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リラックス=集中
リラックス=集中、だと思っているのですが、 正確には、無意識の精神集中状態が、リラックス状態だ、と思ってるのですが、 瞑想やお祈り、ヨガなどで、精神集中によって気持ちが晴れたり力が抜けたりするのはこのためじゃないか?と思うのですが。 ご意見お願いいたします。
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こんばんわ。 >リラックス=集中 :そうとも言える、と思います。 集中すると→解放される、ということもある、と思います。 集中することによって、 ほかモノの、支配・干渉を受けることなく、 何かと仲良くすることを愉しむ、 ということもできる、と思うからです。 今日わたしが一番「集中→リラックス」できたのは、 仕事が終って家に帰って、 家のトイレをわりとマジで掃除していたときです。 他には、足の速い小学生と鬼ごっこをしているときなど、 ものすごく解放されます。自分がオニのときは特に。 .
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- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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回答番号:No.2 お書き込みに回答申し上げたと存じましたが、加齢の錯覚でしたかな。でていませんね。 ☆:『判らないところがある』とのこと。 《判らないところを仰せになれば、できる限りの説明はさせていただきます。》 ☆:『主観、客観、抽象』ということばの使用の仕方が、私とは異なるようでして、そういうことを度外視すれば、或いは、ですが、あまり食い違いが無いかとも存じまし、或いは、ですが、食い違っているかも知れません。仰せの文章では、私には何を申し上げてよろしいか判りません。 ☆:『気が散っていてはリラックスできませんし、精神統一=集中は、リラックスの必須条件だ、と思うのですが、いかがでしょうか?』 思考、思う、身体と五感の感覚を完全に脱却することがリラックスで、そうして初めて集中が出来ますので、集中はリラックスがなければできません。リラックスが集中の前提必要条件ですので、反対のことであると存じます。 相互にフィード・バックしながらの、行ですから、仰せのようにも言える段階もありますが、それは過渡でしかありません。 リラックスは姿勢や心からもたらされ、それが集中に必要だという前後関係は本則です。 お母上様がヨガをなさっておられるとのこと。 ヨガという言葉と内容の本義は一致ということです。 何との一致かというと、宇宙創造の本源と法則に一致するといういみです。それが目的であり、過程であり、到達です。 そのための心、生き方、姿勢、生命・意識の研鑽、そして本体への差し向け、集中、一致というものです。 それには心身の健康とリラックスは必要です。 私も20・30歳代の二十年ほど、本格的を志してハタ(ハサ)ヨガを精進しました。その後それを含み、バクティ、カルマのヨガの全体である、ラージャのヨガを拙く精進努力しております。 ここでハタ(ハサ)ヨガの一部、そのまた一部である、ポーズがよく美容や健康、或いはストレッチなどの体操、エクササイズに取り入れられ、ヨガと称されていますが、言葉の誤用があると存じます。 関連して、ご質問に多少でも参考になることを申し上げました。 お母上様のなさっている、ヨガがどういうものかを私は存じませんで、申し上げたので、失礼にあたれば、深くお詫びします。
補足
お礼に入りきらないので、こちらに書きますね。 いろいろ答えていただきありがとうございます。 下にも書いてみたのですが、 >『主観、客観、抽象』ということばの使用の仕方が これについては、元々質問文自体アバウトです。 それはいい加減に書いた、というのではなく、僕は一つの言葉の定義を決めるのに、たとえば、リラックスとはこれだ!みたいなやり方ではなく、 リラックスが間違いなく含まれるであろう大きな枠を一つ決めます。次に、その枠を、少しずつ狭めていくことで、リラックスの本質に迫りたい、というやり方をしています。 質問文も、そういう意味の大きなくくりを書いているので、今は厳密な定義みたいなのは、後々わかってくればいいやーと思ってます。 曖昧な言い方でご迷惑かけていますが。 >リラックスは姿勢や心からもたらされ、それが集中に必要だという前後関係は本則 これは、ヨガではそうなっている、ということでしょうか?一般論でしょうか? リラックス=集中の状態に持って行くのに、人間は主観的な心の生き物なので、 気持ちがリラックスしてることを意識するのはもちろんそうだと思います。 krya1998さんもお書きのように、方法論としてどちらを意識したらいい状態に変化できるか? という視点はわかるのですが、 僕は客観的に、結果としてリラックスしている状態は、同時に強い無意識の集中状態だ、という、ある種の心ー体の系にたいする、構造的な分析をしているつもりです。 方法論としては、中程で言われるとおりで、過度期としてどちらも意識することはあり得るし、でも本質としては、リラックスを念頭に置く、という話はよくわかります、自分で思い出しても確かにそうです。 でも体ー心ー外部、を一つのまとまりー系としてみたときに、意識するリラックスと、客観的な集中状態は同じだ、といえるでしょうか? 人とそれを取り巻く環境の構造は、有機的で、かつ時間とともに変化します。 なので一言で言い切るのは、まず無理、とここまでのぶんせきで思ってます。 なので一つの要素をこうだ、といいきる分析ではなく、 有機体としての心からだ、個人と周囲、などの分析には、それを分析するには手段として、質問文のような、イコールで結んでいくことで、全体の形を浮かび上がらせる、という手法が一番適切だ、と今は感じています。 一個一個の要素でなく、全体構造をはっきりさせることを、僕は今一番の優先順位としています。 僕個人的には、リラックスは、人格にたいする安心と信頼、をよく意識します。 母親は、なんか有名な先生たずねて大阪まで出て行ってたので、今やってないのは実にもったいないなーと思ってます。 もっとも30年は前のことで、言われているヨガを取り入れたストレッチ、などは全くなかった時代です。 家にも、昔は、おぼえてるかぎり、かしいけいこさん、佐保田さん? 沖正広さん、とかの本が並んでて、まあ本だけ読んで満足してただけかどうか知りませんが、 僕も子供の時にそういう本をかなりおもしろくて読んでいました。 ヨガや、まともな宗教、哲学は皆正しい、と思ってるので、これらは、僕は自分の考えを検証するときに、照らし合わせて採点するための教科書、っぽく使っております。 有意義なお話ありがとうございました!
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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美容や健康のエクササイズに、ハタ(ハサ)ヨガの一部が取り入れられていますが、これをヨガということは言語上の誤りです。 ヨガは一致という語源意味でして、何に一致かというと、宇宙の根源とそのあり方、つまり自分の本来性に一致ということです。 そういう一致において、心身のリラックスと集中がかのうになり、リラックスと手中となっているのですね。 お母上様が、体操をしている、ということは申し上げませんが、ちょいと敷衍して、関連の事を補足しました。 「リラックス」は、状態であり、方法ですから、主観も客観もありません。集中はリラックスして行う努力でして抽象ではありません。 思考、感覚、自分があっては、気が散り、リラックスも、無論集中も出来ません。精神統一=集中は、リラックスの必須条件だ、と思う。 反対ですリラックスが集中の必須要件です。
お礼
再度のお返事ありがとうございます! えーと、母は、何とか先生というなんか有名な先生についてやってました。でも今はさっぱりですねー。やったらどうなん?とはよく言うんですが。 本題ですが、 >精神統一=集中は、リラックスの必須条件だ、と思う。反対ですリラックスが集中の必須要件です。 これはまた僕のアバウトな書き方がまずかったです。確かに下で必須条件と書いてますし。 僕のリラックスと集中にたいして正確に表現すると、 リラックスと集中状態は、全く同じもの、というか、同じ完全な状態の、2つの側面、というか、同じかもの表裏、という風にとらえています。 いい状態に持って行くために、リラックスを意識するのも、集中を念頭に置いてやってみるのも、それは同じことだ、という考えです。 物理の言葉を借りて、「等価」と呼んでます。 ある理想的な状態においては、リラックスもしてるし、集中もしてる。それは言い換えると、その理想状態にたいする、言葉の表現の壁、があります。 そういう言葉の壁が、いつもこういう内面を語るときに立ちはだかる、と思っているので、 今回のように、言葉の定義に関して、いろいろこちらで質問をしています。 もちろんヨガをやられておれば、そのあたりの仕組みは実体験として、正確に把握されてると思いますが、僕は、言語的にそれを正確に表現したいと思ってます。 また良ければ手伝ってくださいね。 ありがとうございました。
- compequal
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リラックスという概念、と集中という概念をどう考えるかにもよるので、 リラックス=集中 という定式が「常に」妥当するとは言えませんが、 リラックス=集中 という定式が妥当する「場合がある」とは言えると思います。 ■妥当しない場合 ・リラックスがただの弛緩した状態の場合。この場合、意識は焦点をもたず、発散。 ・高ストレス状況下での、集中の場合。集中はしていても、リラックス宇しているとは言えない。 ■妥当する場合 ・チクセントミハイが「フロー体験」と名付けるようなケース。(1.目標に対して積極的に没入しており、2.努力の範囲が明確になっており、3.課題の難しさが挑戦者にとってほどよいような場合) この場合には、力の抜けが観察されるということはよく知られております。
お礼
お返事ありがとうございます! ん~~そうですねーーー。 質問文が、「わかってくれる人にだけ返事もらえたらいいや!」みたいなのりで書いてるので、かなり定義とかずさんです。すみません。 いろいろ議論の余地もあるとは思うのですが、 言葉の定義もかねて言わせてください。 リラックスがただの弛緩の場合ーーこれは、僕はリラックスは主観的にちからがはいってない、という自己のコントロールの元に身体がある、という意味合いで使っています。 力を入れたければいくらでも入れることができ、もちろん抜きたければ無限に抜くことができる、それが自由自在に扱える状況、という意味合いです。 意識は、人の無意識層が、作成するもの、と考えています。なので、意識を作るか、作らないか、を自覚して扱える状態、という意味では、弛緩はリラックスだ、といえないでしょうか? 高ストレス下では、集中を強いられてる精神状態では、確かにリラックスしてるとはいえません。 でも上に書いたように、自覚とコントロールの元に自分の集中を扱えているのなら、高ストレス下でも、それはリラックスと呼べないでしょうか? もちろんそれはきわめて主観的なものなので、客観的検証には耐えないー現在手段がない、と思います。 筋肉の測定なので、同じだけ筋電図がふれても、主観的に緊張してたり、リラックスしてたり、というのはあると思います。 フロー体験についてー始めて伺うのですが、全くその通りですねー。ただ、ここにかかれている3つの定義は、きわめて科学的、学術的です。 でも僕の質問は、たぶん科学の俎上に載らない、それは、主観的なリラックスしてると感じる感覚と、無意識が精神集中している、という客観の状態が同じだ、という話なので、現在科学で主観と客観の関係をダイレクトに扱う手段がない、と思われますので、 このあたりは難しい問題じゃないかなーと思います。
そうです。無意識がリラックス、つまり心の癒しです。脳が思考してる時は、脳が、人の心と、大自然の心、情緒との、交流を遮断するので、ストレスになります。脳の思考が休むと、人と自然が、交流するので、心が癒されます。脳波がアルファ波になった時です。日本語は、母音を強く発音するので、母音の時、脳が休み、アルファ波なるみたいです。だから邦楽の民謡や演歌は、母音を伸ばして心を癒します。また世界中で、日本語を話して育った人だけ、脳の音感の構造が変化して、自然の情緒、癒しに敏感になるという、論文を、大学の医学の先生が発表しています。だから日本の伝統文化は、脳を休めて、心を癒す事を追求しています。西洋文化は自我、自己表現ですから、脳を刺激するのでストレスになります。だから日本の伝統文化を実践すれば、心をリラックスさせ、心を癒す事ができます。茶道、能、日舞、民謡、詩吟、演歌、日本画、雅楽、落語、短歌、俳句、源氏物語、中国の太極拳など
お礼
こんにちはー。 とても独特の文章で、味わい深いというか、雰囲気がありますねー。 感じが多いのに、読んだ方がリラックスしますねー。 西洋文化と日本文化にこういう違いがあることは、あまりはっきり意識したことがなかったので勉強になります。 僕はスポーツをやってるのですが、日舞の体の芯を固定する動きなどは、とてもいい感じですね。 心がはっきりと追ってるからこそそれをよりどころにリラックスできるんだ、というのは、 日舞も、集中によるリラックスも同じですねー。 太極拳も興味ありますねー。やる機会があるといいんですが。
○ 何をなすか。何のためにするか。 ☆ を抜きにしては あまり意味がないのぢゃないですか? ○ 何を食べるか。どういうことをおこなえば たましいの食事になるか。 ☆ これが 決めるはづです。 ○ Travailler, ca repose.(Working is to rest.) ☆ と言います。《仕事が 栄養になる》のでしょうね。 ○ レストラン( restaurant = restoring ) ☆ ですから さあ 仕事だ! というのは これから レストランに行くぞ! と言っているのと同じなのでしょうね。 何をやるか / 何のためにやるか これが すべてでしょうね。 ★ 無意識 ☆ ということばほど 恰好の避けどころはないのと違いますか? 何でも 無意識と言っておけば 話が決着したみたいに思う人が 多いようです。 もし質問が 趣味クラブの話でしたら 失礼しました。
お礼
こんにちはー。 お返事ありがとうございます。 でも回答文わからないところが多いのであげてみます。 >あまり意味がないのぢゃないですか なぜそう思われますか? >これが 決めるはづです それはもっともだと思います。 >何をやるか / 何のためにやるか これが すべてでしょうね それは、確かに最終的な集約点としてみるならすべてでありゴールですが、そこへの道のりや、それを明瞭に自覚したり、たどり着くための方法論を考えているのであって、その意味では、すべてだ、とはいえない、と思います。 >無意識 今回、確かに無意識は曖昧さを残したまま使っていますが、だからといって、格好の避けどころ、という言い方はひどくないですか? ただの逃げ口上に使ってるか、ちゃんと考えて使ってるかの判断は考えられたでしょうか? それは回答者様のただの経験からの状況判断に過ぎず、こちらの意見を真剣に受け止めて考えを尽くされた末の結論とは思えません。 >趣味クラブ 意味がよくわかりませんが、人生は遊びであり趣味だ、と僕は考えます。好きなことをやらないで何の人生かな、と思うので。シリアスがすてきだ、というのは、それはそれで一つのポリシーでしょうが。 でも人のことを軽く見るような(失礼)?ことをかかれるなら、それは自分自身に辛さとして返ってきてないですか? 人からどうこう言われるではなく、そのカテゴリー意識みたいなものが自分で自分の首を絞める危険性を、僕なら感じるのですが・・・。でもそれは人それぞれかもしれません。 回答ありがとうございました!
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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“無意識の精神集中状態が、リラックス状態だ”というお言葉は理解できません。 心身にわだかまりがなく、一切のことに気や心の配りの必要がない。 溌剌としている。こういう状態になることが集中に必要であると存じます。 当初(20・30代)15年ほど、身体を中心にしたハタヨガをしていました。その後、現在73ですが、リラックスを前提にしたラージャの瞑想の精進をしております。 瞑想は集中の深化とその一態様ですが、当然リラックス要求されます。 リラックスは、溌剌と自己を差し向けるものであって、だらしなくなることとは正反対です。 自己の規制をしている弛緩であり、弛緩している自己のコントロールです、支配です。これが集中には必要です。
お礼
こんにちは! 直接ヨガをやっている人からお返事いただけてうれしいです。 ヨガは僕はやってませんが、母が家でやっており、身近な題材なので、質問文に出させてもらってます。 文章が、すみませんちょっとよくわからなくて、何で理解できません、と書かれてるのか今ひとつわかりませんでした。 なのでわかるところだけ書きますね。 >リラックスは、溌剌と自己を差し向けるものであって、だらしなくなることとは正反対です 僕もそう思います。リラックスが集中している状態だ、と書いたのは、主観的な溌剌と自己を差し向けるという気持ちは、それが、客観的には、そのまま強い精神集中だ、という意味です。 つまり、主観的な「リラックス」という言葉と、客観的なあるいは抽象的な「集中」、という言葉は、関係あるのではないか? 人間気が散っていてはリラックスできませんし、精神統一=集中は、リラックスの必須条件だ、と思うのですが、いかがでしょうか?
リラックスというのは流れが円滑でよどみとか逆流がないような感じではないでしょうか。一方集中というのは流れていないような感じです。この二つは一見矛盾しているようですが、流れが回転あるいは循環している場合両立します。心の中の流れが定常的に回転あるいは循環していればすっきりしていることになうのではないでしょうか。
お礼
こんにちは! お返事ありがとうございます。 流れが回転あるいは循環! イメージとしてとてもよくわかります。うまい例えですねー。 悪循環や好循環、あるいは連鎖反応、そんな言葉が確かにぴったりきますね! お返事ありがとうございました。
お礼
回答ありがとうございます! うれしいです。 下にも書いたのですが、おおざっぱな質問文ですみません。アバウトです。 集中を、もし強いられたら、たとえば勉強を強いられたり、辛い状況になって緊張の集中をさせられたら、それはリラックスじゃないのですが、 一歩先んじて、こちらから気合い入れて集中できれば、いやな状況でもリラックスできる、と僕は感じてます。 それは、neutralさんが全くかかれてるとおりのことで、 「集中することによって、ほかモノの、支配・干渉を受けることなく、何かと仲良くすることを愉しむ、ということもできる」 と、思っているからです。(ぱくってすみません、同じなので・・) >トイレ掃除や鬼ごっこ めっちゃわかります。一心不乱の集中は、実に気持ちよい汗もかけますし、最高にリラックスできますものね!! 回答ありがとうございました!