• 締切済み

さて、何を語ろうか。

主観的哲学と客観的哲学というものがあると気付きました。 ≪主観的哲学≫ ・我思う故に我あり ≪客観的哲学≫ ・人は必ず死ぬ 同様に ≪主観的哲学≫ ・私は最善の選択しかできない。故に私にとって私の選択は常に正しい。 ≪客観的哲学≫ ・善悪は相対的なもので絶対善、絶対悪はない。 恐らく我々は人生哲学(客観的哲学)について他人の助言を必要としない思われます。 客観という道具はもっぱら迷える子羊たちへの助言に使い、 我々は自身は、客観によって分離し取り残された『私』の本質を主観によって探るべきではないでしょうか。

みんなの回答

noname#89274
noname#89274
回答No.12

一神教と多神教では主客が転倒に近いようなことが起こっているのかも知れない。 一神教における主は神であり統一されていると解釈され個に起こる想念はすべて神と同一であって主観はそこに属するすべてに通用する客観として扱われ 客観とは貴方が定義されたやり方 客観とは他者の視点を想定して行う主観の行為 によって 一神教の宗教体系外とのやり取りにおいてすり合わせるときに適用されるということなのではないか 多神教では個に起こる想念は個単体の独自性によってそれぞれ異なると捉え、だから主観とは個人特有のものと捉える。 客観とは主観は横に置いといて >我をさておいて考えてみること >我をさておいた【視点】で事態を観察すること という状態で相手とのやり取りの中で共有できる部分を客観として扱う。 貴方のとのやり取りの中でふとそんなことを感じてしまいました。 もしかして西洋哲学の勉強のし過ぎ?

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >一神教と多神教では主客が転倒に近いようなことが起こっているのかも知れない。 円であり四角であるものが円柱のように、矛盾の中に真実があると思います。 すべては方便なのでしょう。

  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.11

マッガです。 再び思うところを書いてみますね。 <<おっしゃられていることは一般論としてその通りだと思います。>> 一般論としてはあまり受け入れられてないように私は感じますよ。 皆、信仰的なものや、曖昧なものが好きですからね… 科学の世界の方々でさえそのようなものが好きみたいですしねw <<学校での道徳教育、ワイドショーでの人生相談、会社内での社員教育、宗教的な戒律・・・・・それについて、我々はいやというほど経験してきました。>> 僕もです。道徳嫌いにもなりますよねw 論理的に実証的に詳細まで語れないようなもので 押し付けて私はいいからあんたら守りなさい的なものが多いですからねw 論理的に実証的に詳細まで語れるもので押し付けるためではなく、自分から実践するものという立場を持って語るものはゴータマさんの教え意外に私は見つけられませんでした。 新書の「的中する生き方」などは参考になると思いますよ。 <<メンタルヘルスのカテで回答を書いていて思ったのですが、自分の中の「私」という存在を客観視することが苦痛の原点にあるのではないかと思うのです。>> 僕の語る「客観」の意味は「事実そのもの」で、「客観的事実」は「相手の自由を守って、反証を受け入れる姿勢で実証的に語っても、反証が成り立たない、事実と言えるであろうもの」です。 「主観」とは辞書で観ると「行為・認識・価値判断」とあり、その中で僕が問題だと考えるのは「価値判断」です。 「認識」は六根と対象が触れ、認識し、その感覚を苦・楽・不苦不楽に感じることと思いますが、そこに「価値判断」という『自我意識・自分勝手な尺度』というフィルターが入ってデータを捏造して、『理想の自分と世界』を作り出し、それを『こうあるべき』として、現実の自分と世界を比べて、その軋轢に「怒り」「貪り」「無知」感情を発生させ悩み苦しむのだと考えてます。 <<自分の中の「私」という存在を客観視>> とはここの「価値判断」という『自我意識・自分勝手な尺度』というフィルターが入ってデータを捏造して、『理想の自分と世界』を作り出し、それを『こうあるべき』なのに、、、として、現実の自分と世界を比べてしまうことでしょうかね。 「客観的なつもり」の「主観」の「価値判断」で苦しみを生んでいるのだと私は思います。 <<客観という視点に慣れすぎている私たちは主観という視点についてもっと考察すべきではないでしょうか。>> 「つもり」からの脱却のため、主観という視点について、「価値判断」の無い「主観」で「客観的事実」を知るために考察すべきだと思いますよ。 そのためにも、感情に支配されては「価値判断」や「客観のつもり」で『理想の自分と世界』を作っていまい、理性的思考はかないませんから、生命のネットワークにおいて、内の環境と外の環境を「怒り」「貪り」「無知」が出にくくなるよう整えることは重要なことと思います。身口意の三つの行為に注意する必要があるでしょう。 多くは生命に対して抱く感情で苦しんでいると思います。そこで慈悲喜捨の念を育むことで、自他の生命は「こうあるべき」として、現実との軋轢を生み出さないようになると思います。 おおくの感情は「意による妄想」から発すると思うので、「妄想に飲み込まれず、排除できるように訓練・修習」することも必要なこととなると思います。 物事を明確に観るには、集中力と気付きは必須でしょう。なので「集中力と気付きの訓練・修習」も必要になると思います。 このような実践を修習を積めば積むほどに「価値判断」のない「主観」における「客観的事実」(主観の認識や行為も含む)が観れるのだと思います。 そこに<<分離し取り残された『私』>>があるかどうかはわからないですが<<本質を主観によって探る>>には、このような実践が必須になると私は考えてます。 参考になれば幸いです。 生きとし生けるものが幸福であれノシ

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 私たちは主観的にものを考えることはいけないことだと教えられてきましたが、 私というものを知るためにはどうしても主観が必要です。 私を知らないということが昨今の精神疾患の増加とも関係しているのではないかと思いますので主観の価値を見直すべきだと思っています。

noname#89274
noname#89274
回答No.10

>完全に客観を停止させることができるとしたら世界と私の境界はなくなり一つになりますね 主観に拘らなくなったとき 貴方の言い方を借りれば主観を完全に停止させた時 私と他者との境界はなくなるのではないでしょうか。 ただそれがそこに留まることがいいとは限らない。 というか人は何らかの関係性で生きているわけだからそこに留まれない。 どちらかといえばその両極端を最大振幅として行き来する振動系で その過程で自己の内部で主観と他者性のすり合わせ作業が常に行われていると言えるのかもしれない。 主観の強調は粒子性であるし主観の停止は波動性にあたる。 その両方をもって××は表現されるということでしょうかね。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 昔の人は修行が終われば里に下りてくるのでしょうが、 私たちは山にこもるわけにもいきませんので里での修行に励むと致しましょう。

noname#88701
noname#88701
回答No.9

少し戯論になってしまうかもしれませんが・・・ 主観と客観とがあるという事をはっきりと言われてしまうと はて?と思ってしまいました。 主観と客観の違いは当然明らかなのですが どこまでが主観で どこまでが客観なのだろう、と思ったのです。 或いは絶対的な主観とか絶対的な客観があるのだろうか、とも思ったのです。 また、さらにこのような概念も主観なのか客観なのか、といったことも含んだ疑念すら浮かんできました。 私とは主の中の主なのか 客の中の主なのか 或いは主客の中の主なのか 少し考えすぎでしょうか・・・ 主観と客観を一応分けておくことは必要だけれども これが主観であるという認識は一種の客観でもあり これが客観であるという認識もまた一種の主観かも しれないのです。 客観であると認識した瞬間に、その概念は主観に含まれてしまうかもしれないのです。 ここで、絶対という言葉を純粋という言葉に置き換えてみます 純粋な主観というものがあるとしたら 全ての客観を排した自己のみの思考や概念ということになると思いますが・・・ その場合において、すでに客観を認識していることから純粋とは言えない・・・ あるとしたら 客観を認識した瞬間における主観の確認の把握のみかもしれません それはあくまで自己の内面的な直観であり、概念以前の体験そのものです 客観の混じった主観的内容はその後につくられます・・・ 私とは何なのか・・・ 私以外のものを知る瞬間にのみ、私が存在するのかもしれません。 ・・・やっぱり戯論になってしまいました・・・ ご参考まで。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 つまり、主観といってもどこまでがオリジナルなのか? 他人の意見がその一部に含まれているのなら純粋な主観とは言えないだろうということですね。 この質問でいう主観とは考えている人は誰かというその一点のみです。 私の中で別の誰かが考えてくれているのでなければそれは主観とさせていただきました。 私も昔、客観とは何かについて質問したことがありますので参考にしてみてください。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3844740.html

noname#89274
noname#89274
回答No.8

定質的把握 済みません。勝手に造語してしまいました。 宗教の教義に関わるような議論においてみられるような 入力刺激に対して主観の中で加工され常にある一定の出力に収束するまたはさせようとする性質またはその傾向が定着しているぐらいに解釈しておいてください。 そういう状態にある時人はなかなか >我をさておいて考えてみること >我をさておいた【視点】で事態を観察すること のようなフラットな状態で物事を考察するときの妨げになるのではないかなと思います。 相手の立場に立って考えてみるというのは具体的な事象に対して実際相手の身になって肌で相手の気持ちを理解することにより相互理解と問題解決につながると思われますが 具体的な現象に伴わない単に抽象的なものだけを取り上げて考察する場合 想定するということに頼ることになるのでしょうが 他者の視点を想定して行う主観の行為というのは客観というより想定する時点で他者と主観に食い違いや思い込みが含まれるのではないでしょうか。 他者と主観のすり合わせが必要となるのかもしれませんが そのすり合わせる相手となる他者はまたそれぞれの主観の集合でしかない。 体系化された思考の中にいて考察する分にはすり合わせにおいて概ね支障なくてもその体系外にあれば他者の視点と主観に違和感は結構あるものだと思います。 思想間とか宗教間とか国家間においても 利害においても >我々は自身は、客観によって分離し取り残された『私』の本質を主観によって探るべきではないでしょうか。 それしかないと思います。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 ご回答を読んでいてふと思ったのですが、完全に客観を停止させることができるとしたら世界と私の境界はなくなり一つになりますね。 これが悟りの状態なのかもしれないと思いました。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.7

どうもです。 前回は私の不規則投稿によってご迷惑をおかけしたかもしれませんね。 特に反省はしていませんが、シフトさんには謝罪しておきます。 >客観という道具はもっぱら迷える子羊たちへの助言に使い、 :という点については(子羊とは似ても似つきませんが、それなりに迷える者という認識を持つ身ゆえ)首肯しかねるのですが、まあ、それは良いとしましょう。 端的に言えば、子羊にとっても、主観の仕方、とでもいったような手法は必要になるのではないか、と思います。 肝心なのは >我々は自身は、客観によって分離し取り残された『私』の本質を主観によって探るべきではないでしょうか。 :のほうで、この点については概ね同感です。 客観とは「我をさておいて考えてみること」のように一般的には把握されていると思いますが、 「さておいて」という点で客観なだけであって、「考えてみる」のはあくまで主観的行為と言えます。 このことが示すように、「我をさておいて考えてみること」が完璧になされることはおよそ不可能なことだというのが実際のところです。 むろん、確かに客観は(誰にとっても)「>道具」なわけです。 必要であるからこその道具であることも間違いありません。 ただ、 「我を完全にさておける」と考えてしまいがちなのがこの道具の欠点なのかもしれませんね。 これはあり得ないことです。 そこを糊塗して客観的視点【のみ】に固執すれば、自己が引き裂かれ悩みはさらに広がることでしょう。 あるいは糊塗した部分がいつか剥がれ、再び絆創膏が必要になるはずです。 うまい表現ではないかもしれませんが、 「我をさておいた【視点】で事態を観察することが客観である」 のように捉えるほうがいいかもしれません。 この命題においては、視点は客観であっても「我自体」というあくまで主観的存在を保留していることが要点です。 ところで、客観として「我をさておくこと」が道具として有効であるのは、さておくことにより他者(あるいは対象)の輪郭が捉えやすくなり、理解の一助になることだろうと思われます。 なんのための理解かといえば、感覚などを他者と共有するためでしょう。 つまり、共有することに意義なり喜びなりを(無意識的にせよ)見出していなければ、客観性は全く不要のものと位置づけられることになるように思います。 しかし、ここからが要点ですが、主観の主張によって軋轢が生じるのだから主観を抑圧したり無視すればよいということではなく、主観そのものを変革し、あるいは鍛えていくことによって、客観との接点(=共通点)を開発していこうとする作業手順が求められるのではないかと思います。 主観の便宜を無視した客観は無理が生じるため破綻するでしょう。 その意味でも「概ね同意」と感じることになったようです。  

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 前回の質問ではお世話にあなりました。 私自身としては削除はいつものことで数を数えるのも馬鹿らしくなるほどです。メールが来たときに哲学は人の中に生きていると負け惜しみをぼやいていましたが、回答していただいた方には申し訳なかったです。 その後のhakobuluさんの質問は興味深く読みました。不謹慎ですが、あの時回答していただいた方々のその時の心理状況などがおもしろいです。 さて、今回の質問は(質問の体をなしていない気もしますが)客観という便利な道具に振り回されちゃいませんか?というテーマを含んでいます。 絶対的な善悪は存在しないと言いながら、日々より良いものを目指すのは何故なのでしょうか。 あらゆるものが二面性を持つこの世界で、良い面だけを手に入れることは不可能だと思われます。 話はそれますが、別のカテで女性の強さについて質問しました。男から見て女性の強さは感情を軸にするその主観性にあるのではないかしらと思いました。 主観的にものを考えるのは悪であるような感覚はだれにもありますが、これは他者を無視するということではなく、「私」とは何かを問うことであると思うのです。 私とは何かは哲学ではメインテーマの一つであると思います、恐らく客観だけではその理解は無理なような気がします。 主観を毛嫌いするのは客観による道徳的善悪の影響が強いと思いますが、おっしゃるように客観とはあくまで主観が執る一つのポジションですので、どこまでも主観であることは忘れてはいけないと思います。 自分を知らない人ほど他人に振り回されるというのは皮肉な事です。

noname#89274
noname#89274
回答No.6

ハハ 削除になったんだ。 客観が定量的に再現性を確認できることを科学的客観とすると 主観に委ねられ未だ客観化され得ぬものにたいする考察もしくは判断が真であるか偽であるかは、どういう時に他者と認識を共有するものになりうるか。 定質的把握は科学的客観として扱っていいのかな? 法は客観に属するか主観に属するか 主観に属するものを扱うとして 現象に対して相違しぶつかる相互の主観に法はどう対峙し対応し対処するか、またはするべきか、またはしなければならないか。 主観と主観がぶつかるときそれを扱おうとするそこに客観性はありうるか あるとすればどういう場合か その底流に流れる法の精神とは何か 我々は何を何によって何のために探求しようとするか。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >定質的 これはどういう意味でしょうか。 客観とは他者の視点を想定して行う主観の行為ではないかと思います。

回答No.5

maimaisusです。 あれ?前回削除された、質問の続きですか。 >≪主観的哲学≫ ・私は最善の選択しかできない。故に私にとって私の選択は常に正しい。 の、(・私は最善の選択しかできない。)も、(故に私にとって私の選択は常に正しい。)もご自分が、正しいと思いたいだけで、別にそんなことはないと思いますよ実際は。 その、根拠は、いまさら説明はないですよね。前回質問で回答した通りです。 >我々は自身は、客観によって分離し取り残された『私』の本質を主観によって探るべきではないでしょうか。 ん~、それって感覚的にもの事を認識しようとする事に近い思考ですね。確かに、そう言った事も必要なのかのしれません。 しかし、客観もやはり必要かと思います。 何故なら、文明とは、多角的に物事を認識し、考えるに様になってから発達したからだと思うからです。そして、哲学もまた文明の産物の一つだと思います。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 もちろん客観は必要です。 理由は言うまでもありませんが、同時に主観も重要ではないでしょうか。 私たちは客観に慣れすぎています。 客観という視点で自分の中の「私」と現実の「世界」を見ています。 私が感じるところによるとこの「客観」は非常に曲者です。 世界と自分を分離します。 この2つの溝を宗教家たちは埋めようと必死ですが、客観という手法だけに頼るなら無理でしょうね。

  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.4

こんにちは、マッガです。 僕の思うところを書いてみますね。 ★ ≪主観的哲学≫ ・我思う故に我あり ・私は最善の選択しかできない。故に私にとって私の選択は常に正しい。 ● 西洋哲学に多く観られる『私・自我意識・自分勝手な尺度』を重要視する考え方ですかね。 『私・自我意識・自分勝手な尺度』の選ぶ「最善のつもり」の行為しか出来ないし、それは現実の現象に対する分析や検証をしなくても出来るもの。 分析や検証をなし現実に沿った『私・自我意識・自分勝手な尺度』の内容・尺度になれば、現実との軋轢による悩み苦しみが減り、『私・自我意識・自分勝手な尺度』が出る機会を少なくし、その状態を分析検証し理解するとともに、その状態に心が慣れ『私・自我意識・自分勝手な尺度』は薄まっていく。 そのように私は考えます。 ★ ≪客観的哲学≫ ・人は必ず死ぬ ・善悪は相対的なもので絶対善、絶対悪はない。 ● 老・病・死 は客観的事実だと思います。 <<善悪は相対的なもので絶対善、絶対悪はない。>> 遺体・物質と生命の差異を 「感覚・知る機能があること」「動くこと」 と納得し、「なぜ動くのか、止まるとどうなるのか。」「止まるとものすごく苦しい」「姿勢・呼吸・血流・心臓など、、、止まるとかなり苦しい」「同じ感覚を受ける付けることは苦痛。」「聴覚・味覚・触覚・視覚・嗅覚も同じものの連続だと苦しみを感じる」「苦るしい状態から他の感覚に移ると苦しみが減った分「楽」を感じる」「しかし移った刺激が続けばまた苦しくなって、移ると「楽」を感じる」「結局は「苦」から「苦」に乗り換えてその差異に「楽」といっているのが現状」「生きるとは、苦しみを避けること」 という思索を客観的な事実だとするなら 「幸福でありたい」 「悩み苦しみは嫌だ・なくなって欲しい」 「努力は実って欲しい」 「今なすべきことがすぐにひらめいて欲しい」 という基本的な希求が生命にあるということは客観的事実のように感じます。 その希求を客観的事実とするなら 絶対善は『苦しみを減らす・滅すること』 絶対悪は『苦しみを増やす・生じさせること』 といえるのではないかと感じます。 <<恐らく我々は人生哲学(客観的哲学)について他人の助言を必要としない思われます。>> 個人的には必要と感じます。 『私・自我意識・自分勝手な尺度』でまみれ、現実の分析・客観的事実を受け入れないことで悩み苦しみを多く受けていると理解しているので、現実・客観的視点を助ける「外からの声・情報」は大きく思索に影響を与えるものと思います。 <<客観という道具はもっぱら迷える子羊たちへの助言に使い、我々は自身は、客観によって分離し取り残された『私』の本質を主観によって探るべきではないでしょうか。>> 客観的な事実の探求も大事ですが、それを邪魔する『私・自我意識・自分勝手な尺度』の分析をし『私・自我意識・自分勝手な尺度』の本質を探ることも必要になると思います。 客観的な事実とデータや経験から、論理的に理性的に思索して頭で納得したつもりでも『私・自我意識・自分勝手な尺度』が心底からの納得を拒むと思いますから、その拒む原因たる『私・自我意識・自分勝手な尺度』を知らなければ対処できませんもんね。 『私・自我意識・自分勝手な尺度』を育む・起こる原因を見つけ、対策を練って、実証検証することが、絶対善『苦しみを減らす・滅すること』に必要になることと思います。 何か参考になれば幸いです。 幸福であれノシ

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 おっしゃられていることは一般論としてその通りだと思います。 学校での道徳教育、ワイドショーでの人生相談、会社内での社員教育、宗教的な戒律・・・・・ それについて、我々はいやというほど経験してきました。 これらの客観的視点に基づいて主観を修正する作業は恐らく一生つづくでしょう。 だからもう、 <<恐らく我々は人生哲学(客観的哲学)について他人の助言を必要としない思われます。>> だと私は感じます。 メンタルヘルスのカテで回答を書いていて思ったのですが、自分の中の「私」という存在を客観視することが苦痛の原点にあるのではないかと思うのです。 犬や猫はうつ病にはならない原因は自分を客観視しないことではないでしょうか。 犬や猫になれと言っているのではなく、客観という視点に慣れすぎている私たちは主観という視点についてもっと考察すべきではないでしょうか。 絶対的善悪がないのであれば、客観を用いた主観の修正は相対的な結果(よりよくなったと思ったら別の視点では悪くなったように見える)をもたらしますがそれでもOKなのでしょうか。

noname#89274
noname#89274
回答No.3

100人の内99人がそうだという時、それは客観か主観か。 100人の内一人が違うという時、それは主観か客観か。 客観はいつも真実であるといえるか。 我々は何を何によって探ろうとするのか。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。

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