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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:ぶっきらぼうは いただけませんか?)
ぶっきらぼうとは何か?
このQ&Aのポイント
- ぶっきらぼうとは、話し方や態度に愛想がないさまを表す言葉です。
- また、勢いよく切ることを意味する言葉でもあります。
- 言葉づかいの上で言い放った一文がそこで話を終わらせる勢いがあり、相手の話を突っ弾く傾向があります。
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noname#189751
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- NemurinekoNya
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- NemurinekoNya
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回答No.2
- foosun
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回答No.1
お礼
いやぁ ぴったりずばりど真ん中のお答えをありがとうございます。 そうですね。 まづは ★ ~~~~ 無意識における符号化ですが これは、情報に対する感性的符号化のことです。 ・・・ ~~~~~~ ☆ これについて先に取り上げます。 いやぁ わたしは必ずしも《符号化》はしませんね。《情報》はそのまま情報としてしまっておくと思います。《要らないとはっきり判定する》とか《中身はいいから そういう情報があることだけを記憶しておく》とか《これは最重要ゆえに 何度も振り返ってみるのだ》とか そういう仕分けはしますが 符号化はしませんね。 ★ ~~~~ この符号の付け方や取り扱い、用い方などが 言葉となって顕れてくるように思います。 このへんについては人間学というのか深いものがあると思います。 ~~~~~~ ☆ ううーむ。 あっ。少し気づきました。ほんの少し。つまり たとえば一冊の本があります。読んだあと 《あの情報は 終わりのほうの左のページにあったな》とか 《その情報はしっかりと赤線をつけてあるはずだ》とか こういう《しるし化》はしていますね。 あるいは あの本は 書棚のあそこの位置に置いただのといった《しるし化》はありますね。 ただ 残念ながら そこに《人間学》のにおいを嗅ぎ取ったことはなく なんとも・・・。 これは 人ひとりひとりで違うものなのですか? つまり そういう情報の符号化をおこなっている人びとのあいだで その実際のやり方はまちまちなのでしょうか? そこに性格や人となりが現われるといったような? さて ぶっきらぼう問題。 ★ ~~~~~~ あ-それはですね もうウラミっぱなしですね。 血管がぶち切れそうな感じです。 ぶっきらぼうの鋭い刀で見事に切られっぱなしで、全身傷だらけです。 満身創痍で よくここまで生きてこれたなと、我ながら感心します。 ~~~~~~~~ ☆ これはですね。わたしに一家言あるのです。 ふたつの主題で説明できます。精神のストリップ論とそして《人は誰からおそわるか? 自分からではないか?》論 このふたつです。 この答えを知っていて あばうと72さんに議論を振ったかっこうに成りましたが それは待っていたのかも知れませんし あるいは われながらほんとうに何か喉につっかえるものがあって設問したという実際もあったかと思うところです。 けっきょく一般的な人生もそうだと思うのですが 特に哲学としての道では けっきょく《精神のストリップ》は――むろんまづ自分からする者はいないと思いますが―― いやでも応でも そういう羽目に落ち入る。のではないでしょうか? 弱点や恥部まで けっきょく全部 《情報公開》をする羽目になる。いやがおうでも です。 真理の探求とは そういうことだと考えます。 もう一点。 【Q:ひとは だれから おそわるか】 ~~~~~ http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4974759.html 【命題】:おしえる者は ほんとうには ただ記号(つまり通常は ことば)を伝えるだけである。 これを受け取って おそわる者は 自分の記憶野に尋ね 知解し 当否を判断する。 ゆえに 単なる知識や情報のやり取りでないなら ひとは だれからも おそわることはない。自分で能力を開くのである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ よって 1. ひとは 自説が切られたとき 何ら傷を受けるものではない。 2. それはただ それ以前まで持っていた《自慢》がくづれただけである。(思索の過程とその中身は どこまでも 有効でありつづける)。その自慢に わが精神はほんとうには居着いていない。よって 心が傷つくことはない。 3. それは――つまりもし 傷つきウラミっぱなしの部分があるとしたなら それは―― ぶっきらぼう氏が みづから通って来た道である。ほんとうには傷ではなかったと知っており ウラミの問題ではないと知っていることを意味する。 4. このように――それでもウワベの心理のうごきにおいては 火の中をくぐり抜けて来るような試練の過程なのだが このように――試練が人びとの前に・心の中にそなえつけられたごとく待っているのは それでも神の慈愛である。 5. なぜなら 《自慢》の旗を人知れずひそかに高々と打ち建てたのは ほかならぬおのれであるのだから。神は ひとが願う願わないにかかわらずこのしんきろうなる旗をいっぺんどういうものか考えてみてみなさいと言ったことになる。 ★ まあ 何といいますか 人間模様の一幕でしょうかね。 ☆ でしょうかね!? 《わろきこと》は おのが心に。 《よきこと》は――神にと言わないなら―― じんるいの秘所なる共有性の部分に。 カッコウをつけすぎましたか。