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仏教や無神論者の人たちに質問です
私はいつも疑問になっていることがあります。 日本には八百万神という神や仏教など、多くの人々はそれらを信じています。 そして、よく神社や寺などにいる仏像にお願い事をしたり、仏様などのためにお賽銭を投げ込んだりします。 でも、考えてみて下さい。神社などにある仏像などは“人間が作った”石の像にすぎないのです。喋りかけたってなにも答えてくれません。 私達にはあれらを壊すことだってできます。なぜなら、形のあるものは壊すことが可能なのですから。 もしも“人間の手で作られたもの”に拝むなら、それはなんでもいいのではないのでしょうか? たとえば、電化製品や人形だって人間によって作られたものです。それなら仏像と同じ事で、それらに拝んでも同じような意味になる。 そもそも私達はよく、賽銭を投げ込みます。 それは一体なんのためなのでしょうか?もしもそれが仏様や神のためならば、私はおかしいと思うのです。 なぜなら、“お金”という物は人間が作ったものに過ぎません。お金は人々が生活をするためにつくられたものです。 そして神にはお金というものなど全然必要ありません。 私達が本当にその神や仏様を信じているのならばきっとそれはそのものたちに伝わっているはずです。お金など投げ込む必要はないのです。 ちなみに私は無心論者ではありません。 なぜならこの世界、二酸化炭素や地球などいろいろ、そしてこの私達という肉体が自然にでき、自然に死に、その後に何も怒らないとは考えられません。 まず普通に考えて、コンピューターなどテレビが自然に作られる訳ありません。 それならこの世界や私達も自然にできたのではなく、何かに作られたわけです。 どの宗教を信じるかは自由です。 しかし私はこの質問を読んで仏教や神のことをどう思うか、意見を聞きたいのです。できるだけたくさんの意見おねがいします~^^ (私は仏教のこともまだ良く分かりませんが分かりやすく教えてくださればありがたいです)
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- terepoisi
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>もしも“人間の手で作られたもの”に拝むなら、それはなんでもいいのではないのでしょうか? おっしゃるとおり、なぞらえる事が出来るならなんでもいいでしょう。 禅を極めた方など、そんな実体すら必要としないそうですが、 凡人は少しでも似ているもののほうが心の中でも想いやすいからだと思います。 自然物であってもそこに何かのちからを感じられたりします。 私は達観には程遠いのでTVそのものを拝むことはできませんが モニタ画面に映る仏さまはなんとなくありがたい気がします。 お金をお金そのものと捉えることしかできない人にとっては お金はただのお金でしかないのでしょう。 なぞらえる気持ちや心の働きが無いのだからいた仕方ないことだと思います。
- michael-m
- ベストアンサー率50% (2724/5433)
貴方の質問は質問ポイけど何の文章にもなっていませんよ。 貴方には「思い」というものが無いのでしょうかね?質問を見ればどう見ても「無心論者」でしかないですよ。 人が仏や神を彫る思いと家電家具を作る思いが同じだとでも言うのでしょうか?その違いすら判らないのであればやはり「無心論者」としかいえませんね。貴方の批評はすべて上っ面の動きに対するものばかりで、ヒトの心とか願い等というものが無いからです。 賽銭の成り立ち、お寺での布施の意味。貴方自身「私は仏教の事もよく知らない」と言っておきながら、自分勝手な解釈、しかも上っ面で批判する。コレでは文としては成立しても文章として成り立ちませんよ。 文章として成り立っていないものに対して答える術を私は持ち合わせません。言えることはただ一つ。お寺や神社で何のためにしているのかを聞いてください。それだけです。
- kyo-mogu
- ベストアンサー率22% (3398/15358)
神様というか原始的な神様は自然そのものです。山であったり海であったり、木であったりです。ご神体と呼ばれる物が様々です。 仏陀などの出現で人の考えが神や仏として扱われるようになった。それぞれの神や仏を表すために、仏像などに形を変えて存在しています。これは今みたいに識字率が高い訳もなく、見て分かるものがひつようになった。その為、伝わり方や考え方で同じ仏でも違った形になることも多いです。 お賽銭も昔みた、テレビムックという番組で穴あき銭が使われていたようで、その意味は忘れました。それに交換していたということです。 それと、お金の考え方ですが、払えるだけで良いのです。お金は天下の回り物とも言います。お金は使うべきときに使う。払えるのに払わないという心の貧しさが問題だそうです。損して得取れという言葉もあります。儲けたお金を貯め込むことなく適切に使う事で全体の流れが良くなると。 それと何でもかんでもお金を投げ入れないでねという事も現代ではあります。錆びたりとか水が悪化するとか問題も起きています。生き物が居る場合、死滅する恐れもあります。賽銭箱に入れる分には良いですが、池とかに投げ入れないでね。 神とか仏とか調べてみると人の歴史も分かってきます。是非、楽しんで下さい。 私は無宗教ですが、神や仏の存在を認めております。それいつでも見つめている存在が有ることでやましいことが出来ないからです。また、今の宗教の考え方は思想でしかないので、切り離せるかと思って。 でも、良い言葉などもあるので、それは心の中に入れております。
- mibuna
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現在は神社に仏像はあんまり無いけど(神仏分離令までは普通にあったんだけどねえ) >石の像にすぎないのです 開眼(入魂)しなければそのとおりです。 ただし、開眼して神霊のヨリシロに成れば単なる像から御神体へと変わるのです。 偶像崇拝を禁止しているキリスト教の一部ではキリストさんやマリアさんの 像を拝んで(祈って)いますがその理由は良くわかりません・・・。 偶像は駄目だけど実在した人物だから良いってどうなのよ? なお、お金は現物のお供え物の代わりですよ。米、塩、海草、野菜でも良いけど お金の方がみんな手っ取り早いでしょ。伏見稲荷の初午祭では日本各地の信仰者から 舞殿がいっぱいになるほど海の幸・山の幸が奉納されていますよ。 (お金を納める人も居れば物で納める人も居るんです) 神仏にお供えは要らないかどうかだけど、感謝の印として行動で示す方が 当然良いでしょう。人間世界でもお世話になればお返しの物を渡したり お礼状書くでしょ。口で「ありがとう」って言うのは大切だけどそれに プラスして行動でも示すべきだと思います。 因みに私は多神教の立場で書いています。一神教(聖書の神=ヤハウエ)の 世界観はいまいちよく判りません。全知全能なら元から罪を起こさない 人間(アダムとイブ)をこしらえるべきです。何人、予言者を世に降ろしても 同じ神を信仰する者どうして殺しあうのも全てお見通しの筈ですから 聖書の教えのどこかが間違ってますね。
- hekiyu
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”神社などにある仏像などは“人間が作った”石の像にすぎないのです” ↑ 神社に仏像はないと思いますが、そういう揚げ足取りは 置いといて。 人間が造ったものでも、魂が宿る、と説明する のではないですか。 遺体だって、よくよく考えればただの生ゴミです。 私たちは、遺体という物質に魂の存在を感じるので 特別扱いする訳です。 遺体が仏像であっても同じことでしょう。 ”私達はよく、賽銭を投げ込みます。 それは一体なんのためなのでしょうか” ↑ 神主や坊主の生活の為です。 でも、正面から、そうは言えません。 それで色々と理屈を考えます。 お金は大切なものです。 そのお金を出す、というその真摯な気持ちを神様に 理解してもらう為なのです、なんたらかんたら。 ”ちなみに私は無心論者ではありません。なぜならこの世界、二酸化炭素や地球などいろいろ、 そしてこの私達という肉体が自然にでき、 自然に死に、その後に何も怒らないとは考えられません。 まず普通に考えて、コンピューターなどテレビが自然に作られる訳ありません。 それならこの世界や私達も自然にできたのではなく、何かに作られたわけです。” ↑ これはキリスト教の論法です。 かつて、新井白石が宣教師にこう訪ねています。 それなら神も誰かが造ったのではないのか? 神だけが自ずと存在する、というならその根拠を示せ。 かつて、人間などの生命体が自然発生する確率は 恐ろしく低く、偶然では説明できない、とされていました。 しかし、現代では進化の加速性という概念が発見され 生命体が出現する確率は、たかだが 1/500 ぐらいに 過ぎず、偶然で十分説明できることが判明しています。 テレビと自然を同視するのは乱暴過ぎます。 神という存在をあまりにも、擬人化しています。
人に作られた物にも神は宿るのですよ。 「付喪神」と言われます。 人が丹精を込めて作り上げた物や長い間使ってきた道具などにも神が宿るという考えです。 これは鍋釜の始まり、現在では自動車やパソコン等という物にまで神が宿るのです。 (実際パソコンのウィルス避け神社なんてのもありますし) これは本当に日本人独特の宗教観でしょう。 日本人にとって神は人の姿をしてはいないのです。 多分に神とは「感謝の対象」なのでしょうね。 一神教が指し示す「神」とは根本的に解釈の異なる物だと思います。
うちは仏教ではなく、神社の神道です。 とは言っても、それほど真面目に信仰しているわけではありません。 私なりの理解として、神社や寺は、銀行の支店。 お札(ふだ)や御幣、仏像は、ATMだと思っています。 仏像が作られるたびに仏様が増えると考えられているわけではないからです。