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よくある質問。あなたは神を信じますか?

あなたは神を信じますか?それとも信じませんか?また、その根拠は何ですか?というヤツです。 私は無宗教論者。だけど神を信じる。 なぜならば、この世にあらゆるものが存在していてそれが決まったルールで動いている。 その定義をした存在は?=>「神」 ということで神を信じざるを得ないと思うのですが、あなたの意見はどうですか?

みんなの回答

回答No.33

魚群等の挙動からも窺われます通りに、 ルールは勝手にでも纏まっていきますので、 殊更に秩序の管理者を外部へ据える必要は御座いません。

回答No.32

「神」というのは何を持って神とするのか分かりませんが たとえば、neko_cyatoさんがおっしゃるように 自然のルール、秩序をつくった存在(あるいはそれ自体) を神と呼ぶならば神は存在すると思います。 また、全能力を持った(できないことがない)存在を 神と呼ぶならば存在しないと思います。 なぜならその場合の神は自分では持ち上げられないほど重い石を 作ることができますが(万能なので)、その石を持ち上げることは できません。これは万能であることと矛盾しますから、神はいません。 さらに、宗教的な神を考えると… 要は「人の恩とかは必ず回りまわって自分のわからないところで つながっていて…だから善をしなさい」みたいな感じだとneko_cyato さんの思う決まったルールを見出すことだとも言い換えらますよね? 八百万の神なんてその代表だと思うんです。前で書いた物質的な ルールとともに自然界のルール、(気持ち的な面でも)それを 操ってる存在が神ならそれも私は信じます。 しかし宗教的な神を考えたとき、なぜいろいろな宗教があり、 なぜいろいろな神がいるのかと思うと、それは人々を統率したい からだと思うんです。たとえば「毎日このお堂の前で祈ればあなたは 幸せになれます」とかいって時の権力者が見えない存在をつくり、それを 神と呼び、信じ込ませ、いつもその神に人々を監視させておく。 そうすることで人々は真面目に働き、動かしやすくなる。経済も豊かになる。 また人々も頼れる存在があるからこそ真面目に働く。そんな存在だと思います。 日本も戦争の間は天皇が神的存在で天皇に心の居場所を置いて 一致団結できたんだと思います。 そういう宗教的な神は人が作ったものですから、いると思います。 もちろん僕の書いた場合が全てでもなくまだまだたくさん いろいろ定義できます。 自分をつくる存在を考えれば自分以外の存在全てが神だと考えられます。 なぜならば自分は周りとの比較で決定できたり、あるいは自分の 性格を決めるのも周りで、そもそも僕自身は僕が決めることは不可能 だからです。 結局私の意見は上の場合以外の神の定義では そのときで意見が違うということです。 …長くなってすみません…

noname#84442
noname#84442
回答No.31

神という者の定義について あくまで持論ですが 『信仰上の神、偶像崇拝などの神等、精神的に個人が崇拝する神』という意味ならば、実体のない想像上のもの(否定的な意味ではなく)だと考えます。 神というものが『世界を創造した者』という意味ならば、私は存在すると思います。 何故なら、私はこの世界が無から(自然的に)創造されたとはどうしても思えないからです。 きちんと調べていないので詳しい事は解りませんが、中学生の時に「宇宙が広がっている」という事を知り、宇宙が広がるということは宇宙の外に何らかの空間があるのではないかと考えました。 何らかの空間があるということは、宇宙の外にまた違う世界があるのではないか。 例えば、人間が作ったゲームソフトのように、外の世界に存在するかもしれない何らかの生命体がこの世界を創造したという可能性はあるわけです。 もし、そのような生命体が存在するとしたら『神』と定義することは出来ます。 つまり、神は存在すると。 もし前者の意味でご質問されているとしたら、長々と持論を語ってしまい申し訳ないです…。

  • srv114
  • ベストアンサー率0% (0/0)
回答No.30

僕の解釈では神様はいます。 ただ、地球を作ったわけでも、全知全能でもありません。 人が自分の力はでは解決できないような問題に直面したとき、悩みを抱えたとき、何か巨大な大きな頼れる存在がいないと、押しつぶされる。そんなとき神という巨大な存在を作り、祈ったり崇めたりすることで、心をやすらげてくれる。そういうものだと思います。 ただ、僕はそういう状況にたったとき、悩みを抱えた時なんかに、神に祈ったりはしません。僕の中で、神様以上に大きな存在があるからです。それは家族からの愛だったり、友達との友情とか。そういうものが僕を支えてくれます。だから、もしかしたら、これが僕にとっての神様なのかもしれません。 地球を作り上げた全知全能の悪を裁くものが神だとしたら、こんなものは存在しません。信じるひとも無能です。 愛とか、友情とか希望とか、そういうものを神として捉えるなら、神は存在します。

回答No.29

地球や草木などあらゆるものをつくったのは神だ、とよく耳にしますが、それには納得できません。 しかし、私は神を信じています。 私の家の和室には神棚があるのですが、毎日寝る前にお祈り(?)をしています。 今日無事に過ごすことができたのは神様が見守ってくれていたおかげだと解釈し、感謝を申し上げています。 学校で嫌なことがあったり、どうすればいいのか分からないときなど、神様にお話する感じで今日1日の出来事を伝えたりしてますね。 返事はしてくれなくとも、絶対どこかで聞いてくれていると思うと、すごく神様に感謝の気持ちでいっぱいになります。

回答No.28

なんか皆さんそれっぽい事を言ってますが、 本当に理解して言ってるのか疑問です。 難しいそれらしいセリフをどこかで抜粋してきただけのような感じで、 なんの説得力もありません。 私の家はクリスチャンです。 もちろん学校もキリスト系でした。 が・・・神様を信じてはいません。 そりゃ幼い頃は微塵の疑いもなく信じてました。 でも、神様が私たちを創造したんだとか誰が立証できるの? 全然意味がわからない。 例えば幼い子供に同じ質問をされて、同じ様に回答して、 理解されると思う? いかにもみたいな言葉で固めてるけど、 子供にそれはどういう意味?なんで?なんで? と質問攻めに合えばお手上げ状態でしょう。 だって自分の言葉じゃないから。 だいたい神様がいるっていえる世の中なわけ? 全世界中のこと把握してますか? 神様がいたとして何故、戦争等を起こしてるのでしょうねぇ。 なんの罪もない子供達が死んでいくのを神様は見てるだけ? へ~。 神様が本当にいるのなら、平和で貧富の差のない平等な世界でしょう。 聖書を読まれたことありますか? 神様だったといわれているイエスキリストですが、 聖書を読むと、ただの自己中な説教好きというイメージしかありませんよ。 この回答者様の中に何人聖書を読まれた方がいるかしりませんが。

  • sheep67
  • ベストアンサー率28% (36/128)
回答No.27

こんにちはー。 神様の話は大好きですが、本来それは直観による、と思っています。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3813558.html こちらの方で少しだけ議論もしてます。興味があったら見てください。 神は、真の自己と相補的です。同時に全く相反する物です。 その概念を導く直観が、そういう性質なので仕方ありません。 極端な話し、この質問だと、仏陀とイエスのどちらが間違いだと思いますか? という質問にもつながらないでしょうか? バーナディットロバーツという方の書かれた「神はいずこに」という本があります。 多分、こういう話しに深く興味があれば、興味深いと思います。 以上は参考意見です。あまり多くの人と議論したわけではないので。

回答No.26

私は無神論者です、ですが、若い頃「死ぬのが」怖くて大変苦しい想いをして生きてきました。この恐怖感は、年数を重ねたら薄まる、或いは恐怖感が弱くなるというものでは有りませんでした。18年間x365回死刑執行された気分で生きてきたものです。心は当然普通ではなくなりました。神経症の中の「離人症」というものになって、感情が不通に湧かなくなるものです。 途中で森田療法というものを受けましたが、自分の症状「離人感」というものは、もう消えないものと諦めていました。退院してから4年後の事事、自分の自我意識が「自分の無意識の意識」に出会うという体験をしました。それ以後「死の恐怖」がピタッと無くなりました。神経症も完治しました。この経験から書いてみます。 人間の不安は自我意識が感じています。それは自分の中に感じさせるものが居るからです。それがお釈迦さまが言った「仏性」というものです。この事が分からない事から「精神疾患」は治療が難しいのだと思います。心の病の初めの症状「漠然とした不安、或いはその不安を心から追い払おうとした時の恐怖感、或いは、罪悪感。どこから来るか得体の知れない圧迫感」これらの心への圧迫は、仏性が自我意識に働きかけているものという事が「体得」出来たものです。 あれから29年経ちます、今も精神疾患に苦しんでいる人達が大勢います。この苦しみは全てが人間の脳の機能の分化が元をなしています。左脳に一人、右脳に一人、人間は二つの心を持っている事から苦しみが始まっています。是は聖書にも書いて在ります。アダムとイブが天国から追放された。この意味は脳の機能分化が完成に近くなったという意味になります。その証拠は「天国に一番近い存在は幼子」という処です。 幼子はまだ脳の機能分化が未発達のために「分別」する能力がない、言い方を替えたなら知恵のリンゴをまだ食べていない、という事になります。知恵のリンゴを食べたという意味は意識をして世の中を見る」ようになったという事です。 この「意識」をするという事が、洋の東西、今も昔も人間を悩ませています。是は心の分裂を意味するからです。精神疾患の全ての症状は「意識をした事」が症状名になっています。この意識をした状態は「仏性」との対立と矛盾を起こしているという意味になります。 仏性は命の働きそのものです。心臓の打つ数でも替える事が出来ます。自律神経の働きも替える事が出来ます。脳のアドレナリンや様々なホルモンでさえも調節してくれています。従って自律神経失調症や精神疾患なども自我意識と仏性のの対立が原因と言えます。 この事は大変に判り難い事です。仏性は無意識の中に封印された形で存在しているからです。これらの疾患の完治は悟りを開いた場合には完治します。森田療法を受けた時の先生「鈴木知順先生」はノイローゼは悟りを開かないと治らない。という言い方をしていました。 結論です「神、仏は」存在します。是は誰も持っているものです。それは自我意識が認識し難い「無意識」の中に封印されています。そうして自我意識が関与していない所を補っています。思わずに急ブレーキを踏むのが「それ」です。自我意識が引っ込んでる時「没我」の自分を働かせています。 右脳の意識が「それ」と言えます。それは脳の機能が違うという事が認識し難いという意味でも在ります。右脳の意識に目覚めるための訓練方法が有ります。それが禅というものです。禅問答は自我意識では解けません。仏性の働きが出てこないと無理な事です。仏性の働きが出てくる訓練法が「禅問答」というものです。禅問答が解けた時には仏性と出会う事になります。 その時には「自分の生死」にも囚われなくなります。絶対肯定という立場になるからです。それは「神に会って和解した」という意味が有るからです。心は二度と圧迫を受けないという意味が有ります。一切皆苦という事が、今度は安楽に暮らせるという風に代わるからです。

  • shikaruni
  • ベストアンサー率20% (19/95)
回答No.25

鏡(かがみ)に映った自分から、"が"を取れば、"かみ"になります。 ある意味、本質をついていると思います。 回答ではありませんが、面白い話でしょ? 私は、頭で信じている訳ではなく、心で感じています。 なので、信じています。

  • kettouti
  • ベストアンサー率46% (274/589)
回答No.24

地方に住んでいる人が、たまたま東京に出て、東京に住んでいる兄と出会う。それも、兄が住んでいる以外の区にあるレストランにランチを食べに行って、たまたま座ったテーブルの隣のテーブルに座ってランチを食べている兄と出会う。 考えてみると、幾つかの偶然?がすべて一致しないと起こりえない出来事だと思います。限られた場所で、限られた時間に、限られた空間で、兄弟が全く同じ考えをして行動した時でなければ・・・。 神を信じる訳ではありませんが、現代科学では解明出来ない何らかの不思議な力が働いていると考えなければ説明が付かないように感じます。 また、そのように考えて納得しなければ・・・。 その不思議な力を「神」という言葉?に置き換えているように思います。 神を信じるか?信じないか?という事について、過去の出来事も含めて冷静に私自身の事を考えてみますと、日常生活が出来るだけ平穏無事である事を願い、その時の出来事に対して神の存在を信じたり信じなかったりしているように思います。「神様、ありがとう・・」って考えたり、「神も仏もいるもんか!」って考えたりしますので。 神を信じる事によって平穏な生活を送る事が出来れば神を信じ、神を信じない事によって平穏な生活を送る事が出来れば神を信じない・・・多くの方がそのように考えているのではないかと思いますがどうなんでしょうか?

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