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元号について
昔は天皇が在位している間も文久→元治→慶応のようにコロコロ変わったのになぜ明治以降は元号が変わらないのでしょうか?
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こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 まず、和暦の変遷ですが、 (1)帝王(天皇)の交代による・・・代始改元。 (2)吉事を理由にする・・・・・・・祥瑞(しょうずい)改元。 (3)凶事に際してその影響を断ち切るための・・災異改元。 (4)三革を区切りと見なして行われる・・・革年改元。 大別して以上の4つが主なものです。 もう少し詳しく説明すると、 (1)代始改元は、分かりやすいですよね。 嵯峨天皇の即位「弘仁(810)」、清和天皇「貞観(859)」、令泉天皇「安和(968)」、後三条天皇「延久(1069)」、後白河天皇「保元(1156)」、二条天皇「平治(1159)」などがあります。なお、先の天皇が崩御されたた時などは、その年は「喪に服す」考え方で翌年から「新元号」としたり、隠居をし上皇などとなった時は、先の天皇(上皇)に敬意を表して、やはり、翌年から「新元号」とした場合もあります。 (2)祥瑞改元 大化6年(650)2月に穴門国(あなとのくに=長門国=現:山口県)から白い雉(きじ)が献上されたことを「吉事」として、「白雉(はくち)元年に改元しました。そして、白雉5年(654)まで数えられましたが、その後80年間は、元号の無い時代が続きました。天武天皇15年(686)7月20日に大倭国(やまとのくに=大和国=現:奈良県)から、今度は赤い雉が献上されたため、朱鳥(しゅちょう、すちょう、あかみとり)元年として「元号」が復活しました。しかし、これは「伝説」であって、実際は、天武天皇の病気平癒のための祈願を込めたものだ、とも言われています。事実、天武天皇がその年に崩御されると、朱鳥元年のみで、再び、15年間元号は断絶しました。文武天皇5年(701)に対馬(対馬ではないとの説もある)で産出された「金」が貢進されたため大宝元年が復活しました。 (3)災異改元 京都での地震発生や平将門の乱が起きたため、「承慶」から「天慶元年(938)」に変更。彗星(この星は災いを招くと考えられていた)が多く見られたので「永延」から「永祚元年(989)」・・・陰陽師の「安倍晴明」が活躍していた。平治の乱勃発で「平治」から「永暦元年(1160)」。全国的な飢饉が発生「寛喜」から「貞永(1232)」、関東での大地震発生と全国的な旱魃(かんばつ)で「正応」から「永仁(1293)」。江戸で大火発生「明暦」から「万治(1658)」。江戸で大火と全国的に大風(台風)による水害多発「明和9年(迷惑年)」と呼ばれ「安永(1772)」に。ペリーの来航で「「天明」から「安政(1789)」などがあります。 (4)三革とは 「辛酉(かのととり)革命」・・・昔は、干支(えと)の年号もあり、「甲子(きのえね)」から始まり、60番目の「癸亥(みずのとい)」までを繰り返す第58番目の年の呼び方。 「甲子(きのえね、こうし、かっし)革令」・・・干支の第1番目の年。 「戊辰(ぼしん)革運」・・・干支の第5番目の年。 いずれも、これらの年には、大きな「革命」や「大事件」が起きる、と陰陽道からの考えで、改元をして「運」を呼び戻そうとした考え方。 >>昔は天皇が在位している間も文久→元治→慶応のようにコロコロ変わった 上記に記載したことが「主な理由」です。長い間「朝廷主導」で、まずは「朝廷関係」を取り巻く出来事があった時のみに「改元」がされ、やがて、朝廷も広く「民」の出来事にも目を向けるようになり、自然災害などでは、「開運」を願って「改元」しました。そして、江戸時代になると、朝廷も「朝廷」や「民」だけではなく「江戸幕府」の動きにも目を配るようになり、江戸で「大事件」や「天災」「火災」、あるいは、「人の生死」などが起きたりした時も「改元」して、「運気」を回復しようとしました。 ですから、日本の「元号」では、初期の頃は、「ゆったりとした」流れですが、やがて、「コロコロ」と替わるようになっていきました。 >>明治以降は元号が変わらないのでしょうか? 明治維新とともに「一世一元の制」が提唱され、慶応4年(1868)を「明治元年」と改元した。その後、昭和54年(1979)6月6日に「一世一元の詔(みことのり)」が成立し、同月12日公布、同日より施行されました。いわゆる、「法律」として発布されたのは、意外と近年になってからなのです。 (よもやま話) (1)元号の出展。 書経、易経、後漢書、文選、漢書、晋書、旧唐書、詩経、史記、芸文類聚・・・などが「ベスト10」。 (2)日本が中国を真似た「元号」。 大宝、神亀、天平、大同、仁寿、天安、貞観、承平、天禄、貞元、天福、乾元、元徳、建武、正平、天授、永和、至徳、文明、弘治、天正、元和、正徳、宝暦、天保・・・以上、26例。 (3)日本から中国へ渡った「元号」。 天慶、天暦、天徳、永暦、承安、嘉慶・・・以上、6例。 あなたのお役に立てたでしょうか。
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- Tacosan
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手元で調べたところ, 日本において「戊辰」の改元は 1回もありません. 厳密には数回ありますが, いずれも「戊辰」であるという理由ではなく代始とか災害などによります. これに対し「辛酉」や「甲子」の改元は慣例となって以来ほぼ毎回行われています. 「即位の翌年に改元する」というのは嵯峨天皇がはじめたものらしい. その前の平城天皇は即位の年に改元してるけど, これを非難した人はいたみたいです.
お礼
嵯峨天皇ですか・・。かなり大昔ですね・・・。 ありがとうございます。
- cobamax
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1 (制定) 明治の1889年大日本帝国憲法発布とともに旧皇室典範として 制定された 2 (内容) 一世一代として天皇が崩御等で代わらない限り元号は変わらない 新皇室典範でも変わらない(現在 女帝の話がでてきている) 3 (一番元号を変えた天皇) 後花園天皇(室町 102代天皇)は応仁の乱のはじめとする 乱や一揆の続発、南北朝の混乱 干ばつ等を理由として9回も 元号を変えています (参考サイト) http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/kyukousityutennpann.htm http://homepage1.nifty.com/kitabatake/rekishi9.html http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%8A%B1%E5%9C%92%E5%A4%A9%E7%9A%87 お役に立てば幸いです
お礼
なるほど。。。 ありがとうございます。
元号は、現在、天皇陛下が亡くなられたとき(崩御)にだけ変わりますが、 江戸時代以前は、悪いことが起きたとき、逆にいいことがありそうだといったときに、元号を変えていたからです。
- nene-k
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明治元年の「一世一元の詔」で定められたからです。
お礼
30年ぐらい前に法律で定められたんですね・・・。 知りませんでした。 安政の時代には安政の大獄やその他いろいろなことがあったから改元されたんですね。。なるほど。 ありがとうございます。