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不存在の証明はかなり困難か不可能なもの?
不存在の証明(悪魔の証明)はかなり困難か不可能なものだとされています。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA%E9%AD%94%E3%81%AE%E8%A8%BC%E6%98%8E 限定的な事柄でしたら、比較的に簡単かもしれませんが、ちょっとしたことでも不存在や非存在は、不可能・困難になるのだと思われます。 「何々が存在しない」などと、軽軽(けいけい)に書く不注意者は、この哲学カテにはいないと思いますが、注意深く考察すると、確かに存在しないと言えそうだなと思い付くもの・ことがありましたら、教えてください。
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- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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回答No.1です。補足のお言葉を賜りました。断片的な内容に為りますがお許しください。 「無」という概念は、存在しています。有無を問うことは日常的です。「無」は「存在しない」ことを表現する言葉ですが、「存在しない」概念が「存在している」わけです。 (回答者)インドのある思想(サンキャだと思いますが)では、無という存在はある、というのだそうですね。 そして、無は万物を産出する絶対存在(有)なのだそうですね。 対偶命題的ではありませんが。 自己と世界は自己(創造本源となっていない自己)がその概念、観念そしてイメージを持つ。 しかし、その、自己と世界についての概念、観念そしてイメージは存在しない。 自己の持つ世界についての概念、観念そしてイメージと自己に関する概念、観念、そしてイメージが区分されている世界と自己は存在しない。つまりそこには、主観と対象・客体関係は存在しない。という側面もありうる。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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しっかりした文章でのご質問ですので、以下のことはためらいながら書いております。 国語のカテゴリではないので、ことばの意味はもちろん問題にはなりませんでしょう。 さりとて、関係での意味を規定する意味論でのご説明も無用でしょう。 さりとて、また、思弁的存在論や認識論も問題にされているのではないのでしょう。 自然科学で確認されたかどうかの問題でもなさそうです。 であれば、およそ人の思念や思考にあったもの、そしてあるものはその意味で、そこに存在しておりましょう。 夢も、空想も、文学も存在の場でしょう。 およそ地上の現象にあるものは、その意味で存在し、存在しないものは存在しない、という詭弁的表明になると存じますが。 それはその背後に存在させるものがあるから、ということなのですが。
お礼
そうですね。少し補足します。まず、存在的(科学的)に証明できるできないの問題ではありません。哲学カテですから、存在論的です。 そこで、「不存在は証明できない」の真偽を問うとします。 そして、対偶を考えます。 「証明可能なのは存在するものだけである」と。 この対偶命題は真のようです。 よって、元の命題も真であろうと推測します。「不存在は証明できない」は正しいようだと。 でも、本当にそうなのでしょうか?というのが今回の質問です。 >夢も、空想も、文学も存在の場でしょう。 >およそ地上の現象にあるものは、その意味で存在し、存在しないものは存在しない krya1998さんのこの記述は、まったくそのとおりだと思います。 その上で、次のように展開します。 「無」という概念は、存在しています。有無を問うことは日常的です。 「無」は「存在しない」ことを表現する言葉ですが、「存在しない」概念が「存在している」わけです。 「無」や「不存在」は、「有」や「存在」の形態を擬制しています。 少し戻って 対偶命題:「証明可能なのは存在するものだけである」 有無、存在不存在の概念は、存在している よって、有無、存在不存在は、証明可能であらねばならない すると 元命題:「不存在は証明できない」と矛盾してしまうように思うのです。 不存在なもの・ことも、不存在であると証明できるのではないか? このような矛盾です。 確かに、存在しない(不存在な)もの・ことで、証明できてしまうような例示を教えていただきたいというのが、今回の質問です。 ずばり、難問ですが、よろしくお願いします。
補足
古典論理でも直観主義論理でも、「¬Pが真である」が矛盾する場合、「¬Pは真ではない」とまでは言えます。 しかし、古典論理では、排中律を前提として、二重否定は肯定だとしますから、さらに、「Pが真である」とまで断定してしまいます。 つまり、排中律の成立・不成立をはっきりさせなければ、まともな論述にならないわけです。 下のお礼欄では、そのあたりをはっきりさせていませんでしたので、できればその点を考慮していただければと思います。 krya1998さんに限らず、どなたでも構いませんので、挑戦してみてください。
お礼
krya1998さん、ありがとうございます。 サーンキャ哲学ですか。 二元論の系譜なのですね。 その視点ですと、不存在・無は、絶対的な何かなので、原理的に証明できているという立場なのでしょうね。 イデアのような、「絶対」は、アプリオリであり、この相対世界の中にはないけれども、この世ならざるところにはある・存在しているはずであるという古代アーリア系の発想なのでしょうね。 そして、後半の記載は、ハイデッガーの「世界・内・存在」にも通じるのではないかと思いました。 その上で、「世界・外の絶対」を削除すると、この相対世界だけを探究できそうです。また、「世界・外の絶対」は不可知ですから、沈黙せざるを得ませんが、無や不存在は「永遠に語りつくせないほど内容豊か」で手に負えないと言うべきかもしれません。つまり、超時間的です。
補足
無、不存在について少しだけ書きます。 排中律成立の場合、A∧¬A=Φ つまり、空集合、無、不存在です。 Aと¬Aの境界には、何も共有するものがないわけです。 境界線、断絶面には、幅がないという状態です。 たとえば、隣地との境界線は、厳密には決して糸で表現できません。 便宜上、糸で見せたりしますが、糸は線ではありません。 そして、死の瞬間も曖昧で、現実的に観測的に時点を特定できません。 ですから、現実だけを見ていても、存在論的な思索には役立ちません。 A(生)と¬A(死後)の境界(死)は、A(生)と¬A(死後)のどちらにも属さないからこそ、 「死は(それぞれの)人生のできごとではない」とウィトゲンシュタインは書いたのだと推察します。 ただし、僕は死後の実在は信じていません。存在論的な思索上の想定に過ぎないからです。 空集合、無、不存在から、ウィトゲンシュタインは死を連想したと思われます。 そして、死こそ、不存在の証明なのではないかと思うわけですが、いかがでしょうか。