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不存在の証明はかなり困難か不可能なもの?
不存在の証明(悪魔の証明)はかなり困難か不可能なものだとされています。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA%E9%AD%94%E3%81%AE%E8%A8%BC%E6%98%8E 限定的な事柄でしたら、比較的に簡単かもしれませんが、ちょっとしたことでも不存在や非存在は、不可能・困難になるのだと思われます。 「何々が存在しない」などと、軽軽(けいけい)に書く不注意者は、この哲学カテにはいないと思いますが、注意深く考察すると、確かに存在しないと言えそうだなと思い付くもの・ことがありましたら、教えてください。
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- ri_rong
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悪魔の証明が対象なので、まず現行の商法に従って、「非」と「不」の用語の確認をしておきます。不課税取引きとは、その取引が国外であるとか、税法支配を受けないといった規制範囲の外に所在する取引きで、それゆえ課税そのものが不可能な取引を言います。対して、非課税取引とは、規制範囲のなかで行われる取引のうち、控除その他の理由から課税されない取引を言います。 この命名法に倣うと、不存在とは不可能な存在、非存在とは可能であるが存在しないという違いがお分かりになると思います。 これは集合の要素が構成的か、非構成的かという違いにもなると思います。 1.まず、構成的な場合について、 排中律が成り立つということは、すべての人間は、生きているか、死んでいるかのどちらかであるということになります。 2.つぎに非構成的な場合について、 排中律が成り立つとしても、場合によっては矛盾が生じます。 ご存知のように、実数は有理数と無理数からなっており、無理数の定義は、¬有理数です。ここには、排中律が成り立っています。無理数であり、有理数であるようなものはない。ところが、無理数に無理数を累乗したものは算術的に有理数になるが、実際は有理数にならない。有理数であり有理数でないものがあるというのは排中律に矛盾します。 言い換えれば、要素が非構成的であれば、生きており死んでいる人間の存在と、生きておらず死んでもいない人間が存在することになる。前者をゾンビー、後者をゴーストと呼んだりすると思いますが、どこかで聞いたことはないでしょうか。 ここまでをおさらいして、質問の回答に向かいたいと思います。 まず、不存在は証明できない――の対偶を考えます。証明可能なのは、「存在するもの」なのでしょうか。非存在の――であれば、確かに「存在するもの」だと思います。けれど、不存在と呼ぶとき、それは存在可能性までを視野に含めています。2.に対して、果たして直観主義が正しく機能するでしょうか。 その対偶が、「証明可能なのは存在可能なものである」となったとき、おそらくこれは、容易に真偽が区別できないと思われるのではないでしょうか。対して「非存在は証明できない」を真とする体系は、言い換えてみると輪廻転生を偽とする体系です。 それゆえ、1.である場合、僕は下の補足にお書きになった「死」について、仰ることに同意いたします。
- littlekiss
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こんばんは、qsxdrfvgyhさん。 ピンポーン~♪ ひょっこり、何しに来たかって? うん、生存確認をしに ♪≡≡≡ヘ(o^-^)ノダッシュ-☆ ー究極の存在証明ー
お礼
このところ、多忙を極めておりましたので、返事が大変遅れました。 しかし、他のご回答にも返事が出せるかどうかお約束できない状況です。 今日は、6月8日月曜日朝です。 そのうちに、何とかしたいと思います。 では。
- littlekiss
- ベストアンサー率14% (98/698)
おはようございます、qsxdrfvgyhさん。 ●ワニの話は、littlekissさんの回答がいい感じなのに、質問者には分かってもらえなかったようですね。 ↑ そらようわからんわ。相手さんのあることやから思いのままに通じることの方が稀ちゃう?それよりも、ワニの話ひとつとってみても考えるお題をもらった!と、快くしてる。日頃考えもせんようなことをちょっと考えてみようかなと、そないしてるうちにあれっ?あれっ?あれっ?と、疑問がポツポツわいてくる。時間におわれ走り回ってるときは、そうも言ってられへんから、一旦ポツポツわいてきた疑問をノートかメモ紙に書きとめ用事をさき片付ける。で、空いた時間に書きとめた疑問をいっこいっこゆっくりじっくりにらめっこ。あーでもないこーでもないと考え巡らせてるときがけっこう楽しいねんなー。そないしてる間にピコーン!ってなんや閃くねん。それが、あってるか間違ってるかそらわからんけど「これでいこう!」っと。そんで、1回挙げてみる。たたき台っていうか最初から完ぺきなもんなんかあれへんし人の目にさらされることで身も引き締まるやん。そんで萎縮してしもたらあかんけど、アップせんことには感触つかめんやん。どこがどないでどないしていけばいいか考える機会がまたもてる。 ●そもそも公正・公平な入札など、一度たりとも存在できないのではないかとも思うわけです。ことごとく、恣意的です。だから、不存在で当然なのでしょう。 ↑ でさ、ここ読んでて思ったんだけど… 入札の話でいつも思うんだけれど、実績云々… 新規に事業を起こしたところに「実績は?」と、尋ねられても起業したばかりなら実績があったらおかしな話。こう不景気で大規模リストラ敢行され、失業余儀なくされる人大量に続出。何をはじめるにもゼロからのスタート。と、なればだよ、中には起業を考える人も出てくることだろう。失業したばかりの人に「現在の勤続年数は?」と、尋ねたところでゼロ年。融資ひとつとってみても実績が問われる。公正・公平な入札する以前の段階で問題山積。男女雇用機会均等法ってたしかあったよね、これは男女間においてだけれども、実績をもたないものが土俵にあがれる機会は訪れるのだろうか。
お礼
まったくそうですね。 よく分かります。 つまり、優位者が優位のままで、劣位者は劣位のままなのです。 当然といえば当然ですね。社会の常識です。 僕が、マンションの大規模修繕工事を発注する場合でも、 価格優位の視点とともに、完成保証や10年保証が可能な会社を 選定すると思うのです。この不況下でも財務健全な会社です。 それって、勝ち組企業ということです。 公正・公平な入札になど拘っていません。 安心安全で値段も適度に安くしてくれるところを選定します。 キーワードは「安」であって、「公」ではありません。 かなり、話が反れましたが、「公」の不存在証明を垣間見た気がします。 ありがとうございました。
補足
今のところ、No.1と10の回答がいいと思っています。 さらに、よい例示があれば、皆さん教えてください。
- littlekiss
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こんばんは、qsxdrfvgyhさん。 ●不存在の証明は、原則不可能なものです。 ↑ あっ!? いま、不可能って言った??? 言ったよね? きたー! そそ、不可能って言葉を目に耳にすると ざわめくのよ むくむくむくとね 寝てる子が起きてくる 【QNo.3574943ワニにとらえられた子どもという論理を論駁したいのですが】 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3574943.html http://www.shd.chiba-u.ac.jp/kiyou/kiyou0603_04.pdf
お礼
簡保の宿の入札で、公正・公平な入札が無かった(不存在だった)ことが、証明されつつありますね。困難だけれども、不存在証明が可能な場合もあると分かりました。というよりも、そもそも公正・公平な入札など、一度たりとも存在できないのではないかとも思うわけです。ことごとく、恣意的です。だから、不存在で当然なのでしょう。 ワニの話は、littlekissさんの回答がいい感じなのに、質問者には分かってもらえなかったようですね。 いろいろと記載していただきまして、ありがとうございました。
- littlekiss
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こんばんは、qsxdrfvgyhさん。 ●不達証明すらできないでしょう。たぶん。 ↑ (-_-;)uuu… そうきますか 【『やぎさんゆうびん』の謎 】 http://www1.odn.ne.jp/mushimaru/bakaessay/goats.htm 便りのないのは良い知らせ だとしたら… 便りのあるのは? どんな知らせ??? 【大喜利】 http://www.advgiri.com/TOP/wogiri.php 【第139話落語「らくだ」】 http://ginjo.fc2web.com/139rakuda/rakuda.htm
お礼
いつものことですが、なかなか面白い読み物をご紹介していただきまして、ありがとうございます。 悩ませてしまいましたね。 郵便会社には、配達を証明する制度はあっても、不達を証明する制度はないですからね。 また、簡保の宿の入札に不適切な運用があったことも証明できないでしょう? 不存在の証明は、原則不可能なものです。 しかし、「でも・・・」と考えてみたくなるわけです。 白・黒、両やぎの状況推理のごとくに、です。
- littlekiss
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こんばんは、qsxdrfvgyhさん。 例文としたら… 【内容証明郵便の受取り拒否】 http://www.asahi-net.or.jp/~Zi3H-KWRZ/law2naiyoshot.html このあたりでいいのかな?
補足
littlekissさん、ご回答、ありがとうございます。 受け取り拒否、あるいはその推定ですか。 リンク先は、意思表示の到達に関する証明として、便宜上の割り切り方として、司法の判断を解説しているページなのですね。 「不存在の証明」に近いような近くないような微妙なところを出してきましたね。不在証明にもなっていないように思うのですが・・・。 郵便会社ごときでは、証明できるほどの権威ある機関じゃないですからね。不達証明すらできないでしょう。たぶん。
こうやって書き込んでますので「沈黙は存在しない」でしょうか? どんな言葉より沈黙が雄弁だったり。することもあるのかな。
補足
miko-desiさん、ご回答ありがとうございます。 確かに、この質疑における様々な表現は、沈黙ではないと思いますし、あるいは、他の場所で、表現が身振りだけであったとしても、沈黙にはならないと思います。ゆえに、「沈黙は(常時)存在するわけではない」とまでは言えそうです。 >どんな言葉より沈黙が雄弁だったり。することもあるのかな。 沈黙が拒否を意味していたり、許容を意味していたり、意味の幅は広いのでしょう。ただし、死体のように完全に身振りがない場合でも沈黙が雄弁なのかどうかはよく分かりません。ただし、法医学では、死体は(証拠だらけで)雄弁だと思われているでしょうが・・・。 でも、結局、沈黙は存在していないのでしょうか、それとも、存在しているのでしょうか。僕には、存在していると言う方に傾いて思えているのですが。
- shift-2007
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難しいことは分からないのでお手柔らかにお願いします。 お礼を読んでいて気になったのは、 >有無、存在不存在の概念は、存在している >よって、有無、存在不存在は、証明可能であらねばならない ここは間違いないのですか? ここが運命の分かれ道ですが。 それと証明とは認識可能(証明する対象およびその証明方法)でなければいけないと思います、すると現時点で人間が認識可能なものという条件がつくんじゃないでしょうか。 千年前に素粒子の存在を証明するのは無理ですから、証明が出来ないならその時代には素粒子は存在しないということになります。 ついでに >僕は死後の実在は信じていません。存在論的な思索上の想定に過ぎないからです。 これは計計かな。
お礼
shift-2007さん、ご指摘いただきまして、ありがとうございます。 なるほど、いいところを突いていると思いました。 >>有無、存在不存在の概念は、存在している >>よって、有無、存在不存在は、証明可能であらねばならない >ここは間違いないのですか? >ここが運命の分かれ道ですが。 ここ(上二行)は願望を述べている部分なので、間違いなのかもしれません。ただし、この場合の証明とは、存在的(科学的)にではなく、存在論的(哲学的)にという意味です。つまり、徹底的に論理を尽くしてという意味です。その点だけは強調しておきたいと思います。 >それと証明とは認識可能(証明する対象およびその証明方法)でなければいけないと思います、すると現時点で人間が認識可能なものという条件がつくんじゃないでしょうか。 認識だと、存在的(科学的)な視点なわけです。思索・探究という存在論的(哲学的)な視点での証明です。探究も認識なのでしょうか?認識に含まれるということでしたら、確かに認識可能条件も必要ですね。 >千年前に素粒子の存在を証明するのは無理ですから、証明が出来ないならその時代には素粒子は存在しないということになります。 小林・益川理論も21世紀の巨大加速機技術でやっと存在的に証明できたわけですが、繰り返しますが、存在論的(哲学的)な視点での証明のことを言っています。この区別は、ハイデッカーの著作物から教えてもらったものです。もちろん、存在的=存在論的な場合もあります。どちらも証明後にはそうなります。しかし、存在的に証明できていない段階では、厳密には構想に過ぎないわけです。つまり、徹底的に論理を尽くした存在論的な証明は、先行していたけれども、科学的には確認されていないというだけです。ですから、実証前に「素粒子は存在しない」のではなく、少し前までは確認できていなかっただけと言うべきなのでしょう。当然、千年前は、存在論的な証明(理論物理学)なんて無いので、素粒子なんて知らないでしょう。 >>僕は死後の実在は信じていません。存在論的な思索上の想定に過ぎないからです。 >これは計計かな。 軽軽かもしれませんが、(おそらく永遠に)死後の実証がなく、「存在論的な思索上の想定に過ぎない」もので、存在論的な証明でさえない、単なる想定概念ですから、ファンタジーであり、虚構の類だと思うのですが。
- wiz0621
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存在・不存在の証明は全て不可能というわけではなく、 単に方法の問題で、わりと簡単に証明できるものはあると思います。 例えば背理法という方法を中学校あたりで習うと思います。 これは否定したいものを逆に存在すると仮定し、その上で この仮定が矛盾を引き起こすことを"証明"することで 仮定が間違いであることを"証明"する方法です。 一例を挙げますと、全能の神が存在しないことを証明するために 「全能の神は存在する」、と仮定するのです。 このとき、神は自分を超える存在を作ることができるか?という 問いを加えてあげることで、証明が進みます。 まず、その存在を作れないのだとすれば、神はその時点で万能ではありません。 また、その存在を作れるとすれば、神はその存在を超えることができず 万能ではなくなるのです。 どちらの場合でも矛盾します。よって万能の神は"存在しません"。 このように「存在が矛盾する」ことを証明するだけで 「存在しない」ことが証明できるのです。 とはいえ、もう少し踏み込むとやはり最低限度の限定は必要ですよね。 この前提となる"推論規則"(万能の定義、前提の問い) や、"公理"(造ることや超えることの意味)自体を否定することで 無理やりに神を存在させることも可能といえば可能ですから。 ただ、こういう前提を問わなければならなくなった時点で、 社会的に有意な解答とは言えなくなってしまうのではないでしょうか。
お礼
wiz0621さん、ご回答、ありがとうございます。 そうですね、背理法の前提だけは、明示しておく必要があるようです。 つまり、排中律が成立している時に限られる手法であるということです。 そして、参考となるものを添付してみましたが、不存在の(間接)証明という感じのようですね。ユニコーン証明という俗名もあるようです。 http://www.nikonet.or.jp/spring/hairi/hairi.htm http://aozoragakuen.sakura.ne.jp/houhou6/houhou62/node24.html http://www.geisya.or.jp/~mwm48961/koukou/cond004.htm
補足
排中律が不成立の場合でも、不存在が証明できる例示はありますでしょうか?
これが、例示となるかどうか、自信がありませんが、思いついたことを書かせていただきます。(こういう難問をみると、手を出したくなるので。人文科学は得意じゃなかったけど) 元命題を解く必要は、ないのだと思いますが、不存在の証明は、不可能であり、存在の証明が出来ていないことをもって、類推して、不存在だとしている、みたいなことだったかな? いま、時空連続体の中で、「未来」という、言葉に着目します。存在する概念ですが、現時点では、不存在です。そして、時間が経過し、当時未来と言っていた時間に到達します。ここで、未来の存在は証明できます。(未来ではなく、現在であるという反論もありますが、命題を立てた時点から見て未来なのですから、問題ないはずです。) この、証明をもって、未来というものは、あらかじめ、存在していたとさかのぼって証明できるはずです。 しかし、そのまた先の未来は、やはり、不存在です、今までの証明によって、存在しているだろうということは、類推されますが、証明されたとは、いえません。 というような、ことを考えたのですが、的外れかも知れませんし、考えもまとまってないところもあります。大体、時空連続体とか、出すのが反則かも知れません。ご容赦下さい。 PS.久し振りに、頭がいい汗かいたような気がします。こういう問題に会えてうれしいです。(自分の回答はさておき)感謝の意を表します。
お礼
falguenさん、ご回答ありがとうございます。 「未来」は常に不存在だけれども、時が経過した分だけ、「未来」という時間・存在が部分的に現実化し、存在証明されているように思えるという趣旨かなと解釈しました。 以前に、未来について探究していますので、参考までに紹介します。 http://qanda.rakuten.ne.jp/qa4409643.html 「まだない未来」も「すでにない過去」も、「ない」という点では、不存在だと言えます。しかし、未来はあらゆる可能性の世界としてあり、過去は変更不可能な現実の集積した世界としてあります。不存在だけれども存在しているという例示として、未来が(、そして過去も)あるという指摘は大変示唆に富んだ、いい回答だと思いました。 ただし、僕のイメージでは、(実体的な)時空連続体ではないと思います。
補足
falguenさんの回答とは、全く関係ないのですが、 自己反省も含めて、書き記しておきたいと思います。 「矛盾からは、何でも証明できてしまう。」と。 http://www.geocities.jp/guzuryu/USOTSUKI/ch5.html この過ちにだけは、陥らないようにしないと無駄な質疑になるはずです。 気を付けたいと思います。
お礼
「まず、不存在は証明できない――の対偶を考えます。証明可能なのは、「存在するもの」なのでしょうか。非存在の――であれば、確かに「存在するもの」だと思います。けれど、不存在と呼ぶとき、それは存在可能性までを視野に含めています。」 不存在は、存在論的・哲学的で、非存在は、存在的・科学的だと僕は書きましたから、ご指摘のとおり、存在的・科学的に扱えるのは、非存在の方ではないかという回答者さまの視点は、まったく正しいと思います。そして、「それ(不存在)は存在可能性までを視野に含めて」いるという指摘も、まったく正しいと思います。 「2.に対して、果たして直観主義が正しく機能するでしょうか。 その対偶が、「証明可能なのは存在可能なものである」となったとき、おそらくこれは、容易に真偽が区別できないと思われるのではないでしょうか。対して「非存在は証明できない」を真とする体系は、言い換えてみると輪廻転生を偽とする体系です。」 ここの記述も、僕の理解力を超えているので、なんとも言えないのですが、「非存在は証明できない」と言い切れますでしょうか?証明は困難ですが、不可能かどうかは、よく分かりません。 「それゆえ、1.である場合、僕は下の補足にお書きになった「死」について、仰ることに同意いたします。」 構成的で、排中律が成立する限りの意味で、賛成ということは、しっかりと受け止めました。ご回答、ありがとうございました。
補足
「不存在とは不可能な存在、非存在とは可能であるが存在しないという違いがお分かりになると思います。」 なるほど、不存在と非存在の区別は、面白いです。 前者には、可能性すらなく、後者には、可能性はあるけれども、現時点では存在していないだけという言い方ができそうです。 つまり、不存在は、存在論的・哲学的で、非存在は、存在的・科学的と言えるかもしれません。いかがでしょうか。 「これは集合の要素が構成的か、非構成的かという違いにもなると思います。」 不存在は、存在論的・哲学的で、非存在は、存在的・科学的という僕の視点とは違い、「構成的、非構成的」という分類も面白いです。 >1.まず、構成的な場合について、 >排中律が成り立つということは、すべての人間は、生きているか、死んでいるかのどちらかであるということになります。 >2.つぎに非構成的な場合について、 >排中律が成り立つとしても、場合によっては矛盾が生じます。 「ご存知のように、実数は有理数と無理数からなっており、無理数の定義は、¬有理数です。ここには、排中律が成り立っています。無理数であり、有理数であるようなものはない。ところが、無理数に無理数を累乗したものは算術的に有理数になるが、実際は有理数にならない。有理数であり有理数でないものがあるというのは排中律に矛盾します。」 ここの記述は、僕の理解力を超えているので、そのまま、鵜呑みにします。非構成的な集合においては、矛盾が生じるという点を、否定せず、肯定して前に進みます。 「言い換えれば、要素が非構成的であれば、生きており死んでいる人間の存在と、生きておらず死んでもいない人間が存在することになる。前者をゾンビー、後者をゴーストと呼んだりすると思いますが、どこかで聞いたことはないでしょうか。」 ここの記述も、なかなか面白いと思いました。ゾンビもゴーストもフィクションですから、矛盾していていいのですが、非構成的な要素から導かれるという指摘は、納得です。 続きは、お礼欄に書きます。