• ベストアンサー

ぶっきらぼうは いただけませんか?

 【Q‐1】 まっ 罪ではないでしょうが ぶっきらぼうは 負の印象でしょうか?  【Q‐2】 愛想のよいわるいは 対話や議論の文章に 関係しますか?  【Q‐3】 ひとは ぶっきらぼうが その地であるのでしょうか?  それとも 何らかの愛想があることが 地であって その上に 愛想の多い少ないや よい悪いが 図柄となって 実存していますか?  【Q‐4】 《愛想》とは 何でしょう? あるいは 《社交性》とは どういうことでしょうか? つまり 《ぶっきらぼう》には 社交性は ないでしょうか?  自由にご見解を述べて ご回答をお寄せください。  【Q:けんかをしては 何故 いけないのか】には たくさんのご回答を寄せていただき まことにありがとうございます。これは 続編のごとくになりますが よろしくどうぞ。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
noname#96756
noname#96756
回答No.16

bragelonne様、いつもわたくしを諭して下さって本当にありがとうございます。 わたくしとのやりとりが「bragelonne様が何らぶっきらぼうでもなんでもない」ことを証明しているかのようです。 お題:ぶっきらぼうvsのっぺらぼう >わたしの思うに その中味が《未整理・未整頓》であっても 《いま・そこにいる存在》のほうが 哲学や自然科学のとうとい営みよりもやはり《えらい》のです。この大前提に立って と言いますか この大前提じたいが 《わたし》の問題 すなわち それとしての《他人》の問題なのではないかと思っています。さて いかがなものでしょう? はい、おっしゃる通りでして、だからこそ【のっぺらぼうが多数派】なこの時代だからこそ【哲学や自然科学のとうとい営みよりもやはり≪えらい≫のです。】とこだわりをもって信条を貫くという意味の【ぶっきらぼう】なお方が何よりも「貴重で得難い」のだと確信するのです。 それに≪わたし≫を尊重すればするほど、≪わたし以外≫のものが相対的に尊重されなくなるのは自明のことです。 何故あえて両者の優劣をつける「必要」があるのでしょうか。 ちなみに、≪神≫と≪ハサミ≫は同じ視点で語られるものなのでしょうか。 仮に≪ハサミ≫をフーコとするならば、「主体=使用する人」によっていかようにも社会という紙切れを切り刻むことができると思うのです。 で、≪ハサミ≫にも「顔」がついていたら、気持ち悪いし、話しかけられても困ります。 やはり≪ハサミ≫は高品質な無機質なものでないと、でものっぺらぼうと思えばやはり不気味にも思えてきます(笑)。 で、切り刻む紙切れにしても、例えばありきたりの白画用紙でも、幾重にも手間暇かけて製作された温かみやぬくもりのある美濃和紙でも土佐和紙でも、どちらでもよろしいかと思われます。 まさか≪ハサミ≫で≪神≫や≪わたし≫を切り刻むなんてあり得ないと思います。 もちろん、≪ハサミ≫を用いるのが気に入らないから、≪神≫や≪わたし≫には「両手」がありますので、必要であれば紙切れを丁寧に半分に折って、つつ~っと慎重に切る方法もアリかと思うのです。 最近の子供って、不器用といいますか、なかなか「手で切る」といったような昔ながらの手法を知らないケースが多々あるように思われます。 ですから、臨機応変にハサミや手で切るなど使い分けを伝えていきたいなあ、と母親として感じます。 そして、「さて、どうでしょう?」という一つの言葉にわたくしは限りなく「哲学の可能性」を大いに予感させられます。 だって、「科学の合理性」によるならば、どうひっくりかえっても「ハイ、終わり!」に帰結する問題があるはずです。 でも哲学の思索においてはどこまでも延々と続く可能性が秘められているのですから、bragelonne様が「さて、どうでしょう?」を放棄しない限りにおいては、わたくしはこの対話を続けさせていただけるのです。 何て嬉しいことでしょう! これって凄いことです♪ >そして たしかに この全部のボウを なぜか 女性は 持ち合わせている(包みこめる)のかも知れません。 そりゃあそうです。 この一行だけを取り上げてみると、朝から顰蹙ですが、何故か意味深なものを感じずにはいられません。 a様のおっしゃる「芸術哲学」に通じるものがあるかもしれません(汗) >その試行錯誤の道のりを 尊ばない。《あやまちを侵したであろうがあやまたなかったであろうがあとから検索することなどどうでもよい》主義。 所詮≪ハサミ≫はハサミですから。 わたくしがランチに何を食べよう?と問いかけようにもこたえられないように思うのです。 ただし、韓国焼肉のようにお肉をハサミで切るなど異文化においては「エエッ!こんな用途もあるの?」という視点はユニークで面白いものだ、とは思われませんか。 また、フランスで友人と大ゲンカしたことがあります。 たかが直径10cmの缶詰のふたを切るのに台所の棚の最上段奥から「電動缶切り」を出そうと言ったときです。 わたくしは思わず「面倒なこった♪」と言ったところ、「これは便利なの!手で切る方が面倒でしょ?」と言われて「は?バッカじゃなかろかフランス人って♪」と派手にやりあってしまったのです。 キッチンにおいては「全て」を包み込める女性とはいえ、男性同様に譲れない流儀がある、ということでしょうか。 Alors, a tout a l'heure!

bragelonne
質問者

お礼

 結論:第二階がなかりせば けんかは 仲間うちのむしろ交流であり 交通のひとつのかたちであった。のではないか?  どうでしょう?  * あるいは イリ歴史知性の中から ヨセ超歴史知性が出たのと 似てはいるが 少し違うアマアガリも見られました。その後 歴史知性が 理性として・理性なる神として 歴史を超越するかたちで あがめられるようになった。のではないか?   * 内面において自己崇拝的な《ヨリ》を《復活》させてのように あらたな歴史知性として立った《コギト》知性。これによれば たしかに もはや 人びとの知性は 針ねずみのごとき容貌を現わして来た。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《コギト》について 悪口のみを言っています。偏見です。《はさみ》説を普及させる必要があります。  かくて 世界は 《ヨリ・イリ・ヨセ // コギト》なる知性の入り交じる交通関係網より成るとなるでしょうか。粗削りですので よろしければ たたき台として どうでしょう?  現代には 《純粋な》ヨリは いないでしょうね。イリ歴史知性に 一たんは 目覚めたのに ふたたび どういうわけか ヨリの眠りのほうへ 傾いていく。それが のっぺらぼうなのかも知れません。  まなざしをもっぱら上から注ぐ超越知性のヨセも ふつうのイリ歴史知性が 本籍です。コギトも 同じくです。コギトを イリが使うのと ヨセが使うのとでは 微妙に 違ってくるのではないでしょうか?  二階建て構造は むしろ 逆立ちしていないでしょうか。

bragelonne
質問者

補足

 mashumaro2 さん もう一度お早うございます。ご回答をありがとうございます。  興味本位から入ります。  ★ キッチンにおいては「全て」を包み込める女性とはいえ、男性同様に譲れない流儀がある、ということでしょうか。  ☆ あぁ これも 或る種の ぶっきらぼう ですね。よかった よかった。と言っても いけませんかね。  なるほど 上手におっしゃる。フーコは はさみであると。(フーコーを改め フ―コ とわたしも します)。例の passcard さんから そういうふうに一度指摘されていたのですが たとえば次のような指摘も あたまに残っていました。  ▲ (今村仁司:構造主義 『現代思想を読む辞典』1988)~~~~~~  ・・・  構造主義の《構造》概念に関する認識論的諸問題 さらに構造主義が秘かに想定している存在観の諸問題を吟味することが残されている。  構造主義の科学は完了しているのではなく 今後も批判と討議を経て発展すべき未来に開かれた学問である。  構造主義に反対することは 認識論的にみて反動的である。したがって 構造主義の認識上の成果を踏まえつつ 同時に認識論上と存在論上の批判的検討を条件として私たちは前へと一歩進まねばならない。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《構造主義が秘かに想定している存在観》 これですね。認識論は はさみでしょうが 思想つまり すでに 生活態度の問題にも 入って来ているようにも感じたのでした。《無主体》説では 困ると思います。ぎゃくに 認識論だけなら・つまり はさみであるなら 道具であるということですから 無主体は 当然ですね。  ○ 鬼に金棒  ☆ この表現は 鬼も金棒も 話し合い主義にとっては まずいですね。戦略・戦術だとか 男性軍・女性陣だとかも そろそろ 代わりの表現を探すべきでしょうね。《大船に乗った気持ち》も どうも古いですね。  さて 前編からのつづきとしましては mashumaro2 さんと《過激性》を競うという誘惑にかられました。  ☆☆ (【Q:けんかをしては 何故 いけないのか】No.78補足欄)~~~~~~  その昔 ひとが死ぬということを知ったとき ひとは その存在の時間的な存在性に・そしてその時間的な存在が互いにいとなむ世界に みづからの意志において 《イリ(入り)》しました。歴史知性の獲得です。  その以前には なにごとにも《ヨリ(寄り・依り・憑り)》する原始心性でした。アニミズム心性でしょうか。  歴史知性を確立していくにつれ 《ヨリ心性》に留まっている場合をどうするかという議論が起き 片や そのまま 《イリ知性》の漸進的な歩みを説く人びとと そして 片や そうではないと言って この歴史知性の潜在なるままの《ヨリ》原始心性を 《ヨセ(寄せ)》るのだと主張する人びとが出て 対立します。  結果は ヨセなる言わば超歴史知性の側に イリ知性の側が 国ゆづりするというかたちで 譲歩し従属することになりました。  途端に それまでの社会は いわば平屋建てであったものが 二階建てに早変わりしました。むろん 二階には スーパー歴史知性なるヨセ派が 住まうということになります。  この二階から 説いて言うには 第一条として  ▲ 一に曰く、和(やわらぎ)を以(もち)て貴(たふと)しと為し、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。  ☆ でした。そののちにも 大きく王位を争う六七二年の乱をはじめ 自分たちの雲の上では 波風を立てても よいが 下々では ならぬと言う。その以前には 蘇我氏と物部氏が 仏教受容かどうかで 争ったとき 聖徳太子は 前者の軍に加わり戦っておきながら 上の条文をこしらえた。  ということは 《ヨセ》なる知性は 別格であって 人びとは その知性に対して 波風を立ててはならないと言っている。ことになるのでしょうか? どうでしょうか?   ヨセなる超歴史知性:天つ神    イリなる歴史知性: 国つ神   ヨリなる原始心性: うつ(現)しきあをひとくさ(青人草)  あるいは   ○ 罪には ヨセなる第二階を侵そうとする天つ罪と イリなる第一階で争われる国つ罪とがある。  ☆ という世の中が 出来あがって行きました。とさ。

その他の回答 (72)

  • Zohar
  • ベストアンサー率0% (0/4)
回答No.63

>さよなら。 今日は用事があって出かけないといけないから、戻ってきたらまた。 >理由は あっても 答えないというところでしょうか? 引きこもりだから。他人と会話していないのが主な原因だと思う。

bragelonne
質問者

お礼

 Zohar さん ご回答をありがとうございます。  そうですね。引用は 精確に しましょう。  ★ >さよなら。  ☆ でもなく 《ほな さいなら》でもなく 《さようなら》と書きました。意をとって 引用にも 修正をほどこすこともあってよいと考えますが 意をゆがめる場合には 気をつけたいと考えます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   >理由は あっても 答えないというところでしょうか?  引きこもりだから。他人と会話していないのが主な原因だと思う。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ こうやって投稿しているからには これは 理由になりません。理由を述べないのなら 投稿もしない。または それでも 投稿したなら 無視されてもかまいませんと 断わっておいてください。  ★ 今日は用事があって出かけないといけないから、戻ってきたらまた。  ☆ としましょう。

  • Zohar
  • ベストアンサー率0% (0/4)
回答No.62

こんにちは。 みんなが盛り上がっている理由がわからないけど なんか言えというなら 私はこれで良い。 みんな私のことがわかってない。 ぶっきらぼうでした。

bragelonne
質問者

お礼

 Zohar さん ご回答をありがとうございます。  そうですね。  ★ 私はこれで良い。  ☆ つまり  ○ ぶっきらぼうで良い。  ☆ というご見解でしょうか? 理由説明はなしですか。それとも  ★ みんな私のことがわかってない。  ☆ ゆえに 理由は あっても 答えないというところでしょうか?  わかったような とは言い難く どこまでも 分からないようなご回答ですが ありがとうございました。さようなら。

noname#83559
noname#83559
回答No.61

 「ぶっきらぼう」を記号的に考えるなら、回答者ID下の「専門家」と「一般人」の違いなどが、それではないかなとも思います。また、近ごろ度々耳にする「回答専門家」と「質問専門家」というのもまた同型的だと思います。  それらの使用法にポリシーを持つ――という方々にとって、それはテクストを読む(また読んでもらう)というための愛想だろうと思いますが、どうでしょう?  このような記号に無頓着であるという方々、あるいはそもそもそんな記号に意味があるのだろうかと思う方々は、愛想を振り撒く方々に比べれば、ずいぶん「ぶっきらぼう」だなと思われるのではないでしょうか。  また、この掲示板を「読む」ことと、質問にせよ回答にせよ「書く」こととの行為を考えてみたとき、掲示板に踊る文字たちの群れと、無言で眺める読者の視線は、愛想と「ぶっきらぼう」のどちらになるのだろうかと思わずにもいられません。  さらに、何よりも思うのは、ひとつの投稿とつぎの投稿との間に横たわる時間と空間の広がりです。現実の会話では、言葉のほかに、相手の表情、容姿や態度、間合いといった会話に必要な多くの情報を、言葉以外のものから受け取って、相手の意を汲むというような作業をしています。やり取りのなかで、これは結構、複雑な作業だと思います。  そのやり取りを、たとえば手紙のようなものにしたらどうでしょうか。  話し言葉と違って書き言葉は、確かに何度もじっくり読めるだけ、相手の意を確実に捉えられるはずだと思われがちですが、実際にはさにあらず、書かれている言葉の意味が、字面の意味から羽ばたいて、さらに広がりを持ち、驚くような深読みができてしまったりするものです。相手の意を汲むどころか、字面の意味はむしろ焦点がぼやけ、曖昧になっていくような感じです。恐らく、こういうご経験はあると思います。  どうしてこんなふうに、なってしまうのでしょうか。  つぎに、ネットの掲示板を考えてみます。  文字だけのやり取りという事であれば、結果は手紙と同じ筈です。ところが、実際の掲示板のやり取りを見ていますと、話題がこじれる内容ほど、投稿と投稿のすき間が狭まり、次第次第に会話に近づいてゆくような様子が見られるのではないでしょうか。  投稿の間隔が狭まるという事は、内容が会話化するとともに、手紙の時のようなぼやけた焦点が、次第次第に狭まってゆく効果があるとは思われないでしょうか。くり返されるうちに、焦点は狭まり、白熱してくるとほぼピンポイントのやり取りに変わってくる。ひとつの投稿が入ると、ほぼ反射的に返答をするというようなかたちです。逆に現実の会話では、焦点を明確にしてそれのみを語り、それのみを聞くというのは、討論でもないかぎり、勝手に入り込んでくる情報がある以上とても難しいだろうと思います。  会話には、こんな特性があるような感じがしませんでしょうか。もしもあるとすれば、言葉の焦点、つまりピントを合わせる作業には、投稿と投稿との間に横たわる時間というものがとても重要な役割を持ちそうです。  さらに、急ピッチで進められる会話と手紙とを比べるとき、そのなかに誤字(エラー)が混入していた場合はどうなるでしょうか。恐らく前者はそのエラーを読み手自らが勝手に修正するのではないでしょうか。そして後者は、そのエラーを指摘して相手の像を修正するというかたちを取るのではないでしょうか。それが例えば、(誰にでもわかる)稚拙なエラーであった場合、その修正作業による違いは、アンカーを打てた場合と打てない場合では、避けられないほどの広がりを持つのではないでしょうか。  このように考えると、もしも時間とエラーを操作したら、ずいぶん違った内容のやり取りになるのではないかと考えるのです。なぜ、立て続けに投稿せねばならないのか、なぜ、エラーを混入しておかねばならないのか。内容も然ることながら、投稿はそれだけでひとつの記号としての意味を持つと思うからです。  確かにバルトの『神話作用』は重要です。が、僕としてはここに書いた「時間」と「エラー」をどうやって操作しているかのほうが、掲示板においては大きな影響を与えるのではないかと思います。  そしてさらに重要なのは、履歴を持つかどうか、また発話するかどうか、だと思うのですが、どうでしょうか。noname#83027さんは、そんなふうに言ってる気がするんです。  いつも優しいamaguappaさん、慰めのお言葉は大切にいただきました。  要らぬ気遣いかもしれませんが、元気を出してください。

bragelonne
質問者

お礼

 Ad:たしかにそうだと思います。  Aug:ところで これら二つの音節が結合されると “ homo ”(人間)   となる。このことをきみは否定するだろうか。  Ad:だれが否定しましょう。  Aug:ではきみに尋ねよう。きみはこれら二つの音節をあわせたものであ   るかどうか。   ・・・  Ad:《人間は人間であるか》とあなたが問う場合に あなたがわたしに問   うているのは これら二つの音節〔 ho-mo 〕についてなのか それと   も それらの音節が指し示しているもの(実在)それ自身についてなの   かを わたしがまず初めにあなたから聞かない限りは わたしが何を考   えているかはあなたに言わないことにします。  Aug:それよりもむしろ わたしの質問をきみがどんな意味で受け止めた   か 答えてみなさい。・・・  (§8 指し示されたもの(実在)に注意を向ける必然性)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

bragelonne
質問者

補足

 noname#83559 さん ご回答をありがとうございます。  そうですね。のっけから 身も蓋もない結論を申し上げるぶっきらぼうを――このように議論が熟して来ている今としては―― 発揮いたしましょう。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  「時間」と「エラー」をどうやって操作しているかのほうが、掲示板においては大きな影響を与えるのではないかと思います。  そしてさらに重要なのは、履歴を持つかどうか、また発話するかどうか、だと思うのですが、どうでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 前者の二つは 経験上 支障はないと見ています。後者は 《履歴》は ふつう 見ていません。《発話するかどうか》 これは なぜ どういう意味で 挙げられているのかが 分かりません。投稿したなら 発話していますよね?  ▲ コノテーション・デノテーション  ☆ むろん これくらいは知っていましたが これを  ★ バルトが 《神話作用》として  ☆ 言っていたのですか。また 妙に つまらない議論をしているのですね。当たり前ではないだろうかと 日本人なら 誰しも 思うのではないでしょうか?  ◆ (『教師――息子アデオダトゥスとの対話――』)~~~~~~~~~  われわれが語っている場合 記号を作っている( signa faciens )のであり そこから指し示す( significare )という言葉が派生している・・・  つまり 語る場合に わたしは言葉によって言葉を指し示し また言葉以外の他の記号を指示しているように思われるのだ。  たとえば わたしが“身振り”とか“文字”とか言う場合がそうだ。というのは これら二つの言葉によって指し示されるものもまたさらに〔別のものの〕記号だからだ。  あるいはまた 語る場合 記号でない他のものを指し示しているように思われる。たとえば“石”という言葉は何かあるもの(石)を指し示しているのだからそれは記号であるが “石”ということばによって指し示される石そのものは記号ではないわけだから。  したがって この種の記号 つまり 記号でないものを指示する言葉はわれわれがここで論じようとしている種類の記号には属さないことになる。われわれは 記号が記号によって教示される種類の記号について考察しようとしているのだから。  そしてこの場合 この種の記号の中に二つの区分がみとめられる――すなわち記号によって同じ記号が教えられ想起される場合と 〔その記号とは別の〕他の記号が教えられ想起される場合とがみとめられるのだが・・・。  (§4 記号は記号によって指示されるか)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《記号によって同じ記号が教えられ想起される場合》というのは 次の引用文によれば 《記号系の再帰的うごき(recursive move)》というらしい。《〔その記号とは別の〕他の記号が教えられ想起される場合》は 《<外への指示・外延指示>(denotation)》だと知られる。 少々荒っぽく言えば 学者たちは 千六百年ものあいだ いったい何をしていたのだろう。   ● (菅野盾樹)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  しかしながら、グッドマンが――そもそもパースその人も!――明らかにしたように、記号機能とは、記号系の再帰的うごき(recursive move)に他ならない。すなわち<外>(=<外への指示>(denotation))は記号機能が遂行された後にはじめて設けられるカテゴリーなのである。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ◆ (『教師』)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  アウグスティヌス(Aug): さあ それでは これから別の側面を つま   り 記号が記号によって指し示される場合ではなく われわれが《指   し示されうるもの( significabilia )》と呼ぶところのものについて   考えてみようではないか。   それで まず第一に 人間は人間であるかどうか わたしに言いたまえ。  アデオダトゥス(Ad ):今 あなたは冗談を言っておられるのかどうか    わたしにはわかりかねますが。  Aug:どうしてそのような?  Ad:なぜなら あなたは 人間が人間以外の何かであるかどうか わたし   に聞くことが必要だと考えておられるからです。  Aug:そう もし わたしが    《この名詞( homo )の最初の音節が “ ho "以外のものであるかど   うか また 第二の音節が“ mo ”以外のものであるかどうか》   を尋ねているのであれば 〔なるほど〕きみはからかわれていると考える   だろうとわたしは思うがね。

回答No.60

ぽこぺろぽであります。現代社会においては、井戸端会議を重んじ、「万事公論に決すべし」ですが、猿どもとまともな議論は望めないのです。封建主義は否定され、民主主義の世の中にはなりましたが、やはり重要な時案については、料亭でひそひそ話をしてから、八百長の議論をすべきなのです。  「そりゃ、お前の言うことは大衆蔑視思想じゃないか。国民をバカにすんなよ」という批判をかわすためにも、権力者は低い身分に甘んじるべきです。それにはアマテラス族の懐柔が必要ですから、彼らから交通安全標語を募り、上位入賞者は高く顕彰します。彼らは井沢元彦によると「コトダマイスト」ですから、五七調のお題目を唱えることはお手のものです。佳作 ぽこぺろぽ小 〇山〇彦 「もう一度 左右を見てから 渡ろうよ」。入賞者は大金を与えるか、学費を免除されます。  問題は階級間の交流ですね。ご指摘のとおり、本案には生産性に問題があると考えておりました。高貴な猿どもには農工業実習という学問をしていただき、生産性の向上を図ります。主に賎しい支配階級は、猿どもに罵倒されながら奉仕する、公務員やサービス業に従事します。これで何とか階級間の交流は保てるはずです。  ところで、呉智英という評論家は自称封建主義者だそうです。しかし呉も、日本における民主主義の父、福澤諭吉の慧眼を絶賛しております。その息子が諭吉に、真に理想とする政体とは何かと問うたところ、「それは無政府である。政府や法律があるのは悪いことだ」とキッパリ答えたそうです。  私は福澤諭吉が無政府主義者であると初めて知りました。真に民主的な社会とは無政府なのでしょうか?無政府社会においては、けんかやぶっきらぼうは許されるのでしょうか?未だに解けない疑問であります。

bragelonne
質問者

補足

 pokoperopo さん ご回答をありがとうございます。  そうですね。いろいろ考えていただいていますし 論点もしくは視点を提出してもいただいております。  前半で 階級が そのまま 存続しているというのは いささか 奇異に感じます。正直そういう思いですね。後半は 民主主義あるいは無政府主義にかんしましては 歴史的な展望において捉えるのが よいと考えます。  そういった意味で もしよろしければ 次の思想を いちど 通っていただくのは どうでしょう? そのままを受け容れる必要はないわけでして ただし その考え方を いちど通過して あらたな社会を展望するのがよいと考えるのですが どうでしょう?  ☆☆ (【Q:吉本隆明の思想について】)~~~~~~~~~~~~  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4462818.html  レーニンが究極的に考えたことは 少なくとも政治的な権力が階級としての労働者に移るということはたいした問題じゃない。つまり それは過渡的な形であって ほんとうは権力というのはどこに移ればいいのか。  それはあまり政治なんかに関心のない 自分が日常生活をしているというか そういうこと以外のことにはあまり関心がないという人たちの中に 移行すればいいんじゃないか というところまでは考えていると思います。・・・  では 権力が移行するというのは具体的にどういうことか。そういう人たちは 政治なんていうのには関心がないわけですから お前 なんかやれと言われたって おれは面倒くさいからいやだと言うに決まっているわけです。しかしお前当番だから仕方ないだろう 町会のゴミ当番みたいなもので お前何ヶ月やれ というと しょうがない 当番ならやるか ということで きわめて事務的なことで処理する。そして当番が過ぎたら 次のそういうやつがやる。そういう形を究極に描いたんですね。そういうことで〔政治=まつりごととしての秘儀 つまりまたは 社稷というべき国家神道における〕秘儀をあばけば全部終わるじゃないかということに対しても 思想的なといいますか 理論的なといいますか 対症療法として考えたわけですよ。・・・  レーニンが究極的に ポリバケツをもった ゴミ当番でいいじゃないかと言った時に 究極に描いたユートピアというものは ほんとうはたいへんおそろしいことだとおもいます。おそろしいというのは 江藤さんの言い方で言えば そうしたらすべてが終わっちゃうじゃないか ということを ほんとうは求めたということです。  つまり すべてが終わったのちに 人間はどうなるんだとか 人間はどうやって生きていくんだということについては 明瞭なビジョンがあったとは思えないんです。また そういうビジョンは不可能だと思います。  だけれどもすべてが終わったということは そういう言葉づかいをしているんですけれども 人間の歴史は 前史を完全に終わったということだと言っているわけです。  これは ある意味では江藤さんの言葉で 人間は滅びる というふうに言ってもいいと思います。なぜならば それからあとのビジョンは作り得ないし また描き得ないわけですから。  だから人間はそこで滅びるでもいいです。それを 前史が終わる というふうな言い方で言っています。前史が終わって こんどは本史がはじまるというように 楽天的に考えていたかどうかはわかりません。だから人間はそこで滅びるでもいいと思います。だけれども そうすれば前史は終わるんだということです。  まず第一に政治的な国家というのがなくなるということは ほんとうは一国でなくなっても仕方がない。全体でなくならないとしょうがない。そうすると 全体でなくなるまでは いつも過渡期です。だから どこかに権力が集まったり どこかにまやかしが集まったり どこかに対立が集まったりすることは止むを得ない。止むを得ないけれども それに対しては最大限の防衛措置というものはできる。そうしておけばいい。しかし そうしながらも究極に描き得るのは 人類の前史が終わるということです。  あるいは江藤さん的に言えば いま僕らが考えている人間は終わる ということです。それから先は 描いたら空想ですから 描いても仕方がない。理念が行き着けるのはそこまでであってね。だけどそこまでは 超一流のイデオローグは やっぱり言い切っていると思います。・・・  ・・・《吉本隆明と江藤淳との対談:文学と思想の原点――『文芸』1970・8》  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

noname#96295
noname#96295
回答No.59

だいぶ進みましたようで遅ればせながら 失礼して、いただいた名句を抜粋してつなげますが、 「像は つねに 動態である。表現の過程そのものである  明言された表現をめぐって また それのみを問題として  外化された言葉を 扱って   なおも 言葉による表現を 繰り出していく  さらにさらに 対話である」 実際のこうした場合、 言葉についての言葉、メタ言語を使って言表の妥当性を検討するわけです。 言表の妥当性 というのは、何らかの論理に立ち、それと一致していること。(=ロゴス) とりわけ、権力の論理に立たない者が メタ言語を使って ロゴスに基づき自由に発言する といったところに、パレーシアの意義があるのでしょう。 まあしかしロゴスは曲者ですね。 掬い取ること=レゲイン[grec. legein>Logos]、言葉=ロゴス、真理=アレーテイアという語彙群をめぐって、概説的な論文があります。 キリスト教義との違いを指摘していますので、今後の参考になるのではないでしょうか。 http://www.t-kougei.ac.jp/research/pdf/vol2-25-06.pdf フーコーへ進めて考えれば、言表の主体として自己の真理を語るということもまた、 何らかの論理との妥当性のなかに「生き」ている者として、ディスクールの担い手である者として、 公けの真理を語ることにほかならないでしょう。 誤謬や捏造や隠蔽を包括してということになります。 言表でない部分、言表を組み立てる構造のうちでありながら言表から落ちている部分というものを 読解できるレベルが同じくして在る それがロゴスの在ることであると言えるように思いますが、 世界が神の手紙のようではないとき、 諒解、同意、期待、予定調和、約束、契約といったことがらによって、 われわれの世間で、場の構造化を握るロゴスというものが取り沙汰されるわけです。 「さらにさらに対話」においては、 言表から落ちている部分を、言表を組み立てさせている真理につなぎとめる、 消極的でもそういう抱え方でもって抱える必要があると思うのですよ。 > わたしの考えですが A´ だとか B´ だとかの像を持ち出すとき つねに 主観と照らし合わせて 間違っていたら 《違う》と  はっきり言えばいいのだと思います。あるいは 逆に AとA’といったように描像を二つ 提示するところから 行き違いが生じるように考えます。 まあ、主観と照らし合わせるのでは意味がないでしょう。 やるとしたら、相手のロゴスと自分のロゴスの照らし合わせでしょう。 まずもって誤読の撤廃は無理だと思いますがね。 また、AとA’は出発点ではないです。 そして、階層がありますので二重化ではないです。齟齬はきたさないですよ。ふつうは。 > けっきょくは 言葉による表現に 基本的には 帰着すると考えるのです。 ぶっきらぼう、つまり言表から落とすロゴスにもとづく場合。 表層の襞と襞の戯れを言表に掬いあげるロゴスにもとづく場合。 言葉による表現はいろいろありますでしょう。 コンテクスト(文意)の把握は、言説のロゴス(言表の連結力)がみえるかどうか、です。 人格や精神といった正体のないものも、そこに留まります。 それがみえるとみえないでは、コミュニケーションは大きく異なります。 さて、ひとまず最後です。 noname#83027さんに勝手に引き抜かれたわたしの言葉の行方を見届けるために、 予定より余計にQ&Aサイトに長居しながら、ずっと開いていたこの質疑で遊ばせていただいた形となりました。 途中、bragelonneさんは傍観者として次の言葉を挟まれました。 かかわり(たく)ないとおっしゃるものに巻き込まれるのを潔しとされる気性はともあれ、 巻き込みましたね。すみません。いえ、ありがとう。  ★ 蛇足  ☆ 一点 異見を持っています。器質の問題でない場合には いっさい 病気は ない。あり得ない。とわたしは 勝手に 考えています。 (No.42)  ★ 蛇足分に関し  ☆ わたしは 承知していないのです。《合意形成》とか ちらっと見ましたが ことのいきさつのほうは 分かっていません。 (No.46)  ★ 茶番  ☆ この部分だけですね。現実性があるのは。しかも その現実性は おそらく   対処の仕方をまちがっています。このやり取りにおいては A も A´も A″も  ないのだと考えます。行先を決めていない電車だからです。白雪姫は  あそびで電車ごっことして 《修正》するのなら いいのですが  ほんとうに その 電車に乗って 運転手や車掌やを きっちり 決めようとさえ しているかに 見えます。  もうこうなると わたしは ついて行けません。姫は 参加した初めから まじめに 対話をしようとする姿勢だったようですが。  それに この名無しの姫は わたしには いやな絡みが この質疑応答で  あったものですから なんとも わたしには かかわりがないのです。 (No.48) 「病的なもの以上に習慣的なもの....何か教育が適正でなかった...」(No.42)とのわたしの言を噛み砕けば、 理解できない外国語で教育を受けたか、知覚障害にしかるべき措置をとらずに教育を受けたかなど、 社会的に作り上げられた病のありかたを問題としたのです。 なぜそう見るかといえば、知性があり、情緒は不安定でも訓練されており、ただ、 コノテーションとデノテーションを区別できない、 そして誰から誰へのデノテーションであるか判別できない、 伏線に明示された遠いデノテーションを結びつけることできない、 という大きな問題を持っていることが指摘できるからです。 また、デノテーションの非理解のために、メタ言語を生成できないのです。 それは、その非理解を、コノテーションの非理解と混同することから起き、 デノテーションについての質問を避ける習慣が自尊心と結びつくことからも起きていると思われるのです。 或る場所でちょうど「行先を決めていない電車」のごとく、 テクストを向いた独りごとが発される。こんどはそれを対象テクストとして、独りごとのメタ言語が生まれるとします。 これは、デノテーションを理解できない場合には、決して理解できない重層化なのです。 テクストの言及のテクスト化のさらなる言及のテクスト化、という表層運動にたいして、 内在運動つまりコノテーションを理解しようとすることが、 「ほんとうにその電車に乗って 運転手や車掌やをきっちり決めよう」ということにほかなりません。 以上はnoname#83027さんの慰みのために。 目に届くようにと願っています。 ぶっきらぼうには、コノテーションの排斥力の上に成り立つデノテーションとしてロゴスが有るはずであり、 愛想には愛想のルールの了解が要る、というふうに考えてみるとよいのかもしれません。 bragelonneさんが、文体(文の身体)は公私を包括するものとおっしゃり、 (自己において)世界と文体との社会的な連関および錯綜のみがあるのだとおっしゃっるのに深く同意いたします。 言葉と身体が、あたかもその人なりの太極図となるのに対して、 身体にふさわしい言葉でその人なりの世界が作られることの失敗を、わたしは病のなかの病と考えます。

bragelonne
質問者

お礼

 補います。(09.05.02)  二点あります。  議論は おかげさまで ひじょうに大きな収穫をもたらしてくれているように思います。ただ てつづき上から 場をあらためたほうがよいかと考えるようになりました。  1.もともと わたしが 対話を切ってしまったことの反省から 始まりました。 2.《〈分かったが 別の考えもある〉と言ってくる場合 どうするか》です。別の考えなどないのにです。緊急避難が 人殺しの違法・無効性という原則を 反故にするわけではないのに あたかも例外があると言ってくる場合です。 3.主題は飛んで 対話における話し手・聞き手 あるいは 表現の発信と受信(理解) これら双方のつながり具合いにかかわってきている。 4.さらにあるいは そもそも 《ことば》とは何であって どのように用いるのがよいか。 5.意味とは何か。 6.言語能力とはどういうものか。等々。  回答の件数も増えて来て 区切りを打っておいたほうがよいのではないでしょうか。  もう一点です。noname#83027さんとの絡みについて わたしは 傍観者の域を出ないようです。しかも そうであるにもかかわらず 仲介者になろうとしたかの振る舞いも ありました。これを 一たん 清算したほうがよいように考えました。仲介の内容を 撤回するわけではありませんが どうも 何も わたしは 分かっていないようです。ご破算で願いましてはとしたほうがよいように思いました。  あらためて 第一点のほうですが。理解に際して その中身を或る像として打ち出し これを一つの基準とするという形式が 描かれているようにも受け取られます。言いかえると この基準は そもそもの《自己の真理 / あるいは 公の真理》というかたちです。  簡単に述べることになりますが わたしの捉え方では 《わたし》の主観はどうなのかと その中味に 人びとのあいだで主観共同化に耐え得る内容があるかどうか これだけであるように思うのです。言いかえると あるのは 主観真実とその妥当性としての共同主観性であるのではないか これです。  amaguappa さんや みなさんからの反応によって 締める方向に向かうと思います。

bragelonne
質問者

補足

 ★ まあしかしロゴスは曲者ですね。  ☆ おおーっ。ふむふむ。やっほーっ。  amaguappa さん ご回答をありがとうございます。  ▲ (谷崎秋彦:古代ギリシアのロゴス――隠蔽と露呈としてのロゴス――)~~  ・・・その《〔* あたかも 信仰としての〕開け》は 語られ得ぬものとして(なぜなら、語られる主題は常に〔* 経験的な〕存在者であるから)、常に語り落とされる。その開け、その隙間、《〔* むしろ非経験としての〕存在》そのものは、「語り」としての「ロゴス」からすれば、不断に現れざるもの、つまりは無としてしか出会われない。すなわち出会われ「ない」。  ◆ (アウグスティヌス:神の国について 1・6)~~~~~~~~~~~  神は言語に言い表わされない。  それ故 如何に相応しい語でも神には適合しない。それはただ 相応しいものを言おうとする意志の表現に過ぎない。  しかのみならず 《言い表わされない( ineffabilis )》という述語そのものが既に一つの矛盾を含んでいる。《言い表わされない》ということによって既に或るものを言い表わすのであるから。  しかしこの矛盾を弁証的に解くよりはむしろ沈黙を以って蔽わねばならない。   そして神自らも 何等適切なものが彼について言い表わされないにも拘わらず しかも人間の言語の奉仕を許し 我々が人間の言語によって彼を讃えて喜ぶことを欲し給うた。  それ故我々は彼を神( Deus )と呼ぶ。  勿論 彼は神という語の音声によって真実に認識されるのではない。それにも拘わらず この神という音声を聞くとき 我々の言語を解する総てのものは 最も完全な 不滅の存在を想起する。・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 後者は――わたしは詳しくないですが―― 《語り得ぬもの》を言ったヰ゛トゲンシュタインを思わせるそうですね。でも 先ですからね。ソクラテスの以前と以後とを つらぬくと見られませんか? その神については 谷崎は  ▲ 本稿では立ち入らずにおく。  ☆ と断わっているので ずるい指摘です。ただしつまり やはり 同時に論じ扱うのでなければ 現実性は 薄まると思われます。  字数制約上 引用が出来なくて 次の一つの事項を取り上げるのみとします。  ▲ (谷崎秋彦)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  在るもの(* 経験事物)を人間が語り出すとき、そこにともにあるロゴスは、人間の占有物にして所有物、人間の機関(オルガノン・道具)であるかに見える。ロゴスとともにある語りを人間の特権とするこの観方を、ヘラクレイトスは「傲慢」と見るのである。・・・  とはいえ、この傲慢は、その実、ロゴス自身が用意し、ロゴス自身が唆(そそのか)してくる、ひとつの「罠」にほかならない。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ★ ぶっきらぼうには、コノテーションの排斥力の上に成り立つデノテーションとしてロゴスが有るはずであり  ☆ と触れておられる問題でありますが もはや わたしの結論です。わたしたち人間は このロゴスのわなに すすんで平気でよろこんで かかっていくものと思います。ことばは 記号であり しるしであり 文字は殺し霊は生かすというときの文字であると考えます。  外化され疎外さえされた言葉をとおして 人間は さらにさらに対話をすすめていくものと考えます。わなの中からしか 外には出られない。と考えます。  わたしたちは すでに 光を見ましたが またそして つねに 照らされていますが わたしたち自身は それぞれ 薄暮の光だと思われます。夕暮れなのだから すべては 病いであると見ておけば いいのではないでしょうか? どうでしょう。ぶっきらぼう万歳。

回答No.58

ぽこぺろぽ少尉であります。身の程知らずにも大佐に異論があると申し上げましたが、異論とは大差が示された《ヨリイリヨセコギト》の措定にではなく、スーパーヨセ知性人であるところの聖徳太子にであります。  私が支配者なら、自ら高い身分は名乗らずに「賎民」と称し、征圧した猿どもを「高貴な身分」とし、彼らと監視目的以外の《交流》を断絶します。彼らに実質の伴わない高い身分と、必要最低限のエサと、娯楽を提供し、謀反の気勢を削ぎます。  支配者は外国との通商を振興するため、より玄関口に近い一階に住まいます。猿どもには自らの地位を錯覚させ、外界と接触させないために二階に押し込めます。早い話が愚民政策です。今の民主主義がこのような図式に近いと考えます。加えて下々の者を二階に住まわせれば動乱は起きません。つまり名を捨て、実をとるわけです。さしもの聖徳太子にも、これは思いつかなかったようです。  猿同士のけんかは放っておきます。収拾がつかなくなったら初めて「貴兄らは高貴な身分であらせられるから、けんかのような下々のすることはなさらぬように」とだけ諭します。一切のけんかの裁定はしません。なぜなら支配者の私は『下々』の者ですから、仲裁などというおこがましいことはしてはならないからです。また、怒りの矛先が自分に向かないためでもあります。  そういうわけで建前は「けんかはいけない」ですが、実際においては「須らくけんかす可し」となります。けんかは《交流》の必須条件となります。ただし「けんかなんかしないよ」という欺瞞的態度が推奨されます。  猿のけんかはレフリーを立てることを前提には行われません。猿同士は殴り合うだけなので、下手に仲裁に入るととばっちりを受けます。しかし権力を持つ者どうしのけんかにはレフリーは必要です。自らの盛衰を賭した紛争は、必ず第三者にまで強い影響を及ぼすからです。  この区別をつけることこそ今後の課題となります。カントが夢見た平和な国際社会規範も、各国にこの共通認識をもたらしたときに妥結するでしょう。もちろんその道のりは遥か彼方まで続きますが。

bragelonne
質問者

お礼

 pokoperopo さん ご回答をありがとうございます。  そうですね。  現実的であろうとなさっているのだと思います。  そして その割には たとえば  ★ 征圧した猿ども  ☆ というときの《征圧》について どういうふうに行なったのかが まだ わたしは 想像がついていません。というよりも その前に 《ヨセ》なる超歴史知性のアマテラス族の懐柔が 必要ですね。それとも このことを 《猿ども》とおっしゃっているのでしょうか?  そして 一部階級の隔離政策であるとか 特別待遇政策であるとかによっては 社会は うまく回らないとも思うのですが だいじょうぶでしょうか?  ★ 聖徳太子  ☆ という人間は どうも政治には不向きだったのではないでしょうか? 手練手管に長けた人びとにかつがれただけではないでしょうか。 大平正芳首相は まさしく 田中角栄によって かつがれたのだと考えます。聖徳太子にたとえるのではありませんが その末路は 決まっているという意味で 例示しました。要するに 要らなくなれば お払い箱という意味です。  ★ 支配者  ☆ この概念からして そもそも 《イリ》なるふつうの歴史知性には 異質の社会生活ですね。指導者は 多数決が まちがった方向に振れるのを警戒し それに注意をうながせば よいと思うのです。あとは 市民社会が 自由に やっていくでしょう。  イリ・ヨリ・ヨセが 同感・共感・反感として 三分割して 共生する社会です。指導者は 名誉職のようなものです。  ただし 反感の集団からは つねに 批判が出されてくるでしょうから これに 答えて議論を行きわたらせる必要があると考えます。批判の応酬としてのけんかは あると考えますが ほかに どういうけんかをするのでしょうか?  現実は いわゆる警察機能も 必要になると考えますが 基本思想は 完全な話し合い主義ですよ。基礎としての井戸端会議を絶やすことなく その中でも 課題に応じて 全体的な討論の場をも 設けることになると考えます。或る種の仕方で 万機公論に決すべしですね。  どうでしょう?

noname#96756
noname#96756
回答No.57

Bonsoir, monsieur. 【キリストのキの字を言わなくても】 >世界の歴史およびすべての現象が 神からの手紙であるという立ち場です。 >同じ趣旨であるものについては すべて 摂取します。 なるほど、そういうことだったのですね。 わたくしはbragelonne様のようなゆるぎない信条や深い信仰をもったことがありません。 自然界のあらゆる生き物と何ら変わらず、かけがえのない生を与えられたことに感謝し、与えられた境遇とご縁に感謝し、過去の先達にならって平凡な営みを全うしたいと願うに過ぎません。 ですが、フーコの本を先日再び手にしてから、不思議な感覚なのですが、過去~現在に至る多様な思想に自発的にふれ、取捨選択により自分の内に何らかの信条を築いていきたいと思い初めているのです。 そしてこの「ゆづる」も、フーコのハサミ同様、自らに取り込みたいと願っている思想の一つなのです。 bragelonne様のように再構築・洗練させた一本の思想の柱にまでには至りませんので、清濁を内在した幾つもの思想哲学の束の中から「これは!」な部分を参考・心の拠り所にしていきたいと願っているのです。 ですが、自身の内なる信条、信仰の拠り所として多角的な視野に立とうとすると、相対的に己の信条そのものが脆弱になり下がってしまうようにも思えます。 また、この「ゆづる」はキリストの教え「右の頬を殴られたら、左の頬を出しなさい」にも通じるものなのでしょうか。 であるならば、目指す境地が崇高な高みのゆえに、やや非現実性が否めないのかな、とも思ったりも致します。 ですが、理念であるならば四角四面に現実に摘要する必要もないのかもしれません。 【男女差別、同和問題】 わたくしは男女雇用機会均等法施行数年目で入行し、妊娠退職するまで5年ほど勤めました。 当時の女子総合職は早慶上ICUと相場が決まっており、男性の取締役社長と会長は東大京大法学部と暗黙の了解がありました。 海外上場や海外格付け担当などの業務を行っておりましたが、海外の取引先から「なぜおたくの銀行の社長と会長が同じ学歴なのか?」と聞かれて返答に窮したことがあります。世界の非常識でした。 職場で男尊女卑?な風潮といえば、大晦日の打ち上げでお酌してまわる、生保会社が配る外人ヌード卓上カレンダーを机上にあからさまに置く、お尻を触る、彼氏の有無とどんな職業か聞いてくる、人の私物を勝手に使用して食べ物を切って放置する、分煙でなかった職場で当然の如く喫煙する、といった当時は他愛もないことばかりでした。 でも当時はそれが当然視していたため、想い入れある私物の件を除けば、テキトーに流していた覚えがあります。 当然視していることに疑問を抱かないという状態というのは、ある意味不幸であって、でも必ずしも不幸ではなかったりするのかもしれません。 当時鳴り物入りだった女子総合職は企業側も持て余していた部分が否めず、産休後の復職などレアケースであっただろうと思います。 であるからこそ、子育てもきちんとこなしながら現役で仕事をしてきた女性達をパイオニアとして素直に尊敬に値するのです。 同和問題は『破戒』を読んだくらいで勉強不足です。すみません。 【拉致被害者問題と非核化や安全保障の侵害】 >拉致被害者家族は 心中を察してくれとは言っていないと わたしは 思います。 >国際法と人道にもとづき 違法行為の解決と処理をおこなって欲しいと訴えているのだと考えます。 はい、bragelonne様のおっしゃる通りだと思います。 非核化とは全く別の問題、自国民の人権侵害に対する原状回復を目指すものです。 ですが国際法上の主体は国家であり、世界人権宣言、拉致禁止条約は存在するものの、現実は各懸案事項のpriorityをつけて米韓と連携・交渉せねばどうにも立ち行かないありさまなのは周知の事実です。 このように「訴えるべき相手」に訴えが伝わらず、アメリカの国威に頼らざるを得ない状況においても「ゆづる」といえるのでしょうか。 また「物理的なちからによって 解決を図ることは 放棄しているということ」と「物理的な力を持たない国民ゆえに放棄せざるを得ない、断腸の思い」とでは意味合いが異なるようにも思われます。 >加害者が 人間存在であることは つまりその言い分は つまり言い分を述べる表現の自由は どこまでも 守る。 ちょっと過去の質疑を参照させていただきました。 「蚊論争」を拝見し、以前に比べだいぶ理屈の上は理解できるようになりました。 ですが、日本人拉致被害者と関係者が被ったの長年にわたる人権侵害に対し、かの国の首謀者の人間存在並びにその言い分と表現の自由を、この「ゆづる」を援用したとして、どれほどまでに尊重し守られるべきものなのでしょう。 これはあくまでbragelonne様への思弁上の質問です。 「良いところを取り入れたい」という趣旨からすると、「もったいない」同様、多少の融通性をもってあまり深く突きつめ無くても、十分素晴らしい理念だと思っております。 もちろん「もったいない」に比べてはるかに体現化するのが難しそうではあるのですが。

bragelonne
質問者

補足

 mashumaro2 さん ご回答をありがとうございます。  一面で わたしのほうが答えるような展開ではありますが 案外 mashumaro2 さんのほうが ご自身のお考えを 明らかにされていくかたちで たしかに わたしは 質問者として お伺いしているようにも思います。  たとえば  ★ この「ゆづる」はキリストの教え「右の頬を殴られたら、左の頬を出しなさい」にも通じるものなのでしょうか。  ☆ これにつきましては――《理念》というものは 果たして いかなる意味があるのか・実践と どうつながるのか という問い求めを持ちましたので――  【Q:《左の頬をも向ける》とき 抵抗を排除していますか】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4094847.html  を 質問しています。(適当に 質問趣旨だけを見てみてください)。わたしの結論は  ○ 抵抗を排除しない。  ☆ です。それは 同じ個所に 《千歩を行けと言われたなら いっしょに 二千歩を行ってやりなさい》という表現で説明されているとおり なんで殴るのかという問い返しもあれば しかるべき抵抗も排除しないと考えています。それは 《いっしょに〔行ってやれ〕》というところに 表わされているように考えます。そういうかたちで 《ゆづる》のだと考えます。  そうして 誰かが言ったとか言いますが 哲学は すべてをうたがえとも言います。そして そういう意味では 現行の制度や考えに立つ思想に対しては つねに 《けんか》を仕掛けるかにとられるかも知れません。変な表現だと思いますが 使いますと 哲学の宿命のようですね。  差別問題は ひとまづ ご体験などをお聞きして 拉致問題に移ります。総じて言って 今度は 具体的な交渉の問題になると 《ゆづる》の方針を どのように実践すればよいかは むつかしいものがあるということに たしかに なるようです。  まづ 先週の《朝まで生テレビ》は ミサイル問題を取り上げていました。その中で 田原総一朗が 外務省の高官の話として こういう事情を紹介しました。それは 拉致被害者が亡くなったのだと言って 骨を送ってきたその骨の鑑定について 必ずしも まだ はっきりしないと言います。  その鑑定なり 亡くなったかどうかの問題なりについて もう少しさらに具体的に こちらからも あちらに働きかけるべきだと アメリカ政府は 言いつづけたそうです。一年のあいだ わが政府は 何もしなかった。業を煮やして アメリカは とうとう テロ国家指定を解除したのだという話なのです。つまり わたしたちは てっきり ブッシュ政権は 日本を裏切ったと思ったはづなのですが そうではなかったという見方を紹介していました。  被害者は ゼッタイ 生きているという大前提を固定させ そこから 一歩も 動けなかったという見方のようです。  このように紹介したこと自体は ほんとうですが 事の真偽は わたしには 分かりません。というように 具体的な交渉の一つひとつの問題になると もう 事情が分からない点が 出て来ます。  一たん 日本に帰って来た被害者たちを もう二度と あちらに戻さなかったのは 無効の行為に対しては 当然だとしても その後に こちらの対応に 何らの不手際もなかったかと言うと 分からない部分があるのかも分かりません。  むろん 放棄することは あり得ませんが 交渉事に関しましては なかなか 明確に言える材料と判断を わたしは 持っていないのです。どうでしょう?  たとえば――またまた 突飛な仕方で飛びますが―― イスラエルとパレスチナの問題は 解決策が 思い浮かばなくても とにかく 双方が 対話のテーブルに就く・そして話し合いを たとえ半永久的にでも つづける。こう考えます。北朝鮮とも そういう基本方針なのですが どうでしょう?

回答No.56

「ぶっきらぼう」とか「愛想のよい・わるい」とかは、人と人との関わりにて表面的に(知的・言語的に)記号化されたものでしょうね。 地と図といった関係で紐解こうとするならば、そのような言葉で表現可能なもの同士を対置するのではなく、そういった「言葉・表現」と、その両側に立つ人々の「思い」同士、ないし、それぞれの「思い」の移ろい同士を多義図形的概念(※)にて配置すべきだと考えます。 「思い」とは、ネットや言葉や表現といった分断されやすい状況をも越えようとするものでしょうし、そういった「越えよう」とする「思い」こそが、社交性というものを成立せしめているのだと考えます。 ※多義図形的概念:どちらが地でどちらが図といったものではなく、相補し合いながら成立する概念という意味です。

bragelonne
質問者

補足

 k_jinen さん ご回答をありがとうございます。  そうですね。  ★ 多義図形的概念:どちらが地でどちらが図といったものではなく、相補し合いながら成立する概念という意味です。  ☆ ですか。ここで これまで主題として論じられてきた《フーコ または そのハサミ》を取り出してみましょう。要するに 事実認識として 考えましょうというところです。  ★ 「言葉・表現」と、その両側に立つ人々の「思い」同士、ないし、それぞれの「思い」の移ろい同士を多義図形的概念(※)にて配置すべきだと考えます。  ☆ これが たぶん 社会の一階どうしであれば そのような《どんぐりの背比べ》なのでしょう。ところが 二階と一階とでは どうも 様子がちがうのではないでしょうか。(二階どうしでは どうか。どうなんでしょう)。  わたしの友には 大手銀行の専務までアマアガリした人間がいます。(もう わたしは そんな歳です。かれのほうは さる地方銀行に入社して 合併を重ねて そうなりました)。この二人のあいだには いろんな《思い》や 学習・趣味・恋がたきをめぐる自己表現をとおして 《多義にわたる相互交流の関係過程》が繰り広げられたわけです。  ところが 一点 重要だと思われることがあります。  二階のアマテラス(A)圏にいることと 一階のスサノヲ(S)圏の住民であることとは 人生にとって 有意の差があるというものです。ひとの一生にわたって この《 A ‐ S 》連関が 表現の自由に 影響を及ぼすとすれば 経験相対の世界にありつつも いわば絶対的な《図形的概念》を描く関係過程になるというものです。  アマテラス圏の人間は スサノヲ圏の人びとを 生かすように その地位にあって 広い意味の権力を揮うと言えば フーコのハサミを使って考えたことになると思います。    したがって まづ  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  「思い」とは、ネットや言葉や表現といった分断されやすい状況をも越えようとするものでしょうし、そういった「越えよう」とする「思い」こそが、社交性というものを成立せしめているのだと考えます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この《思い そして その社会的な展開としての社交性》が もし 《 A - S 》連関としての《生かす・生かされる あるいは 一般に まなざしを注ぐ・注がれる》の しかもその具体的な事態や場面としてはきわめて多義的な 相互に入れ替わったりするような 地と図との錯綜関係を さらに《〈超えよう〉とする〈思い〉》を発揮し得れば 言うことないでしょうね。そういう問題だと これまでに みなさんとともに 考えて来ておりますが どうでしょう?  * つまり 何もかも 全部を超えるところを見ようとしているのが ここでの ぶっきらぼうだと思います。能天気も 入っていますね。  * また この質疑応答の場で―‐bananasand さんという方ですが―― このように 二階と一階の階層を 難なく超えた《印象を抱かせる》のは あの《羞恥心》トリオだという見解が示されています。そこでのミソは 一般の人びとのほうが このグループを・そしてその印象と描像を 迎え入れたということだと言います。  * それに応えて わたしは それは――つまり《羞恥心》現象は―― 万葉集のルネサンスだと言いました。無名の作者が 過半数というところからです。

回答No.55

ぽこぺろぽです。タイの国王に謝罪しつつ、クーデターの当事者同士が和解を勧められる絵は、麗しくもかなり笑えます。そんなに王室を尊敬し、たやすく和解に応じるなら最初からクーデターを謀るべきではないでしょうに。やはりあれにも八百長くささを覚え、さもなければ手心を加えているかのようです。タイもまた、日本のような全会一致主義を持つ数少ない国の一つのようです。  二階建て構造については異論があります。ぽこぺろぽの頭を改造して、スーパーヨセ知性を得て制圧した暁には、二階建てにしても一階に住まいます。万一の火事で逃げ遅れたくはありませんし、日頃から楽に出入りしたいからです。また老後は足腰の不安もあるため一階にかぎりバリアフリーとします。また二階への通路は屋内の見通しの良い場所に梯子を設けるのみとし、低脳なイリ猿どもを幽閉するため二階住民は出入り禁止とし、また二階には一切窓を設けません。しかしエロビデオやスポーツ中継等の受動的な娯楽はふんだんに与えます。しかも猿どもに「あなたたちは高貴な階級であるから二階に住まう。我々は賎民であるから一階に住まう」と宣言します。早い話が座敷牢で愚民政策を実施します。  話は変わりますが、件の単身者向けの共同生活家屋では、皆が仲良しで力なく平等であるから、けんかになったら仲裁が聞き入れられないと考えるのです。唯一、鶴の一声を発せられるぽこぺろぽ大家の裁量で和解が妥結するならば、それを繰り返すうちに納得の行かないものが意図的な規約違反により反旗を翻すでしょう。また安い生活費に引かれた乞食外人が大挙して押し寄せます。山谷のドヤ街の様相を呈することは必至です。周辺住民からは入居者の傍若無人な振る舞いに関する苦情が寄せられます。  ところで、けんかが交流であるかぎり、けんかを嫌う者はぶっきらぶうといえるという私の見解について、ご考察をお聞かせ願います。やはりけんかはすべきです。しかし共通認識に立たないけんかは堂々めぐりとなりますし、徳の高い者にレフリーを依頼すべきでしょう。レフリーは決着がついたとき、話が噛み合わずに膠着状態に陥ったときに分かちに入る必要があるでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 pokoperopo さん ご回答をありがとうございます。  ★ 二階建て構造については異論があります。  ☆ これは 比喩ではないのですか。社会ないし国家のことではないのですね? けれども  ★ 〔二階に〕低脳なイリ猿どもを幽閉する・・・。しかも猿どもに「あなたたちは高貴な階級であるから二階に住まう。我々は賎民であるから一階に住まう」と宣言します。早い話が座敷牢で愚民政策を実施します。  ☆ よく分からなかったのですが こうなると 社会の問題ですか?  ★ 《イリ猿》と呼ばれ 低脳だが高貴な階級  ☆ があって  ★ 賎民  ☆ がいて その賎民が住まう一階に   ★ スーパーヨセ知性  ☆ に変身したぽこぺろぽさんが いて   ★ 愚民政策を実施します。  ☆ ですか。  ★ 話は変わりますが  ☆ あぁ 変えないで!!! 変わったあとでは 純然たる個人の問題ですね。  ★ ところで、けんかが交流であるかぎり、けんかを嫌う者はぶっきらぶうといえるという私の見解について、ご考察をお聞かせ願います。  ☆ たぶん 二階に対する《謀反》にしても その波風は すき好んで立てるのではないと思います。一階さんどうしのあいだで けんかをすると言っても 知れたものだと思います。  だから 《交流》と言うのでしょうけれど こんどはまた 《交流》だから すべからく けんかをすべし ということにもならないように思いますが どうでしょう?  さらにまた そのぎゃくに けんかをしたなら 自分たちどうしで 決着をつけるくらいでなくては やり甲斐もなければ 交流的解決も望めないように思います。  ★ 共通認識  ☆ は 必要でしょうね。これも そうでないと やり甲斐が なくなるでしょうね。と言いますか 途中で 続かなくなるのでしょうね。  こういうわけで わたしの考えるぶっきらぼうの場合には 《交流》という頭(観念)が 先にあるということもないですし 調停役や審判役も  事前に・あるいは途中からでも 用意するという感覚は ないですね。実際には そういう第三者が介入する場合が あるのかも知れないので 《感覚は》と言いました。  たぶん お膳立てをして それに乗るけんかは あまり ないように思いますが どうでしょう?

noname#96756
noname#96756
回答No.54

bragelonne様、へっぽこなわたくしをお導き下さっていつもありがとうございます。 >《ぶっきらぼう》が 世界に飛躍するかになってまいりました。 すみません(汗)、bragelonne様とは違った「せっかち=理解不能はすっとばして次へ進む」悪い性質なので、このペースで行くと近日中には「宇宙物理学と人間哲学「ぶっきらぼう」は重なる極点があるのか?」などと飛躍しているかもしれません。  なお、過去に頂いた大小様々な卵はあたため中です。 >もうひとつ しかも ことは いわばわたしたちの議論のことの発端にも行き着きました。  ○ 《蚊が刺しただけ》という命題。 すみません(汗)、あの質問全体がわたくしの理解の範疇を超えていたため、「Qui pleure la, sinon le vent simple,...」と、愛しのエロ・オヤジの性愛談義と、a様の「Marshmallow÷2=66?」の箇所しかまともに読んでおりませんでした(反省) 質問者様におかれましてはbragelonne様の「無効は どこまでも 無効である。初めから なかったのである。」は極めて崇高かつ説得力があったかと思われます。 ですが、「無効はどこまでも無効だからという論理で、痴漢したエロ爺を愛せよ」なんて、わたくしはババアなのに絶対ムリです(笑) 閑話休題★☆★☆★☆ 【男尊女卑という《 A ‐S 》差別連関 その他の差別問題】  ○ ゆづった側は その自由が 有効である。 よろしければこの場合における「男尊女卑」や「その他の差別問題」につき参考例をあげていただきたくお願い申し上げます。 就学前~女子高生まで「女の園」で育ち、大学~社会人時代~今日まで「これだから女ってズルイ!」と始終言われてそのつど「悪いわね」と謝ってきたので、「男尊女卑」の概念における「デメリット」を「メリット」ほどに感じておりません。 また、夫の実家は「アマテラス一族」の神話の世界の近県に位置するスーパー男尊女卑的ド田舎と揶揄されておりますが、「名より実を取るように」舅は姑に頭があがらない状況です(ちなみに高千穂は素晴らしく良いところですよね!) むしろ、なまじ一律に男女平等を「規範」とすることにより、必ずしも全ての事象が「メリット」ばかりになった、とは言い切れないようにも思えるのですが…この点につきましても、あまりよくわかりません。 【しかも この命題かつ問題を 世界という視野に立って 考えていかなければいけない。これに わたしたちは 直面しているようです。】 はい、これには大いに賛同致します。 記憶に新しいところでは、Six-Party Talksで目前の大いなる懸念【「日本という国の存続並びに大多数の国民の安全保障にも関わる核実験施設の査察」<<<「少人数の自国民の命と安否確認を最優先」】を我が国が一貫して主張してきたことと重なるかと思われます。 もちろん拉致被害者の関係者の方々のご心情からすればごもっともではあるのですが、人的物的損害規模からすれば、核査察や各実験施設の解体促進をも最優先事項として挙げられる可能性があります。 この辺りの判断はかなり難しいところかと思われます。 いかがお思いになられますでしょうか。 【日本国政府は議論の末、10月1日に福田赳夫首相(当時)が「人命は地球より重い」と述べて、身代金の支払い及び、超法規的措置としてメンバーなどの引き渡しを決断】 たしかにbragelonne様のご主張通り、この件は対外的に非難の集中砲火を浴びたようではあるものの、その後の各国におけるテロ対策や日本と言う国の孕む「一種独特で異質な価値観」を世界に知らしめた点において、今以上により評価されて良いのかもしれません。 ただやはり「人工衛星打ち上げ」を行った隣国と「やっぱありゃ人工衛星だよね」と同調する別の隣国の対日姿勢に関して言えば、やはり日本にとっては究極の「ぶっきらぼう」のように思えるのですが、はたしていかがでしょうか。 【まとめ:《超法規的措置》の有効性や いかに。という主題】  1. 無効行為をおこなう人間について その存在は われわれは 愛さなければならない。     М:一概にはムリ。無効行為を行う相手を愛するにも限度というものがあり、痴漢も将軍様もつけあがるから牽制する必要があるのではないでしょうか。  2. むろん 行為の無効は無効だと どこまでも 言って 批判をつづけていく。     М:行為の無効は無効だというのには、1と同じ理由なので、ケースバイケースで対応する必要を感じます。肝心なのは、国連決議であれ議長声明であれ、いかに具体化し実効させるかであって、批判の連呼だけでは意味が薄いと思われます。  3. すなわち 存在を われわれの存在と同じ程度には とうとぶのであるなら その理不尽な要求に 屈服し ゆづらなければならない。     М:北朝鮮のミサイル攻撃には晒されたくありません。やはり理不尽な要求の内容いかんかも知れません。いかがお考えでしょうか。 理念としてはとても素晴らしいものなのですが、う~ん。  4. よって 犯行者については 生け捕りが 至上命令となる。     М:これは3の流れ「存在を われわれの存在と同じ程度には とうとぶ」の論理からすれば妥当かと思われます。     ただし、被害者が既出だとして、そのご遺族の心中を察すれば、ケースによっては必ずしもその限りではなさそうな気も致します。  5. これが 《人命は 地球よりも重い》の意味だと考える。 つい近年発生したタリバンによる現地民間外国人拉致事件と釈放状況を踏まえれば、時代の風潮は日本赤軍の時代より幾らかbragelonne様のご主張寄りになってきているように日本人のわたくしからは思えるのですが、はたしてどう思われますでしょうか。 最後に、ふと浮かんだことなのですが。 今までアウグスティヌスの引用を盛んになさっていらっしゃったのは、単純に純粋なるキリスト教徒の信仰心からではなく、一人の人間として内なる自分を誰よりも深く思索し究めた彼の哲学思想が何か今回の「スサノオ云々」にリンクするから、のように思えてきました。不思議です。 間違っておりましたら、こちらに関しましても訂正をお願い申し上げます。

bragelonne
質問者

補足

 mashumaro2 さん ご回答をありがとうございます。  あぁ そうでしたか。わたしのほうに 都合のよいように 解釈していたようですね。全般的に。それは 失礼しました。これからは お尋ねしつつ 話を進めてまいります。  ★ アウグスティヌス  ☆ に対しては (1)水による洗礼を わたしは 拒んだ。(2)古代人およびローマ人であることにより 生活習慣上などから違和感を抱く部分があり これを 違うなら違うと わたしは はっきりさせている。(3)数字のごろ合わせで 創世からの年代を議論したり その他の議論をするところがある。これを わたしは 摂らない。  およそこの三点を除けば わたしにとって 唯一の信仰および思想の導き手であります。かれにとっては パウロが そうです。みな 行き着くところは 同じです。  神がなくなる時代を わたしは 見とおしています。キリストのキの字を言わなくても その信仰および思想が おおむね 行きわたるという社会情況のことです。  ちなみに 日本神話に 信仰の観点から 同じ趣旨を見て取れると捉えております。言いかえると 世界の歴史およびすべての現象が 神からの手紙であるという立ち場です。反面教師としての書簡でもあり得ますが 同じ趣旨であるものについては すべて 摂取します。ぎゃくに ローマ教会が説くことの中で 間違っていることであれば 批判します。そして 宗教組織における信仰は もはや 個人にとっての信仰ではなくなっていると見る立ち場です。  ★ 女性差別  ☆ につきましては こういう話に出くわしたことがあります。社長夫人が 独自に 別の事業を起こして 立ち上がったところで 取引相手からは こう言われたそうです。《なあんだ。てっきり いまの会社の事業だと思っていたのに。奥さんおひとりでおやりなさるのなら ちょっと まだ 何とも ご返事できかねます》。昔ですけれどね。  それに 女性の給与は 男性の半分くらいですよね。  差別といえば 同和問題が いちばんでしょう。いま現在も 会社間で あくまで裏で調査するそうですが その情報を融通し合っていると聞きます。  ★ もちろん拉致被害者の関係者の方々のご心情からすればごもっともではあるのですが、  ☆ これはですね。もし このように 人道上の理由から 無効の行為を認めて 被害者らを 原状復帰させなさいという要求をするのなら それは 理念どおりの行動です。現行の制度としては あくまで 国権の侵害(国民の生命・財産の保護が 侵された)を理由に 返しなさいというのだと思います。  軍事力の発動をしない あるいは それを脅威の手段としても使わないとしているのですから あとは どちらかの理由によって 返せと言い続けるよりほかにないのではないでしょうか。そして このことは 非核化や安全保障の侵害とは 別に 独立した大問題です。  あとは 国家単位の外交活動を別とすれば――つまり その活動と 次の活動は 並行して おこなうという意味ですが―― やはり インタムライスムの事業を 地道におこなっていくことだと考えます。  拉致被害者家族は 心中を察してくれとは言っていないと わたしは 思います。国際法と人道にもとづき 違法行為の解決と処理をおこなって欲しいと訴えているのだと考えます。被害者の生命を投げ打ってでも 法的および人道上の秩序が回復されることを望み うったえているのだと思います。  つまり 同情して欲しいとは言っていないはづです。つまり ぶっきらぼうの文体であるはづです。ただし 物理的なちからによって 解決を図ることは 放棄しているということだと思います。  加害者が 人間存在であることは つまりその言い分は つまり言い分を述べる表現の自由は どこまでも 守る。と同時に 間違いは 正すべきだと こちらも どこまでも 解決が成るまで 言い続ける。こういう態度だと考えますが 非現実的でしょうか?