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仏教について。
今日、 「手塚治虫のブッダ」 について解説した本を読みました。 現在、仏教には 日蓮宗、曹洞宗、臨済宗、その他多数の宗派があると思います。 これらのうち、 主だった差異は一体なんでしょうか。 又、 「祀っている人が違う」のが大きな対立点であるということはありますか? もしそうである場合、 「統一宗派」を作って (具体的には、中国の孔子が偉人とされているけれどそれは実は複数の偉大な思想を組み合わせて1人の人間の思想とした、という仮説がある様に) 「新しく、1人の仏を作り出してしまう」事などはよい解決の策ではないかと思うのですが、 この場合各宗派にとって何か問題はありますか? あるとしたら、どんな問題があるか教えて下さると幸いです。 皆さんは、 「仏教界の統一」のためにはどんな手段がいいと思いますか?意見を聞かせてください。 又、創価学会についてですが、 これを情報機関やマスコミ工作で潰すばっかりだと、本当に説き伏せたとは言えない気がしています。 「仏教を統べずして世界宗教の統べなし。」という考えを持っている私としては、 創価学会までも説き伏せなければいけないと考えています。 これについて、みなさんの意見をお聞かせください。 最後に、 以前顕正会という宗教法人に、 突然部屋に連れていかれ、 半ば監禁に近い形で折伏を受けました。 日蓮は 「折伏」を進めたらしいのですが、 仮にそれを日本の天皇が否定した場合、 顕正会は 天皇に翻意を迫るか 自分達が折伏をやめるか、どちらになるかお考えをお願いします。 又、 日蓮は 「鎌倉の末法」に限らず 今の世の中や未来に至るまで、 「常に折伏するべし」と言ったのですか? よろしくお願いします。 特に、 「仏教を統べるためには仏教の統一宗派を作って統一聖人を立てるべし」という意見についていただければ幸いです。 仏教の統一について熱い意見をお願い思案す。 それでは。
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- TomJones
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山の頂上に到達するのに色々なルートがあります。宗派とはそういうものです。置かれた環境や得手不得手でルートを選べばいいだけだと思います。 仏典にこのような話があります。 親ザルが子ザルを連れて川を渡ろうとしています。子ザルは親の背中にしがみついて渡ります。 こんどは親ネコが子ネコを連れて川を渡ろうとしています。子ネコは親に首根っこを加えられて渡ります。 子ザルは自分の力でつかまっていなくてはいけないので大変です。でも川の深いところに差し掛かって水の深いところに来ると自分の力で少し上に上がって水をかぶらないように出来ます。 対して、子ネコは親にくわえてもらっていますから力はいらず楽チンです。でも深いところに差し掛かったらしばしば水につかってしまうことがあります。これを自分ではどうすることも出来ません。顔に水がかかって暴れでもしたら落とされてしまうかもしれません。でも信じていれば親は対岸に連れて行ってくれます。 極論を言えば、子ザルは禅系のアプローチ、子ネコは浄土系のアプローチと言えます。 (浄土系を他力本願で念仏だけで楽チンと思っている人もいるようですが、顔に水がかかっても親ネコを信じきることが前提であることを理解してほしいです。) 人それぞれ違いますから、統一する必要などないと思います。 ただ宗派に縛り付けよう、あるいは宗派に強引に引き入れようとするのは間違っていると思います。
- tera_tora
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仏教関係者ではないのですが、最近仏教のことがちょっと気になりだした一人として参加します。(といっても高校日本史くらいの知識しかありませんが) 拝んでいる対象はどの宗派も仏様ではないのでしょうか?基本的に日本に根付いた仏教はチベット方面から来た小乗仏教系と考えています。となると曼荼羅に描かれた世界観こそ主たる宗派も従っているのではないでしょうか?(間違えていたらすみません) 宗派が違うというのは、そこに考え方の違いがあり、結局それが拝み方の違いによって端的に現れているように思います。私は浄土真宗ですが、親鸞様の基本的な教えは「南無阿弥陀仏と唱えること」です。この簡明さが浄土真宗を拡大させたのだと思っています。 >「新しく、1人の仏を作り出してしまう」事などはよい解決の策ではないかと思うのですが、 >この場合各宗派にとって何か問題はありますか? >あるとしたら、どんな問題があるか教えて下さると幸いです。 これはどの宗派も拝んでいる仏が違うということを意味しますので、私の上記の考え方とは正反対になってしまいます。仮にそうだとしたら、思想を統一しなければならないということでしょう。色々な統一過程があると思いますが、最終的に一般信者と僧侶との関係はどうあるべきかとか、一般信者は拝み方も含めどう付き合えばよいのかまでが思想的に再構築されないといけないのではないかと思います。 日本の仏教はいまや冠婚葬祭のみに使われる形式上の物になっています。その教えが広く根付いているとはいいがたいでしょう。まあ、それはしょうがないとして、こういう形式だからこそ、ある意味宗派と言う壁を空虚化してしまう方向に進む可能性があります。それが、結局統一への道しるべになる可能性もあります(つまり仏教であれば何でもよい、みたいな感じでしょうか)。かなりネガティブな統一の仕方ですが、方向性としてはありえると思います。 ただ、日本の仏教は神仏混合の歴史も含んでおり、日本人の自然観には神道が深く浸透していることも忘れてはなりません。日本人が唯一神たるものをこの期に及んで望むかどうかもかぎになるでしょう。これとどう向き合うかも宗派の統一過程において避けて通れないのではないでしょうか。 その神道の主たる天皇をどうするのかもやはり問題になるでしょう。 神道は日本人の根底にあるナショナリズムと結びついています。これを軽々しく否定することは過ちを招くと思いますので、そうではなく調和の取れた宗派の統一の仕方が必要です。 逆に言えば、この神道の存在こそが多数の宗派を受け入れる土壌として日本には存在しているとも言えるのではないでしょうか? 話は混乱してしまいましたが、必要があれば統一される方向に行くでしょうし、必要がなければ、そのままの形で進むでしょう。日本人の自然観の中で突然折伏などを押し付けることであらぬ混乱を起こすようであれば、統一宗派など必要ありません(今までもこういうことで争いや問題を起こしてきたことは過去が示しています)。
- yukigle
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仏教を統一しようとする思想は、宗教として背いていますが…。 どうか簡潔に願います。
- denpasong
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日本の仏教の差異はその解脱方法じゃないでしょうか。 浄土宗、浄土真宗…あみださん(すべての人が仏になるまで仏にはならないと誓った人)が仏になっているから皆仏になれるといった考え。楽チンですな。 禅宗…自分を「無」にすることで仏になれる 時宗…すべてを捨てよう。 現代の日本では仏教は「とりあえずやっておく」なものになっているので、教派の統一は無意味だと思います。 キリスト教などどっちが正しいかと言ったことで長年ワアワアやっているんですから…。 「多様性、寛容、自由が結局は一番強い」というのが真実ではないでしょうか。