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カトリックで肉食禁止の日の言い訳の仕方 その2
これは、同じタイトルの質問http://okwave.jp/qa/q7362287.htmlの続編です。 カトリックでは、今でも年に2回、肉を食べてはいけない日(キリストの亡くなった日の前の40日間である「四旬節」の初日である「灰の水曜日」(2012年は2月22日)と最後の「聖金曜日」(2012年は4月6日))がありますが、私は、親類の法事が「聖金曜日」にぶつかってしまい、肉が食べられないことをどのように言い訳するかという質問です。 ご回答者の多くは、「宗教的理由で食べられないことは立派な理由になるので、はっきりと言った方がよい。」というもので、私も一応納得して、質問をクローズしました。 しかし、本日教会に行き、神父様に相談した所では、「いや、それは社会生活を円滑に送ることを優先した方がよい、肉を食べなかったら、明らかに先方に気付かれるし、社会生活にも支障がある。その日に守れなくても、自分なりに、日を変え、品を変え、ささやかな神の前での「犠牲」を払えばよい」、と言われ、心が軽くなりました。 その後の信徒仲間との対話でも話題にしましたが、やはりカトリックは、そのあたりの考え方が、きわめて融通無碍というか、悪く言うと「いい加減」(笑)という感じで、信徒としての居心地は非常に楽な気がします。 その後No.5で回答した質問「キリスト教に身体的・肉体的修行はありますか?」 http://okwave.jp/qa/q7365596.htmlでも 「No.4さんご回答の末尾にある通り、新訳聖書マタイ伝六章16-18には、さあこれから断食をするぞ!とか祈るぞ!などとこれ見よがしに行うのではなく、誰にも気が付かれないように行うことが推奨されておりますので、やはり「形式」よりも、心の内の「実質」が伴えばよい、との解釈のようです。」 と書きましたが、カトリックはそのあたりの解釈が非常に柔軟だという印象を強く受けます。 長くなるので、詳細は省略しますが、他宗教に対しても、非常に友好的で、対話をしようという意欲が感じられるのはカトリックです。 このあたりの私のコメントを読み、皆様はどのように思われますか? カトリックやキリスト教に対するイメージは、変わりましたか? (なお、キリスト教でも、プロテスタントの方はもう少し厳格なイメージが私自身あります。)
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なんだ、もっといい訳をかんがえて上げようと思ったのに。 「一日ベジタリアン・ダイエット始めました」とか。 キリスト教やカトリックが柔軟だとは全く思いません。たまたまoozora2000さんの教会の神父さんがやわらか頭だっただけですよ、きっと。 歴史的にも視野の結構狭い人達が、世界中に自分の宗教を広めながら、現地の文化や習慣を踏みにじる、同居できない固さがいまだにありますから。 助け合いの心もいいですが、その後教会に来ませんか、入信しませんかとのお誘いがしつこくて、困る事もあります。 宗教抜きでもいい行いはできますよ。ところがカトリックの方々はそう思わないらしくて、入信しないと世界の終わりに救われるのは信者だけだとの賜るので、やっぱり敬遠させていただきます。 旦那はプロテスタントだと言いますが、プロテスタントは教会に行かないのが売りです。ははは。
- bismarks05
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>カトリックはそのあたりの解釈が非常に柔軟だという印象を強く受けます。 長くなるので、詳細は省略しますが、 『他宗教に対しても、非常に友好的で、対話をしようという意欲が感じられる』のはカトリックです。 歴史的には、カトリックは非友好的で対話拒絶な傾向が強いとしか思えないのですが? 冷静に考えてみましょうよ。 魔女狩り・十字軍の大虐殺・宗教改革での非カトリック派の弾圧・異教徒狩り・ナチス、ムッソリーニとの紐帯関係・異端審問・黒人奴隷の容認・ これらの被害者は、おそらく現在の地球人口を軽く凌駕しますよ 十字軍の謝罪にしろ、魔女狩りに関する自己批判といい・・・指摘される見解は、歴史的には支持者は皆無だと思いますが? カトリックの定義も怪しいわけですが、歴史的には、イスラム教徒の方が友好的だし、対話する事例が圧倒的ですよ 手前味噌すぎるとしか思えませんね 信者独特の思考停止が顕著で、比較するための前提知識もない比較をしてそうな話です
お礼
長いこと、ほっぽらかしにしてすみませんでした。 正直どうお礼したらよいか、考えあぐねて、時間が過ぎました。 全体を読んだ感想を先ず言うと、非常に敵意に満ちたご回答で、こちらも正直敵意を感じました。 「ミラーの法則」と言うのがあるのをご存知ですか? 人は、好感を持った対応をされると、こちらも好感を持てるが、敵意を以って対応されると、こちらも敵意を感じざるを得ないと思います。その関係は丁度ミラー(鏡)のようであり、「人間は感情の動物である。」ということわざは偽りのない所だと思います。 尚、このことは、何も相手の言説に迎合せよ、と言っているのではありません。人は夫々考え方、捉え方が違い、意見が違うのは当然です。しかし、「歴史的に支持者は皆無」だと言うように、極端に白黒をつける言い方や、「手前味噌すぎるとしか思えませんね」という突き放し方には、強い抵抗を感じます。こういう言い方、喋り方をする方には、たとえそれが正論でも、誰もついてこないのではないでしょうか? たとえ反対意見を言う/書く時でも、おのずから、相手に対する敬意やマナーがあってもいいのではないかという、私自身に対する「反面教師」になったご回答のような気がします。 さて、内容について冷静に考えてみますと・・・ 1.確かに、歴史的には、カトリックは非友好的で対話拒絶な傾向があったのは事実だと思います。挙げられたような、魔女狩りや十字軍をはじめとした悪事や植民地獲得に至る世界制覇に手を貸した、或いは主体的に先導した事実は否めず、前ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世が、これらに対して2000年、公に謝罪された通りです。↓ http://blog.goo.ne.jp/heywa/e/bdc7c6da1dda74488e24e6cba8fc77b8 http://home.att.ne.jp/wood/aztak/untiku/itan.html 勿論、教団のトップが謝罪したとしても、過去の悪事が清算されるわけではありません。過去の歴史は変えられません。しかし、未来の自分たちのあり方を変えることは可能です。 こうした謝罪や自己批判自体を意味のないことだと考え、「支持者が皆無」と言い切るのなら、「何をか言わんや」であり、「敵意に満ち溢れた意見」だと言わざるを得ないのではないでしょうか? 2.カトリックを含むキリスト教は、一神教の神を戴く、とっつきにくい神だという印象は、今でも私にあります。私は1969年に17歳で洗礼を受けて既に43年の月日が経ちましたが、家族全員が信者で幼児洗礼を受けたような人達とは違い、今でも「お客さん気分」を払拭できない所があります。私のDNAには、カトリック信者である以前に、仏教や神道など日本の伝統的な神仏に対する深い敬愛の念があり、坐禅や読経に参加した経験も多く、諸宗教間との対話にも関心があります。 この「諸宗教間との対話」という面で、キリスト教の中でも特にカトリックは、近年、顕著な働きを見せており、ローマ法王庁にも、「諸宗教対話評議会」という組織があり、私の敬愛する故尻枝正行神父の活躍も忘れることが出来ません。イスラムや東方正教会との対話も進めたヨハネ・パウロ二世はじめ、諸宗教との対話を進めたカトリック司祭・司教などの葬儀には、他宗教からの参列者も多く、彼らが如何にこの面に尽力したかを物語っていると思われます。マリア・テレサも、ヒンズー教徒の多いインド・カルカッタで「死にゆく人々の家」を創立し、多くの行き倒れの人々を介護し、看取り、その葬儀には故人が希望する宗教で葬儀を上げてあげました。こうした寛容さは、プロテスタントには見られないものだと思います。 3.こうした他宗教に対する「寛容さ」への大きな起爆剤になったのは、教皇ヨハネ二十三世とパウロ六世が主催した第二バチカン公会議(1962年~1965年)でしょう。この会議では、「教会の現代化」を主テーマに、キリスト教他教派は他宗教との対話、各国、各家庭での実情に合わせたキリスト教のあり方などについて世界中のカトリック聖職者が話し合いを持ち、その結果、カトリック教会の外観は随分昔と変わったと思います。昔なら、非カトリックのものは、他宗教まで含めて全て「異端」で斥けていたものとも共存を図り、理解を示すようになったと思いますし、少なくても対話の姿勢は出てきたと思います。 4.私の通った小学校はミッションでしたが、修学旅行では京都・奈良の社寺を訪ねて普通に手を合わせましたし、私の自宅には今、祖父母以前のための仏壇と父の為のカトリック祭壇が併存しており、私は両方に毎朝晩手を合わせています。 又、聖書研究を中心としたプロテスタントの神学に対し、上智大学あたりで展開されているカトリックの神学では、他宗教への造詣が深い神父がたくさんおられ、もっと「宗教」全般に対する研究が盛んです。 反面、「寛容になりすぎる」ことにより、何でも思考停止状況で許容する面も確かにあり、節操がないとも感じられるかもしれませんが、少なくても、偏狭な原理主義の空気が漂うプロテスタントよりもいいのかなと思います。(私がプロテスタントなら、何でも「偶像崇拝」と言って斥ける教えにはとてもついていけません。) 「神の存在」をはじめ、数々の教義については、人間の浅智恵でいくら考えても答えは出せません。そのようなことについて深く考えることは神学者に任せ、たとえ「思考停止」と言われようと、我々の出来ることは、先ず、日ごとの自分の心のあり方を律し、正しい行いを出来るだけ実行し、人々に愛の精神で接するように努めることではないでしょうか?
補足
急いで書いたので誤植がありました。 2の文中の「マリア・テレサ」→「マザー・テレサ」に訂正します。
お礼
長いことほったらかしにしてすみませんでした。 キリスト教とくにカトリックが歴史的に、柔軟でない教えであったのを、20世紀の第二バチカン公会議以降、以下の多くの教父たちや現場の聖職者の努力によって、克服への道をたどり始めたかについては、前のお礼でたっぷり書きましたので、そちらをご覧ください。少なくても、ミサの典礼の中で、日本語の祈祷文を唱え、日本語の聖歌を歌うのは勿論、成人式や七五三や敬老の日なども教会で行われるようになっているように、現地の文化や習慣に寄り添う、という外観は整っているように感じます。又、教会の扉は特別の事情のある日や夜間以外は、常に開かれています。 しかし、あらゆる努力に拘らず、依然としてそういった閉鎖的なイメージは残り、又実際そのような旧態依然とした考えを持った信者や聖職者がいることも考えられると思います。 キリスト教に限らず、どんな世界でも、偏狭な考えの人はおられますし、そうした色んな人々がいてこそ、「世の中」だと言えるのではないでしょうか? 宗教以外でも善い行いは出来るとのことですが、私は、宗教心、少なくても「お天道様が見ていたら悪いことは出来ない」という気持や先祖や超自然的な存在(神)の存在を身近に感じながら生活することは、人間に必須だと考えています。 ただ、そのためにキリスト教、カトリックが唯一のものだとは感じていません。カトリックの持ち味は本来、「来るものは拒まず、去る者は追わず」の筈であり、もし、Beagleboyさんが、過去に、「入信しないと世界の終わりに救われるのは信者だけだ。」などと言う人に出会ったとしたら、その人こそ勘違いしていると言わざるを得ないと思います。
補足
お礼文に誤植がありましたので訂正します。2行目「以下の」→「如何に」です。 尚、ご回答の三段落目後半に、「oozora2000さんの教会の神父さんがやわらか頭だっただけですよ。」とありますが、決してそうとは言い切れないことは、以下の私の過去問のNo.9さんのご回答が証明していると思います。 「普通名詞としての神」に祈ること http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7321056.html