるでしょう。 更に、ぶっきらぼうや愛想のよさを何らかの思惑や信念のために表層的に故意に表現する人もいるかもしれません。 【Q‐4】 《愛想》とは、自然な発露にせよ作為的なものにせよ、自分以外の他人のために行う人間関係を円滑にする所作で、一般的には社交性があると思います。 ですが個性ある人間同士の関係においては、受け手によってはかならずしも適切な社交性があるとは言えないかもしれません。 であるならば、「愛想がないぶっきらぼう」であっても、社交性がある、と言えるのではないでしょうか。 わたくしには以前から抱く強烈な囚われ、つまり、深い哲学的な思索や文章論述に対する決定的な負の印象がありました。 ですから、厚かましくもbragelonne様の逞しい胸をお借りするつもりで書き込ませていただいた次第です。 で、わたくしの場合を申せば、自分自身が現実に邪な思惑から、常に八方美人でイヤラシイ人間なので、どちらかというと「ぶっきらぼうな人間」のほうが好印象です。 あとね、マメでちょっと煙たいくらいの方がいいかも(笑)
補足
これはこれは mashumaro2 さん ようこそ。先日は フーコーのご質問にて 横入りで 失礼しました。ふつうに向かい合ってのお話は これが 初めてになりますね。いつぞやは 誰かさんに マシュマロが二つと言われていましたね。それぢゃ 連想――何を?――してしまいますよね。(すみません)。 ご回答をありがとうございます。 二件 つづけて ぶっきらぼうに対して好意的なご回答内容を受け取って いささか あれっ どうしたんだろうと思ってしまいました。それもそのはづ この質問の前編にて いやというほど わたしは 潤滑油を切らしたと思われる応答をおこなっていたからです。そのせめてもの罪滅ぼしといった軽い気持ちで――それがいけなかったか―― 設問したわけでした。 でも No.1補足欄にて触れた北野誠の辛口批評の事件もあるようですから 哲学の問題になるかも知れません。とりわけ 大きな現実の主題として 取り組まれているかに受け取られるご投稿をいただいたということになったようです。 ふたつの側面に分かれるようですね。先に まづ ★ 《愛想》とは、自然な発露にせよ作為的なものにせよ、自分以外の他人のために行う人間関係を円滑にする所作で、一般的には社交性があると思います。 ☆ という前提を確認することができます。そしてこの前提を踏まえたあとでは ★ 「ぶっきらぼう」の正負の印象はあくまでも受け手の捉え方によって異なるのではないでしょうか。 ☆ というご指摘が 一般的な捉え方になるでしょうか。繰り返すなら 先の前提を踏まえた上では ○ 《ぶっきらぼう=愛想がない》は 必ずしも 《愛想がある・社交的である》より つねに 劣っていると見るまでには到らない。 さて もう一つの主題は つぎの点でしょうか。 ★ わたくしには以前から抱く強烈な囚われ、つまり、深い哲学的な思索や文章論述に対する決定的な負の印象がありました。 ☆ この思索や文章論述が ぶっきらぼうとかかわっているなら いまの質問の むしろ 中心課題であるかも知れません。(最初の側面にかんして いくら ぶっきらぼうと言っても 多少のあいさつくらいは 交わしますから)。 たぶん この場合のぶっきらぼうとは 日常性を超え 生活感からかけ離れた思索を――おそらく ただ論理的にあるいは合理的にのみ―― 繰り広げる文章論述のことなのでしょうか。 しかも そのように見る反面では 別様の 妙に気になるぶっきらぼうも あるかも知れない。つまり ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ しかしながら、「ぶっきらぼう」の場合のほうがしかるべき〔愛想の〕努力が欠如しているにもかかわらず、得てして対話を通り越して熱い議論が展開されるように思います。 何故でしょう。 「愛想がよい」以上に「ぶっきらぼう」の何に人は興味を抱くのでしょうか。 対話が白熱してそう映るのか、それとも「ぶっきらぼうの何か」に反応して、対話が白熱していくのか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 思わぬところから 主題を提示されたかっこうです。 ううーん。どうなんでしょう? これは ほかのみなさんにも 質問趣旨に加えていただいて ご回答を寄せて欲しいところですね。 いま 思うことは ひとつです。あくまで 自分がみづからその主題に向き合って考えたかどうか。自分の思索の歩みにもとづいて 述べているかどうか。ですかねぇ。 ちょっと ボールを相手のコートに打ち返すのが 早過ぎたでしょうか? どういう展開になるかも ちょっと 見当もつかずにて になります。
ぶっきらぼう大好き人間なので、ぶっきらぼうに回答したいと思います。 Q1ま、そうでしょうね。人間は基本的に群れることを好む動物ですから、非社会的人間は少なくとも平均的人間(多数派)には好まれない、つまり負の印象を持たれるでしょう。 Q2 対話や議論の文章にその当人のぶっきらぼうさが表現できるかどうかということでしょうか?この文章だけでは質問者様の意図がよく理解できませんが、当然出来ると思いますよ。それがフィクションだったらなおのことでしょう。ひょっとしてぶっきらぼう人間がそういったダイアローグの文章を起こしたら自然に「愛想の悪い文章」になるのだろうかということでしょうか?そういうこともあるかもしれませんね。ただ、愛想がよい悪いは相手があってのことですから、対話の中身自体がそういった反映をしても、それを文章化するかどうかには無関係でしょう。 文章そのものは社交性は当面関係なく、意味が伝わればそれで一応の役目が済むので、愛想のない文章が一般的には普通のことか(むしろ良質だと言われるはずです)と思います。ちなみに、愛嬌がある、あるいは魅力的だということとは全く次元がちがいます。 Q3 普通そう考えられています。しかし、愛想だけで出来上がった人間も巷には存在しています。文学などで「ぶっきらぼう人間」が弱者としてよく魅力的に描かれることがありますが、そんな場合多数派愛想人間は当然ながら背景的に通俗的に描かれるのが普通です。つまり愛想というものは愛想でしかなく、極端な場合中身のある人間には必要とされないし、むしろ屈辱的なものだと考えることも可能だからです。 Q4 人間の社会性を示す、あるいは保つ仮面だといえるでしょう。群れて生きなければならなかった人間が種として必然的に、必要悪的に持つことになった2次的特性でしょうか。仰るとおり「ぶっきらぼう」は社交性を拒否するものでしょう。
補足
amazo007 さん ご回答をありがとうございます。 たのしく読みました。 そうですか ★ ぶっきらぼう大好き人間 ☆ でいらっしゃいますか。なんらかのお叱りを覚悟していましたので いささか機先を制せられたようにも感じてしまいました。 ★ (α) 仰るとおり「ぶっきらぼう」は社交性を拒否するものでしょう。 ★ (β) ちなみに、〔愛想があることと〕 愛嬌がある、あるいは魅力的だということとは全く次元がちがいます。 ☆ この二点が あたまに残っています。(β)は そこまで考えを伸ばしてみないといけないと感じました。(α)は わたしの場合 社交性に乏しいけれども それを《拒否》してはいないと思ったりという感じです。 わたしの親父は 若い頃 そして結婚後の数年ないし十数年まで 周りの人から 《電報人間》と呼ばれていたそうです。《する・しない / 要る・要らない / 好き・嫌い》など どちらか一方を言ったり答えたりするほか 何も言わなかったそうです。 わたしは 多くの人びとと同じように 親に反抗し 違ったことをしようとして来ましたが どうも このぶっきらぼうについては 似たところがあるようです。 しかも それは とっつきが悪いというだけだとも 長年 思ってきたのですが このところ そうでもない部分があるようだと感じたものですから この質問にあい成りました。《ぶっきらぼう大好き》と言われると 少し拍子抜けのようでもあります。 【Q‐2】は 舌足らずでしたね。文章とは切り離して捉えてよいようですね。 そして (β)の 愛想というよりは 愛嬌やその種の魅力の問題 こちらのほうが 大事なのでしょうね。愛想は たしかに つくるという印象が伴ないますから。 でも ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ Q4 人間の社会性を示す、あるいは保つ仮面だといえるでしょう。 群れて生きなければならなかった人間が種として必然的に、必要悪的に持つことになった2次的特性でしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ というように 愛想も 一般的であり たとえ《仮面》であっても むしろその余裕を持って つくろうことも 社会一般からすれば 間違いではないだろう。また したがって 愛想を ふつうのこととして 受け取り合っていけば ぎゃくに いちいち 愛想を振りまくことも 必要がなくなってくるかも知れない。――このように 受け取りました。 (α)ですが 《拒否》には こだわってしまうのですが。つまり たとえば 愛想を振りまくような仕草に対しては わたしは 軽く会釈して 受け取り 受け容れるというところまでは しているつもりなのです。 別のかたちで 考えるとしますと ○ 社交性とは 話し合いを拒まず むしろ積極的に 互いの考えの異同を 明らかにしていく。その異なる部分を それとして 受け容れる。そうして どこまでも 対話をつづけていく。 ☆ こう考え 振る舞ってきたつもりですので 《拒否》には 違和感を覚えました。――たぶん 全体から察すると 作り愛想 これは拒否するといった意味合いでしょうか。 あとは ★ 文学などで「ぶっきらぼう人間」が弱者としてよく魅力的に描かれることがあります ☆ という点ですが このように特別視されているようだと それは逆に まだ 市民権が 得られていないなというようにも感じられました。 再度見直した結果ですが ★ Q2 対話や議論の文章にその当人のぶっきらぼうさが表現できるかどうかということでしょうか? ☆ これについては けっきょく 次のような疑問を描いていたのだと気づきました。 ○ あいさつや しゃべり方のくせなどではなく 対話や議論の 内容としての 文章をとおして ぶっきらぼうが 見て取れるのだろうか。(ぶっきらぼう人間が 表現しようとして できるかではなくて です)。 ☆ 一気に そこから思ったことは こうです。 ○ ぶっきらぼうと思われるのは 《歯に衣着せぬ表現》ということからなのだろうか。 ☆ です。たとえば 最近 北野誠というタレントが 辛口の批評をおこなって 活動休止となりました。そのような表現のあり方 あるいは 内容として いわゆる真相をどこまで 公表してよいのかなどなどと ぶっきらぼうとは つながっているのでしょうか。とも ふと 思いました。 ありがとうございました。 (お礼欄では 字数が おさまらなくて 補足欄に 述べました。ご了承ください)。 (取りまとめて すっきりした筋にしようと思えば 出来ないこともないとは思いましたが 思いのたどったこのままにて 失礼します)。
お礼
結論:第二階がなかりせば けんかは 仲間うちのむしろ交流であり 交通のひとつのかたちであった。のではないか? どうでしょう? * あるいは イリ歴史知性の中から ヨセ超歴史知性が出たのと 似てはいるが 少し違うアマアガリも見られました。その後 歴史知性が 理性として・理性なる神として 歴史を超越するかたちで あがめられるようになった。のではないか? * 内面において自己崇拝的な《ヨリ》を《復活》させてのように あらたな歴史知性として立った《コギト》知性。これによれば たしかに もはや 人びとの知性は 針ねずみのごとき容貌を現わして来た。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《コギト》について 悪口のみを言っています。偏見です。《はさみ》説を普及させる必要があります。 かくて 世界は 《ヨリ・イリ・ヨセ // コギト》なる知性の入り交じる交通関係網より成るとなるでしょうか。粗削りですので よろしければ たたき台として どうでしょう? 現代には 《純粋な》ヨリは いないでしょうね。イリ歴史知性に 一たんは 目覚めたのに ふたたび どういうわけか ヨリの眠りのほうへ 傾いていく。それが のっぺらぼうなのかも知れません。 まなざしをもっぱら上から注ぐ超越知性のヨセも ふつうのイリ歴史知性が 本籍です。コギトも 同じくです。コギトを イリが使うのと ヨセが使うのとでは 微妙に 違ってくるのではないでしょうか? 二階建て構造は むしろ 逆立ちしていないでしょうか。
補足
mashumaro2 さん もう一度お早うございます。ご回答をありがとうございます。 興味本位から入ります。 ★ キッチンにおいては「全て」を包み込める女性とはいえ、男性同様に譲れない流儀がある、ということでしょうか。 ☆ あぁ これも 或る種の ぶっきらぼう ですね。よかった よかった。と言っても いけませんかね。 なるほど 上手におっしゃる。フーコは はさみであると。(フーコーを改め フ―コ とわたしも します)。例の passcard さんから そういうふうに一度指摘されていたのですが たとえば次のような指摘も あたまに残っていました。 ▲ (今村仁司:構造主義 『現代思想を読む辞典』1988)~~~~~~ ・・・ 構造主義の《構造》概念に関する認識論的諸問題 さらに構造主義が秘かに想定している存在観の諸問題を吟味することが残されている。 構造主義の科学は完了しているのではなく 今後も批判と討議を経て発展すべき未来に開かれた学問である。 構造主義に反対することは 認識論的にみて反動的である。したがって 構造主義の認識上の成果を踏まえつつ 同時に認識論上と存在論上の批判的検討を条件として私たちは前へと一歩進まねばならない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《構造主義が秘かに想定している存在観》 これですね。認識論は はさみでしょうが 思想つまり すでに 生活態度の問題にも 入って来ているようにも感じたのでした。《無主体》説では 困ると思います。ぎゃくに 認識論だけなら・つまり はさみであるなら 道具であるということですから 無主体は 当然ですね。 ○ 鬼に金棒 ☆ この表現は 鬼も金棒も 話し合い主義にとっては まずいですね。戦略・戦術だとか 男性軍・女性陣だとかも そろそろ 代わりの表現を探すべきでしょうね。《大船に乗った気持ち》も どうも古いですね。 さて 前編からのつづきとしましては mashumaro2 さんと《過激性》を競うという誘惑にかられました。 ☆☆ (【Q:けんかをしては 何故 いけないのか】No.78補足欄)~~~~~~ その昔 ひとが死ぬということを知ったとき ひとは その存在の時間的な存在性に・そしてその時間的な存在が互いにいとなむ世界に みづからの意志において 《イリ(入り)》しました。歴史知性の獲得です。 その以前には なにごとにも《ヨリ(寄り・依り・憑り)》する原始心性でした。アニミズム心性でしょうか。 歴史知性を確立していくにつれ 《ヨリ心性》に留まっている場合をどうするかという議論が起き 片や そのまま 《イリ知性》の漸進的な歩みを説く人びとと そして 片や そうではないと言って この歴史知性の潜在なるままの《ヨリ》原始心性を 《ヨセ(寄せ)》るのだと主張する人びとが出て 対立します。 結果は ヨセなる言わば超歴史知性の側に イリ知性の側が 国ゆづりするというかたちで 譲歩し従属することになりました。 途端に それまでの社会は いわば平屋建てであったものが 二階建てに早変わりしました。むろん 二階には スーパー歴史知性なるヨセ派が 住まうということになります。 この二階から 説いて言うには 第一条として ▲ 一に曰く、和(やわらぎ)を以(もち)て貴(たふと)しと為し、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。 ☆ でした。そののちにも 大きく王位を争う六七二年の乱をはじめ 自分たちの雲の上では 波風を立てても よいが 下々では ならぬと言う。その以前には 蘇我氏と物部氏が 仏教受容かどうかで 争ったとき 聖徳太子は 前者の軍に加わり戦っておきながら 上の条文をこしらえた。 ということは 《ヨセ》なる知性は 別格であって 人びとは その知性に対して 波風を立ててはならないと言っている。ことになるのでしょうか? どうでしょうか? ヨセなる超歴史知性:天つ神 イリなる歴史知性: 国つ神 ヨリなる原始心性: うつ(現)しきあをひとくさ(青人草) あるいは ○ 罪には ヨセなる第二階を侵そうとする天つ罪と イリなる第一階で争われる国つ罪とがある。 ☆ という世の中が 出来あがって行きました。とさ。