bragelonne様、へっぽこなわたくしをお導き下さっていつもありがとうございます。
>《ぶっきらぼう》が 世界に飛躍するかになってまいりました。
すみません(汗)、bragelonne様とは違った「せっかち=理解不能はすっとばして次へ進む」悪い性質なので、このペースで行くと近日中には「宇宙物理学と人間哲学「ぶっきらぼう」は重なる極点があるのか?」などと飛躍しているかもしれません。
なお、過去に頂いた大小様々な卵はあたため中です。
>もうひとつ しかも ことは いわばわたしたちの議論のことの発端にも行き着きました。
○ 《蚊が刺しただけ》という命題。
すみません(汗)、あの質問全体がわたくしの理解の範疇を超えていたため、「Qui pleure la, sinon le vent simple,...」と、愛しのエロ・オヤジの性愛談義と、a様の「Marshmallow÷2=66?」の箇所しかまともに読んでおりませんでした(反省)
質問者様におかれましてはbragelonne様の「無効は どこまでも 無効である。初めから なかったのである。」は極めて崇高かつ説得力があったかと思われます。
ですが、「無効はどこまでも無効だからという論理で、痴漢したエロ爺を愛せよ」なんて、わたくしはババアなのに絶対ムリです(笑)
閑話休題★☆★☆★☆
【男尊女卑という《 A ‐S 》差別連関 その他の差別問題】
○ ゆづった側は その自由が 有効である。
よろしければこの場合における「男尊女卑」や「その他の差別問題」につき参考例をあげていただきたくお願い申し上げます。
就学前~女子高生まで「女の園」で育ち、大学~社会人時代~今日まで「これだから女ってズルイ!」と始終言われてそのつど「悪いわね」と謝ってきたので、「男尊女卑」の概念における「デメリット」を「メリット」ほどに感じておりません。
また、夫の実家は「アマテラス一族」の神話の世界の近県に位置するスーパー男尊女卑的ド田舎と揶揄されておりますが、「名より実を取るように」舅は姑に頭があがらない状況です(ちなみに高千穂は素晴らしく良いところですよね!)
むしろ、なまじ一律に男女平等を「規範」とすることにより、必ずしも全ての事象が「メリット」ばかりになった、とは言い切れないようにも思えるのですが…この点につきましても、あまりよくわかりません。
【しかも この命題かつ問題を 世界という視野に立って 考えていかなければいけない。これに わたしたちは 直面しているようです。】
はい、これには大いに賛同致します。
記憶に新しいところでは、Six-Party Talksで目前の大いなる懸念【「日本という国の存続並びに大多数の国民の安全保障にも関わる核実験施設の査察」<<<「少人数の自国民の命と安否確認を最優先」】を我が国が一貫して主張してきたことと重なるかと思われます。
もちろん拉致被害者の関係者の方々のご心情からすればごもっともではあるのですが、人的物的損害規模からすれば、核査察や各実験施設の解体促進をも最優先事項として挙げられる可能性があります。
この辺りの判断はかなり難しいところかと思われます。
いかがお思いになられますでしょうか。
【日本国政府は議論の末、10月1日に福田赳夫首相(当時)が「人命は地球より重い」と述べて、身代金の支払い及び、超法規的措置としてメンバーなどの引き渡しを決断】
たしかにbragelonne様のご主張通り、この件は対外的に非難の集中砲火を浴びたようではあるものの、その後の各国におけるテロ対策や日本と言う国の孕む「一種独特で異質な価値観」を世界に知らしめた点において、今以上により評価されて良いのかもしれません。
ただやはり「人工衛星打ち上げ」を行った隣国と「やっぱありゃ人工衛星だよね」と同調する別の隣国の対日姿勢に関して言えば、やはり日本にとっては究極の「ぶっきらぼう」のように思えるのですが、はたしていかがでしょうか。
【まとめ:《超法規的措置》の有効性や いかに。という主題】
1. 無効行為をおこなう人間について その存在は われわれは 愛さなければならない。
М:一概にはムリ。無効行為を行う相手を愛するにも限度というものがあり、痴漢も将軍様もつけあがるから牽制する必要があるのではないでしょうか。
2. むろん 行為の無効は無効だと どこまでも 言って 批判をつづけていく。
М:行為の無効は無効だというのには、1と同じ理由なので、ケースバイケースで対応する必要を感じます。肝心なのは、国連決議であれ議長声明であれ、いかに具体化し実効させるかであって、批判の連呼だけでは意味が薄いと思われます。
3. すなわち 存在を われわれの存在と同じ程度には とうとぶのであるなら その理不尽な要求に 屈服し ゆづらなければならない。
М:北朝鮮のミサイル攻撃には晒されたくありません。やはり理不尽な要求の内容いかんかも知れません。いかがお考えでしょうか。
理念としてはとても素晴らしいものなのですが、う~ん。
4. よって 犯行者については 生け捕りが 至上命令となる。
М:これは3の流れ「存在を われわれの存在と同じ程度には とうとぶ」の論理からすれば妥当かと思われます。
ただし、被害者が既出だとして、そのご遺族の心中を察すれば、ケースによっては必ずしもその限りではなさそうな気も致します。
5. これが 《人命は 地球よりも重い》の意味だと考える。
つい近年発生したタリバンによる現地民間外国人拉致事件と釈放状況を踏まえれば、時代の風潮は日本赤軍の時代より幾らかbragelonne様のご主張寄りになってきているように日本人のわたくしからは思えるのですが、はたしてどう思われますでしょうか。
最後に、ふと浮かんだことなのですが。
今までアウグスティヌスの引用を盛んになさっていらっしゃったのは、単純に純粋なるキリスト教徒の信仰心からではなく、一人の人間として内なる自分を誰よりも深く思索し究めた彼の哲学思想が何か今回の「スサノオ云々」にリンクするから、のように思えてきました。不思議です。
間違っておりましたら、こちらに関しましても訂正をお願い申し上げます。
お礼
結論:第二階がなかりせば けんかは 仲間うちのむしろ交流であり 交通のひとつのかたちであった。のではないか? どうでしょう? * あるいは イリ歴史知性の中から ヨセ超歴史知性が出たのと 似てはいるが 少し違うアマアガリも見られました。その後 歴史知性が 理性として・理性なる神として 歴史を超越するかたちで あがめられるようになった。のではないか? * 内面において自己崇拝的な《ヨリ》を《復活》させてのように あらたな歴史知性として立った《コギト》知性。これによれば たしかに もはや 人びとの知性は 針ねずみのごとき容貌を現わして来た。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《コギト》について 悪口のみを言っています。偏見です。《はさみ》説を普及させる必要があります。 かくて 世界は 《ヨリ・イリ・ヨセ // コギト》なる知性の入り交じる交通関係網より成るとなるでしょうか。粗削りですので よろしければ たたき台として どうでしょう? 現代には 《純粋な》ヨリは いないでしょうね。イリ歴史知性に 一たんは 目覚めたのに ふたたび どういうわけか ヨリの眠りのほうへ 傾いていく。それが のっぺらぼうなのかも知れません。 まなざしをもっぱら上から注ぐ超越知性のヨセも ふつうのイリ歴史知性が 本籍です。コギトも 同じくです。コギトを イリが使うのと ヨセが使うのとでは 微妙に 違ってくるのではないでしょうか? 二階建て構造は むしろ 逆立ちしていないでしょうか。
補足
mashumaro2 さん もう一度お早うございます。ご回答をありがとうございます。 興味本位から入ります。 ★ キッチンにおいては「全て」を包み込める女性とはいえ、男性同様に譲れない流儀がある、ということでしょうか。 ☆ あぁ これも 或る種の ぶっきらぼう ですね。よかった よかった。と言っても いけませんかね。 なるほど 上手におっしゃる。フーコは はさみであると。(フーコーを改め フ―コ とわたしも します)。例の passcard さんから そういうふうに一度指摘されていたのですが たとえば次のような指摘も あたまに残っていました。 ▲ (今村仁司:構造主義 『現代思想を読む辞典』1988)~~~~~~ ・・・ 構造主義の《構造》概念に関する認識論的諸問題 さらに構造主義が秘かに想定している存在観の諸問題を吟味することが残されている。 構造主義の科学は完了しているのではなく 今後も批判と討議を経て発展すべき未来に開かれた学問である。 構造主義に反対することは 認識論的にみて反動的である。したがって 構造主義の認識上の成果を踏まえつつ 同時に認識論上と存在論上の批判的検討を条件として私たちは前へと一歩進まねばならない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《構造主義が秘かに想定している存在観》 これですね。認識論は はさみでしょうが 思想つまり すでに 生活態度の問題にも 入って来ているようにも感じたのでした。《無主体》説では 困ると思います。ぎゃくに 認識論だけなら・つまり はさみであるなら 道具であるということですから 無主体は 当然ですね。 ○ 鬼に金棒 ☆ この表現は 鬼も金棒も 話し合い主義にとっては まずいですね。戦略・戦術だとか 男性軍・女性陣だとかも そろそろ 代わりの表現を探すべきでしょうね。《大船に乗った気持ち》も どうも古いですね。 さて 前編からのつづきとしましては mashumaro2 さんと《過激性》を競うという誘惑にかられました。 ☆☆ (【Q:けんかをしては 何故 いけないのか】No.78補足欄)~~~~~~ その昔 ひとが死ぬということを知ったとき ひとは その存在の時間的な存在性に・そしてその時間的な存在が互いにいとなむ世界に みづからの意志において 《イリ(入り)》しました。歴史知性の獲得です。 その以前には なにごとにも《ヨリ(寄り・依り・憑り)》する原始心性でした。アニミズム心性でしょうか。 歴史知性を確立していくにつれ 《ヨリ心性》に留まっている場合をどうするかという議論が起き 片や そのまま 《イリ知性》の漸進的な歩みを説く人びとと そして 片や そうではないと言って この歴史知性の潜在なるままの《ヨリ》原始心性を 《ヨセ(寄せ)》るのだと主張する人びとが出て 対立します。 結果は ヨセなる言わば超歴史知性の側に イリ知性の側が 国ゆづりするというかたちで 譲歩し従属することになりました。 途端に それまでの社会は いわば平屋建てであったものが 二階建てに早変わりしました。むろん 二階には スーパー歴史知性なるヨセ派が 住まうということになります。 この二階から 説いて言うには 第一条として ▲ 一に曰く、和(やわらぎ)を以(もち)て貴(たふと)しと為し、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。 ☆ でした。そののちにも 大きく王位を争う六七二年の乱をはじめ 自分たちの雲の上では 波風を立てても よいが 下々では ならぬと言う。その以前には 蘇我氏と物部氏が 仏教受容かどうかで 争ったとき 聖徳太子は 前者の軍に加わり戦っておきながら 上の条文をこしらえた。 ということは 《ヨセ》なる知性は 別格であって 人びとは その知性に対して 波風を立ててはならないと言っている。ことになるのでしょうか? どうでしょうか? ヨセなる超歴史知性:天つ神 イリなる歴史知性: 国つ神 ヨリなる原始心性: うつ(現)しきあをひとくさ(青人草) あるいは ○ 罪には ヨセなる第二階を侵そうとする天つ罪と イリなる第一階で争われる国つ罪とがある。 ☆ という世の中が 出来あがって行きました。とさ。