• ベストアンサー

ぶっきらぼうは いただけませんか?

 【Q‐1】 まっ 罪ではないでしょうが ぶっきらぼうは 負の印象でしょうか?  【Q‐2】 愛想のよいわるいは 対話や議論の文章に 関係しますか?  【Q‐3】 ひとは ぶっきらぼうが その地であるのでしょうか?  それとも 何らかの愛想があることが 地であって その上に 愛想の多い少ないや よい悪いが 図柄となって 実存していますか?  【Q‐4】 《愛想》とは 何でしょう? あるいは 《社交性》とは どういうことでしょうか? つまり 《ぶっきらぼう》には 社交性は ないでしょうか?  自由にご見解を述べて ご回答をお寄せください。  【Q:けんかをしては 何故 いけないのか】には たくさんのご回答を寄せていただき まことにありがとうございます。これは 続編のごとくになりますが よろしくどうぞ。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
noname#96756
noname#96756
回答No.16

bragelonne様、いつもわたくしを諭して下さって本当にありがとうございます。 わたくしとのやりとりが「bragelonne様が何らぶっきらぼうでもなんでもない」ことを証明しているかのようです。 お題:ぶっきらぼうvsのっぺらぼう >わたしの思うに その中味が《未整理・未整頓》であっても 《いま・そこにいる存在》のほうが 哲学や自然科学のとうとい営みよりもやはり《えらい》のです。この大前提に立って と言いますか この大前提じたいが 《わたし》の問題 すなわち それとしての《他人》の問題なのではないかと思っています。さて いかがなものでしょう? はい、おっしゃる通りでして、だからこそ【のっぺらぼうが多数派】なこの時代だからこそ【哲学や自然科学のとうとい営みよりもやはり≪えらい≫のです。】とこだわりをもって信条を貫くという意味の【ぶっきらぼう】なお方が何よりも「貴重で得難い」のだと確信するのです。 それに≪わたし≫を尊重すればするほど、≪わたし以外≫のものが相対的に尊重されなくなるのは自明のことです。 何故あえて両者の優劣をつける「必要」があるのでしょうか。 ちなみに、≪神≫と≪ハサミ≫は同じ視点で語られるものなのでしょうか。 仮に≪ハサミ≫をフーコとするならば、「主体=使用する人」によっていかようにも社会という紙切れを切り刻むことができると思うのです。 で、≪ハサミ≫にも「顔」がついていたら、気持ち悪いし、話しかけられても困ります。 やはり≪ハサミ≫は高品質な無機質なものでないと、でものっぺらぼうと思えばやはり不気味にも思えてきます(笑)。 で、切り刻む紙切れにしても、例えばありきたりの白画用紙でも、幾重にも手間暇かけて製作された温かみやぬくもりのある美濃和紙でも土佐和紙でも、どちらでもよろしいかと思われます。 まさか≪ハサミ≫で≪神≫や≪わたし≫を切り刻むなんてあり得ないと思います。 もちろん、≪ハサミ≫を用いるのが気に入らないから、≪神≫や≪わたし≫には「両手」がありますので、必要であれば紙切れを丁寧に半分に折って、つつ~っと慎重に切る方法もアリかと思うのです。 最近の子供って、不器用といいますか、なかなか「手で切る」といったような昔ながらの手法を知らないケースが多々あるように思われます。 ですから、臨機応変にハサミや手で切るなど使い分けを伝えていきたいなあ、と母親として感じます。 そして、「さて、どうでしょう?」という一つの言葉にわたくしは限りなく「哲学の可能性」を大いに予感させられます。 だって、「科学の合理性」によるならば、どうひっくりかえっても「ハイ、終わり!」に帰結する問題があるはずです。 でも哲学の思索においてはどこまでも延々と続く可能性が秘められているのですから、bragelonne様が「さて、どうでしょう?」を放棄しない限りにおいては、わたくしはこの対話を続けさせていただけるのです。 何て嬉しいことでしょう! これって凄いことです♪ >そして たしかに この全部のボウを なぜか 女性は 持ち合わせている(包みこめる)のかも知れません。 そりゃあそうです。 この一行だけを取り上げてみると、朝から顰蹙ですが、何故か意味深なものを感じずにはいられません。 a様のおっしゃる「芸術哲学」に通じるものがあるかもしれません(汗) >その試行錯誤の道のりを 尊ばない。《あやまちを侵したであろうがあやまたなかったであろうがあとから検索することなどどうでもよい》主義。 所詮≪ハサミ≫はハサミですから。 わたくしがランチに何を食べよう?と問いかけようにもこたえられないように思うのです。 ただし、韓国焼肉のようにお肉をハサミで切るなど異文化においては「エエッ!こんな用途もあるの?」という視点はユニークで面白いものだ、とは思われませんか。 また、フランスで友人と大ゲンカしたことがあります。 たかが直径10cmの缶詰のふたを切るのに台所の棚の最上段奥から「電動缶切り」を出そうと言ったときです。 わたくしは思わず「面倒なこった♪」と言ったところ、「これは便利なの!手で切る方が面倒でしょ?」と言われて「は?バッカじゃなかろかフランス人って♪」と派手にやりあってしまったのです。 キッチンにおいては「全て」を包み込める女性とはいえ、男性同様に譲れない流儀がある、ということでしょうか。 Alors, a tout a l'heure!

bragelonne
質問者

お礼

 結論:第二階がなかりせば けんかは 仲間うちのむしろ交流であり 交通のひとつのかたちであった。のではないか?  どうでしょう?  * あるいは イリ歴史知性の中から ヨセ超歴史知性が出たのと 似てはいるが 少し違うアマアガリも見られました。その後 歴史知性が 理性として・理性なる神として 歴史を超越するかたちで あがめられるようになった。のではないか?   * 内面において自己崇拝的な《ヨリ》を《復活》させてのように あらたな歴史知性として立った《コギト》知性。これによれば たしかに もはや 人びとの知性は 針ねずみのごとき容貌を現わして来た。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《コギト》について 悪口のみを言っています。偏見です。《はさみ》説を普及させる必要があります。  かくて 世界は 《ヨリ・イリ・ヨセ // コギト》なる知性の入り交じる交通関係網より成るとなるでしょうか。粗削りですので よろしければ たたき台として どうでしょう?  現代には 《純粋な》ヨリは いないでしょうね。イリ歴史知性に 一たんは 目覚めたのに ふたたび どういうわけか ヨリの眠りのほうへ 傾いていく。それが のっぺらぼうなのかも知れません。  まなざしをもっぱら上から注ぐ超越知性のヨセも ふつうのイリ歴史知性が 本籍です。コギトも 同じくです。コギトを イリが使うのと ヨセが使うのとでは 微妙に 違ってくるのではないでしょうか?  二階建て構造は むしろ 逆立ちしていないでしょうか。

bragelonne
質問者

補足

 mashumaro2 さん もう一度お早うございます。ご回答をありがとうございます。  興味本位から入ります。  ★ キッチンにおいては「全て」を包み込める女性とはいえ、男性同様に譲れない流儀がある、ということでしょうか。  ☆ あぁ これも 或る種の ぶっきらぼう ですね。よかった よかった。と言っても いけませんかね。  なるほど 上手におっしゃる。フーコは はさみであると。(フーコーを改め フ―コ とわたしも します)。例の passcard さんから そういうふうに一度指摘されていたのですが たとえば次のような指摘も あたまに残っていました。  ▲ (今村仁司:構造主義 『現代思想を読む辞典』1988)~~~~~~  ・・・  構造主義の《構造》概念に関する認識論的諸問題 さらに構造主義が秘かに想定している存在観の諸問題を吟味することが残されている。  構造主義の科学は完了しているのではなく 今後も批判と討議を経て発展すべき未来に開かれた学問である。  構造主義に反対することは 認識論的にみて反動的である。したがって 構造主義の認識上の成果を踏まえつつ 同時に認識論上と存在論上の批判的検討を条件として私たちは前へと一歩進まねばならない。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《構造主義が秘かに想定している存在観》 これですね。認識論は はさみでしょうが 思想つまり すでに 生活態度の問題にも 入って来ているようにも感じたのでした。《無主体》説では 困ると思います。ぎゃくに 認識論だけなら・つまり はさみであるなら 道具であるということですから 無主体は 当然ですね。  ○ 鬼に金棒  ☆ この表現は 鬼も金棒も 話し合い主義にとっては まずいですね。戦略・戦術だとか 男性軍・女性陣だとかも そろそろ 代わりの表現を探すべきでしょうね。《大船に乗った気持ち》も どうも古いですね。  さて 前編からのつづきとしましては mashumaro2 さんと《過激性》を競うという誘惑にかられました。  ☆☆ (【Q:けんかをしては 何故 いけないのか】No.78補足欄)~~~~~~  その昔 ひとが死ぬということを知ったとき ひとは その存在の時間的な存在性に・そしてその時間的な存在が互いにいとなむ世界に みづからの意志において 《イリ(入り)》しました。歴史知性の獲得です。  その以前には なにごとにも《ヨリ(寄り・依り・憑り)》する原始心性でした。アニミズム心性でしょうか。  歴史知性を確立していくにつれ 《ヨリ心性》に留まっている場合をどうするかという議論が起き 片や そのまま 《イリ知性》の漸進的な歩みを説く人びとと そして 片や そうではないと言って この歴史知性の潜在なるままの《ヨリ》原始心性を 《ヨセ(寄せ)》るのだと主張する人びとが出て 対立します。  結果は ヨセなる言わば超歴史知性の側に イリ知性の側が 国ゆづりするというかたちで 譲歩し従属することになりました。  途端に それまでの社会は いわば平屋建てであったものが 二階建てに早変わりしました。むろん 二階には スーパー歴史知性なるヨセ派が 住まうということになります。  この二階から 説いて言うには 第一条として  ▲ 一に曰く、和(やわらぎ)を以(もち)て貴(たふと)しと為し、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。  ☆ でした。そののちにも 大きく王位を争う六七二年の乱をはじめ 自分たちの雲の上では 波風を立てても よいが 下々では ならぬと言う。その以前には 蘇我氏と物部氏が 仏教受容かどうかで 争ったとき 聖徳太子は 前者の軍に加わり戦っておきながら 上の条文をこしらえた。  ということは 《ヨセ》なる知性は 別格であって 人びとは その知性に対して 波風を立ててはならないと言っている。ことになるのでしょうか? どうでしょうか?   ヨセなる超歴史知性:天つ神    イリなる歴史知性: 国つ神   ヨリなる原始心性: うつ(現)しきあをひとくさ(青人草)  あるいは   ○ 罪には ヨセなる第二階を侵そうとする天つ罪と イリなる第一階で争われる国つ罪とがある。  ☆ という世の中が 出来あがって行きました。とさ。

その他の回答 (72)

noname#96756
noname#96756
回答No.53

Bonjour, monsieur! 【この《譲歩》は 自由な主体性 主体の自由を守ったと言えるか】 bragelonne様のideeの最も要となる柱だと思います。 これは以下の憲法による「人権擁護」の論理と酷似しているのでしょうか。   38条1項:何人も、自己に不利益な供述を強要されない。   38条2項:強制、拷問若しくは脅迫による自白又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白は、これを証拠とすることができない。 bragelonne様の以下のご主張、 「わたくしは 言えるという立ち場です。それは 自由な表現行為が 生命と存在を脅かす悪に基づいている・つまり 無効であった場合 その無効としての自由が しかも 現実に実効性を持って 有力となった場合 そうだとしても それは やはり無効だと見ることができると思われるからです。服属の要求という 自由な表現行為は けっきょく 無効であると考えられます。」 に照らし合わせますと、おっしゃるところの  「しかも 新しい憲法のもとの 戦後民主主義社会にあって わたしたちは この《伝統》の自由を謳歌することができていると言うべきでしょうか。」 とのご主張が合致するかのように思えます。 ですが、 「ゆづる側は したがって 無力の 有効としての 自由を保っていると。」 この「ゆづる」という「自由意思?」こそが肝心で、あまり私はスッキリこないのです。 何をもって「ゆづる」と規定するのか、いまいち漠然としております。 たしかに「ゆづる」は理念上は「もったいない」と同様に日本人には比較的許容する土壌があるように私には思えます。 (confer: Il vaut mieux plier que romple.=柳に雪折れなし ) 例えば、先日の記事による「滅私奉公的な企業に対する不正糾弾、排除の試み」の類は「我が身をゆづる」と考えられなくもありません。 ですが、この論理を仮に政変レベルで考えますと、ちょっと現実と理念との乖離が予想される気もするのです。 「服属要求という表現行為に関して それは 自由のもとに成り立った有効であるのか それとも すでに 相手の自由を拘束しようとするゆえ 無効であったか。無効の表現行為に対して 譲歩したということであれば そのゆづる側は なお 自己の屈服という表現行為にも 有効性を保持しており その人びとは 自由であると考えられるか。」 この論理はあくまで自国向けと想定してよろしいのでしょうか。 仮に国内においてコンセンサスがとれたとしても、はたして「日本以外の国々や世界のコモンセンス」からすると、どのように捉えられるのでしょうか、ちょっと気になるところではあります。 ともすると「日本の常識は日本以外の国々では非常識」と映り、どこぞの国が「誤解」して「人工衛星を再打ち上げ」しかねないかもしれません。 「隣人との不仲」は往々にして国家間規模のみならず個人の住居レベルまで存在するようですから、これもある種の命題になり得るのかもしれません。 「売られた喧嘩は~」の永久ループを脱する良い理念ではあるのですが。 ちょっと朝から大真面目に考えてみました。 ですが、わたくしもbragelonne様同様にパソコンを閉じれば「~♪」などこにでもいるごく平凡で能天気な主婦なので、これくらいで丁度良いようにも思えたりもします♪

bragelonne
質問者

補足

 mashumaro2 さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  朝いちばん 来ましたねぇ。  しかも 《ぶっきらぼう》が 世界に飛躍するかになってまいりました。 もうひとつ しかも ことは いわばわたしたちの議論のことの発端にも行き着きました。  ○ 《蚊が刺しただけ》という命題。  ○ 無効は どこまでも 無効である。初めから なかったのである。という命題。  ☆ また 一過性の問題だけではなく   ○ 男尊女卑という《 A ‐S 》差別連関 その他の差別問題  ☆ といった永年の普遍的な課題にも 直結しています。  ○ ゆづった側は その自由が 有効である。  ☆ と考えられます。  しかも この命題かつ問題を 世界という視野に立って 考えていかなければいけない。これに わたしたちは 直面しているようです。  事件じたいは 一過性ですが 可能性の恐怖は 続いている事例として ここで 《1977年9月28日に、日本赤軍が起こしたハイジャック事件》を取り上げたいと思います。それに対処する日本の常識が 通用するかの問題です。  ▲ (ヰキぺ:ダッカ日航機ハイジャック事件) ~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%83%E3%82%AB%E6%97%A5%E8%88%AA%E6%A9%9F%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E4%BA%8B%E4%BB%B6  ● 犯人グループは人質の身代金としてアメリカドルで600万ドル(当時の為替レート〈1USドル≒約266円〉で約16億円)と、日本で服役及び勾留中の、メンバー・日本赤軍に加えようと目をつけた囚人(新左翼活動家や、「獄中闘争」を評価した一般刑事犯)9名の釈放を要求し、これが拒否された場合、または回答が無い場合は人質を順次殺害すると警告した。  ● 日本国政府は議論の末、10月1日に福田赳夫首相(当時)が「人命は地球より重い」と述べて、身代金の支払い及び、超法規的措置としてメンバーなどの引き渡しを決断。  ● この事件における日本の対応は、一部諸外国から「日本はテロまで輸出するのか」などと非難を受けたといわれる。だが、当時は欧米各国においても、テロリストの要求を受け入れて、身柄拘束中のテロリストを釈放することが通常であり(例、PFLP旅客機同時ハイジャック事件、ハーグ事件などを参照) かかる非難や、その非難を理由とした当時の政府に対する現代的視点からの批判は当を得ていない。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということのようですが 記事は その後 西ドイツ(当時)が 対テロ特殊部隊をつくったのを皮切りに 各国でも創成し 事件解決にも役立っているとも伝えています。  ○ 《超法規的措置》の有効性や いかに。  ☆ という主題を 立てることもできるのではないでしょうか。一気に わたしの結論に飛びますが  1. 無効行為をおこなう人間について その存在は われわれは 愛さなければならない。  2. むろん 行為の無効は無効だと どこまでも 言って 批判をつづけていく。  3. すなわち 存在を われわれの存在と同じ程度には とうとぶのであるなら その理不尽な要求に 屈服し ゆづらなければならない。  4. よって 犯行者については 生け捕りが 至上命令となる。  5. これが 《人命は 地球よりも重い》の意味だと考える。  どうでしょう? たたき台になりますでしょうか。

noname#117439
noname#117439
回答No.52

オコリザルです。 埋没している話題ですが眠れないので考えてみました。  しかるがゆえに 味気ないぶっきらぼうだと言われかねないのですが 必要なら言う 必要でないなら言わない という基準があると思うのです。  ★ より柔軟な思考を集めることが出来るなら意味があるでしょう。  ☆ これも そうなのです。もし愛想や愛敬を発揮するというときには  ★ ただし、焦点のぼやけた文章と受け止める人もいるかもしれませんので、そのバランスは考慮する必要があります。  ☆ ということになるかと思うのですが ぶっきらぼうの場合には 必要かどうかで決めますから 《バランス》の問題だとは考えないのではないでしょうか。  ★ 思いやりをこめて文章を膨らますことになるでしょう。  ☆ これに対しても きわめて ぶっきらぼうなのです。必要ないと判断すれば 思いやりも 表現しません。言いかえると 思いやりが必要だと考えるというよりは――という意味は 相手のことについて あれこれ 思いめぐらせて 決めるというよりは―― 自分の意思表示にとって 必要不可欠かどうかを しっかりと 判断する。その結果 思いやりが発揮されればよい。という考えです 愛情を守りの姿勢でなく攻めの姿勢で表現する。 そんななつき方です。 いい人であってもらいたい。とか、世直しの姿勢では意味があります。 bragelonneさんの、「売られたけんか全て買います」の姿勢ではきりが無いですよ。

bragelonne
質問者

補足

 primeape さん ご回答をありがとうございます。  ☆☆ (No.28補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   《親切で必要な装飾》 こういう概念は 成り立つか。こういった問題にもなってまいりました。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この――疑問を呈するかたちでの――締めくくりのほうをも 引用していただくとよかったのではないでしょうか。  まづ はじめから分かっていることは 自己表現は つねに 動態であることです。つねに 次の表現へと進める過程にあります。   ★ 愛情を守りの姿勢でなく攻めの姿勢で表現する。 / そんななつき方です。  ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  相手のことについて あれこれ 思いめぐらせて 決めるというよりは―― 自分の意思表示にとって 必要不可欠かどうかを しっかりと 判断する。その結果 思いやりが発揮されればよい。という考えです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このようですから 初めに 《愛情》だとかそれを《守る》あるいは ここでおっしゃっている《愛情を攻めの姿勢で表現する》ですとかを 頭の中に入れて 自己表現に及ぶのではないゆえ おそらく ぶっきらぼうという性格が 出てくるのではないでしょうか。  でも そうしたほうが――つまり 愛情を攻めの姿勢で表現したほうが―― よいとおっしゃっているのでしょうか?  ★ いい人であってもらいたい。とか、世直しの姿勢では意味があります。  ☆ これは 攻めの姿勢を前提としてでしたら ぶっきらぼうには 当てはまりません。強いて言えば ひとは その自然本性において 存在が 善である(つまり いい人である)とは 想定しています。その上で その善が 実際においても 現われていて欲しいということを 《世直しの姿勢》とおっしゃっているのでしょうか?  でも 実際の実際に その相手の人に対するとき 《いい人であってもらいたい》と思うのは 《姿勢》の問題であるよりは ふつうの思いなのではないでしょうか?  ★ bragelonneさんの、「売られたけんか全て買います」の姿勢ではきりが無いですよ。  ☆ この上での思考内容とのつながりが 分かりにくいのですが この姿勢も ぶっきらぼうとは 微妙に違います。  たぶん 結果として 《売られたけんかを すべて 買った》ことになるのだと思います。人格全体で相い対し 自己表現をするからです。避ける・よけるということは まづ しないのだと思います。  ★ ・・・ではきりが無いですよ。  ☆ という意味は 分かりません。人間の社会的な生に関する限り その互いの交通は 《きりが無い》のと違いますか?

noname#96756
noname#96756
回答No.51

Bonsoir, monsieur. 【 《パレーシア》の問題です。《言うべきことを きちんと言い おこなうべきことを おこなう》】 >「茶の湯こそ 大陸文化を取捨選択して独自の文化を築いた日本人の美意識を証明しているのではないかと この茶碗を見るたびに思う。」 「目利ニテ茶湯モ上手、数寄ノ師匠ヲシテ世ヲ渡ルハ茶湯者ト云、一物モ不持、胸の覚悟一、作分一、手柄一、此三箇篠ノ調タルヲ侘数寄ト云々、唐物所持、目利モ茶湯モ上手、此三箇モ調ヒ、一道ニ志深キハ名人ト云也。」『山上宗二記』 高価で希少だった当時の唐物至上主義に対し、それを持たざる者であれど美を見極める力があれば茶の湯者であるとし、何も持たぬ侘び人であれど数寄の道はある、という日本人としての独自の新たな美意識、価値観を感じさせるテクストです。 後に唐物に対し圧倒的に安価かつ価値なきものとみなされていた我が国の茶陶が爆発的・想像的な発展を遂げていくのは周知の事実です。 そしてこのようなことは、現代日本における哲学思想の分野においてでさえも一考に値することなのでしょうか。 日経記事のご紹介をどうもありがとうございました。 わたくしは…どちらかというと同日付の「春秋」の記事に目がいきました。 両親と渡仏直前に訪れた「フォンテンブロー」は今は無き名店でして、 当時高校生だったわたくしは重厚な雰囲気の中とても緊張した記憶があります。 村上シェフは日本の料理界の中でも伝説的な方で大層努力家でいらしたようです。 彼のように狭い世界に身を置きながらも「筋が通し自己の信条・信念に基づいて行動した」という点においては、どのようにカテゴライズできますでしょうか。 不正を正すようなふるまいこそが「理想とされる知性」なのでしょうか。 【要するに わが国では お上(アマテラス)の権威が強い】 >ところが 西欧では そもそも 個人から 出発する。そのとき ひとは あたかも《 A = S 》対等かつ連結の構造から成っているのではないか。 ={アマテラス圏(個人は《A=S》)‐スサノヲ圏(個人は《A=S》)}のごとくの連関構造なのでしょうか。 哲学思想系のド素人の戯言で恐縮ですが、我が国は「お上の権威が強い」=「元来の個人の概念が希薄」なのではないか、と思います。 「政権システム自体を根底から覆す革命=revolution」「王政復古=restauration」を経て「現在の共和制=Cinquieme Republique」に至る壮大な歴史観を抱く国民と日本国民の抱くそれとでは、大きな隔たりがあるように思えてならないのです。 更に外交交渉から個人間のディベートまで「駆け引きに長けて洗練されている」ように思えるのは、やはりかの国の地理的歴史的経緯が否めないと感じます。 ロシアや北朝鮮のしたたかな外交術にしても、かつて他国の後塵を拝した、或いは、他国から蹂躙された苦い経験が現在の狡猾な権謀術数と化しているように映ります。 また、「revolution」を他国に先駆けて経験したが故に、後の各国の政変に絡む亡命貴族、政治犯を一定下で許容してきた懐の深さなどを鑑みても、フランスの哲学思想界において斬新かつ急進的なアイデアが育まれてきたのは決して偶然ではないことのようにすら思えるのです。 翻って、わが国はどうでしょうか。 「敗戦」を経験した以外に、たとえば隣国大韓民国のような他国から蹂躙されてきたような屈辱的な尋常でない歴史観があったでしょうか。 数年前に夫の出張に同行した際、FTAの交渉の閉塞感のためにホテル前にデモを行っていたのには大層驚かされましたが、後に焼身自殺者まで出たのには唖然としました。 つい数十年前まではかの国は軍事的戒厳令体制を夜間に強いていたのを思い出します。 ですが、海外からみてやはり日本の歴史性と現状の意識こそが「異質」なのでしょうか。 先の「天目茶椀」の「irregulier」「inparfait」も、20年周期で「朽ちる自然観の前にひれ伏す人間観」とも言える伊勢神宮の式年遷宮と通じるものがあるように思えてなりません。 このあたり、bragelonne様のおっしゃる「アマテラス」「スサノオ」のアイデアの源とリンクするところがありますでしょうか。 特段「日本人にとって最適な哲学、思想とは」と究めていくアプローチもアリでしょうし、逆に、個別に井戸端のおしゃべりから少しでも集約的な形を見出すのもこれまたアリかもしれません。 なかでもbragelonne様のアイデアは物語的かつユニークなものだとわたくしは思います。 ご教授くださった各質問をじっくりと拝見させていただいております。 どれも奥が深く、考えさせられることばかりです。 ちなみに、「アマテラス」「スサノオ」の「国譲り」の件は思弁上の形かと思いますが、その後の「オオクニヌシ」との対決や「壬申の乱」に至るrebellionの類は、先に口すべった「効率性」と同様にナンセンスな歴史的語彙なのでしょうか。

bragelonne
質問者

補足

 Bonsoir, madame.  伝えられるところによりますと その昔 オホクニヌシは その祖であるスサノヲの築いたイヅモ(スガの宮)の国を 植林に励み 医薬(薬草)の開発に精を出して 人びとと共に営んでいたところ アマテラス国から 使者を受け 服属せよと要求されるに至りました。  何度も来ました。数年 数十年にわたって 使者も入れ替わり立ち変わり 来ました。その要求を受け容れたのは 二人の息子に相談し 何でも 腕相撲をして決めたとかでした。むろん 海の沖合いでは 剣を突き立てていて それを背景にして 談判に及んでいるという情況もありました。  使者とのやり取りは省略します。主戦論も非戦論(和解従属論)も いづれも人間の弱さから発していると考えられ 要するに オホクニヌシは みづからの国を譲りました。果たして ここから どのような社会形成の理論が 得られているでしょうか。  この国譲りのあと 隷属とも言えるような踊りを踊っても見せたのですが この《譲歩》は 自由な主体性 主体の自由を守ったと言えるか これも 問題点です。  わたくしは 言えるという立ち場です。それは 自由な表現行為が 生命と存在を脅かす悪に基づいている・つまり 無効であった場合 その無効としての自由が しかも 現実に実効性を持って 有力となった場合 そうだとしても それは やはり無効だと見ることができると思われるからです。服属の要求という 自由な表現行為は けっきょく 無効であると考えられます。  韓国併合は 自由な表現行為として 有効でしょうか。相手も すべて 自由のもとに 交渉した結果 成り立ったというべきでしょうか。現在の世界観としては 無効だと考えられます。  ゆづる側は したがって 無力の 有効としての 自由を保っていると。   *  ところが さらにその昔 オホクニヌシの先祖であるスサノヲは 自らの役割として課された海原の統治を嫌がり 泣きどおしであったと言います。いっさいその役割を分担せず おまけに 田んぼの溝を埋めるわ 畔を開け放つわで 統治者アマテラス(かれの姉ですが)に対して 嫌がらせばかりをしていたと言います。  アマテラスが ついに 天の岩屋戸へ雲隠れをするに到ったり あるいは この姉と弟は その前には 互いに心の清きを争って 賭けをも したりしたと言いますが 要は スサノヲの悪行が極まって かれは 爪を剥がされたりしながら 追放されたという経過が 過去にありました。アマテラスの国を追いやられたスサノヲは イヅモに来て 自らの場を得るということになり やがてオホクニヌシの歴史に受け継がれたわけですが そういう過去のいきさつが 問題になって 尾を引いていたようです。    問題は スサノヲに任された海原の統治というのは 結局 死者の祭祀を司るということだと考えられます。スサノヲは――いま 推論が貧弱ですが―― これを嫌って 泣いてばかりいたというのは 宗教の自由を主張したものと考えられます。言いかえると 良心・信教の自由を唱え 唱えつづけたと言えるかも知れません。髭が 胸先に伸びるまで 泣いていたと言います。  イヅモの国では この心の問題は 自由に 人びとの生きるに任されたと いささか甘く 見ておきます。そうして オホクニヌシの服属以後 この思想・表現の自由も 今度はすべて 主宰者である姉のアマテラスのもとに 管理されるようになったという歴史であり現実です。  このとき 問題は ひとことで 日本人は 自由であるか。人間の自由を持つか。持っていたか。  服属要求という表現行為に関して それは 自由のもとに成り立った有効であるのか それとも すでに 相手の自由を拘束しようとするゆえ 無効であったか。無効の表現行為に対して 譲歩したということであれば そのゆづる側は なお 自己の屈服という表現行為にも 有効性を保持しており その人びとは 自由であると考えられるか。  こういう課題にいきつくと思うのです。  この自由論は 日本社会論そのものになるのではないでしょうか。おそらく 自由についての認識論だけによっては わたしたち日本人は 満足しないと思われます。  しかも 新しい憲法のもとの 戦後民主主義社会にあって わたしたちは この《伝統》の自由を謳歌することができていると言うべきでしょうか。  * 壬申の乱は すでに 国家が出来上がったあとで 民主派(天武天皇)か保守派(天智天皇=大友皇子)かの争いだと思われます。でも 民主派(スサノヲ派)の色彩を保っていたとすれば 市民の自由も 死んでいなかったと思われます。  * かえって 脚色したもので たたき台としたほうがよいと思いました。

回答No.50

おはようございます、大佐殿。清々しい朝に爽やかな風をお届けするぽこぺろぽであります。迂回生産を認めていただきありがとうございます。大佐のような上級者はヘッポコには手心を加える義務があります。さもなければ私は神経衰弱に冒され、フルボッコの憂き目に会います。主題から逸れっぱなしにならないよう配慮します。  大佐の呼称ですが、お気に召さなければ別の呼び方をご教示ください。皆がドタバタ茶番劇に出演したくて、大佐を悪役に見立てて楽しんでいるのでしょう。「大佐」とは好戦的で波風を立てる者です。小泉ポピュリズムとも異なります。なぜか革命軍のリーダーは大佐の呼称を好みます。大佐が革命思想をお持ちでないのは承知しておりますが、皆からするとそのご考察は、眉に唾するほどの危険思想に映るのです。ちなみに『百年の孤独』のブエンディア大佐は堂々めぐり、戦闘の長期化を指します。普段のあなたは「大佐」とは似ても似つかないのでしょうね。  実は私も受洗前から大佐と同じ指摘を受けました。なぜか指摘する者は判で押したように、人格に大きな問題が見当たらないのです。本来は徳の高い者ほどけんかを奨励し、その普及とルールの整備に努めるべきです。なぜなら徳の高い者は、引き際を見極める思慮深さも持ち合わせるはずだからです。  私は野球の次にアイスホッケーが好きなのですが、ホッケーはボディーチェックを必要とするため乱闘が絶えません。たいてい当事者以外は遠巻きに眺め、殴り疲れたところで分かちに入ります。どのみち当事者は5分間の退場を課されるので、互いの噴怒の発露を黙認するのです。つまりルールで裁かれる以上はけんかは許されているのです。逆説的にはけんかをしない者は、けんかを交流とするからには、ぶっきらぼうといえるかもしれません。確かに一神教は好戦的ですが、けんかが嫌いな者が判で押したように、一神教よりも教条的なことは不思議です。  嫉妬につきましては、宙さんと同じようなご見解をお持ちでも、それぞれ違う切り口で展開されますので、お答えいただけるとありがたいです。

bragelonne
質問者

補足

 pokoperopo さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ▲ (日本俗語辞書:フルボッコ)~~~~~~~~~~~~~~~   http://zokugo-dict.com/28hu/hurubokko.htm    フルボッコとは、徹底的に殴りつける様を表す言葉。  【年代】 2007年  【種類】 若者言葉  フルパワーでボッコボコ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  さて  ★ 皆がドタバタ茶番劇に出演したくて、大佐を悪役に見立てて楽しんでいるのでしょう。  ☆ こういった情況のようです。  ★ 「大佐」とは好戦的で波風を立てる者です。  ☆ ほぼ 当たっています。  ★ 小泉ポピュリズムとも異なります。  ☆ まぁ たしかに位置がちがいますから。  ★ なぜか革命軍のリーダーは大佐の呼称を好みます。大佐が革命思想をお持ちでないのは承知しておりますが、皆からするとそのご考察は、眉に唾するほどの危険思想に映るのです。  ☆ 《眉に唾》しなくなったのが 直近の情況です。《おまえの言うことも 妥当だが 別の考えもある。そのことを認めたまえ》という調子です。  ★ ちなみに『百年の孤独』のブエンディア大佐は堂々めぐり、戦闘の長期化を指します。  ☆ 或る程度の長期化は わたしの場合にも ありますね。同じ説明を二三度繰り返すはめになったとき 見放します。  ★ 普段のあなたは「大佐」とは似ても似つかないのでしょうね。  ☆ 人前に立つのが こわかった段階を たぶん 卒業していると思いますが 立つようになった経験が乏しいので なんとも分かりません。でも すべての人が 《指導者》であるという情況になっていくと考えます。《首相当番制》ですね。  それにしても 《大臣》は 今や ないでしょう。《部長》だとか《委員》でじゅうぶんです。  ★ なぜか指摘する者は判で押したように、人格に大きな問題が見当たらないのです。  ☆ 《フーコのハサミ》という道具のうち 法律を決めたりその解釈や運営 あるいは 自然科学の知解作業の分野では 《善良なる市民》は 勤勉です。社会全体にかんする問題については 一人ひとりの存在が ハサミやメスを使って切り込むことは しませんね。ご法度のようです。つまり みづから 自分の手足を縛っているみたいです。  ★ アイスホッケーは ボディーチェックを必要とするため乱闘が絶えません。  ☆ これも ちっとも知りませんでした。そうですか。ま スポーツは 多少とも けんかの要素が――けんかに代わるものとして――あるのでしょう。  ★ 本来は徳の高い者ほどけんかを奨励し、その普及とルールの整備に努めるべきです。なぜなら徳の高い者は、引き際を見極める思慮深さも持ち合わせるはずだからです。  ☆ タイの国王みたいですね!!??   二階建てかどうかで また 違ってくるように思います。

  • noname002
  • ベストアンサー率36% (97/264)
回答No.49

>この名無しの姫は わたしには いやな絡みが この質疑応答であったものですから なんとも わたしには かかわりがないのです。 まず申し上げておきます。 「いやな絡み」というのは、もとは、そちらが発端ではありませんでしたかね? ご自分の側から、心得違い勘違いによる無礼極まる発言を浴びせかけておいて、それを棚上げしたまま、とうとう一言の謝罪もなく、よくも延々と、こちらをご自分の質問スレのネタに利用なさることなさること!! ご自身の質問スレで、ご自身「かかわりがない」はずの他人の噂を頻りにせずにいられないとしたら、なぜですか??? やはり「井戸端会議」なればこそなのでしょうか?(笑)そのへんのオバチャン連中顔負けで、ここまでくると男性には珍しいようにすら思います。このスレのなかをザッとみても明らかですね、噂話に うち興じておられるのは、ほぼ男性がた(笑) それにしても、ひとたび目をつけた特定の人物からは、どうあっても関心をそらすことができない御気性と見受けました。 私としても、そちらさま以上に、二度と関わりを持ちたくはないものと、かねて決心しておりましたが、例の「学者野郎」氏との経緯もあって、しぶしぶ見ておりましたらば、あまりにも頻繁に噂のタネにされている。不在裁判のごとき不愉快さで、ついに、無理をして出てまいりました。 ですから、なるたけ、この一度限りで失礼させていただきたいということは今のうち あらかじめ おことわり申し上げておきます。そちらさまには、ご不興かもしれませんでしょうけども悪しからず。 そして、今後、私のことをアレコレと論評することを控えていただくべく再び申し上げておきます。このあとの御姿勢如何では、管理局への連絡も考えます。 さて、他のかたへの御返事なのですから、遠慮するべきかとも思いますが、敢えて とりあげさせていただきます。 >わたしも多少は ついて行ってみようとしましたが だめでした。無理です。なぜですかねぇ? なぜですかねぇ?ついて行ってみようとされたのは?? ま、いいんじゃないでしょうか、そんな必要があるとも思えませんし。 >比喩でやり取りするにしても 噛み合っているかどうか  そりゃあ そうでしょう、噛み合わない比喩など、どうにもなるものですか、と思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ○○姫みたいな名前の方は、そこに、自分の像が理不尽に描写されたと受け取った。  そして、与えられた像と自己の不一致にもがき、鳥や胃袋の像を修正します。修正した像への攻撃開始となります。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ これは、その「姫」なる人が、「鳥」や「胃袋」像へ向けて攻撃した、と言うのですか? で、その攻撃は間違っていると仰るのでしょうか?  >☆その現実性は おそらく 対処の仕方をまちがっています。このやり取りにおいては A も A´も A″もないのだと考えます。行先を決めていない電車だからです。○○姫は あそびで電車ごっことして 《修正》するのなら いいのですが ほんとうに その電車に乗って 運転手や車掌やを きっちり 決めようとさえ しているかに見えます。もうこうなると わたしは ついて行けません。姫は 参加した初めから まじめに 対話をしようとする姿勢だったようですが。 そちらさまが「ついて行けません」などと、なぜ仰る必要性があるのか分かりかねますけど、とにかく、この事に関して全く事情をご存じないはず。 かつて やり込められた逆恨みを抱いてきた気に食わない者が間違っていることとしたいのは、それも自然な感情ではあるのでしょう、しかし、現実の当事者としてハッキリ申し上げておきますよ。 まず、あの場においては、基本的には目指すべき方向性というものが、しっかり設定されておりました。 どっち向こうが、どっちつかずであろうが、延々と空疎なグルグルまわりを続けるだけでも良しという場としては決して設けられておりません。そういう場は他に設けられていました。いくらなんでも限度というものもあります。或いは新参者が知らされないでいる特殊な目的のあることを、すでに始めていたのかもしれない、しかし、それについて全く何も知らされていないのだから、関わる必要性があるとする者どうしのあいだの話です。 しかも、「姫」なる者が、他の者らから、ある種の強圧的な力をもって押し付けられていた或いは要求されていたところの役割姿が、「空疎なグルグルまわり」もしくは「ヨッパライの ぐだぐだ話」に対して、どうやら大いに関与しているらしい、だが、このことを明らかには指摘しがたいという新参ゆえのハンデも加わって、そうとうの苦労があったわけです。 「姫」なる側の抵抗を「攻撃」などと呼ばわるならば、当然、圧力をかけてきた側は、せめて先行攻撃としなければ、いかにも浮かばれません。 なにも「運転手や車掌やを きっちり 決めようと」などは しておりませんよ。そこまでの采配をふるえる立場でなし、その気もありません。ただ、このままでズルズルズルズル行ってばかりでもしょうがなかろうということは言うべきかと思っていました。全く無視されていたわけですけど。 そういうことでいいのだということであれば、最初に聞かされていた話の内容とは甚だ大きく乖離しますので、こちらも戸惑います、それならそうと簡潔でいいから説明らしきものがあってもいいのではないか、こういうことです。なにしろ最初に聞かされていた内容というのは、その場を設立なさったかたの立派な お志に満ちたもので、大事なことであると聞いていたからです。私自身、その趣旨に深く共感していました。 要は >「明言された表現をめぐって また それのみを問題として やり取りをしていけばよい」 そして「固定」の要求、こういったことで苦労したわけなんですよ。 「統合」「認識」などといっても、そのありかたは各人によって、なかなか違うもののようですしね。 >「主観と照らし合わせて 間違っていたら 《違う》と はっきり言えばいいのだ」 この点は同様の考えですよ。シンプルに行けばいいじゃないかと思っています。ただ >「明言しなければ 放っておけばよいという考え方」これは、 「名言」しない、放っておく。「名言」しない、放っておかない。 「名言」する、放っておく。「名言」する、放っておかない。 一本だけで通るわけでもないようです。 最後に一応、御質問本文のことを。もし、つけたしみたいで失礼じゃないかとでも お感じになるようでしたら(お察しでしょうが実のところ目的は前半部にありますので)完無視で けっこうです。そもそも、あまり突き詰めて考えたことがないテーマなので。他のかたとカブっているかもしれません。 【Q1】ぶっきらぼうは 負の印象でしょうか? 表現や、その あらわれかたにもよると思います。 と言うよりも「ぶっきらぼう」とは、こうこうであるといえる標準モデルみたいのがあるのかどうか知りませんし。 【Q2】愛想のよいわるいは 対話や議論の文章に 関係しますか? 殆どの場合、関係するように思われますが、それにしたところで表現とか、その「愛想」の持ち主のキャラ如何が、実際には大きく影響を及ぼすように感じます。 【Q3】ひとは ぶっきらぼうが その地であるのでしょうか?  それとも 何らかの愛想があることが 地であって その上に 愛想の多い少ないや よい悪いが 図柄となって 実存していますか? 「ぶっきらぼう」の定義みたいなものがキッチリあるのかどうか私は存じませんし、「地」であるのならば、むしろ、その本人は「ぶっきらぼう」にしようとか「愛想がある」ようにとか、いちいち意識しないでいるでしょう。ただ、自分が「ぶっきらぼう」にしてやりたいとか「愛想」のあるところをみせたければ そうするだけ。 意識しなければならない状況にあたって、「多い少ない」「良い悪い」「図柄」?などというようなことの配慮が のぼってくるのが実際のように思います。 【Q4】《愛想》とは 何でしょう? あるいは 《社交性》とは どういうことでしょうか? つまり 《ぶっきらぼう》には 社交性は ないでしょうか? 「愛想」とは、まあ大雑把ですが、その分、円滑にいくか、スムーズにいかせたいから「愛想良く」というくらいのことだと思っています。べつだんの思惑もなくて、単に人を見たら反射的に愛想良くせずにいられない性分もあるようです。 「社交性」って、友人知己が多いとか人あしらいや人付き合いが うまいとか発展家とか?このていどにしか考えたことはないので。。。 「ぶっきらぼう」の定義や標準モデルとでもいうものがあるのならともかく、「ぶっきらぼう」でも、なんとはなしに人好きがする雰囲気の人もいるだろうし、付き合いが うまいとかマメだとか。要は「ぶっきらぼう」だからイコールで「社交性」を大きく左右するとまでは思いません。 むしろ「媚」とか「取り入り」と言ったほうがいいのか「愛想」の良過ぎだとか不自然な「愛想」だと不審に感じて嫌がられたりすることも けっこうあるようには思います。 以上でございます。 

bragelonne
質問者

お礼

 ◆ (【Q:輪廻と業によれば 被害もすべて自業自得ですか】No.66)  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3965802.html   ★★ (種類:回答; どんな人:一般人; 自信:自信あり )~~~  リクツにすらなっていない。  他者の時間を食らい尽くさずにおかない飢餓。  餓鬼の言う「人間以前」とは、笑止千万!  自分の無明に付き合ってもらいたいがためには人を侮辱することも厭わない。それを「技術」の一種とカン違いしている誰かさんと同じレベル。  リクツも哲学も信仰も、あなたには永久に無縁でしょう。  ☆☆ (この回答へのお礼 )~~~~~~~~~~~~~~~~~  ★ 誰かさんと同じレベル  ☆ この箇所を取り除くと 自己診断になるはづです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    ★★ 他者の時間を食らい尽く  ☆ そうとは思いませんので 控えましょう。  なお amaguappa さんとわたしが触れた文章は すべて 公開のものです。

bragelonne
質問者

補足

 noname002 さん 対話に応じましょう。(09.05.01)  ★ 「いやな絡み」というのは、もとは、そちらが発端ではありませんでしたかね?  ☆ 《発端》であることはあり得ません。わたしの質問に そちらが投稿してきたからには わたしから――つまり 初対面から―― いちゃもんをつけることなどあり得ません。ただし――と言っても これは あなたの場合ではありませんが―― 最初から フルボッコで 批判することはあります。  ★ ご自身の質問スレで、ご自身「かかわりがない」はずの他人の噂を頻りにせずにいられないとしたら、なぜですか???  ☆ 悪いが 気にしたこともなければ 噂をしたつもりもない。ふつうに応じているのみ。  ★ それにしても、ひとたび目をつけた特定の人物からは、どうあっても関心をそらすことができない御気性と見受けました。  ☆ この質疑応答の場で 特定の人物として見ることになったのは 一人しかいません。あなたではありません。  ★ かつて やり込められた逆恨みを抱いてきた気に食わない者が間違っていることとしたいのは、それも自然な感情ではあるのでしょう、  ☆ めざめなさい。独り相撲になっているが まじめに発言していますよと言ったのみ。ひょっとして 逆恨みというのは あなたが わたしに持っているの? ぜんぶ 吐き出してみて。そのための対話です。受けとめてあげましょう。  ★ それならそうと簡潔でいいから説明らしきものがあってもいいのではないか、こういうことです。  ☆ このうったえは 通るでしょう。  ○ ぶっきらぼう  ☆ とは すべてを ただちに 解決するという心意気です。できないと分かれば ほうっておくという気性です。

noname#96295
noname#96295
回答No.48

なるほど神代に《ヨリ》《イリ》《ヨセ》の年代記ありということですね。面白いですね。 前回の続きですが、たぶん、言ってみれば心の中の《ヨセ》と《ヨリ》の絡み合った 状態を見つめることになるのかもしれません。 10 の表現は過激になっていますが、愛想とは装飾品売り場での批判であるともいえますね。むしろ批評かな。 肖像画家は批評眼がなくては肖像画を描けないということを思います。 11 についてですが、少し厄介な視点です。  A ----- A'   \    \     B'----- B AさんとBさんが向き合うとき、Aさんに映ったB'像、Bさんに映ったA'像と四つ組になります。 AさんがBさんを批判するということは、B'像がBさんを苦しめることです。 B'像とは、部分を寄せ集めてAさんが主観的に構成した像で、Aさんは必要に応じて修正します。 Bさんの意見は、たかが意見でも、人格を成す一部分ということになりそうですから、 B'像を修正していくことでしか、Aさんの批判の収拾はつかないのではないかと思います。 売れる肖像画がかならず行っているごとく、 A'像やB'像を、何かの都合に合わせて良い感じに捻じ曲げる、というのが愛想ではないでしょうか。 わたしの言うぶっきらぼうは、相手の像を統合しないというふるまいです。 ま、向き合っていないといえば一言で片付きかねないのですが 相手をを固定的に見ているのではないという態度にはなるのです。 あるいは、パーツを集め切るまでは「全体像」を組み立てない、という慎重さを表すことにもなるのです。 縄をかけてあげたほうがいい場合もあると思うのは、 言葉より人物を見る信頼の過程で、必要になることがあるからでしょう。 たしかに、bragelonneさんの態度のように、言葉の熟成がすすみすぎる人は放っておいてもよいかもしれません。 ただ、どうせ四つ組になるのなら、よい連関であったほうがこちらも楽ではあります。 AがぶっきらぼうにB'を棚上げすると、同時に、A'像を誘導することもできなくなります。 言わずもがなですが、重要なのは子どもや成長途中の人で、 自己像を作る段階にあるわけですから、良い部分を照らして主観的な構成をすることが、 やはり、彼ら自身の、像と自己の関係を楽なものにします。 そうして、大人は大人の像を誘導する必要があるはずなのです。とわたしは思うのです。 ひとつ上にかかった質問はご覧になっていない? リンク先に面白い茶番をみます。日本語の論理と、けんかと、上記の像の話が、具現されていました。 白雪姫みたいな名前の方が、未来の記憶について、松岡正剛の稲垣足穂考を提示しました。 絶滅危惧種の鳥みたいな名前の方が、その足穂考からもっとも肝心な一節を正確に抜き出しました。ベルグソンに拮抗する和歌です。 胃袋みたいな名前の方が、見事な和歌解釈を披露しました。雅びの暗号である掛け言葉を解き明かし、読み手の心情表現を解釈し、 さらに駄洒落を混じえ、現代に置き換えると「うざ」い歌だというような感想を述べました。 白雪姫みたいな名前の方は、そこに、自分の像が理不尽に描写されたと受け取った。 そして、与えられた像と自己の不一致にもがき、鳥や胃袋の像を修正します。修正した像への攻撃開始となります。 これで愛想のあった人間関係がめちゃめちゃになるという茶番です。 まあわたしの目から見ればです。 上記の経緯では、情報を取得するよりも先に調子を合わせることによって、つねにぼやけた焦点を招くというケースに、 病的なもの以上に習慣的なものをみとめますね。何か教育が適正でなかったという感じですね。 bragelonneさんは病を社会的にとらえておられ、公私を包括した連帯責任と見ておいででしょう。 さらに言うと、画一でない教育や治療、一人一人に応じた支援によって、 社会への参入をスムーズなものとするまでが、病にしろ病でないにしろ必要な視点なのだと思いますよ。 若干話がそれましたが、茶番見物から学ぶところでは、 愛想とぶっきらぼうは、独善のもとではたいした境目がない、と言えるように思いました。 隣人への愛に基づいた場合にも、たぶんたいした境目はないのでしょうね。残念ながらあまり経験する機会はないですが。

bragelonne
質問者

補足

 amaguappa さん ご回答をありがとうございます。  ★ 茶番  ☆ わたしも多少は ついて行ってみようとしましたが だめでした。無理です。なぜですかねぇ?  比喩でやり取りするにしても 噛み合っているかどうか これが いちばん大事です。あるいは その電車は どこへ向かっているのか。多少は 互いに 噛み合わせないと 無理です。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  白雪姫みたいな名前の方は、そこに、自分の像が理不尽に描写されたと受け取った。  そして、与えられた像と自己の不一致にもがき、鳥や胃袋の像を修正します。修正した像への攻撃開始となります。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この部分だけですね。現実性があるのは。しかも その現実性は おそらく 対処の仕方をまちがっています。このやり取りにおいては A も A´も A″もないのだと考えます。行先を決めていない電車だからです。白雪姫は あそびで電車ごっことして 《修正》するのなら いいのですが ほんとうに その電車に乗って 運転手や車掌やを きっちり 決めようとさえ しているかに見えます。  もうこうなると わたしは ついて行けません。姫は 参加した初めから まじめに 対話をしようとする姿勢だったようですが。  それに この名無しの姫は わたしには いやな絡みが この質疑応答であったものですから なんとも わたしには かかわりがないのです。  わたしの考えですが A´ だとか B´ だとかの像を持ち出すとき つねに 主観と照らし合わせて 間違っていたら 《違う》と はっきり言えばいいのだと思います。あるいは 逆に AとA’といったように描像を二つ 提示するところから 行き違いが生じるように考えます。  人格といえば 存在の全体ですが つまり そのことに間違いありませんが けっきょくは 言葉による表現に 基本的には 帰着すると考えるのです。明言しなければ 放っておけばよいという考え方です。  明言された表現をめぐって また それのみを問題として やり取りをしていけばよいと考えます。  ★ 自己像・全体像  ☆ を 持ち出さないという意味です。そういう概念を打っちゃってしまうという意味です。像は つねに 動態である。表現の過程そのものである。という思想です。  ★ A'像やB'像を、何かの都合に合わせて良い感じに捻じ曲げる、というのが愛想ではないでしょうか。  ★ わたしの言うぶっきらぼうは、相手の像を統合しないというふるまいです。  ☆ この二つの《像》の扱いについて 極端になりますが すべて 同じ主観というものだと捉えます。主観の認識のあり方や意図などが 違うということでしょうが それでも 表現に及べば もはや その外化された言葉を 扱っていけばよいという考え方です。  ★ 病い  ☆ というのも 一時期あるいは多少長いあいだ 休んでいる。というただそれだけの認識でよいのではないでしょうか?その人は その人である。あとは 表現をのみ問題とする。つまり 文体ですね。  文体は 公私を もともと 包括しています。したがって もはや この世界は 文体とその社会的な連関および錯綜が繰り広げられるのみである。錯綜は 時間過程の行き違いによって未解決となっているもろもろの意志行為の複合というコンプレックスです。  錯綜についても いくつかの像を描き持ち出して分析するというよりは なおも なおも 言葉による表現を 繰り出していく。さらにさらに 対話である。という方針で よいのではないでしょうか?  ここへ来て やっと少し ぶっきらぼうのあり方を捉え得たかに思います。勢いで書いてしまいましたが そのままを 提出いたします。  ★ 相手を固定的に見ているのではないという態度にはなるのです。  ☆ とはお書きになっておられました。くしゅん。

回答No.47

ご無沙汰をしておりました。とりあえずぽこぺろぽです。まず私がブラジュロンヌさんを、なぜ大佐と呼ぶかをご説明しましょう。  あなたの識見が大佐級だからではありません。私の抱くイメージが大佐だからでもありません。他の回答者のあなたを見る目は「大佐」へのそれを想起させるからです。この「大佐」とはリビアのカダフィ大佐、あるいは『百年の孤独』の「大佐」です。自由主義社会に住む者の、軍事クーデターの指導者に対する見方です。ファシズム云々を口にするのも、このイメージをあなたに投影しているからでしょう。金正日将軍とも少し違いますね。  これを踏まえたうえで以下に回答します。 1:そういうわけでぶっきらぼうは負の印象です。彼に自己の主体が否定されたと錯覚するからです。 2:ほとんど関係しません。ぶっきらぼうは態度に滲み出る印象です。意識すれば文章には現れにくいです。 3:ぶっきらぼうは地とは言い難いです。主観において他者に対する没交渉の消極的意志表示です。対象を主体的に受容すればおのずから愛想は良くなります。 4:まだわかりません。この点についてけんかを申し入れます。大佐どの。  ハンデとしてこれまでどおり勝手に迂回生産を認めていただきます。  話は変わりますが、先のご質問の中で例示されたレストランの話を無視したのは、この一年ほど前に全く同じことを犯した気恥ずかしさによるものです。一人で深夜に立ち寄った支那料理屋で青椒肉絲とビールを注文して、タバコを買おうとした時に財布を覗くと、3万円余り入っていた財布に一枚の札もないのに気づき、慌てて駐車場の愛車の中を確認しに戻りました。念入りに探しても見当たりません。恥ずかしくて持ち合わせがないとも言えずに、そのままブッチこきました。運転なのにビールを注文したことは不問に付していただきたいものです。  真相は急に入り用になった家族が拝借しただけですが、人間は焦るとトンデモナイことをするものです。えっ、私だけ?失礼しました。これは支那料理屋からするとぶっきらぼうでは済まされませんね。続きをお願いします。

bragelonne
質問者

補足

 pokoperopo さん ご回答をありがとうございます。  ちなみに 【Q:嫉妬・・・】につきましては 宙ぶらりんさんが 自然な感情であると答えておられたので 重なりますので 遠慮しました。  ▲ (日本俗語辞書:ブッチ・ぶっちする)~~~~~~~~~~~~~  http://zokugo-dict.com/28hu/bucchi.htm  ○ ブッチとは、授業など出席しないといけないものを理由もなく意図的に休むこと。  【年代】 1987年  【種類】 若者言葉  ○ ブッチ・ぶっちするの解説  ブッチとは授業や部活、アルバイトなど出ないといけないものを風邪など正当な理由がないにも関わらず意図的に休むことで、『ぶっちぎる』の略である。  またここから転じ、「約束をやぶる」「無視する」更に「電話に出ない=電話を無視する」~「一方的に電話を切る」という意味でも使われるようになる。・・・  余談だがブッチは漢字で『仏智』と書き「仏の円満な智慧」という意味の言葉もある。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ いやぁ 知らなんだったら 知らなんだ。プッツンぢゃなかったんですね。  まづ  ★ 迂回生産  ☆ を認めますと言えばいいのですね?  ★ 3:ぶっきらぼうは地とは言い難いです。主観において他者に対する没交渉の消極的意志表示です。  ☆ このお答えをいただくということは わたしの側の 質問の趣旨説明が 舌足らずだったと反省します。  ○ ぶっきらぼうとは ふつうに交通(まじわり)の意志があり 実際 交通しているとき まづ 必要なことは しっかりと意思表示するし 伝達する。(つまり 電報のごとく 最低限 必要なことは 述べる)。そのとき 愛想も愛敬も人情も同情も――ないのではなく――示さない場合を言う。  ☆ こう説明すべきところでしたね。ただし それでも  ★ 主観において他者に対する没交渉の消極的意志表示です。  ☆ と見える場合があるというご教示であるようです。その中身として  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  あなたの識見が大佐級だからではありません。私の抱くイメージが大佐だからでもありません。  他の回答者のあなたを見る目は「大佐」へのそれを想起させるからです。  この「大佐」とはリビアのカダフィ大佐、あるいは『百年の孤独』の「大佐」です。自由主義社会に住む者の、軍事クーデターの指導者に対する見方です。  ファシズム云々を口にするのも、このイメージをあなたに投影しているからでしょう。金正日将軍とも少し違いますね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 正直に言いますと 昔 自分の考えを友だちに吐露すると たしかに決まって 日本は多神教の国だ〔から 一神教のような思想は 馴染まないという意味合いだと思われる〕という答えが 返って来ましたね。判で押したように。  その昔 小泉八雲が 松江で生徒たちに 《蛙》という題で 英作文を課したら 決まって 小野道風の逸話を書いたそうです。同じようなのです。日本人は 善良でまじめな人ほどと言いたくなるかたちで 《けんかは いけません》という判子を押しますね。ちゃんと 印鑑を持っているかのようです。――どこが 多神教なのですか。こんなに絵に描いたような一神教は ないでしょう。骨の髄まで アマテラス教が浸透しています。  ただし  ★ 大佐・軍事クーデタの指導者  ☆ の描像は 初耳ですし ピンと来ませんね。これは 時代とその情況が変わったということでしょうか。もっとも  ★ ファシズム  ☆ これは アマテラシズムが その全体主義に利用されたのですから つながって 描像に結び付けられるのは 分かります。  そして わたしの言い分としては  ★ ファシズム云々を口にするのも、このイメージをあなたに投影しているからでしょう。  ☆ ではなく 精確には そうではなく もともと あたかも小泉劇場といわれるようなチャンチャンバラバラを見続けていたいという願望が その人びとの気持ちに中にあって そのような社会そのものとしてのドラマが みづからも出演者となるかたちで 始まらないかと思っていたところへ わたしの言説に出会って これなら ひとつの台本になるかも知れないと嗅ぎ取ったのではないでしょうか。脚色かつ演出に打って出たらどうだという要求を かれらは 続けていたのでしょうか?  (いま 振り返ると いろんなふうに 分析できるかも知れません)。  今回 お応えすべきは こんなところでしょうか。  そうそう  ★ 『百年の孤独』の「大佐」  ☆ については 分からず まだ ピンと来ていません。澄みません。

noname#96295
noname#96295
回答No.46

お返事1~4はそのとおりと思います。 まあ2は定義というほどのものでは。。。わたしの場合に限定しましたので。定義とするには反証がないという検証が必要です。 5,6,7はちと迷走の怖れがあるやもしれず、おっしゃるところを把握しかねているのですが、ねんのため、 最上部構造での麻痺というのは、 《ヨセ》においては、たとえば鳥瞰図法や透視図法や遠近法や、メルカトル図法やモルワイデ図法や正距方位図法や、 ユークリッド幾何学や射影幾何学や何やと、対象の認識の構造を選んで、考える作業にとりかかるという運びになりませんか。 人間のやることですから仕方ないですが、認識のとりこぼしに目をつむる形となり、麻痺していると思うのですよ。 それだけなんですが、《ヨセ》の理解が違ったのかもしれません。 7は、人情がないとは思えません。 「わたし」が「あなたが綱をどう思うか」を認識して伝えるときは、 多少「わたしのこと」に再構成して主体性を発揮するしかないですから、 その多少というところが問題で、全部ではない、との忸怩たる思いがあることもあるわけで。 それがすなわち人情だということもありますでしょう。 8は考えがそこまで及んでいませんでした。なるほど。そうですね。 9は《ヨセ》において繊細な構造問題となり、《ヨリ》において無骨な感覚の問題となるというほどの意味でしたが。 10以降は考えを先に進めないとわかりません。保留してみます。 病はわたしもそう思いたいですね。 しかし図法と化した紋切視点も必要なのです。本人が苦しくなければ必要のないものですが。 セリフを自分で出して自分で片づけられましたね。 照れというのはなんでしょうね。ここにも主体性の問題があるような。 蛇足分に関し、日本語の行き違いかと思われるところをねんのため。 「加害者(たち)」とは、「混乱」のなかで生じている概念です。もちろん現実の被害者たちです。 運営側努力によって痕跡はほぼなくなりましたが、つきまとうなと叫ばれたわたしもそのうちに含まれます。 ところでbragelonneさんはまた人にわたしの言葉を投げて尋ねている。。。 パスカードさんとわたしをお友達にするつもりですか。 まあでも今回はご随意にお任せします。bragelonneさんに慣れた今、いろいろなことがどうでもよくなりました。

bragelonne
質問者

補足

 amaguappa さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ ところでbragelonneさんはまた人にわたしの言葉を投げて尋ねている。。。 / パスカードさんとわたしをお友達にするつもりですか。  ☆ ほんとですね。ひと事風ではいけませんが ほんとですね。  あぁ でも 今回は この野郎なら 何でも知っていると思って 気軽に訊きました。昔は 誰かおしえて!!といった調子だったですね たしか。わたしは いけしゃあしゃあ。図々しいですね。知らないとき 知りたいという思いが早ると ですね。ごめんなさい。  でも 鬼に金棒 いや なんでしょうね。孫悟空に如意棒!! になるでしょう。たぶん。おふたりがそろえば。ま この老好々爺(!!)に免じて そこのところを。・・・たぶん この学者野郎も また もどってくるでしょう。  ★ 蛇足分に関し  ☆ わたしは 承知していないのです。《合意形成》とか ちらっと見ましたが ことのいきさつのほうは 分かっていません。  ★ 病はわたしもそう思いたいですね。  ☆ あ それでいいんですか? そんなに すんなり うべなわれてしまっても。・・・  ★ しかし図法と化した紋切視点も必要なのです。  ☆ か。臨床は よく分かりません。  ○ ヨセ  ☆ は 実際に   ▲ オキナガタラシヒメのミコト(神功皇后)は 当時(そのかみ)神を帰(よ)せたまひき。(《古事記》仲哀天皇のくだり)(400年ころ)  ☆ という記事があるのです。その前に  ▲ 崇神ミマキ《イリ》ヒコイニヱのミコト(第十代ですが 実際に《初国知らししすめらみこと》とたたえられています)。(300年ころ)  ☆ という名も見られますし その前は  ▲ 卑弥呼(ヒミコ < ヒめのミコと)(『三国志』「魏志倭人伝」):鬼道をよくす。(三世紀前半)  ☆ とか言っていますが 《憑依》の《ヨリ》だと思われます。  第一代・神武カムヤマトイハレヒコの皇后が ヒメタタライスズヒメで またの名を イスケ《ヨリ》ヒメと言います。  ヨセも その歴史知性として 本籍は イリだと考えられます。ただし その上を行ったかたちです。精神のアマアガリでもあるのでしょう。少々 減らず口をたたけば あたかも神のごとくに いかなるものの下にも立つまいという誓いでも立てたのでしょうね。  そのために いかにも人間的になろうとしたはづです。いよいよ人間的になったところで まわりを見たら 誰も そうではなく その値打ちがなかったと知ることになります。たぶん あたまでっかちだという意味だと思います。それでも ますます人間的となって この上ないスーパー第一知性になってしまったのでしょう。あとへは 引けなかったのだと思います。腰を低く 誰よりも低くして とうとう 全国制覇を遂げました。  ★ 人情〔のかけらもなく〕  ☆ やはり ここは 《紋切型》でいかなくっちゃ!!??  最後が 最後にふさわしいとも思えませんが おあとがよろしいようで。

noname#96756
noname#96756
回答No.45

すみません、訂正させていただきます。 ×フーコの≪ハサミ≫はのっぺらぼう理論であれど、決してぶっきらぼうを「意図したものではない」と。 ○フーコの≪ハサミ≫はのっぺらぼう理論であれど、決してのっぺらぼうを「意図したものではない」と。 今から出かけてきます♪  誤字脱字はお許しを。←ぶっきらぼう

bragelonne
質問者

補足

 Bonjour, Mme mashumaro2 et bonjour a tous.(09.04.26)  《パレーシア》の問題です。《言うべきことを きちんと言い おこなうべきことを おこなう》。  ▲ (近藤道生:私の履歴書 日経4月26日) ~~~~~~~~~~~~~~  §25 天目茶碗――会社の暗部 断ち切る / 絶えぬ気苦労 茶席で癒やす――  当時の商法には利益供与禁止規定がなく 多くの企業には社外の者たちが群がり 企業も必要悪としていわれなき金品を提供していた。  博報堂事件を通じて 我が社にもそんな慣習が根付き 事件を生んだ土壌と水面下で結びついていることがわかった。経営の近代化のために博報堂は彼らと一切の縁を切る必要がある。  私が一時期長官を務めた国税庁は 税務行政をつかさどるだけではない。税務調査を通じて隠された犯罪 反社会行為を暴くという一面も持っている。当時の私は相手が誰であれ 一戦を交えるときは交えるという覚悟で日々を過ごしていた。  一民間企業の経営者としては事なかれ主義を決め込むこともできたが たとえ危険な目に遭おうとも そうした者たちとの戦いを避けるつもりは毛頭なかった。  まづ一斉に金品の提供を絶った。他社が博報堂に同調すれば彼らは糧堂を断たれるから 反応は早く鋭かった。本社に近い神田駅で博報堂と私を中傷するビラが大量にまかれた。会社へもひっきりなしに押しかけてくる。  大物には私が直接会った。ソニーの創業者 盛田昭夫さんから譲ってもらった高性能テープレコーダーを 応接室の床に造った空間に隠して対面する。   ――いままで払っていたものをなぜやめる。   ――理由がないからです。   ――我々はそれなりに会社に貢献してきたはづだ。   ――前社長とは見解が異なります。  そんなやり取りを録音したテープを警視庁に持ち込んだ。   ――近藤さん みんながあなたを殺すと言っていますよ。  という脅し文句も聞いた。しかしこちらは戦地で死線をくぐり抜けてきた身。言葉だけなら怖くもなかった。  一人が退散すると地下茎でつながった別の人物が現われる。総勢十人余り。警視庁との連携プレーが一年か一年半ほど続いたところで彼らは諦め 博報堂はようやく身ぎれいになった。  昭和五十六年 制作出身の東海林隆取締役の提案で 《博報堂生活総合研究所》を設立した。大衆消費社会を迎えて 広告会社は顧客企業の先にいるエンドユーザーの動向を直接知る必要が出てきたからだ。その後の調査と研究が先駆的な《生活者志向》の広告へと結びつく。  仕事を離れて私を癒してくれたものは やはり茶の湯だった。静嘉堂文庫や徳川美術館などの役員を長く勤めてきたこともあって 内外の美術品に触れる機会を得た。  特筆すべきは 《曜変天目茶碗》の美しさだ。作られた中国にはなく 我が国に主だった三点が伝存する。  日本には古くから大陸文化が流入したにもかかわらず 室町末期になると茶の湯など《日本文化》と呼べるものがはっきりと姿を現わす。私は敗戦を迎えたペナンで 部隊の将兵にランプレヒトを引いて異文化間の戦いについて語った。茶の湯こそ 大陸文化を取捨選択して独自の文化を築いた日本人の美意識を証明しているのではないかと この茶碗を見るたびに思う。  社員の頑張りで社業は拡大を続け五十八年十二月 社長の座を 長く信頼を寄せてきた大蔵省の後輩 磯辺律男君に譲って 私は会長となった。平成六年二月 会長を辞して代表。一四年六月 最高顧問。そして今日に至る。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 全文でした。  いつも アマテラス族の悪口をばかり言っているわたしとしましては せめてもの罪滅ぼしとして さらにわが思いをきよらかにして悪口街道をまっしぐらに邁進するべく 引用しておきたいと思います。

noname#96756
noname#96756
回答No.44

bragelonne様、おはようございます! 子供が宿題を出さないと担任から注意されているのと同様に、対話の宿題を頂いているのに貯め込むどころか勝手に自由課題を提出するわたくしの厚かましさをお許し下さいませ。 頂戴している宿題はヒナが孵り次第、オスメスをご報告致します。 恐らくは「レディ・メイド」な域を出ないものかとは思われますが。 今から外出致しますので超せっかちに書かせていただきます。 わたくしにはますますアンテルムライスムの理論と「フーコの≪ハサミ≫とにある共通点を見出すのです。 フーコの≪ハサミ≫はのっぺらぼう理論であれど、決してぶっきらぼうを「意図したものではない」と。 アンテルムライスムにおける《イリ知性ないしその自由意志》にもとづく意思の自由を尊重するのであれば、フーコの≪ハサミ≫も既存の価値観や不可視な権力からの自由開放を叫ぶというのも、どこか似ているように思えてくるのです。 フーコの思想にふれるにつけ、国歌のような伝統的とも言える「血なまぐさいレジスタンス」な反骨精神を強烈に感じるのです。 わたくしは解説本の類は一切読んでおりませんので、勘違いがあれば忌憚なくご教授くださいませ。 フランスに造詣が深いbragelonne様でいらっしゃいますから、かの国の奇異ともとれる労組ストライキに対する異常とも思える大衆の懐の深さの源は御承知かと思われます。 法の下の平等は制度上の「規範」としてあれど、現実的には諸々の権力を掌握している超エリート官僚と旧態依然な有閑特権階級に対し、その他多勢な人々は、お互いのルサンチマンを自助努力によってやむを得ず許容しあっているのです。 この手の感覚というのは私達日本人にはなかなか解りづらいのではないでしょうか。 また、一見しただけだと、フーコの思想の根源の「おどろおどろしさ」も理解しづらいのかもしれません。 単なる「のっぺらぼう理論」として、無機質に社会に思想を被せようとも映りかねないと思われます。 で、フーコの古い語彙「権利」「規範性」という言葉を使って「フーコ・ファッション」の最も狭義な「ア・ラ・モード」を考えてみます。 あまりに日常過ぎて哲学とはリンクしそうもない、まあ、どーでもいい分野のようにも思えるのですが。 フランス人は日常のファッションにおいて、ある「レジスタンス精神」を持つ傾向をかの地で感じたことがあります。 いわゆる「買ってきたばかりの新品」を極端に嫌悪し、自らの手で汚したり、わざと使い古すといったことにより≪わたしらしさ≫を自由に主張し尊重したがるのです。 これは「規格化された商品」に限らず、たとえばエルメスの「オーダー」の品でさえ、執拗にかつイヤミったらしく「で、あなたはどうしたいの?」と≪わたしらしさ≫を追及してきます。 オーダーとはいえ、決して「あなたまかせ」「お店まかせ」には出来ません。 この点につき、日本人とは真逆かもしれません。 もちろん、彼らとて「権威あるブランド」にはなんだかんだで目がありませんが。 そうそう、フランスの管弦楽団の演奏傾向として、得てしてアレンジ至上主義的な傾向がみられるのでは、とこちらのサイトで質疑を行ったことがありました。 何か「画一的」「規範的」な演奏に対し個性を主張することで反骨精神を演奏のうちに感じずにはいられないのですが、何か相通じるものがあるのでしょうか。 「ア・ラ・モード」の話に戻りますが、20年前のファッションと現代のリバイバルとでは、マイナーチェンジの他に決定的な差が見られます。 それは当時にはあり得なかった「何を着ても今はOK」という「おおらかさ」「自由」といった感覚です。 たとえば、女性の着るコートのすそからワンピがチラ見というのは、四半世紀前はツンツルテンでみっともないの代名詞でしたが、今では逆にinで若々しい、という新たな価値観が生じているのです。 ですが、この「inな若々しさ」でさえも、所詮は「流行の担い手、洋服の作り手、情報発信源であるメディア」側からの影響「力」からは私達は完全に逃れられることはできないと思うのです。 人はいかに自由である、いかように服を選び着まわす自由があるといえど、現実には奇抜な格好をするのは大変「人目を憚られるもの」であり、むしろ、TPOを勘案して、より≪わたし≫がその「規範」に「嬉々として」縛られてしまっている面もあるのです。 と、このようにフーコの≪ハサミ≫をもって「ア・ラ・モード」な事情を考察しますと、我が身の「懐事情」と相談して、「まあ、たかが流行だからあまり流されないように」とか、「いやいや、ミセスだからこそ流行を多少は追わなければチープに思えるし」などと「力に抗いがたい自分」を「囚われから解放し、自由を享受できる」、つまり、内なる損得勘定によってそこそこに処世できるのです。 ちなみに、『マネの絵画』の序では、フーコ亡き後のオリジナル録音を新たにおこすための周囲が奔走する「協奏曲」のさまが記されています。 フーコはあの世から呆れているかもしれません。 "Nous sommes fous? Ou ils sont fous?"

bragelonne
質問者

お礼

 わたしたちは このようにして かれら以上に 日本人なのですし 彼方の国の人びとに勝るとも劣らず 人間なのです。  ただし のっぺらぼうが好きな人たちも いますし あるいは もはや そばが伸びたような議論を展開する人たちも います。しかも 井戸端会議が 基礎ですし 基盤です。  と考えます。いかがでしょう?  なお 次のわたしの投稿を 時間があるときにでも 参照していただけば よいと思います。  【Q:現代日本に必要な哲学は?】そのNo.1&8&9  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4151421.html

bragelonne
質問者

補足

 mashumaro2 さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。はっきり言って われらが日本人は あたかも精神が去勢されたかのように おとなしいですね。それにくらべ かの地では 活気がありましょうか。血の気が浮かび出るかに 息吹きが感じられましょうか。  とは言ってみるものの わたしは 団体旅行で二週間ほどヨーロッパには行ったのみですから 生活感覚が 一向に 分かっていません。ちなみに 仏語科(外国語学部)ですが 経営学専攻(卒論も)ですし 別の大学の修士課程でそれを継続したのですから フランス事情は てんで 分かっていません。つまり 哲学についても 同じです。素人も いいところです。  今回のご提案の主題につきましては したがって あくまで思弁的に考えたものとして わたしの見方を提出します。  国家という二階建て構造の社会形態は 一般に 《アマテラス(公民・A)圏‐スサノヲ(市民社会・S)圏》の連関構造です。(断定で表わしてまいります)。あたまでっかちで 逆立ちしているのではないかと見ますが その逆立性がはなはだしければ はなはだしいほど 両圏のあいだには 断層があります。  そのとき 個々の市民は 《スサノヲ(わたくし)‐アマテラス(おほやけ)》連関なる構造を 精神において 持つのではないか。  (別様に 《S(身体)‐A(精神)》連関としても あるいは 《S(女性)‐A(男性)》の連関としても 分析し得ます)。  要するに わが国では お上(アマテラス)の権威が強い。  ところが 西欧では そもそも 個人から 出発する。そのとき ひとは あたかも《 A = S 》対等かつ連結の構造から成っているのではないか。したがって 社会形態のあり方は  {アマテラス圏(個人は《A=S》)‐スサノヲ圏(個人は《A=S》)}  のごとくの連関構造なのでしょうか。もしくは さらに 対等かつ連結が進んで {アマテラス圏=スサノヲ圏}といった平等観念の発達した社会(人間関係)が 現実なのだろうか。また それは そうは言っても まだまだ 理念の世界に限られると言うべきなのでしょうか? どうでしょうか?  いづれにせよ 日本社会との対比は できますね。要するに 革命とは 此方では 《A圏‐S圏》連関体制は そのままにして 全体として観念的に 天命を革(あらた)めるのであるのに対し 彼方では アマテラス圏とスサノヲ圏とのしきりに続く互いの回転( revolution )であると見うるのではないか。  したがって 彼方では ひとは たとえファッションにおいてにせよ みづからの《A‐S》連関が 対等にして連結しているかたちにおいて 何らかの姿を表わして実現したなら ひとまづ 満足である。そこに 人間性ないし自由の発現を感じ 自分は 生きていると思う。また その上で その対等の市民の中から アマテラス公民が出たのなら そして その結果 多少の格差が現われたとしても 容認する。のでしょうか?  わが国は ぬえのごとくして 複雑です。見方によっては スサノヲ市民の誰でも 実力があれば アマアガリして行ける。自由である。しかも 構造としての《A‐S》連関――しかも 逆立していると感じられる――は びくともしない。格差は 一般に ほかよりも 小さい。しかも 《二階(A)》と《一階(S)》との格差は 永遠にして絶対的である。まなざしの注ぎ方は 実際には 上に行くほど おほやけには こうべを垂れて 下から来るかに見えます。腰が低くなります。しかも その社会的地位は 安泰となります。  ただ やはり ひとつ 重要なことがあるのではないでしょうか。わが日本人は この二階の増築に際して 一階は やはり 《国ゆづり》したのです。かつ 神話上 アマテラスとスサノヲは 実の姉と弟です。ソシアリスムかどうかを別として フェビアン主義にして 漸進的に《イリ歴史知性》のあまねく社会に行きわたることを信条とし これを宣言して来ました。  A圏とS圏との相互の回転( revolution )は いさぎよしとしなかった。信長も その前には 義満も アマテラシテの削除は これをいさぎよく思わなかった。明治維新は ただ のちの明治天皇アマテラシテを 実際にも 利用するだけのために かつぎ出したとも聞きます。いわば 将来においても 名誉革命を目指しているようです。  フーコのハサミは ちょうど 漢字検定事件のごとく アマテラス圏の内部で 自分たちで 解決しなさいという遠まわしの合唱に変わります。草なぎくん事件のごとく 言わず語らずに 市民の生活と人格を守ろうとする声なき合唱となって現われます。

関連するQ&A