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不存在の証明はかなり困難か不可能なもの?
不存在の証明(悪魔の証明)はかなり困難か不可能なものだとされています。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA%E9%AD%94%E3%81%AE%E8%A8%BC%E6%98%8E 限定的な事柄でしたら、比較的に簡単かもしれませんが、ちょっとしたことでも不存在や非存在は、不可能・困難になるのだと思われます。 「何々が存在しない」などと、軽軽(けいけい)に書く不注意者は、この哲学カテにはいないと思いますが、注意深く考察すると、確かに存在しないと言えそうだなと思い付くもの・ことがありましたら、教えてください。
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- littlekiss
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こんばんは、qsxdrfvgyhさん。 【ヒラメ筋の謎】 http://www.cudan.ws/kinyo/colum2008/triceps-surae.html 【シンスプリント】 http://74.125.153.132/search?q=cache:b1s0o_G_HmYJ:www.dodo2.net/orth/sprts/No9.htm+%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%88%E3%80%80%E4%B8%8D%E5%9C%A8%E8%A8%BC%E6%98%8E&cd=5&hl=ja&ct=clnk&gl=jp 【向こう脛】 http://gogen-allguide.com/mu/mukouzune.html 【個の自立】 http://www.kitashirakawa.jp/taro/yama/archives/000646.html
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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☆qsxdrfvgyhさん⇒つまり、「究極なる存在」という特殊な存在の場合、 ★投稿者⇒ここから先に進めません。究極存在は“特殊な存在”という表現が観念内容を表すことばだというなら、それはおかしい。究極くらい尤もありきたり、一般的、遍在根源的である。 ☆qsxdrfvgyhさん⇒完全な円や円周率と同様に、有為の世界の側にはなく、有為の世界の裏側にぴったりと貼り付いた無為の世界に属しているようだと思いませんか?そこを探究するのが、知の営みだと思っています。そして、かなり困難でもあると思います。 ★投稿者⇒日本語として“無為”と“有為”が対比の意味のことばとは存じておりません。 http://dictionary.goo.ne.jp/srch/jn/%E6%9C%89%E7%82%BA/m0u/ それでも、ここの件を整合的に理解・読解しようと致しましたが、仰せの“無為の世界”という言語表現により、私は観念を構想・構築することが出来ませんでした。“無為の世界”は存じてはおりますが。 ☆qsxdrfvgyhさん⇒「知と論理」の壁は厚いわけですが、「知と論理」を超える必要がある点には、疑問が残ります。矛盾点を正しく見て(正見)、正しく考え(正思)、矛盾の無い論を探るという困難な道を歩むものだけが、哲学するものだと思います。その困難は、想像を絶するほどだと思うのです。 ★投稿者⇒そのとおりに存じます。人の営みとして当然ですね。人間や自然、そして神の為しことは允にみな想像を絶するものではあります。知と論理を捨てることが信仰や宗教だとは私もおもいません。それは杖であり、草鞋です。つまり投稿者も幸せな善男善女にはなれませんで、蓑笠をまとい、杖を頼りに、長い草鞋を履いて、70数年です。 筋道立てて考えることをしないでは歩けないという意味です。一笠(頭蓋骨)、一蓑(肉体)、一杖(脊柱)の長い草鞋です。 ☆qsxdrfvgyhさん⇒知と論が家来だとすると、意のままに操れるという意味でしょうか。 矛盾の無い論を見つけ出す苦労は、大変なもので、とても家来だとは思えません。 投稿者⇒それが主人ではないという意味でしかありません。そうしている自分をいえ、その奥の存在を一笠(頭蓋骨)一蓑一杖そして長い草鞋で参内しているのです。日々。 ☆qsxdrfvgyhさん⇒少しだけ、立ち位置が違っているようですが、それはお互い様のようです。 ★投稿者⇒文章上、ここの意味は解釈ができません。しかしご説明は求めていません。 ☆qsxdrfvgyhさん⇒しかし、「論を超える」と言われてしまえば、論を探究する者としては、隔絶した感があるわけです。 ★投稿者⇒ここで“しかし”という接続詞があることが理解できません。しかしご説明は求めていません。なお、投稿者は単なる頭の中の論理操作、演繹の範囲、そういう作業だけでは限界があるということを、申し上げているつもりです。 ☆qsxdrfvgyhさん⇒失礼な表現になってしまった部分は、申し訳ありませんでした。 ★投稿者⇒どういたしまして。 ☆qsxdrfvgyhさん⇒実態を見たとき、論の矛盾が見えますが、そのときに論を超えて解消することが、パラダイムシフトだとすると、それは正しいご意見であり、共通認識でもあります。つまり、全く別の論への転換ならば、同意見です。論を超越した当為だと言われると、ちょっと違うと思ってしまいます。 ★投稿者⇒先に、縷々述べてあるとおりであります。哲学者は・・の甲虫のようだとジェームス博士がどうの、とはこれは百三の愛と認識でしたっけ、あるいは次郎の三太郎だったかな。それはそれで結構だと存じます。そういう世界で操作している様子を拝見することが有ります。 他者として傍観しております。収穫のない好事家のような気がしてまいります。 無論私たちも徹底して論は大切にしますが、それを差し向けること、それの役割を見極めております。 山上の星空は山上にいき、不可視の滝は不可視の自己に参内して経験します。 民主主義はここでは通用しません、来ないものにはわからない。 論理の操作、探求ではない。 山を登らない人とは、いえ少しでも上ろうとしない人との共通認識は難しいと存じます。 そういう意図のある人には、どんなに低いところを上っている、お互い同士でも、共有ができます。正に天上の方と、麓・裾野で道を探している人との平等、民主主義です。 それを敢えて手招いているのが、巷間の宗教っていうのでしょうか。 でもこの身はあぁいうのを相手している閑はもち得ないでおりますが。 この身の言説を捉え、且つは、なぞり、同じであるとか評論する人もおられますが。 そういう宗教の教説に失礼であります、この身如きの類似などを、とやこうおおせられるのは。 日本語、ことばですから、類似となることもあるのでしょう。 心ならずも親しいご存在としてまだ、受け入れることが出来ず、ことばの端々にともすれば、突き放す感情が出ている事を白状します。 允に自分らしくなく、無念といえばそれだけです。 精進の至らなさでしょう。 qsxdrfvgyhさんの表層存在ならざる、お方に申し訳なく存じます。
お礼
本題に関連した点で言えば、 僕に対する「親しさの不存在」は、確実にあるようです。 本人からの証言ですから、間違いないでしょう。 そして、別の点で収穫であり、再確認できたことは、 「論を超える」ということは、確かに重要だと思うようになりました。 つまり、フィーリングとして感じる「直観」が、「論を超える」きっかけになり、 パラダイムシフトできた天才たちには、その「直観力」とか「ひらめき」が認められたという事例を思い出しました。 「直観力」や「ひらめき」が、「論を超える」原動力になると気付きました。論だけではないと分かりました。再認識しました。ありがとうございました。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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変換不足⇒これは最初から最後まで知と論理で行っているのだという〔建前)を通します。 変換充足⇒これは最初から最後まで知と論理で行っているのだという〔建前〕を通します。 補充⇒つまり、理性(ことば)を持つならば、悪魔にも施行できる(通じる)、これが法律であると、している。実はこの法諺としても、建前であらざるをえないのが、社会的存在としての法というものの性格である。しかし、建前はと論理装いは、このとおりである。 しかし哲学は単なる建前ではなく、本音のはなしであり、真理への率直・真摯な態度こそであるはずである。ならば自己の根拠と方法、そして理念を明らかにし、そういう出自とともに限界、場たる機能と権能を意識することから出発にするが課せられているのはいうまでもない。 なるが故に、更には、徒に〔矛盾を見つけず、探究を望まない者〕という論断は逸脱ではないかと思料するものである。 年甲斐もなく売り言葉となんとやらの趣もなきにもしあらずであるが、一応のコメントとしておくものである。 お互いにものの出入りには心し、慎みたいと存念しておるところである。 ただ一言添えておきたい事は、およそ何かを志向する界(スローカ)に身を置くならば、宇宙と森羅万象が偶然や、もののはずみ、或いはなるようになってきたということで終始して、恬然としているはずはありえないと愚慮するところである。 それは死でもないのである。死とはそういう不活性なものではありえない。
お礼
なるほど。大変示唆に富むご指摘。痛み入ります。 「真理の探究」の態度は、共に持っているように思います。 ただ、真理が当為かどうかは、断言できないのではないかと思うのです。 かつて、宇宙論においては、永遠・定常宇宙論が支持されていました。 永遠であるべきとの思い込みに起因していたようです。 しかし、観察結果は、永遠ではなく始まりを持ち、定常ではなく、相転換し、変転する宇宙観に有利なようです。 思弁的な「有るべき」当為だけでは、真理が見えない場合があります。 法源に関しては、「有益なる恣意性」の問題ではないでしょうか。 如何様にも出来る自由度がありそうです。 独裁に有利な場合から、民主的な場合まで、色々だと思います。 専門外ですので、思いつきで書いています。 違っていたら、教えてください。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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qsxdrfvgyhさん 回答番号:No.27 皆様のお目にお任せして、黙して通り過ぎるつもりでおります。 受け付けられないことばであろうが、矛盾的存在の境に居る身同士として、一応のコメントをしておきます。 ★そのような手法が、より一般的に、矛盾なく、言い表せているのならば、それで、安心できる人々は幸せだと思います。 ☆これは、ご聡明なqsxdrfvgyhさんとしては、配慮の足りない、しかもふ充分なご理解の言説と存じます。 偶然は存在しない、究極なる存在からの必然により、依拠により存在と現象がある。ということでありまして、それを確知するかのことは、懶惰な思索では難しいことであるというのが、私の歩む経験で有りました。 自己におけるそういう認識・確認から、存在は当為であるといういみであります。 ★矛盾を見つけず、探究を望まない者を引きずり回すことは、しません。 ☆まともに、拙い投稿をしてきた、お相手していただいてきた私へのコメントとしては、良識のあるqsxdrfvgyhさんらしからない、ものと存じました。 知と論理の重要性は私たちも、徹底的に認識しております。 しかし論理で終始する、懶惰なし方はこれも、潔しとはしておりません。 論理での明らかな矛盾には私たちも耐え難いものです。 そのことは人間としては同じです。探求を求めないということも、慎重なqsxdrfvgyhさんとしては、あるべからざるコメントです。 探求するから、知と論理を超える必要を知ったのです。 座し、或いは麓にも行かず、呼吸と飲食している、知だけ、論理だけの探求に終始したくはありません。 そういう次元には通じない、説明できないこともあるのです。 ことばであらわせるけれども、表したものを受け取ることができない。 そういうものもあるのです。 ことばの理解ではなく、意味の伝達と受け取り、共有の世界の問題です。 私は労働運動に身をおいてきている傘寿ではあり、民主主義の法治論で生きてきていますが、上に縷々説明した事柄の次元は、ことばがわかれば意味がわかるというものではありません。 そうなっていない人には判らない。 それだけです。論理は家来です、知は家来です。主はその奥におります。 論理と知ではどうしようもないものも、いえ根本は、そんな瑣末な用具たちにな出せないものです。 大脳生理学や心理学のことなどを申してはおりません。 私は肉体労働しながら、夜学の法学が専攻ですが、法は自らの拠る法源を、知と論理で示せなければ、何の命題にも、提言にも為りえません。これは最初から最後まで知と論理で行っているのだという〔建前)を通します。 しかし哲学は、論理と知、これの役割、出自を徹底して認識することをお勧めします。 自己の哲学自らが自己哲学の出自と権能を認識できないようでは、それこそ、哲学としての存在性を否定される事になりましょう。 私への先のコメントの前にそういう意識化が必要だと存じました。 この老人がqsxdrfvgyhさんに語りかける、入り口が示されることを切に懇願いたします。
補足
27では、かなり不注意に書いてしまったと反省しています。 書き込んだ際も、躊躇がありました。 ただ、当為だとする論が、実態に合わないとき、その矛盾を超える論を探究するのが、哲学だと思っています。 「★そのような手法が、より一般的に、矛盾なく、言い表せているのならば、それで、安心できる人々は幸せだと思います。 ☆これは、ご聡明なqsxdrfvgyhさんとしては、配慮の足りない、しかもふ充分なご理解の言説と存じます。 偶然は存在しない、究極なる存在からの必然により、依拠により存在と現象がある。ということでありまして、それを確知するかのことは、懶惰な思索では難しいことであるというのが、私の歩む経験で有りました。 自己におけるそういう認識・確認から、存在は当為であるといういみであります。」 つまり、「究極なる存在」という特殊な存在の場合、完全な円や円周率と同様に、有為の世界の側にはなく、有為の世界の裏側にぴったりと貼り付いた無為の世界に属しているようだと思いませんか?そこを探究するのが、知の営みだと思っています。そして、かなり困難でもあると思います。 「★矛盾を見つけず、探究を望まない者を引きずり回すことは、しません。 ☆まともに、拙い投稿をしてきた、お相手していただいてきた私へのコメントとしては、良識のあるqsxdrfvgyhさんらしからない、ものと存じました。 知と論理の重要性は私たちも、徹底的に認識しております。 しかし論理で終始する、懶惰なし方はこれも、潔しとはしておりません。 論理での明らかな矛盾には私たちも耐え難いものです。 そのことは人間としては同じです。探求を求めないということも、慎重なqsxdrfvgyhさんとしては、あるべからざるコメントです。 探求するから、知と論理を超える必要を知ったのです。 座し、或いは麓にも行かず、呼吸と飲食している、知だけ、論理だけの探求に終始したくはありません。」 「知と論理」の壁は厚いわけですが、「知と論理」を超える必要がある点には、疑問が残ります。矛盾点を正しく見て(正見)、正しく考え(正思)、矛盾の無い論を探るという困難な道を歩むものだけが、哲学するものだと思います。その困難は、想像を絶するほどだと思うのです。 「そういう次元には通じない、説明できないこともあるのです。 ことばであらわせるけれども、表したものを受け取ることができない。 そういうものもあるのです。 ことばの理解ではなく、意味の伝達と受け取り、共有の世界の問題です。 私は労働運動に身をおいてきている傘寿ではあり、民主主義の法治論で生きてきていますが、上に縷々説明した事柄の次元は、ことばがわかれば意味がわかるというものではありません。 そうなっていない人には判らない。 それだけです。論理は家来です、知は家来です。主はその奥におります。」 知と論が家来だとすると、意のままに操れるという意味でしょうか。 矛盾の無い論を見つけ出す苦労は、大変なもので、とても家来だとは思えません。 「論理と知ではどうしようもないものも、いえ根本は、そんな瑣末な用具たちには出せないものです。 大脳生理学や心理学のことなどを申してはおりません。 私は肉体労働しながら、夜学の法学が専攻ですが、法は自らの拠る法源を、知と論理で示せなければ、何の命題にも、提言にも為りえません。これは最初から最後まで知と論理で行っているのだという〔建前)を通します。 しかし哲学は、論理と知、これの役割、出自を徹底して認識することをお勧めします。 自己の哲学自らが自己哲学の出自と権能を認識できないようでは、それこそ、哲学としての存在性を否定される事になりましょう。 私への先のコメントの前にそういう意識化が必要だと存じました。 この老人がqsxdrfvgyhさんに語りかける、入り口が示されることを切に懇願いたします。」 少しだけ、立ち位置が違っているようですが、それはお互い様のようです。失礼な表現になってしまった部分は、申し訳ありませんでした。しかし、「論を超える」と言われてしまえば、論を探究する者としては、隔絶した感があるわけです。実態を見たとき、論の矛盾が見えますが、そのときに論を超えて解消することが、パラダイムシフトだとすると、それは正しいご意見であり、共通認識でもあります。つまり、全く別の論への転換ならば、同意見です。論を超越した当為だと言われると、ちょっと違うと思ってしまいます。
- littlekiss
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こんばんは、qsxdrfvgyhさん。 【言葉の根源から言語の知覚へ】 http://eumenides.sakura.ne.jp/eu/siron.eu16.kotobanokongen.htm 【ゼロ時間の謎】 http://www.finefilms.co.jp/zerojikan/ 【登記Q&A】 http://www.lcbank.jp/topics/topics_naiyou/touki_qa.html 【休眠抵当権の抹消】 http://www.gifu-shihoushoshi.or.jp/archives/6 【簡単 たのしい マジック講座】 http://funnymagic.seesaa.net/article/37002714.html
お礼
論理的に、有り得ない事を、明々白々にしていく痛快さ、 推理ものの醍醐味、面白いですね。 ある状況下での「不存在の証明」、困難だけれども可能な場合、 その設定が腕の見せ所ですね。 供託による抵当抹消は、妥協策で、不存在の証明にはなっていないのでしょう。 証明不可能な場合の割り切り方にしか過ぎません。 抵当権があることとして、供託していますから。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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回答番号:No.24 ことばとしての用法が違う事は当初から、意識・認識しておりました。 それを敢えて表明しないで投稿を進めてきました。 それは用法が違うという区別、区分をするべきではないという思いからでした。 お互いに平の立場で、考えたいという思いでした。 事、苟も存在がどうのとなれば、根源のことに立ち戻っての、対等なる裸の意識同士の考え合いだと思っております。 全ては当為という力として存在しているのが実体である。 という認識には物象・物証科学でも到達してくる認識であると、私は思っています。 つまり、人間の進歩における時間の問題だと存じております。 ご利発なqsxdrfvgyhには、わたしの言語表現とその内容をご理解頂けました。 そうであるので、付加することはありませんが、根源の認識とは、最初からは、そしてその後もできるだけ長く、お互い違うのだという立場でなく、考えあうものだと存じますので、qsxdrfvgyhに深い親しみと感謝を以って、当面は拝読の方に戻ります。ありがとう。 なお、“論証は不必要です”ということの意味は、これが根源的であるということ、そしてこれを以って全てを論証していくことであるということであって、このことを何かが論証するということはありえない、ということであります。
お礼
なるほど。 根源的であるから、論証は有り得ないということでしたか。 そういう立場は、尊重します。 そのような手法が、より一般的に、矛盾なく、言い表せているのならば、 それで、安心できる人々は幸せだと思います。 矛盾を見つけず、探究を望まない者を引きずり回すことは、しません。 僕は、論証して定理、公理を確認した上で、前進するという手法の方を支持し、 その側にいると思っていますので、論理重視なのです。 論証を重視した回答が寄せられることを希望します。 皆さん、よろしくお願いします。
- littlekiss
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こんばんは、qsxdrfvgyhさん。 矢野 健太郎 先生からのお便り http://www.shinchosha.co.jp/writer/3091/ 1993年12月25日 今日は何の日? http://day.dictionarys.jp/modules/daily/3216.html
お礼
矢野 健太郎 先生ですか。81歳で永眠。 12月25日は、矢野先生の祥月命日ですが、 ニュートンの誕生日でもあります。 物理学者との奇妙な縁といったところでしょうか。 フジテレビの逸見さんとは、単なる奇遇ということなのでしょう。 ただし、縁が不存在とは、言い切れないかも。 よく分かりません。
- littlekiss
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こんばんは、qsxdrfvgyhさん。 【母集団と標本】 http://aoki2.si.gunma-u.ac.jp/lecture/SampleSurvey/population-sample.html 【はやわかり RSA(RSA の証明)】 http://pgp.iijlab.net/crypt/rsa.html 【フェルマーの小定理】 http://deztec.jp/x/05/faireal/faireal-6-05-index.html 【用語解説】 http://www.city.yokohama.jp/me/machi/housing/seisaku/m-kiyaku/m-kiyaku-sec4.pdf
お礼
素数がらみの証明、定理や暗号など、面白いです。 大変、興味のある分野です。 素数の秘められた力は、知る人ぞ知るということでしょう。 17年蝉、自然淘汰の場合は、この程度でも充分、威力を発揮しているということか?17なんて、暗号化では、ぜんぜん桁不足なわけですが。 マンション用語は、役立ちます。 有難うございました。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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回答番号:No.23 qsxdrfvgyhさん⇒つまり、『円や円周率は、存在ではない(存在していない、不存在である)』という意味でしょうか? 投稿者⇒存在するって、意志ではないですか。意志ではない存在ってあるのですか?私たちも、創造界も意志により存在しているものの経験・知覚の有り方結果でしょう? 如何なるものも、離れ離れにあるものなんてないですよね 『円や円周率』もそういうものではないですか? この界の連関と全体の中の事項ですよね。 その説明に、理念と立脚根拠を示さないで、連関を示さないで存在もへったくれもないですよね。 机の形状をどう説明しても説明にはならない、認識には為りえない。 その用途、目的を説明しなくちゃね。 観測や物象科学でのことではなく、・・・ということはなんとなくわかります。 それって、頭の操作の中のことではないですよね。 一応実在ということでしょう? ならば当然森羅万象のてんでんばらばら、なんかしょうがないですね。 一定の体系の中の存在をいうのでしょう? あるからある、ではないあるべきであるからある。 あるべからざるものはない。(すべてがあるべきだということばではないけど) 究極者があるべきではない、としているものは、ない。 あるべきだ、としているものは、ある。 どっちでもないものは、ない。 それだけの話なんですよ。 私のそうだという、個人の確信ですね。 論証は、私には無用なことなんです。 ここから全てを始めていましてね。
お礼
はい。分かりました。論証は不必要でいいです。 ただ、「存在」という語の用法が、相互に違っているようです。 僕は、存在に意志があるというようには、考えていません。 僕の目の前に5カラットのダイヤの指輪があるとして、この指輪は存在していると考えますが、意志があるとは思いません。 そして、そのカット技法として、ブリリアントカットが施されているとして、ブリリアントカットという技法も存在していると思うのです。 回答者krya1998とは、「存在」という語を使う、使い方が違っているようです。意志、理念、立脚根拠とは、無関係です。 そして、「存在」は、最も包容力のある語で、何でも含んでしまうと思いのです。きっと、用語の使用慣習が違っているのでしょう。
補足
下のお礼欄で、 「存在」という語・・・意志、理念、立脚根拠とは、無関係です。 と書きましたが、 正確には、「無関係な場合もあります。」と言うべきでした。 意志に関係する存在も、意志に無関係な存在も、どちらも含めて「存在」は、ありとあらゆる「存在」です。 広大無辺な集合、無限集合、無限の構成要素ということです。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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回答番号:No.22 ご丁寧なご説明を感謝申し上げます。 私としましては、存在って言うのは最終的立脚根拠であり、究極の価値、理念だという結論です。 円周率も、あるはずのない完全なる円もそこに理念と価値、そして立脚根拠が含まれて居ません。 そういう見かた、考え方であおります。 ありがとう御座いました。
お礼
補足からの続きです。 観測できる、できないに関わり無く、 存在の守備範囲、該当する範囲は、広大無辺で、 ありとあらゆるもの・ことを含んでいると思うのです。 そこに、含まれないことを証明することは、不可能か、かなり困難なことだと思います。それで、この質問をしたわけです。 不存在の証明。それは、観測的な、科学的なものではなく、 観測できず、科学よりももっと厳密な論理的な証明を話題にしているつもりです。その点を教えていただきたいのです。 よろしくお願いします。
補足
もう少し、お考えを補足していただけますでしょうか? 「存在って言うのは最終的立脚根拠であり、究極の価値、理念だ」「円周率も、あるはずのない完全なる円もそこに理念と価値、そして立脚根拠が含まれて居ません。」 つまり、『円や円周率は、存在ではない(存在していない、不存在である)』という意味でしょうか? それは、価値、理念、立脚根拠を媒介して、結論付けられるという手法を使うのでしょうか?
お礼
「ひらめき」から「ひらめきん」の連想ですか? 連想、かつ、ひらめきということでしょう。 個の自立は、「自立的」とは言えても、「完全な自立」はないでしょう。現実は、不完全な自立までだと思います。 完全な自立は、孤立無援(→無縁)といった状況を連想します。 自立は有り得ず、どっぷりと浸かっているものでしょう。 そのようにひらめきました。