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仏教とはどういうことでしょうか。
『仏法の哲理は生命の尊厳を説いている。生命の尊厳に基づく万人の幸福と世界平和が仏法の目的である。』…仏教とはそういうことでしょうか。ご意見をお聞かせ下さい。
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No.13です。 ★ ・・・ご指摘になられているのは、そういうことでしょうか。 ☆ おっしゃるとおりです。と言ってしまってからは あほみたいなことを投稿したように思います。 もし意味があるとしたなら それは 仏教が わざわざ このような当たり前のことを 自分の手柄にするというのは いったい どうしてか。そのほうに 関心と問題があるように思います。 生命について ほかの信仰や思想よりも 一層 よく知っていると言おうとしているのでしょうか。それゆえ 幸福も平和も ほかより 確実に 実現しうると言いたいのでしょうか。 でも いまだに ○ 生命と仏性との関係は いかに? ☆ について 説得力のある説明を聞いたことはありません。仏性が 実体であるとすると 無我説(アートマンは無い)に抵触し 実体でないとすると すべての人に遍在するものではないことになります。 ただの虚構だと言えば まだましであるように思いますが いかがでしょう?
- magga
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パーリ語の仏典を学んでいます。 その結果抱いた見解を書いてみようと思います。 <<仏法の哲理は>> 「仏法の哲理」 お釈迦様が悟って、<ブッダ(真理を悟った人)>と名乗った所からのオープンチャレンジ(疑問質問間違っているところがあったらいってみて)をなされて、疑問質問を元に説かれた事実・真理とされる言葉。や弟子入りした比丘への教え。これが仏法だと考えています。 この哲理たる、人生の根本にかかわる深遠な道理は、信仰を推奨せず、徹底的に実験し検証し事実かどうか調べ、確信(サッダー)を得るように発された、「道しるべ」「実験課題」「数学で言うなら方程式」だと思います。調べ方などの注意点にも詳しく注意なされています。 「私が言ったからと言って信じるもんじゃないんだよ。」と言うのがお釈迦様の態度だったと思います。 <<生命の>> 仏法では生命をどう分析しているか。 生命とは五蘊。五蘊があるものは生命。 五蘊が瞬間・瞬間変化生滅し次ぎの現象として五蘊を引き継いでいる。 <<尊厳を説いている。>> 「尊厳」 辞書の定義に従うと「非常に価値があって侵しがたいこと」と言うことなので、「五蘊に非常に価値がある」と言うと「一切皆苦」という無価値論と反する感じがするのでしっくり来ません。 一般的な意味での「尊厳」はといていないと思います。 全ての生命たる五蘊は、苦しみたくなく、幸福になりたいと願っている。同じ生命同士だと。その法則に反した行為をすると自分も他者も苦るしむことになる。だから全ての生命に対する差別的な考えを滅し、一切の生命に慈悲喜捨の念を抱いてみては如何でしょう。義務を果たし助け合って生きては如何でしょう。 とは説いていると思います。 「生命に対しての行なう道徳たる十善」の尊厳を説いているというと個人的にはしっくりきますw <<生命の尊厳に基づく万人の幸福と世界平和が仏法の目的である。』>> 仏法では生命の次元が数多あると説いています。 そこには数え切れぬほどの生命がいると。 しかも ブッダの生まれる世に生まれることも稀なこと。 ブッダに会うことも稀なこと。 仏法を聞くことも稀なこと。 仏法に納得するのも稀なこと。 実践しようと思うのも稀なこと。 と言われます。 自分が泥にいて、他人を泥沼から引き上げることはどうしてできるだろうか。とも… <<万人の幸福と世界平和が目的>> 無知な生命の「自分勝手な万人の幸福と世界平和…」 の概念の押し付け… 無知な生命のすることが的を得ることは少ないでしょうね。 智慧があればあるほどに的を得た道徳的な行為がなせるでしょう。 なので仏法では結局本題は「道徳と智慧を育み、心の汚れ根を絶ち、解脱すること」になっていくのだと思います。 参考になれば幸いです。 生きとし生けるものが幸せでありますように。
★ 仏法の哲理は生命の尊厳を説いている。 ☆ ではなく 《生命》が 人間という生命存在から見て いわゆる《畏れ》を感じさせるものであるということではないでしょうか。 哲理かどうかは 二の次であり それは 仏法(もしくは ブッダ)が言っているから 《生命はとうとい》というものではないでしょう。 ★ 生命の尊厳に基づく万人の幸福と世界平和が仏法の目的である。 ☆ そうではなく ○ 《生命が 生命じたいで とうとい》と気づいた人間が この《生命の尊厳に基づき》 それぞれ個人としても 社会としても 幸福や平和を問い求めつつ 自己経営し 共同自治して歩む。 ○ 仏法も そのように 言っているようである。ただし 専売特許ではない。 ☆ こう表現していなければいけないでしょう。 仏教も みづからを 狭い視野に 自分から 閉じ込めることのないように願いたいものです。
お礼
ありがとうございました。『仏法が生命は尊い』と説いているから、生命が尊いわけではない。 もし生命が尊いのであれば、それは生命が尊いがゆえである。 万人の幸福や世界平和が目的なのは、それが当然だから、…。 ご指摘になられているのは、そういうことでしょうか。
人間(万物)には仏性があり、 仏性に目覚め、 更にそれを進展させて行くことで、 自分も他者も含め、より一層の幸福社会を実現して行くことができる、 という表現も可能かと思います。 具体的には、 まず、人間の本質は心(霊魂)であることに目覚め、 更に、心の本質は善性であることに目覚め、 更に、より高度な見識等に目覚め、 更に、自他は一体であることに目覚め、 更に、仏神の境地と一体となって行くようなあり方に目覚め、 という方向で精進し、仏性をよりすばらしく顕現させて行くことで、 仏国土(ユートピア)社会を実現して行きましょう、 という表現が可能かと思います。 別の表現を用いると、 仏神により生かされ・育まれて在る自分であることに感謝し、 自分が仏神へと向かってよりすばらしい人間となって行くことで、 他者にもより一層の幸福をもたらすことができ、 他者の幸福が自分の幸福と感じられるようなあり方、 (=利自即利他的あり方)、 を目指し・実現して行きましょう、 ということでもあるかと思います。
お礼
ありがとうございました。 『自分のうちに仏性のあることを信じ、仏性を開発する』ということでしょうか。 『神仏の真似をすること』 とも言えるのでしょうか。 ご意見を頂き、ありがとうございました。
仏教は自我を否定し、無我になる事をすすめています。人を迷い苦しめてるのは自我、脳だという事です。そして無我になれば、生命の尊厳も世界平和も達成できます。方法は脳の思考が休んで、脳波がアルファ波になった時が、無我です。日本人が間を入れる、と言う間が、癒しであり、無我の状態です。日本は、日常生活でも、伝統文化でも、和風文化でも、間が多いです。また日本語は、母音を強く発音するので、母音に間が、無我が、いるので、日本語を話すと、心が癒されます。
お礼
ありがとうございました。『間をいれる』の間が癒しである…。 参考にさせて頂きます。
お答えさせていただきます。 ご質問の中のお言葉通りと思います。 全くその通りだと思います。 生命の尊厳、とは大変に重い言葉ですね。 この生命というものを明らかにしたのが仏教だとも言えるのではないでしょうか。 仏教とは この世界の全てが有限で相対的であり、思うがままにならない苦しみの世界であるという認識から出発して 生命の根本に参入し、覚知を得た後は、実社会の中に出て人の役に立つ事なのだと思います。 この覚知の深い人であれば、高い理想に向かって進まれるのでしょう。 また、浅ければ浅いなりにも尊さを含みます。 通常では、信仰による自らの安心立命の人が殆どだと思われますが 覚知に至らない、仏への信心のみの境地でも その人が周囲にもたらす影響は大きなものがあると思っています。 仏の慈悲心への参入が同時に慈悲心を発する行いとなって自然に現れるからです。 説法というと言葉で説くように思われがちですが、仏の働きの顕れであると解すれば、受け取る側の理解力や状況に応じて、言葉だけではなくあらゆる手だてが尽くされていると思っています。 説く、とは教えるだけではなく、助ける、救う、という事も含みます。 >仏法の哲理は生命の尊厳を説いている この説法をどのような形であれ、心の底から確かに聞いた人が高い理想に向かって歩まれて行くのでしょう。 私などは仏様の小さな信心を失くさないように守って一生終わりそうな感じです。 それでいいのかなとも思っています。 まとまりませんでしたがご参考まで。
お礼
ありがとうございました。 『仏教は生命を明らかにした』、仏教とは、やはり、そういうことなのですね。 『説法を心の底から確かに聞く』、教えとは、そうやってわかるものなのでしょうね。 参考にさせて頂きます。 ありがとうございました。
- magga
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一つ混乱すると思うので補足要求しておきます。 「仏教」と言ってもいろいろありますね。 パーリ語の仏典 サンスクリット語漢文の仏典 この中でもそれぞれの祖師が説いた祖師宗教。 相反するものも多々あると思うのでどの「仏教」の情報が欲しいのか。特定のものが無いなら、その根拠となる経典群や祖師を挙げてもらったほうが情報を整理しながら理解できると思いますよ。 では幸福であれノシ
- magga
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<<道徳と知恵によって人間を『苦』から解放することが仏教の目的であるということでしょうか。>> そうですね。 道徳と智慧によって 「一切皆苦」全ての起こる現象はドゥッカ(苦・無価値)だと言うこと。 「諸行無常」全ての起こる現象は常に変化生滅し続けていること。 「諸法無我」どこにも永遠・変わらない「私・我」などというものは無いこと。 「涅槃寂静」その全ての波である因果法則の輪廻から脱することが苦の滅だということ。 などを知り「苦の滅」にいたることが仏道の目的だと思います。 その過程で生命との関係性を善に導く道徳と智慧の修習がありますから、「その道を歩むこと自体が」他者によい影響を与えながら、善に巻き込みながら歩むことができますね。 自らが歩んで他者に勧めるもの 自らが歩んで他者に勧めはしない 自らは歩まないが他者に勧めるもの 自らも歩まず他者にも勧めない ブッダは上位のものを賞賛なされました。 自ら歩むことが道徳の性質と。 「自分は守らないけどあんたは守れ」なんていわれて喜んで聞く人なんてなかなかいないでしょうしね。 <<それが仏様の願いである。>> お釈迦様は悲(カルナー)の人と言えると思います。 こんな法・道を説いてくれたのですから。 悲とは生命を心配する心のことです。 以上。私がパーリ語の仏典に記された内容を読み聞きして抱いている見解です。
お礼
ありがとうございました。 貴重なご意見、参考にさせて頂きます。 『仏教とは苦の滅にいたる道である』ということですね。 一人一人の苦が滅していくことが、仏教の目的ということですね。
- mmky
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追伸まで 「まずはあなたが1人分の仏国土を創ればいいだけなんです。それが仏法の哲理ですね。] つまり、慈悲については、1人分の仏国土を創ればおのずとわかることなのですね。 説明しても到底理解できないかもしれませんが、例えば、一人一人は個別に存在するようで実際は網のようにつながっており、網の一つ一つの節が個々人ということがわかってくるのですね。更に網は広大無辺に広がっているのだけれども、仏の法衣の一部でしかないということがわかるのですね。仏はそれを生命の木と呼んでますね。仏の法衣の小さな網の目の一つ一つが個々人の霊体ですから「まずはあなたが1人分の仏国土を創る」という意味は網目の一つということに気づいて網目の一つを黄金に光らせることですね。黄金に光らせば隣の網目が黒ずんでるのがわかりますから、光らせなさいといってあげることですね。「まずは三宝に帰依しなさいといってあげることですね。」 法衣の網目は、光っている網目もあり黒ずんでいる網目もあり、法衣は決して綺麗ではありませんが、その法衣を変えることなく黙って仏は法衣を着ているのがわかります。それが仏の大悲ですね。仏の法衣全体を黄金に変えることが転生輪廻の意味ですね。それが全体としての仏国土ですが、まずは個人からといってるわけですね。 網目の一つ一つは列を成したりグループをなしてお題目だの哲学だの科学だのとわけのわからんこともいってますが、それをも仏は黙ってみているのですね。そういうことがわかるようになりますから「まずあなた自身が三宝に帰依し、菩薩の四弘請願をたて菩薩を目指すことです。」といっているのですね。 それが釈迦仏教なのですね。平易にして深遠、最強にして最高、最大の教えが仏教ということですね。どこまで到達できるかはあなた次第という教えでもあるということですね。 またそれがお題目ではないという意味ですね。 仏の慈悲が、個々人の存在自体の担保ということでもありますね。 「あなたが存在し向上する幸せは仏陀の慈悲」といえるということですね。それが仏法入門後数年たった時の哲理ですね。
お礼
ありがとうございました。 『説明しても到底理解できないかもしれないが…それを生命の木と呼んでいる。』 初めて、このような教え(世界観…)を聞きます。 一人一人は『生命の木』になる小さな『生命』ということなのでしょうか。 貴重なご意見、ありがとうございました。
- QES
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NO.4です。 >>おしゃっていることは、『あなた自身が幸福でいること』が仏教の目的である、ということでしょうか。それが慈悲… 自身の幸福を考えることが、人を思いやる慈悲とどう結びつくかとの疑問でしょうか。 自らが幸せになるために、自らの中に苦があることを知り、その結果、他人の苦も理解できるようになります。 つまり慈悲の心とは、自分の修行の副産物として、人の苦しみをわかってあげられる自分の心であり、積極的に相手に働きかけて悩みを取り除こうとするものではありません。
お礼
ひとりひとりが、自分の幸せを求めることが仏教の目的なら、仏教の立場からすれば全ての人々に対し『他の誰でもなくまさにあなた自身が幸せになる』ということがあまねく及ぶ…と思った時に、仏教の慈悲とはそういうことなのかと気付かされた、ということです。あなたの幸せは仏教の慈悲。
補足
貴重なご意見を頂きながら、言葉が足りなかったように思われましたので改めてお礼を申し上げます。『自身の幸せを求める』ことと慈悲が矛盾すると疑問に思ったのではなく、貴兄のご意見を読ませて頂き『自分の幸せ』は仏教の側からすれば『あなたの幸せ』であり、それがあまねく人々に及ぶと考えると、すごいことだと感じられたというつもりでした。
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お礼
ありがとうございました。 初期仏教(原始仏教といってもいいのでしょうか?)は、実験、検証、確信という過程を経て成立した、…きわめて実証的なものだった。 むしろ原始仏教の方が実証的であった。ということなのでしょうか。 いく度も、ご意見を頂きありがとうございます。