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ぶっきらぼうは いただけませんか?
【Q‐1】 まっ 罪ではないでしょうが ぶっきらぼうは 負の印象でしょうか? 【Q‐2】 愛想のよいわるいは 対話や議論の文章に 関係しますか? 【Q‐3】 ひとは ぶっきらぼうが その地であるのでしょうか? それとも 何らかの愛想があることが 地であって その上に 愛想の多い少ないや よい悪いが 図柄となって 実存していますか? 【Q‐4】 《愛想》とは 何でしょう? あるいは 《社交性》とは どういうことでしょうか? つまり 《ぶっきらぼう》には 社交性は ないでしょうか? 自由にご見解を述べて ご回答をお寄せください。 【Q:けんかをしては 何故 いけないのか】には たくさんのご回答を寄せていただき まことにありがとうございます。これは 続編のごとくになりますが よろしくどうぞ。
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bragelonne様、いつもわたくしを諭して下さって本当にありがとうございます。 わたくしとのやりとりが「bragelonne様が何らぶっきらぼうでもなんでもない」ことを証明しているかのようです。 お題:ぶっきらぼうvsのっぺらぼう >わたしの思うに その中味が《未整理・未整頓》であっても 《いま・そこにいる存在》のほうが 哲学や自然科学のとうとい営みよりもやはり《えらい》のです。この大前提に立って と言いますか この大前提じたいが 《わたし》の問題 すなわち それとしての《他人》の問題なのではないかと思っています。さて いかがなものでしょう? はい、おっしゃる通りでして、だからこそ【のっぺらぼうが多数派】なこの時代だからこそ【哲学や自然科学のとうとい営みよりもやはり≪えらい≫のです。】とこだわりをもって信条を貫くという意味の【ぶっきらぼう】なお方が何よりも「貴重で得難い」のだと確信するのです。 それに≪わたし≫を尊重すればするほど、≪わたし以外≫のものが相対的に尊重されなくなるのは自明のことです。 何故あえて両者の優劣をつける「必要」があるのでしょうか。 ちなみに、≪神≫と≪ハサミ≫は同じ視点で語られるものなのでしょうか。 仮に≪ハサミ≫をフーコとするならば、「主体=使用する人」によっていかようにも社会という紙切れを切り刻むことができると思うのです。 で、≪ハサミ≫にも「顔」がついていたら、気持ち悪いし、話しかけられても困ります。 やはり≪ハサミ≫は高品質な無機質なものでないと、でものっぺらぼうと思えばやはり不気味にも思えてきます(笑)。 で、切り刻む紙切れにしても、例えばありきたりの白画用紙でも、幾重にも手間暇かけて製作された温かみやぬくもりのある美濃和紙でも土佐和紙でも、どちらでもよろしいかと思われます。 まさか≪ハサミ≫で≪神≫や≪わたし≫を切り刻むなんてあり得ないと思います。 もちろん、≪ハサミ≫を用いるのが気に入らないから、≪神≫や≪わたし≫には「両手」がありますので、必要であれば紙切れを丁寧に半分に折って、つつ~っと慎重に切る方法もアリかと思うのです。 最近の子供って、不器用といいますか、なかなか「手で切る」といったような昔ながらの手法を知らないケースが多々あるように思われます。 ですから、臨機応変にハサミや手で切るなど使い分けを伝えていきたいなあ、と母親として感じます。 そして、「さて、どうでしょう?」という一つの言葉にわたくしは限りなく「哲学の可能性」を大いに予感させられます。 だって、「科学の合理性」によるならば、どうひっくりかえっても「ハイ、終わり!」に帰結する問題があるはずです。 でも哲学の思索においてはどこまでも延々と続く可能性が秘められているのですから、bragelonne様が「さて、どうでしょう?」を放棄しない限りにおいては、わたくしはこの対話を続けさせていただけるのです。 何て嬉しいことでしょう! これって凄いことです♪ >そして たしかに この全部のボウを なぜか 女性は 持ち合わせている(包みこめる)のかも知れません。 そりゃあそうです。 この一行だけを取り上げてみると、朝から顰蹙ですが、何故か意味深なものを感じずにはいられません。 a様のおっしゃる「芸術哲学」に通じるものがあるかもしれません(汗) >その試行錯誤の道のりを 尊ばない。《あやまちを侵したであろうがあやまたなかったであろうがあとから検索することなどどうでもよい》主義。 所詮≪ハサミ≫はハサミですから。 わたくしがランチに何を食べよう?と問いかけようにもこたえられないように思うのです。 ただし、韓国焼肉のようにお肉をハサミで切るなど異文化においては「エエッ!こんな用途もあるの?」という視点はユニークで面白いものだ、とは思われませんか。 また、フランスで友人と大ゲンカしたことがあります。 たかが直径10cmの缶詰のふたを切るのに台所の棚の最上段奥から「電動缶切り」を出そうと言ったときです。 わたくしは思わず「面倒なこった♪」と言ったところ、「これは便利なの!手で切る方が面倒でしょ?」と言われて「は?バッカじゃなかろかフランス人って♪」と派手にやりあってしまったのです。 キッチンにおいては「全て」を包み込める女性とはいえ、男性同様に譲れない流儀がある、ということでしょうか。 Alors, a tout a l'heure!
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「ぶっきらぼう」にお答えしますと、 お嫌なのを知りつつ、勝手に回答欄の文言をお借りしたことは、平に謝ります。ごめんなさい。けれど、そのおかげ(ではないか、と思うのですが)で現実に、他のカテゴリーで行われていた複数の質問は閉じられ、蒔かれた混乱の種は芽を出さずに終わったのを見届けることができました。つまり、僕のokwaveにやってきた目的は果たされました。 文体からご覧になられる僕の分析は、仰るとおりでしょうね。邪まな目的を持っている点は、どう取り繕おうとも見過ごされるものではないと思います。それが、喉の詰まりや息苦しさに現れる。声をお聞きになる方にとっては、奇妙な茶番に映るでしょう。 そう思いますから、ご親切は大切に胸の内に取っておきます。ただ、お書きになった点でひとつ違うのは、彼女たちは加害者ではなく被害者だということです。 どうしたものかなと考えるうちに、ふと妙案を思いつきました。 その方はIDにとても明確な個性の立っている方でしたし、何しろお強そうな方だったので、少しふところをお借りすることにしたのです。要するに、甘えたのです。幸い、僕も言葉を頂きました。そこで僕は、回答欄から言葉を選び出し、その言葉を育て上げて、少しの混乱から、よりたくさんの混乱を生み出しました。 暗い混乱よりも、明るい筋道の通ったシンプルさを好むのが人間だと思いますから、僕の放った混乱に、おそらく生来の冷静さを取り戻してくれたのだろうと、今では勝手に思っています。 少しだけ愛想について書きます。 最後に謝罪されているのが、「勝手な言い草」に対してなのか、それとも「一瞥でしかない」ことに対してなのか、僕はそれを後者だと思うような性格です。「ふざけんな」そう言われる前に、最初に謝っておこうと思います。ごめんなさい。
お礼
passcard さん お早うっす。ご回答をありがとうございます。 次の術語について 精確な説明を 必要に応じて めぐみたまえかし。 ○ 予期依存 / アフォーダンス / プライミング / マルセル・デュシャンの便器 / ○ 独我――これは わたしも 永井均の本を読んで わきまえているつもりですが 一般には知られていない事柄などありましたら おしえたまえかし。 ヰ゛トゲンシュタインについては――その著作じたいは わたしは 途中で投げ出した口です―― 二つの論点があって 一つ目は 《わたしの唯一存在性》を論証した点 これは 賛同しています。 もう一点は そこから伸ばしていく議論のことですが これは 分かりません。要らぬ議論であるように思います。いわば《わたし》は 発信ないし議論としての交通はおこなうが あとは 鎖国でよいのだという主張のように映ります。 ○ 最上層構造 / 基底構造 ☆ については――あなたに向かって言うのも なんですが―― 表現が 逆ではないかと思うのですが? 基礎ないし基底構造において ひとは・つまり のっぺらぼう人は 思考を麻痺させる。表層構造においては さかんに 論陣を張る。わたしから見れば 喰ってかかってくるかの感あり。 へらず口が つづきましたが よしなに おはからいいただきますよう。
言語表現における、ぶっきらぼうについて。 受け取る相手のなかで言葉がどう熟成するか これを見越さない(見通さない)ために、 というのが、わたしのぶっきらぼうの場合の本意ではないかと思います。 自分の目に眼帯をかける行為としてのぶっきらぼう、というものがあるかもしれません。 これは自分の視界を奪うことでもあるし、わたしの視線の先を相手に読めなくすることでもあります。 予期依存を回避するともいえるし、視線の先という空間に潜む時間の幅を稀薄にするともいえそうです。 アフォーダンスか、プライミングか、と概念化をもって図法となったツールに依ると、話がわかりやすいかもしれませんが まあそんならそうした概念を了解していること自体で話が足りる。 その先は議論の質が問題になるので、話す相手と場を選ぶという性質が、いやらしくも浮上して、ぶっきらぼうを扱う話でもなくなります。 せっかくのぶっきらぼうという切り口がアフォーダンスやらプライミングやらの話になります。 たぶんこれがbragelonneさん独特にいうところの最上層構造で、起こる麻痺。 枝ぶりの立派な木の下に人をひきずっていって縄を手渡すというおだやかでない話の、縄のようなものが言葉であると考えてみますか。。。 ぶっきらぼうに渡すわたしは、その人にたいする自分の感情に目をひらかず、 数分先の未来を、わたしとその人のあいだに、具体像として介入させないのかもしれません。 その人が何のつもりでいるか、縄をどうするかということも、わたしには予断がないことで、 ぶっきらぼうに渡されるその人のほうは、わたしの心のあるなしも内容も知ることがないでしょう。 その延長でマルセル・デュシャンの便器のようなものをぶっきらぼうと呼んでみてもよいかと思うわけですが こういうのはどちらかというと、受け取る側が瞠目することや、 指示が解釈の網に取られて自動的な熟成をはじめることのほうに、関心が行きがちかと思います。 便器のアフォーダンス自体を展示するというような仕方で、繊細な問題を扱っているともいえそうですから ぶっきらぼうとは、最上層構造の問題としては繊細であり、基底構造の問題としては無骨なのであろうと思います。 愛想というのはかける相手の反応を予期して見越す心境で、予断で対象にゆるく縄をかけるようなものと思います。 人の心に入る言葉を弄すれば、縄はきつくかかります。 暴力の才能を持った人種には、しばしばたいへんな愛想の持ち主がおります。 受け取った言葉の熟成がすすみすぎる傾向の人を相手にするとなれば、 言葉は、言ったことでも2倍3倍になり、言っていないことでも言ったようなことになります。 この場合、縄をかけてあげたほうが、相手が楽になります。 こういう傾向にあっては、相手は言葉よりも発語する人物を見ているため、 意味を知りたいのではなく心を知りたいということになります。 木の下に戻れば、縄は縄であるということを知りたいのではなく、 「『わたし』にとっての『あなたにとっての縄』」を知りたい、と。 (相手は自分にとって縄が何であり、どのようにあり、何故あるか、 ということをわたしが指摘できることを望む。占いのトリックである。) こういうことを伝えることを、愛想 とわたしは考えるわけです。 蛇足ながら、 地雷は起爆があったようですね。 わたしの質問の片隅にある文言から別の質問を着想なさった見知らぬ方に、ここから袖を振って慣れない愛想を実践します。 混乱の中に生きている方がわたしのIDに目を付けて妄想激しく絡んできていたため ( この「混乱」において「加害者(たち)」は時間を超え空間を超えて繋がる。全同一人物化か一味化が常套。 早とちりや勘違いは、繰り返される自己正当化の過程で是正されながら、別の理由に接がれる。 その場しのぎの論理が溢出する。 少なくとも双極性感情障害の症状はみとめられるとわたしは思う、わたしの親切心から言うのですが) 新規参加の方が文体の中に同じ地盤を曳きずっており、文の上でよく似た声であるのをみとめて、 地雷を踏まぬよう避けた次第です。 多少あきらかにされた事情から察するに、声か似ているのは向こうが似たのでしょうかね。 あるいは新規参加者の心に心象映像群のように向こうの声がこだましていたのかもしれません。 声についてはわたしが聞きたいくらいでメカニスムはわかりません。 奇妙な声音はこのへんがあってのこと。謝罪します。奇妙な論理・悪声・取り扱いの難しさは別の話です。 まあ難聴性と弱視性が勝り、自分でも持て余すというような猪突猛進の走りかたをされるわけです。文がです。 ところが、とてもぶっきらぼうな性分であるのに、愛想を忘れない心がけが多角的検討を持ち込むのか、 独我が合わせ鏡の世界のように分裂している。ああでもないこうでもない、つきあうのに骨が折れそうだ、と、そういう話です。 しかし一瞥でしかないのですから (長い投稿を読む時間はあまりないのです) 勝手な言い草でしょう。これも謝罪します。 では。 (あまり愛想がありませんでした。やはりわたしはぶっきらぼうなのです)
補足
amaguappa さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 わたしなりに要約しつつ復唱してまいります。 1.一般に 批判が根源的(=人間にとって 不可欠・不可避)であるのに その批判を発信する者が ぶっきらぼうであるという場合を取り上げておられます。(以下 敬語をはぶく無礼をおゆるしください)。つまり そういう場合に 2.★ 受け取る相手のなかで言葉がどう熟成するか これを見越さない(見通さない) ☆ のが 《ぶっきらぼう》の定義である。 3.この場合 時には ★ 自分の目に眼帯をかける行為としてのぶっきらぼう、というものがあるかもしれません。 ☆ が それは けっきょく《批判としての言葉の行方としての熟成》に やはり自分から 無頓着になることである。 4.いづれにせよ 《批判内容》には すでに 一般的な妥当性があり 相手にとっても 《意味》がある。《とるべき行為の可能性》を持った意味がある。(アフォーダンス)。しかも その可能性つまり行為の選択肢をえらぶことへと 誘導すると言うべき要素さえある。(プライミング)。 5.ただし このアフォーダンスないしプライミングの効果は 相手によっては 相手が自分の神経を麻痺させて回避しようとする場合がある。 6.マヒを起こすにせよそうでないにせよ 相手は その批判を受けて 自分は 枝振りのいい木の下につれて行かれ しかも 縄を渡されたようなものだと受け取る。 7.しかも ぶっきらぼうは いっさい 《人情のかけらもなく》 ぶっきらぼうである。 8.同じくしかも ここで 《愛想がある》というのは あたかも《縄をゆるくかける》ようなものである。つまり愛想があったとしても 批判の効果に関しては 同じことを認識している。 9.ぶっきらぼうは 人間性の問題にかんして《繊細》であり 人情の問題にかんして《無骨》である。 10.ただし 人情に厚い場合というのは けっきょくその場合も 真綿で首を絞めるというように 《装飾品》売り場につれて行って 好きなものを買い与えつつ 同じ批判を突きつけることである。 11.いま取り上げている批判の発信という場合には ひとによっては すでに その言葉の問題ではなく つまり言葉を超えた問題として 人格が問われているのだと 〔すでに〕受け取る場合がある。こうなると 一定の問題をめぐっての質疑応答は 人格どうしの格闘の様相を帯びる。 12.★ この場合、縄をかけてあげたほうが、相手が楽になります。――☆ わたし( bragelonne )は まだ 決めかねている。たぶん わたしは そうはしない。放っておく。 ★ 蛇足 ☆ 一点 異見を持っています。器質の問題でない場合には いっさい 病気は ない。あり得ない。とわたしは 勝手に 考えています。 病気というのは 治療者と患者(被治療者)との関係が 社会的に(人びとの主観が共同化されるかたちで その観念として)固定する場合を言います。 言いかえると 病いや症状というのは――つまりたとえば アマアガリ症候群とかアマテラス予備軍シンドロームといったような場合―― 多少とも すべての人は その情況および個人的な状態の一端を共有しています。その意味で 連帯責任です。また 悪は存在しないです。 善の欠如とその元の善(自然本性)を わたしたちは 誰もが 共有しており この基礎において 連帯することができます。 この自由な人間の自由な連帯は ぶっきらぼうでも 実践し得ます。むしろ 愛想は要らないとさえ考えます。 そうして 本論のほうで 《縄》の意味するところは たしかに《わたしの〈古きひと〉の滅び》ですが むろん同時に 《〈新しきひと〉を着ること》です。だって――というよりも―― すでに あの木の上で わたしたちは 同じように この世の肉(精神および身体)を 欲情や欲望もろとも はりつけにしてしまったからです。 三日後に復活したそうです。物語のゆたかさと やさしさ。うそのような現実性。 よっ 千両役者! どこで そんなせりふを覚えてきたんだい?
こんにちは >たぶん あなたは 自分の言説について おそらく 大局から眺めて その位置づけも それに対する或る種の反応や反響も すでに発信の時点で 予見しているのではないか 僕はひとり踊りの愚かな男ですから、さっぱりわかりません。 >欧米か!! あ ちがった。シャーマンか!! 幾らかの記述を補足するとすれば、フランスという国は本当にふところが深く、分厚い文化を持つ国だと思う、まさにそのことが、フーコをテーマにするとよく見えてくるということでしょうか。 フーコを巡る各国の研究者たちの論説を聞いていますと、ある特徴に驚かされます。 と言いますのは、主に英語圏の論者は、黒人貧困の「系譜」であったり、自動車産業における職場「階級」であったりと、(彼らの知っている)特定地域の問題を論じるときに、フーコの概念を利用するという姿勢を見せます。 それに対し、欧州の研究者たちは、アセチュール論ですとか、古典読解、新しい領域ではマネを論じた「絵画についての考古学」のように、何らかのテーマを切り口にしてフーコを「読む」という姿勢を目指しているように感じるのですね。(恐らく同じような「感じ」をお持ちの方がおられ、その「感じ」を想像しつつ、僕は書いています) どうしてこんな違いが、姿勢に現れるのでしょうか。 僕の感じるフランスは、例えばディディエ・エリボンのように、「私たちはどのようにフーコを利用し得るか」ということへの問い語りを常に忘れない姿勢にあるんです。 これって、ふところの深さが違うじゃないですか。 だから、欧州の研究者たちがフーコを語るときに好んで用いるのは、後期の書簡やインタビューの言説です。作品についてはあまり触れない。でも、米国や中国の研究者たちは、盛んに作品の言説を抜き取りたがります。日本も、どちらかというと米国に倣っているのかな、と思ったりしますが、そういう意味では国家論や政治を語るよりも、音楽や美術を専攻されている方のほうが、フーコに造詣が深いような気がするんです。 本音を言いますと、フーコの国家とか権利とか規範性なんて言葉は、もう前世紀にとうに片付いていて、僕にとってはどうだって良いのです。それよりも、新しい分野(論文の多さからしたら、ネオコンとかネオリベラル、あるいは市場経済、社会保障、それと絵画ですか)を語る時期に来ていると思うんですね。 こういう世間の流れにいちばん遅れているのは、たぶん大学教育でしょう。何時までたってもフーコの規範性から脱出できない。学生たちは相変わらず、江戸時代に戻ったかのようなテーマ取りでフーコを語るし、先生は先生で、爪楊枝でその文章を突付きまくる。 フランスでは、さんざんフーコに批判された右派の連中だって、しっかりそれを受容して、ネオコンとして転向しているのにです。例えばMEDEFを取り仕切るエヴァルドのような人物が、ネオリベラルなどと称して、学校の外にはいるのです。商取引をするなかで、彼らはフーコの概念を企業による効率的な統治の道具として用います。 僕にとってはどうでしょうか。会社を持ち、金を融通する仕事をしている者にとって、どうも、彼らの言説は、なんだかずいぶん聞き慣れたはずのものぢゃないか? という現実に、度々遭遇するんです。以上は【Q2】への補足です。 消さないでください。
補足
passcard さん ご回答をありがとうございます。 このたび フーコを問題にして来て 中山元の解説を読みました。かれは 最後を次のように締めくくっています。 ▲ (中山元:フーコー入門 1996) ~~~~~~~~~~~ 《最後のフーコ》は パレーシアと真理のゲームという概念が社会と人々の関係を作り替えていく可能性を秘めたツールになると考えていた。このいづれも プラトン以来の真理の理論や魂の形而上学の理論とは異なる古代の道徳性の可能性を生かしたものであった。 フーコにとってパレーシアとは 真理を語ることをみづからの生活のスタイルとする実存の美学の行為そのものを意味していた――形而上学的な真理を語るのではなく 真理のゲームの中で 《別の真理》を語ること。そのことによって普遍的なものと信じられている真理の自明性を揺るがし 真理の歴史性を暴露すること。 フーコはこれが 人々が社会における支配の関係を少しでも望ましい方向に変えていく可能性を確保する道だと信じていた。フーコにとって哲学とは 政治的 経済的 性的 制度的な支配など さまざまな次元でさまざまな形で現われる《あらゆる支配の現象》を問題とすることだったのである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ たぶん こういった《まじめな》見解と 今回あなたが紹介したいわば《フーコ・ファッション》との異同を 明らかにしていくことで 文体とその影響(つまり【Q‐2】あるいは 人どうしの文体をつうじての相互影響)を追究していけるのではないでしょうか。 とは言うものの 《絶対としての真理》と《相対性のもとにある経験真実》との区別は 分かりきっていることで 上の《まじめな解説》も古いと言うべきでしょう。《道徳性》は 争点としては どうでもよいでしょう。しかもここで 《パレーシア》という概念は 論点になるのでは? ◆ 〔ヰキぺ:パレーシア(Parrhesia)〕~~~~~~~~~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%82%A2 フーコーは古代ギリシアのパレーシアの概念を次のように要約している(1983年)。 「より正確に、パレーシアは話者が自己の真理への個人的な関係を表現し、自らの生命を危険にさらす言葉の活動である。 なぜなら彼は(自分自身同様に)他人を改善させる、あるいは助けるための義務として真理を語ることを承知しているからである。 * ( bragelonne 註:これは 真相究明とその公表の問題のようです。→北野舌禍事件)。 パレーシアの中で、話者は大胆に話し、説得の代わりに率直さを、嘘や沈黙の代わりに真理を、身の安全の代わりに死のリスクを、おべっかの代わりに批評を、利己心と道徳的な無関心の代わりに道徳的な義務を選ぶ」。 * ( br.註:ここで《真理》は 《こころの真実あるいは真相》の意。《道徳》は われわれの議論では 及びでない。《死のリスク》は あくまで主観の問題)。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《註》をほどこすと 《テクストを消す》と言われかねないところですが われわれの問い求めを 急ぎましょう。要するに ○ 《パレーシア》とわれらが《ぶっきらぼう》とは どう違って どう同じか。 ☆ と迫る問い求めの態度を示すことによって あなたの《フーコ・ファッション》との異同を明らかにしていけるのではないか。ほら 《消さなかった》でしょう? ★ 「私たちはどのようにフーコを利用し得るか」ということへの問い語りを常に忘れない姿勢 ☆ は このような出で立ちにおいてなら 誰にとっても おもしろいのでは? ファッションが 哲学としての探究にあたいする中味を持つものか 例示して 論じるなりしないと まだ 山のものとも海のものとも 分かりかねるのではないでしょうか。 今回のご回答は 総論だと思われるという意味です。
こんにちは。 >この例外となるかに思われる事態に出会ったのです。(具体的には 四人の数にのぼります)。この失敗ないし敗北のありさまを しっかりと 分析しておかねばならない。 どうでしょう。失敗だったのかな。 失敗だとすれば、確かに分析が必要ですね。考えてみます。 > ☆ 何だかんだと言っても いちいち 実践に 実践主義などと 主義の語をつけるところが どうも 気に食わぬ。意味があるのですか? 井戸端会議が 生活であり 実践です。その上に 経済・政治ないし文化活動は すべて 乗っているでしょう。 主義が付くと「持続」になります。実践はその場の行い。実践主義は行い続けること。違うでしょうか。 >それとも 自分の視線まで 上がって来いと呼びかけています? いや。阿呆がひとり踊りをしているだけなら、記述はきっと消えないに違いないと思っただけです。フーコについて、他意はないです。訳文解釈に『Le souci de soi(自己への配慮)』のテクストを用いましたが、言説がどこで見つかるか探してみるのも一興です。 それと、意味と意義、繋がりと引き剥がしについて、思うことを書きました。それ以外は、中味のない文章ですよ。
お礼
passcard さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ★ 主義が付くと「持続」になります。実践はその場の行い。実践主義は行い続けること。違うでしょうか。 ☆ まぁ そうでしょうが でも 井戸端会議は その時その場だけの問題ではないですよ。いやでも 地球の寿命と同じほど 続きますよ。 どうしても 《主義》と言いたければ 《〈生きる〉主義》だと 初めに 言っておけば すべての行為を ひとは 《持続》において 捉えてくれるでしょう。 《文体》は 生きているかぎりの動態です。おそらく 文体過程として二十四時間体制をとるとき 休息が意味を持つだろうし じゅうぶんに休息をとりつつ 持続が持続するでしょう。フィチーノさんも そのように召されて 生きたのでは? ★ ひとり踊り ☆ について《ひとり踊り》をしているうたがいが 生じています。 たぶん あなたは 自分の言説について おそらく 大局から眺めて その位置づけも それに対する或る種の反応や反響も すでに発信の時点で 予見しているのではないか。 相手のある場合には つまり 相手が特定している場合には その応答を 一応 相手から 確認しつつ さらに新たな局面や段階へ 歩をすすめる。ことを怠ってはならないでしょう。 ですから ★ フーコについて、他意はないです。 ★★ 彼は何らかの線を越えたのだなと思います。 ☆ これら二つの言説について オブスクランティスモに陥らないように 訪問者すべてのみなさんにも 明らかにしたほうが よいでしょう。 ★ 訳文解釈に『Le souci de soi(自己への配慮)』のテクストを用いました ☆ 留意します。 ★☆ 対話の失敗・敗北 ☆ ま 正直なところは 《ゆづった》とは 内心 思っています。でも さらにこの障壁を超えることができるのならば なおよいと思われます。女性は 朝飯前なんでしょうかねぇ? 接し方も あしらいも いなしも 諭しも。 あっ そうか。しびれうなぎになれば よいのかなぁ。欧米か!! あ ちがった。シャーマンか!!
bragelonne様、おはようございます。 補足を拝見致しました。ありがとうございます。 取り急ぎ、以下の件について。 【道徳規範は愚の骨頂】 >艦橋で相浦さんは土田さんに――これを持っておれ。俺は泳げるから。と言って自分用の救命胴衣を差し出した。 >土田さんは――私も泳げます と固辞し 救命胴衣を壁に立てかけて 艦橋を出る。 >沈没の少し前 相浦さんは泳げない水兵に救命胴衣を渡し その命を救っていた。 >☆ 戦争は それじたい くだらないのですけれど。 >《空》だ《さとり》だというよりも 譲歩の哲学・国ゆづりの精神として イリ歴史知性を 基礎としたいと思っています。 わたくしはかねてより「内なる損得勘定」に照らし合わせてふるまうのを好む性質があります。 損得勘定、と言葉に出すと得てして、冷たい、計算高い、ずる賢いというネガティヴなニュアンスを一般的に帯びるように思われます。 確かに邪な考えの下に行動することはと~~っても多いです(笑) でもね、「ここぞ」のときに何というか、ある種の信条をもってして、「内なる損得勘定」を勘案してふるまう潔さって、あるのだなあと思ったりもするのです。 ある種の心情を「イリ歴史知性」と捉えてもよろしいの? それって今ごくフツーに「道徳」「規範」として広汎に存在しているところのものとはちょっと違う気がするのですが。 【アンテルムライスム】 補足を拝読致しまして、先に申し上げた「効率性うんぬん」はちょっとピントがずれていたように思えてきました。 帰宅したらじっくり再読したいと思っております。 それからね、大真面目なのですが、アルキビアデスの回答をわたくしはと~~ても楽しみしているのです。 何というか、もうね、尊敬しております。 ある意味ソクラテス以上かもしれません? Alors, bonne journee!
お礼
mashumaro2 さん お早うございます。いまは ラリーというのでもないように感じますが あるいは 言ってみれば 将来の延長線上の課題を いま 先取りして すでに 取り扱おうとしているようにも思えますが 長く つづいていますね。ご回答をありがとうございます。 ★ 「内なる損得勘定」 / ある種の信条 / ある種の心情を「イリ歴史知性」と捉えてもよろしいの? ☆ 各自の自由意志と良心が 大前提です。ということは わたしの場合は どうかをつづれば よいのだと思います。 1. わたしの場合は 単純に そもそもが 《絶対他力》です。備わった能力と努力を それの尽きるまで 発揮しようとしますが そのように走ることにより 目指すところに到達できるかは 人間の与り知るところとは思っていないという意味です。 2. 言いかえると 《内面における信条や くわだて あるいは はからい》が 《目標としてのこの世の経験的なことがら》を成就しうるかは 何とも分からないという意味です。 ☆ あとは こうです。 3. 《イリ歴史知性》は 誰もに共通の普遍的な 自然本性といった内容です。先ほどの良心といった要素もあるでしょうし 基本的に 記憶や知解の能力とともに とりわけ 意志とその自由が その内容です。 4. したがって 《「内なる損得勘定」 / ある種の信条 / ある種の心情》は 《イリ知性ないしその自由意志》にもとづいて それぞれが みづからの考えに沿って 具体的に形成した思想であり生活態度であり 究極の信条であるのだと思います。絶対的に自由でしょうね。またそれゆえに 互いに 批判しあうのも 自由です。 ★ 【アンテルムライスム】 ★ アルキビアデス ☆ これらは ご議論のすすむにつれて ということですね。 ソクラテスうんぬんは そのとき 突然出て来たものです。まだ 何が定かなものなのか 分からない部分もあります。 では。
オコリザルです A28のことで、普通に心をこめた上で、簡潔かつ明瞭の精神を発揮したとして、それでも酔っ払いが分別を失って絡んでくるように、ぶっきらぼうだとか、なんのかんのと言ってくるならば、はじめの回答に戻って「貴方の馬鹿さ加減が見抜けなかった私のほうが悪いのは当然である。」これしか思いつきません。 その心情の具体的行動は酔っ払いがただ酒の肴にしたいだけですから、むしろいたわりをこめて「はいはい」と言っていれば良いということになります。 簡潔で明瞭な話し方とは、聡明で、思考に混乱のない話し方です。 観念になぞらえて、たとえば私が言及した非業の死なんかについて正反対の解釈をしているならば、そのあたりが酔っ払いのお馬鹿さんぶりです。 そうするとわたしの経験にも(アマテラスのごとく)完全に聡明で思考に混乱のない状態であったとはいえないでしょう。それでも自己については了解していて、考えも整理してあるゆえ、簡潔で明瞭を心がけることは出来ます。 ソレをもってぶっきらぼうと受け取るのであれば、話にそもそもついていけない問題外か、簡潔かつ明瞭の精神を経験したことのない煩悩大き方です。 そうした程度の低いと受け取られる方々を多少は弁護しますと、私も繰り返し地獄におちる体験と言うのをつんでいますが、世間から悪人とされる、地獄の居心地のよさに染まった方々は、救われたいという煩悩よりも(自分より以上の悪鬼を)救いたいという煩悩のほうが強いんです。この「救いたい」の気持ちの強さが悪党の良心です。自らを救う自助努力は希薄ですがね。 この救いたいという悪の煩悩にも今後取り組む必要がありますね。 要するに鬼の正義です。 >正義は 旧い言葉ではないか。経験合理性にもとづく思考過程とその内容の妥当性 このことを ひとに対して 特別に訴えようとして 用いる主観語なのではないか。 そして もしこのようであるなら たしかに その表現の古さについて 思考を及ぼし いわば整理しておこうという意図としては 考えられるというように捉えました。 正義を攻撃する意図はなかったです。 まったく持って悪と戦う善の正義が不明です。 「戦う正義」この言い方も曲者で不明です。 影がなくなれば戦う相手もいないでしょう。 >死については これも 同じように それを考えるということは 或る種の仕方で やはり 古い。なぜなら 基本は 生を問題にするのみである。したがって そのやはり 死をどう扱うかという問題の立て方の古さを きちんと 考えまとめておいて あらたな出発をするという意図としては 捉えました。ただ 死を二分し 考慮すべきものほうについては やはり残しておこうとおっしゃっている。さらに突き抜けてしまってもよいと思いました。 現状の死は、その哲学は、私の主張では屍の克服です。 ご回答は少なかったですが、話はいい方向に持っていけてそれなりに思索は進みました。 マジ切れ回答との戦闘経験値を増やしたいとも考えました。 無謀にも今度は「あなだはゾンビですか?」で、2発目をやってみても良いかもしれません。 それから私の場合「伝心」を意識できるのが諸刃の剣です。 質問を締め切らないでおくと、だれかの回答したいという感情に反応してしまいまして雑念の種になります。 思索を掘り下げたい感情と、思索を先に進めたい感情の均衡を図ると、質問を立てていい気持ちでいられるのは3日位、義理が出来て我慢するにしても5日位です。
お礼
primeape さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ううーん。なんだか なやましいと言うのでしょうか。そこまでは 実際には なつき難いけれども あぁ そんな悩みを持っておられるのかというような感覚ですね。 でも あたまを真っ白にできるとおっしゃっている。白紙の状態ではないのでしょうか? というよりも わたしの場合は もっともっと 単純でして とにかく世に言う能天気なのです。それが 自己表現には ぶっきらぼうとして 現われるのだと思います。必要だと思ったことは ぜんぶ 考えるし 表わそうとします。 でも それ以外は もう 考えませんし 表現が終わったら 特には 気にかけません。ぎゃくに そうであれば 表現し尽くすとも言い得るかに思われます。それで そのあとは 白紙状態です。つまり 白紙状態に わざわざ なるのではなく そうではなく もともと 白紙状態であって 表現が終われば 元の状態に戻るというだけなのだと思うのです。 primeape さんは 何か 使命のようなものを つねに 気にかけていて 意識さえしておられるのかも知れません。分かりませんが 何か つねに なすべき仕事といったものを持っている。この《持っている》という気持ちが つよいのかも分かりません。 だって 正義にしても 死にしても わたしの場合 ほんとうに 考えないですよ。思索として議論として主題を捉えたときに 初めて 意識にのぼるのですから。 イデア といったことを 出しておられましたか? 観念ですね。それが 強い人間であるというお方なのかも分かりません。 ただ 色がどうだとかも 言っておられますね。これは どうでしょう。わたしには 何とも 分からないのです。 けっこう長く対話はつづいていますが まだ 何かどこか わたしには分からない探究のような悩み 悩みのような探究を持っておられるのかも分かりませんね。どうでしょう。
こんばんは。 bragelonne様の関わっていらっしゃる質疑は興味深く、是非とも読み解き、自分の身にして行きたいと思うのですが、悔しい事に私の理解がついて行きません。涙 んーーー。。。自分のアンバランスさと混沌と澱みをしっかりと感じ取れてしまう「あまり健康でない」状況から来ているのでしょうか。。。 この理解の鈍さが是非是非「一時的な症状」であって欲しいと願っています。 だって、こんな自分が一生続くなんて。。。ちょっと嫌です。。。 さて「論たけなわの場へどう割り込むか?」と言う器用さは持ち合わせておりません。 只、頂いたお礼へ、ちょっと手を加えさせて頂こうかと。。。 >☆ 愛想とは「他者の領域に侵入する為の手段」。 >★ これは ちょっと かわいそう。欲のない愛想 あるいは 愛嬌もあるように思うのですが どうでしょう? >★ うらやましいです。小学四年生になったあたりから 引っ込み思案ではなかったし ならなかったのですが(つまり 活発でいつづけましたが) 何かというと 顔が赤くなってしまうのです。かなりこの赤面症には 悩みました。人の前に立つのは 苦手だったですね。 上記2点について、です。 まず1点目、愛想とは「他者の領域に侵入する為の手段」。 かなり質疑が進んでおられるご様子から、もうすっかり疑問は解けてしまっているかも知れませんね。。。でも取り敢えず。。。 「侵入」と書いたから「欲」と言う表現を出して来られたのだと思います。 私が言いたかったのは「侵入」もそうですが、「相手自ら、戸を開けたい気持ちにさせる」と言う考えも有ったのです。 「相手の領域に滑り込み易い」或は「相手に心の戸を開放してもらい易い」のは「愛想」を手段とした場合だと思うのです。 それかか2点目です。 こちらは本題とは直接には関係ありませんが。。。。^^ 赤面症については同様です。今でもちょっと「あれ?」と思った途端に顔が上気します。止める事は出来ません。 でも今はかなりましになったように思います。 小学校半ばからその「癖?」に気付きました。 自覚した事で更に頻繁にそれこそ「一瞬で耳朶迄真っ赤に」なる事が増えました。涙 でもそれと併行するように「人前で何かする」と言う事に執着するようにもなって行きました。 これはつまり「人目に晒すに値する自分」「注目されるに値する能力」を自分に求めたからに他なりません。 顕示欲とも言えるかも知れませんが、とにかく「人の為になる/役に立つ自分」になりたくて仕方が無かったのです。 勿論赤面症は傍から見て面白いらしく、かなりからかわれもしました。 だからと言って引っ込んでいるのは嫌だ!と言う、何とも意地っ張りです。 火が点いたように熱い自分の顔を私は無視しました。 無視して壇上で作文等読み進めてしまえば、そのうち熱さが引いて行く事を知りました。 無視するにも、今思えば面白い程必死でしたが。。。笑 もう少し、自分に甘えても良かったかもしれない、と今は思います。。。 以上です。^^
補足
yukkinn66 さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 私が言いたかったのは「侵入」もそうですが、「相手自ら、戸を開けたい気持ちにさせる」と言う考えも有ったのです。 「相手の領域に滑り込み易い」或は「相手に心の戸を開放してもらい易い」のは「愛想」を手段とした場合だと思うのです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 納得しました。《侵入》は 《侵す》ですからね。《進入》なら 後半の意味あいになりますね。 ★ 赤面症については同様です。 ☆ そうでしたか。 ★ もう少し、自分に甘えても良かったかもしれない、と今は思います。。。 ☆ なるほど。わたしの場合は 甘えるというふうにも思わなかったですね。とにもかくにも 人前に出れば というよりも 出るということが分かれば もう そわそわでした。 学芸会では 劇の主役をやっていたのが もう ハーモニカ合奏だったかの一員に追いやられました。人前でなければ スポーツから何から だいじょうぶだったのですが。 そうですね。三十歳ころでしたか どうも 関係性という要因があるのではないかとも ひらめきました。相手の問題 相手との関係の問題です。ちょっと 高ぶりの心になってしまうので 大きい声では言えないのですが 相手も こちらを まぶしいと思っているのかも知れないわけです。その感情が あたかも敏感に伝わってくることで こちらの赤血球だか何だかが 騒ぎ出すのではないか。こうも考えましたね。振り返ってみれば。 しかも この赤面の問題を通り越して こうも考えました。どうも 人びとは ちょうど今 議論になっているように まなざしを注ぐ・注がれるといういづれか一方の側にいるのではないかという事態。しかもこのまなざし関係が 互いに錯綜し 階層を成して網の目のごとくに 張られている情況。こういうところまで 分析が進みました。 何が言いたいかと言いますと この関係を わたしは アマテラス‐スサノヲの連関構造と言っていたのですが――二人は 実の姉と弟であるにもかかわらず―― まなざしの上下関係を形づくっており しかも あたかも一般に上から下へ 意識の排出をおこなっている。こう捉えました。 従わせるために あるいは 怒りを表わすかたちで あるいは 自分のやる方のない不満をぶつけるために そういう感情を 意識の《排泄》として 勝手に おこなっているのではないか。言いかえると 《アース(接地)》です。上司が部下に 意識を アースしている。 かくて 感染列島 ではないのか? 人びとは このアースを しない人間に対しては まぶしいし うらやましいようなのです。そのはづかしさを さらにまた アースして こちらに ぶつけてくるのではないでしょうか。これを受け取って われわれは その感情を 疑似的に 体験して 顔を赤らめる。こういうことが 幸か不幸か うそかまことか 起こるようです。 関係性の問題ではないでしょうか? アースをしないからと言って うそをつかない人間でもありませんし 悪いことを胸に考えたことのない人間でもありません。やはり 完全な善ではないのです。悪の一端をになうことになるようです。どうですか?
>「─我々の趣旨は社会学者や改良主義者としての仕事を行うことではない。理想的な監獄を提案することが問題なのではありません。」 なるほど~。非常に面白いテクストをどうもありがとうございます。 何が「狂気」で何が「普通」なんですかねえ。 わたくしね、「倫理」「道徳」の意味するところに若干「ふんだ。」というひねくれた性質があるので、 フーコの肩を持つとは申しませんが、彼が対峙していた「闇の部分」に対して「警戒」ではなく「興味」を抱きました。 こちらのサイトで紹介していただいた『毛沢東の私生活(上下)』も読みました。 まあ・・・なんだかね、でございます。 ところで、No.30の回答者様からテキトーに見繕っていただいた、妥当と思われる訳文、恐ろしく酷いですわね。 >訳者が市場経済に留め置かれたのは、むしろ良心的とも言えるでしょう。 >道具の恐ろしさは、それが用いられたとき、「フーコがそう言っている」と語られる点にある気がします。 まさにおっしゃる通り! gooも教養深く語学に長けた哲人からボンクラ脳なし主婦まで多々書き込みしていますので、玉石混合を承知の自助努力が求められると確信しております♪
お礼
mashumaro2 さん ご回答をありがとうございます。 pさんへの感謝のことばを打とうとしたとき ご回答をが 誤解等をとなって出て来たので 大笑い。 さて フーコ:《私は耐え難いものを感じる》につきましては わたしは あまり 言うべきことばを持ちません。 ★ わたくしね、「倫理」「道徳」の意味するところに若干「ふんだ。」というひねくれた性質があるので、 ☆ radicale でもなくていらっしゃるということでしょうか? わたしなどは 【Q:道徳規範は 愚の骨頂】という質問まで しています。 ★ 毛沢東 ☆ もあまり知らないですしねぇ。 ★ 何が「狂気」で何が「普通」なんですかねえ。 ☆ これは 何かを言えるわけではなく そうではなく しかも 大きな主題であると心得ております。みなさんについて 勉強してまいります。 しりきれとんぼにて。
>おれのことかぁ? 何がどう結び付くと、そういうふうになるんでしょうか。まったく
お礼
あれっ 違ったの? ヨリ・イリ・ヨセ // コギトだの アマテラス予備軍だのと言っているのは 学問畑からみれば 哲学の外だということになるのだと思ったのさ。 スサノヲ圏・市民社会に対する公民アマテラス圏において 国家の元首・国王・象徴は アマテラシテ amaterasite, amaterasity, Amaterasitaet ( feminin かな?)と言いますよ。命名も おもしろいでしょう? ちがったのなら しかたねーべ。
>☆ 要は これらの重要な術語が 多義的であると言うことですね? 解釈の幅をゆるしているということですね? そうです。ですが、その幅の問題も然ることながら、術語に幅を生み出すフーコの言説が、そもそもどういったものだったのか(それは哲学なのか、歴史なのか、はたまた、人間としての生き方なのかという、フーコ自身の受け止め方)という点もあります。 世間が評価するフーコ像と、ご本人はどうだったのかって、案外違うじゃないですか。 そして、フーコのシンパというのは、ずっと後になってあまり穏やかではない記録を作っていたりもします。こういうのを見通して、「無主体は~云々」と仰っていたのかなと思っていましたが、どうでしょうか。 僕は、「本の世界」に留まるフーコは尊敬しますが、そうではない場合は、少し警戒するようにしているんです。 >☆ 三つの術語が そこまでの解釈可能性を持つということですか? げぇーっ。そして 《ホロコースト》にまで到る? ぎゃおっ。 でも、毛沢東の例もありますから、少し後に資料をつけました。あとはご自身で、判断してください。 > ☆ このような可能性を考慮すればよいのではないですか? 意味も意義も 同じような意味です。 仰る通りだと思います。そんな大げさなという声は、まったくその通りだと思うんですが、けれど少しだけ笑えない気がするのは、フーコが実践主義者だったからです。 おそらく大西雅一郎氏の訳だと思いますが、ウェブにちょうど情報があがっていました。あまり読まれないテクストだと思いますから、お読みいただくとわかります。 ・ http://members.jcom.home.ne.jp/thinking-reed/downloads/MICHEL%20FOUCAULT%20DITS%20ET%20ECRITS%20IV-94,95.pdf 抜粋しますと(5/6)、 私はかつて狂気の歴史について本を書きました。ブランショやバルトといった数人を除いては、その本の反応は余り芳しくありませんでした。最近でもなお、大学では、学生にこの本の話をするときには、それは医者の手になるものではなく、従ってペストと同じように警戒しなければならないと注意するのが普通だったのです。ところが、あることが私を驚かせました。ここ数年前からイタリアではバザリアを中心にして、またイギリスでも反精神医学と呼ばれる運動が展開されています。もちろん、これらの人々は彼ら自身の考えと経験に基づいて運動を展開してきたのですが、彼らは私の書いた本のなかに一種の歴史的な正当化を見て取っていて、彼らはいわばその本を改めて引き受け、考慮に入れ、ある点まではその中に自分たちの姿を認めたのです。このようにしてこの本は実践的な成果というべきものを得つつあるのです。ところで率直に言うと、私は少々嫉妬深いので、今度は自分自身でやってみたいと思うのです。人々に引き継がれて実践的に司法を問題にするような司法の歴史の本を書く代わりに、私は司法の問題化から始めてみたいのです。 このように語ったフーコは、ちょうど同じ時期に、デリダから受けたテクストの批判に対して、こんなふうなことを回答しています。――デリダの批判は、『狂気の歴史』とそれに続くテクスト群が、つまり哲学の外側にあるという点を問題にしている。けれどそれは、フランスにおける哲学が、常に実践され経験されているような他の仕方に対して、常に外から見ているだけのものであったから、だから(デリダの)批判が注目されるものに映っているだけだと答えたんです。 ずっと昔に読んだ本ですが、70年代を迎えたころに、彼は何らかの線を越えたのだなと思います。
お礼
passcard さん ご回答をありがとうございます。 その後 昼寝(夕寝)して いま起きたところ。 ざっと読んだら ここに言うフーコたぁ おれのことかぁ? あとは 夕食と夕刊のあとにします。
補足
passcard さん むつかしい。そのむつかしさというのは きわめて複雑に 事項もしくは(/ ならびに)視点が 入り組んでいて 何を 議論の焦点にすればよいのか 迷うところです。 ご回答をありがとうございます。 でも ひょっとすると 最大の論点は 案外 はっきりしているかも知れません。 【Q‐2】 愛想のよいわるいは 対話や議論の文章に 関係しますか? →【Q‐2a 】 ぶっきらぼうは 文体をつくるか。 →【Q‐2b 】 《文体は 人間である》に 例外があるか。 要するに わたしは 先の質問【Q:けんかをしては・・・】において この例外となるかに思われる事態に出会ったのです。(具体的には 四人の数にのぼります)。この失敗ないし敗北のありさまを しっかりと 分析しておかねばならない。 で ★ フーコが実践主義者だった ☆ に 少しだけ 触れるなら 二点 あります。 1. 文体は――そして ぶっきらぼうも 文体であるなら ぶっきらぼうも―― 《実践》である。要するに 生活が 実践である。 2. 迂回生産も あるのだから とうぜん 悠長な研究や著作活動も 実践であり 《生産》である。 ☆ 何だかんだと言っても いちいち 実践に 実践主義などと 主義の語をつけるところが どうも 気に食わぬ。意味があるのですか? 井戸端会議が 生活であり 実践です。その上に 経済・政治ないし文化活動は すべて 乗っているでしょう。 ★ 世間が評価するフーコ像と、ご本人はどうだったのかって、案外違うじゃないですか。 ☆ これにつきましては 両方の見方があると見るべきでしょう。あるいは ひとの数だけ 見方があると言うべきでしょう。さらにあるいは 一人のひとにとってさえ いくつかの見方があるかも知れません。 言いかえれば その像の一つひとつを 必要に応じて 取り上げて 論じていけばよろしいのでは?――〔あぁ この提言をしも 実践主義と言いつべきかな〕。 ★ 〔ずっと昔に読んだ本ですが、70年代を迎えたころに、〕 彼は何らかの線を越えたのだなと思います。 ☆ これも――まづ 何を言おうとしているのか にわかには 分かりがたいものがあるのですが―― このひとつの像を取り上げるのなら それとして しっかりと 問題提起すればよいのだと考えます。どうでしょう? オブスクランティスモは よくないのぢゃなかっぺ? それとも 自分の視線まで 上がって来いと呼びかけています?
お礼
結論:第二階がなかりせば けんかは 仲間うちのむしろ交流であり 交通のひとつのかたちであった。のではないか? どうでしょう? * あるいは イリ歴史知性の中から ヨセ超歴史知性が出たのと 似てはいるが 少し違うアマアガリも見られました。その後 歴史知性が 理性として・理性なる神として 歴史を超越するかたちで あがめられるようになった。のではないか? * 内面において自己崇拝的な《ヨリ》を《復活》させてのように あらたな歴史知性として立った《コギト》知性。これによれば たしかに もはや 人びとの知性は 針ねずみのごとき容貌を現わして来た。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《コギト》について 悪口のみを言っています。偏見です。《はさみ》説を普及させる必要があります。 かくて 世界は 《ヨリ・イリ・ヨセ // コギト》なる知性の入り交じる交通関係網より成るとなるでしょうか。粗削りですので よろしければ たたき台として どうでしょう? 現代には 《純粋な》ヨリは いないでしょうね。イリ歴史知性に 一たんは 目覚めたのに ふたたび どういうわけか ヨリの眠りのほうへ 傾いていく。それが のっぺらぼうなのかも知れません。 まなざしをもっぱら上から注ぐ超越知性のヨセも ふつうのイリ歴史知性が 本籍です。コギトも 同じくです。コギトを イリが使うのと ヨセが使うのとでは 微妙に 違ってくるのではないでしょうか? 二階建て構造は むしろ 逆立ちしていないでしょうか。
補足
mashumaro2 さん もう一度お早うございます。ご回答をありがとうございます。 興味本位から入ります。 ★ キッチンにおいては「全て」を包み込める女性とはいえ、男性同様に譲れない流儀がある、ということでしょうか。 ☆ あぁ これも 或る種の ぶっきらぼう ですね。よかった よかった。と言っても いけませんかね。 なるほど 上手におっしゃる。フーコは はさみであると。(フーコーを改め フ―コ とわたしも します)。例の passcard さんから そういうふうに一度指摘されていたのですが たとえば次のような指摘も あたまに残っていました。 ▲ (今村仁司:構造主義 『現代思想を読む辞典』1988)~~~~~~ ・・・ 構造主義の《構造》概念に関する認識論的諸問題 さらに構造主義が秘かに想定している存在観の諸問題を吟味することが残されている。 構造主義の科学は完了しているのではなく 今後も批判と討議を経て発展すべき未来に開かれた学問である。 構造主義に反対することは 認識論的にみて反動的である。したがって 構造主義の認識上の成果を踏まえつつ 同時に認識論上と存在論上の批判的検討を条件として私たちは前へと一歩進まねばならない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《構造主義が秘かに想定している存在観》 これですね。認識論は はさみでしょうが 思想つまり すでに 生活態度の問題にも 入って来ているようにも感じたのでした。《無主体》説では 困ると思います。ぎゃくに 認識論だけなら・つまり はさみであるなら 道具であるということですから 無主体は 当然ですね。 ○ 鬼に金棒 ☆ この表現は 鬼も金棒も 話し合い主義にとっては まずいですね。戦略・戦術だとか 男性軍・女性陣だとかも そろそろ 代わりの表現を探すべきでしょうね。《大船に乗った気持ち》も どうも古いですね。 さて 前編からのつづきとしましては mashumaro2 さんと《過激性》を競うという誘惑にかられました。 ☆☆ (【Q:けんかをしては 何故 いけないのか】No.78補足欄)~~~~~~ その昔 ひとが死ぬということを知ったとき ひとは その存在の時間的な存在性に・そしてその時間的な存在が互いにいとなむ世界に みづからの意志において 《イリ(入り)》しました。歴史知性の獲得です。 その以前には なにごとにも《ヨリ(寄り・依り・憑り)》する原始心性でした。アニミズム心性でしょうか。 歴史知性を確立していくにつれ 《ヨリ心性》に留まっている場合をどうするかという議論が起き 片や そのまま 《イリ知性》の漸進的な歩みを説く人びとと そして 片や そうではないと言って この歴史知性の潜在なるままの《ヨリ》原始心性を 《ヨセ(寄せ)》るのだと主張する人びとが出て 対立します。 結果は ヨセなる言わば超歴史知性の側に イリ知性の側が 国ゆづりするというかたちで 譲歩し従属することになりました。 途端に それまでの社会は いわば平屋建てであったものが 二階建てに早変わりしました。むろん 二階には スーパー歴史知性なるヨセ派が 住まうということになります。 この二階から 説いて言うには 第一条として ▲ 一に曰く、和(やわらぎ)を以(もち)て貴(たふと)しと為し、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。 ☆ でした。そののちにも 大きく王位を争う六七二年の乱をはじめ 自分たちの雲の上では 波風を立てても よいが 下々では ならぬと言う。その以前には 蘇我氏と物部氏が 仏教受容かどうかで 争ったとき 聖徳太子は 前者の軍に加わり戦っておきながら 上の条文をこしらえた。 ということは 《ヨセ》なる知性は 別格であって 人びとは その知性に対して 波風を立ててはならないと言っている。ことになるのでしょうか? どうでしょうか? ヨセなる超歴史知性:天つ神 イリなる歴史知性: 国つ神 ヨリなる原始心性: うつ(現)しきあをひとくさ(青人草) あるいは ○ 罪には ヨセなる第二階を侵そうとする天つ罪と イリなる第一階で争われる国つ罪とがある。 ☆ という世の中が 出来あがって行きました。とさ。