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仏教の「空」の思想を簡単に端的に教えてください
いまひとつ理解できません。 バカな俺にでもわかるように例をもって説明していただければありがたいです。
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- bjazz
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遊び心で… ローランド・カークは、「あふれ出る涙」だったっけ? あれとサイドに入ったの二三持っています。 楽器を複数くわえたアクロバテック姿が強烈な印象で、 デクスターやスティットみたいに 音色聴いて聞分けられる処まで聞き込んでいません。 確か、"Someone watch over me"を録音しててあれが素敵です。 jazz好きは変わり者が多いのも事実なんです。 こう云う傾向は確かにあると思います。 ジャズの旋律・メロディは難解そうでそれでいて、 一番背後にある心や社会を映し出すには最適…一番分り易く感じる両面あるように感じます。 でも、このテーマ肝心な論点は、それは「事実」とは言えず、 貴方の観察だと言う点です。 私たちは、因果関係と単なる、前後関係を誤見している事が余りにも多いです。 ジャズ好きな人に会った → 変わり者と感じた こんな体験が二つもあると ジャズ好き = 変わり者 といきなり脳で、 A=Bとなる人間の回路があります。 この=を形成しないのも「空」です。 AはA BはB 何処まで言っても混線しないのです。 日常私たちが因果関係としているモノは、 殆どが単なる前後関係や相関関係で、 関係が無いモノまでが、因果関係とされやすいです。 言いがかり、因縁つける…ってな実態です。 しいて言うならそれらは、縁起です。 いろいろな目に見えない事象が縁となってたまたま起こる これも「空」の顕れです。 因果関係はそもそも、一瞬の止まりもない実相の世界を一瞬固定させた人間の観察です。 だから、妄想と同じです。 原因とされているものも結果とされているものも、 常に変化し続けているのが実相の世界です。 ---------------------------------------------- 『真理・真実・真相・事実・実態と、 人間の考えや観察による判断との異い。』 ---------------------------------------------- このことを実践体得するのも「空」の必須事項です。 これは、唯識を一言でまとめた文面です。 私たち人間は下段の世界に住む生き物であると云う自覚です。 「jazz好きは変わり者が多いのも『事実なんです。』」 それが事実になると、貴方は神様になってるよ~ 「ジャズ好きは変わり者が多いと私は思いました。」 とすると、謙虚な人間の観察です。 直ぐに上の世界へ入ってしまうのが、智慧の足りない人間だと私は思います。 (言葉尻をつかまえた例なので、この場合も貴方の真意とは別です。) そろそろ、このトピも佳境が過ぎたみたいですね、 さて、ポイントはNo,6が20point No,5が10point かな…笑 これはホンの冗談です。 凡て私の観察による思いや考え… この域を出ないことが、 巾らない、他を侵さない人になる ブッダとなる初めの一歩かなぁ… You are welcome! 一期一会 bjazz 生臭坊主より
NO9、NO13ですが、 NO13で説明しました【三法印】をもっとわかりやすく言えば、 「肉体やお金や財産等という「物質」はやがては消失する物であり、本質ではないからそれに執着すると苦しみとなるので執着し過ぎないようにすることが大事です。」 「人間の本質は【心】です。外見やお金や大切なのではなくて【心】こそが永続する大切なものですから、【心】を磨いていきましょう。」 「心が善であれば天国(幸福)、心が悪であれば地獄(苦)ですから、心を磨いていきましょう」 ということです。 お釈迦様は人の苦しみを抜き、幸福にしてあげようとされる目的で仏教を説かれているわけですから、このように元々それは誰でも納得理解実践可能な教えであるわけなのです。そのための教えなのです。
お礼
>お釈迦様は人の苦しみを抜き、幸福にしてあげようとされる目的で仏教を説かれているわけですから、このように元々それは誰でも納得理解実践可能な教えであるわけなのです。そのための教えなのです。 これ以上の言葉はないですね。仏教は最高の宗教です。その通りだと思います。
NO9ですが、 大変重要なご質問がありましたので、お答えさせていただきます。 >(4)肉体死後も「霊魂」は存在存続する >>これはお釈迦様の無我とは異なる意見ではないですか? >>お釈迦様は霊魂否定をされてたような気がします・・・ >>それとも同じ仏教徒でも信仰する宗派によってそれぞれの考え方が180度違うのでしょうか? >>世界中に広まってる仏教の共通した教えは「三宝印」だと思ってましたが、それさえも違うのなら私にとって仏教はあまりにも複雑且つ膨大すぎて理解できないと思います。 ↑以上のご質問につきまして、 まず、無我とは、「われ」が無いのではなくて、「が」を無くす、というのが適切なのです。 つまり、「自我」が強いの「が」を無くしていきましょう、ということです。 それは、例えば、他者に親切に接する時に、「【自分が】してあげたのだ」というような感じではなくて、「他者が幸せになることがうれしいままにそうする」という、【無私】なるあり方であることや、禅定を通して仏や他者の心と一体となることを表す言葉であるのです。 次に、お釈迦様は霊魂否定されているのではありません。 そもそも霊魂否定して「地獄天国」(そもそも降魔の【魔】とか、梵天勧請の【梵天】とはあの世の霊存在です)や「転生輪廻」などの説が存在すること自体ありえません。 霊魂否定説というのは、あくまで弟子の一派の解釈です。 ちなみに人間=肉体+魂であり、ちょうどテレビ本体+電気電波のようなものであり、肉体やテレビ本体は【物質】ですから老朽化して消失しても魂や電気電波は【物質】ではありませんから存続するだけのことです。その証拠に別のテレビに電気電波を通せば続きの映像が映るわけで、電波自体はテレビに映る映らないに関係なく存続しているのと同様です。 更に、【三法印】はむしろNO9で説明していることそのものです。 【時間縁起】=【諸行無常】、【空間縁起】=【諸法無我】のことであり、【本質は霊魂であることの喝破】=【涅槃寂静】ということです。 ですからNO9ではむしろ【三法印】そのものまで説明したつもりでもあるのです。 つまり、 肉体は両親から頂き、日々食事をとり続けていくことで維持しているけど、日々細胞は入れ替わっていて固定したものではなく移ろって行くものである。=諸行無常 また、肉体を構成する材料である食物も色々な種類の物があるわけであって、細胞一つ一つまで分解してみても、肉体は固定した一つの物と言い難い面もある=諸法無我 また、肉体は結局死滅してしまうけど、一方で生前は肉体として存在していたのも事実であるわけで、では肉体として存在していたものの本質は一体何であるのかというと、それが「霊魂」なのであり、霊魂こそ肉体存在・消失に執らわれずに存続し続ける「本質」そのものである=涅槃寂静 というわけなのです。
お礼
お釈迦様は霊魂否定されているのではありません ここで大きく分けて2通りの意見に分かれると思います。yygygy様が仰るように霊魂が有る派、霊魂の存在否定派。 釈迦様はghost否定なのかspirit否定なのかが分かりません。 もしかしたら「我」とはそのどちらでもないのかもしれませんが・・・
- 馬鹿 禿(@baka-hage)
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もうすでに多くの方々が説明なさっていますので、納得されているかもしれませんが少しだけお話をさせていただきます。余談と思ってお読みください。 >>仏教の「空」の思想を簡単に端的に教えてください >>例をもって説明していただければありがたいです。 例といいますか、私達が「私」と呼ぶものを基本に考えていきましょう。 私とは何か?仏教では私とは「因縁によって成り立つたくさんの要素の集合体」ということがいえるかと思います。因縁の「因」とは直接原因をあらわし「縁」は間接原因(条件)をあらわします。この因と縁とのめぐり合わせによって、私達はたくさんの要素を持って構成されていることになります。 ですから、仏教では「魂」や「霊魂」といわれるような、「私」の本体となるようなものがあるわけではなく、常に流動的にいろんな要素が加わったり削除されたり変化し続ける存在であると教えます。これが通仏教的には「空」と呼ばれたりしています。 しかも、それは「私」だけではなく、全てものもが「因縁によって成り立つたくさんの要素の集合体」なのです。分かりやすくいえば、「全てのものはお互いに関係しあうことで存在している」ということで、これを仏教では「無自性」と呼びます。 たとえば自分が任せられた大きな仕事を達成したときに、「自分が一人でこの仕事を達成したのだ」と考えるのは自分への執着がなせる業です。「空」とは呼べません。「無自性」という事を理解していれば、たとえ自分が大きな仕事を達成していたとしても、「私と多くの方々の関係の中で仕事を達成することができた」と考えられるのではないでしょうか?この視点が「空」といえるのかなぁーと私は考えています。ここで大事なのは自分も多くの方々の関係の中の一人であることも忘れないということですね。自分に執着してはいけないと執着するのも、「空」とは呼べません。 最後にもう一つ分かりやすい例を挙げさせていただきます。ティク・ナット・ハン師というベトナムの禅のお坊様有名なお言葉に、 「もし、あなたが詩人なら、一枚の紙のなかに雲が浮かんでいるのを見るでしょう。雲がなければ雨はなく、雨がなければ樹は育ちません・そして、樹なしには紙を作ることはできません。」 という詩があります。この言葉は「空」を非常に端的に説明しています。紙が存在するには、雲が存在しなければなりません。逆に、雲が存在しなければ紙は存在できないのです。つまり、関係なさそうな雲と紙は「お互いに関係しあう存在」なのです。この、紙から雲を見る視点が「空」なのでしょう。 無駄な加筆であったかもしれませんが、少し思ったことをつらるら並べさせていただきました。急ごしらえの文章ですので誤字脱字乱文はどうぞご容赦ください。 合掌 南無阿弥陀佛
お礼
ティク・ナット・ハン師の詩には驚かされました。なるほどこういうことなんですね。少し分かった気がしますが、私の悪い癖で「空」頭で分かろうとしている自分に再度気づかされました。 ご回答ありがとうございます。
No.4です。お礼のコメントをありがとう。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 世界中に広まった仏教に各国・各宗派の共通項が少ないように思えます。つまりブッダの教えが膨大過ぎていったい仏教とはどんな教えなのかぼやけてしまって一般的にはさっぱり知られてません。それぞれの解釈が違いすぎるんでしょうね。これはブッダの不手際?というよりは何でもかんでも受け入れてしまう我々のメンタリティーの問題かもしれませんね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ですが これに かみついてみましょう。 もしおっしゃるようであれば ブッダは よほど とぼけた野郎だということになるか それとも ブッダのほかには ブッダの覚りを知る人間はいないか どちらか一つになるのではありませんか? わたしは未熟ですと言いながら ブッダを笠に着て 修行がここまでは来たという里程標を作っている人もいます。つまり ブッダという目標ないし目的があるにもかかわらず そういう程度です。つまり じっさいには すでに初めに ひとは ブッダの覚りを知っているのです。それが 仏性なのではないですか? そうでなければ ひとは 空の思想を大事にしたりはしないでしょう。 ブッダの覚りは 一ですか つまり 円満ですか? そうだと信じて あるいは 予感して その道を歩もうと決めたのではないですか? そうでなければ 何のために ブッダだのお釈迦さんだのと言うのでしょう? ひとは皆 ブッダになれるのなら なれると言わなければいけないし なれないのなら――つまり そのお手本を見習うだけなら―― ブッダは 神であるかどうかについて はっきりとさせなければいけないでしょう。けっきょくは ゴータマくんは とぼけた野郎だったということに落ち着くのではないですか? (ここまで言うのが 慈悲だと思うのですが?)
お礼
ご丁寧な回答ありがとうございます。 まだまだお話したいのですがbragelone様とは知識の差がありすぎるように思えます。難しすぎてご返答出来ない自分が悔しい~
- bjazz
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余談ですが… この質問のページを見て私が興味深いと思うのは、 それぞれの回答者の返答内容そのものより、 その回答者の心の中身です。 少し意地の悪いようなコメントですが、 私達はこうして言語と云う単なる記号を通して、 同時に互いの深層の心を読みとろうとします。 中には言葉尻だけに反応している人も居るかと思います。 ネット上で「腹立てる」人がいるのも、そう云う観察すると、 その方の観念が浮き彫りになります。 常に自分の心を観ると同時に相手の心を、 それも自分の判断・感覚と冷静に見ながら観察します。 中には少し高飛車に貴方に教えようとする心の感じる人や 貴方の質問を自分の好き勝手な方向に持って行く人 自分の信じた内容を正しいとして教える人 自信満々に感じられる人 謙虚な人 素直な感じの人 深い 浅い… 「空」を実践体得すると、そうした相手の感覚も、自分がそう思っているんだなぁ… 間違いかも知れん… 相手は何を言わんとしているのかな… って益々自分の感覚に冷静になって、 「絶対」とか「これが正しい」… 「自分が正しい」とはなりません… それでいて、冷静に何処までも自身の浮かぶ感性を読み取れます。 生を受けて、こんな感覚を持てることがこの上なく有難くかんじられます。 感謝しなければ! って云うのは感謝の気持ちが湧いていないことの裏返しで、 感謝の気持ちは沸々と湧き上がる質のモノです。 「空」は説明した理論より、その顕れが肝心要です。 体得すると、 相手の言葉・事象に、反応した反射的な衝動が無くなります。 「オマエのような回答はニセモノだ!」と強く批難されても… その言葉だけが聴こえ、不快な感情が出なくなります。 「何故相手はそう言ったのかな?」と観察がはじまります。 自分の未熟さこそ見え、相手を批難したりする悪感情が出なくなります。 私は未熟ですから、きもち揺らぎが顕れますが、刹那で抹殺できます。 執着からの解脱とはそのことだと思います。 若い頃はもっと未熟で自分の感情に振り回され、 恨みのような感情から逃れられず業が形成されましたが、 今では弱っている蚊を殺すより簡単です。 しかし、芥子粒程でも自分の悪感情を許してはいけません。 「抹殺」して跡形も残さないのです。 そう云う意味合いで、私は自分の考えに自信はありません。 自分の思いや考えは、 本質的に刹那刹那に変化するような当てにならないモノです。 そんなモノをあてに生きていたのでは不自由です。 逆に言えば、自分の考えから解放される自由になることが 「空」を実践することだとも言えます。 世間を見渡したら如何に人が「自分の考え」に縛られ振り回され生きているかは明白に思います。 罪を犯す人、命まで…正体は自分の考えに振り回されているのでしょう… 自信のある人はこうした危険を持っています。 ------------------------------------ ジャズが大好きです。 床が抜ける程のCDとレコードに囲まれています。 b・エヴァンス、b・パウエル・フィニアスボーン この三人だけで、50枚近くあります…笑
お礼
やっぱりjazzがお好きなんですね。 私も友達から,jazzみたいな暗くて難しくてダサくて変人が演奏してて楽しくない音楽を何故聴いてるの?と言われますが、ちょっと待て待て確かにjazzは暗くて難しくてダサくて変人が演奏してるかもしれんけれど決して楽しくない音楽ではないぞ!と言ってるんです。 最近お気に入りのローランドカークなどはその最たるもので見た目にも音楽的にも面白いミュージシャンの一人です。こんな人がjazzの世界にはごろごろしてるんですね。だからjazzはやめられないんですよね。 って、何故jazzの話から入ったかというとbjazz様やはりねjazz好きは変わり者が多いのも事実なんです。その片鱗がbjazz様の意見から見て取れます(笑) >常に自分の心を観ると同時に相手の心を、 それも自分の判断・感覚と冷静に見ながら観察します。 または >感謝しなければ! って云うのは感謝の気持ちが湧いていないことの裏返し などですw 人の心を見透かしたような、内面をえぐるようなご意見・人間観察力。 これは意地悪と言わずして何と言いましょうか? と言うのは冗談ですが(本当に冗談ですのでお怒りにならないでくださいね。jazz好きの偏屈なジョークですからね)貴重なご意見ありがとうございます。深く頷きながら読ませていただきました。
空とは、主として、「人間の本質は、仏神により生かされて在る、変化することのできるエネルギー体である」、ことを喝破した言葉だと言えると思います。 人間の肉体は、日々細胞が入れ替わっていて、昨日と今日と明日の肉体は、細胞的に同一ではない、と言えますし、(=主として時間縁起) 肉体を形成している物々も、色々な食材の集合体です。(=主として空間縁起) 更に、肉体は、結局は死滅してしまいます。 そうすると、結局、肉体とは「ある」ものなのか「無い」ものなのか、どちらも正解のような中途半端な感じがすると思います。 けれど、結局において、生前、肉体を集合させ統一させていたエネルギーこそが、人間の本質であるわけで、それは肉体死滅後もエネルギー体(霊魂)として存続するわけです。 そして、このエネルギー体自体、実は仏神により生かされていることで存在できていますし、仏神へと向上成熟して行くという変化をすることが可能なものなのです。 ともあれ、空とは、まず主として、肉体人間の生誕~死滅を見て、 (1)「あるけど無い」 (2)では結局何が本質であったのか、何が肉体を存在させていたのか (3)それは目に見えないけどある、「霊魂」こそが本質だったのだ ということを解説したものであると言うことができると思います。 そして、更には、 (4)肉体死後も「霊魂」は存在存続する ということで、 「色即是空、空即是色」とは、 「肉体人間(色)と霊魂(空)」との転生輪廻の繰り返しの様を表現している言葉であると言っていいと思います。 即ち、霊魂が肉体をまとって、生まれ死に、霊魂のみに戻り、やがてまた生まれて来る、様を表現した言葉であると言っていいと思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。 私の不勉強のいたす所で大変申しわけないのですが >(4)肉体死後も「霊魂」は存在存続する これはお釈迦様の無我とは異なる意見ではないですか? お釈迦様は霊魂否定をされてたような気がします・・・ それとも同じ仏教徒でも信仰する宗派によってそれぞれの考え方が180度違うのでしょうか? 世界中に広まってる仏教の共通した教えは「三宝印」だと思ってましたが、それさえも違うのなら私にとって仏教はあまりにも複雑且つ膨大すぎて理解できないと思います。 決してyygygy様の意見に反対するわけではありませんのであしからず。 霊魂の存在だけが気になっただけでそれ以外は同意見です。
- magga
- ベストアンサー率15% (56/359)
<<つまり物事に自分勝手に点数をつけるなってことですかね?>> ですね。 我々は感覚である五感と意識を通じてデータを受けていますが受けた後、善い感覚・悪い感覚・どっちでもない感覚と振り分け、…そこまではまだ善いのですがここからいろんな概念がいっぱい付いてくるんですよね。データの捏造(パパンチャ)ともいいますね。そこから数多なる悩み苦しみが生まれてくる… その捏造の解き方をブッダは説いてくれたと思います。 論理的に道徳的に理性的に実証的にw <<釈迦様ですが哲学者としても超一流ではないでしょうか>> ですね。興味があったら哲学面から纏め上げたサンガ出版の「仏法」をオススメします。正見の項目だけでも読んでみれば感嘆すると思いますよw スマナサーラ長老の書籍もオススメです。
お礼
サンガ出版の『仏法』とはhttp://www.amazon.co.jp/%E4%BB%8F%E6%B3%95%E2%80%95%E3%83%86%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%80%E4%BB%8F%E6%95%99%E3%81%AE%E5%8F%A1%E6%99%BA-%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%A6%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BC/dp/4901679643 ↑これですか? 買って読みたいと思います。ありがとうございます。
- bjazz
- ベストアンサー率33% (12/36)
もしかしたら宗教家としてもすごいお釈迦様ですが哲学者としても超一流ではないでしょうか? 19世紀後半から、20世紀にかけて西洋の学者が本格的に佛教の研究をはじめました。 パーリー語・サンスクリット語等の原典を研究した勝れた研究家学者達が揃って云った言葉は、 「佛教は宗教ではない、哲学だ…」 自然科学の分野に入る人間学だと云う見解でした。 私もその見方に賛成です。勝れた人間学哲学だったブッダのイズムを勝れてたあまり、理解より信仰し始めたのが、今日のような日本仏教の 形態とも言えます。 私は僧侶ですが、佛教を宗教や信仰対象とはとらえていません、 佛教は如何に生きるか、日常の認識(聴く・言う 聴く以前の観念)を正常健康にして、幸福な人生を歩む為の生き方だと考えます。 世の慣わしとしての簡単な儀式はしますが、私は法を説き人に生き方を考えて貰うことが本業と考えています。 また、信仰(信じる)と云う観念は問題があると考えています。 判らないことを分らないけど、信じると云うのでは、実態は自分の考えを信じている、頑固・悪自信に他なりません。 訳の判らない事、鵜呑みに信じる信仰するのは本質的に佛教とは無関係な現象でむしろ、邪教だと思います。 判らないことは、それとして置いておいてじっくり科学的に考察・検べれば何時か解けるものです。 「求めよさらば得られん」とはそのことでしょう。 凡て自分の頭・脳・心で起こっていることだから、わかると思っています。タダ精進(努力)・忍辱(待つこと)・智慧(研究態度と学び)・布施(人に優しくあること)持戒(人間としての自分に自由な戒を持つこと)等は必須事項でしょう。
お礼
理解よりも信仰が日本仏教の原型 信じるとは“自分を”または“自分の考えを信じること”。(真の理解から信心を発してるものではないということですね?) ということは私たちが「信じます」と言ったとしても自分たちから起こす信心もなんてあやふやな事か・・・ 以上、分かりやすいお答えありがとうございます。非常に勉強になりました。 ところでbjazzさまはJAZZがお好きなんですか?b・エヴァンス、b・パウエル・フィニアスボーンjrとjazzピアノが大好きです。
- bjazz
- ベストアンサー率33% (12/36)
先ず最初に三法印と云う根本原理があります。 (1)諸行無常 (2)諸法無我 (3)涅槃寂静 これらは仏陀が居ようと居まいと存在する宇宙自然界の原理です。 (1)は凡てのモノはうつり変わり、とどまり固定する事が無い 人間等の生物の存在は言うに及ばず、陶磁等の固体も、硬そうな石や鉄でも、その実態は砂や塵であったり、feと云う分子の集合体で、原子レベルでは激しく運動変化しています。 鉄は堅いと思うのも一定の条件化のモノで、高熱で熱したらドロドロの液体となります。 貴方が今居る場所も静止している様に感じられても、実際は自転で時速500km以上、公転を加えるとマッハのスピードで移動しています。 ここが静止していると云う認識もある大変特別な条件化での人間の感覚です。 (2)は(1)の理念から見て、凡てのモノに本体・我と云う様な実態が無いと云う理です。貴方は恐らく50年前には存在しなかっただろうし、70年後にはこの世に存在しないでしょう。 それでも貴方を構成している原子や分子は何処かで存在はしていると思いますが…、私も貴方も植物も石も鉄も、根本的に本体・我の無い寄せ集めの現象の様な存在です。 私たちの人生も一本のマッチの炎の如く、生じ・活動し・滅してうつろいで行く存在です。 (1)(2)の原理を達観して、それに即応した考えで何物にも執らわれず生きる生き方が、(3)の内容で、 涅槃=ニルバーナは「吹き消す」と云う意味合いで、欲望・我欲、煩悩の生活を放れ(吹き消す)静寂な生を送り、人の世の寂静を同時に願う生き方のことです。 「空」は釈迦滅後、二世紀頃に竜樹(ナガールジュナ)が大成した上記の法印を元にした思想で、世親などにその流れが引き継がれて行きます。 「空」は無常・無我を別の窓から見た様な思想で、日常的な事で一部分を説明すると、例えば、モノの名称などは初心者には判りやすいと思います。 私たちは平気で自分の顔とか鼻とか名前(名識)でそれを有るかの様に認識・会話しますが、一体何処から何処までが顔で鼻は何処から何処まで、首と顔と頭の境は何処なの? って検べたら、そもそも境が無い事には気づきます。 そもそも顔と云う実態は無く、「空」です。 目の前に、イチゴが有ってイチゴと認識します。それを貴方がパクリと食べたらイチゴは無くなります。 イチゴは貴方になったの? なったとしたらイチゴはどの瞬間から貴方になったの? 口に入れた瞬間? でも口から出したら? ぐちゃぐちゃになって胃袋に入ったら? でも、貴方を直ぐに解剖してぐちゃぐちゃのイチゴを出したら? つまり、結論は元々貴方とイチゴは、一体のモノで一つ、宇宙自然界は一つなのが「空」です。 イチゴと云う本体も無い=空 貴方と云う本体も無い=空 もともと、無分別(分けられない一つのモノだったのです。) 色即是空 空即是色 イチゴは無い、だけどイチゴはある 宇宙の一部分を仮に切って名前をつけて、それの実態が存在するかのように、判断するのが人間の分別と云う無明です。 煩悩の始まりです。 それに対して分別しない、観方・生き方を「空」と言います。 言うは簡単で、実践体得は中々ですが、釈迦程の覚りは私には無理でも「空」は、私なりに実践体得できます。 判りやすい判定は、一切腹が立つことは無くなります。 「空」と云う生き方に立てば、腹が立つなんて自分で自分の心臓に針を刺すようなコトが愚かに見えます。 まぁこれも言葉なので、何か貴方に伝わったかは判りませんが、 理解より、実践体得下さい。
お礼
このお答えは丁寧すぎるほど丁寧なお答えです。私みたいなバカにも分かりやすくとはこのことですね。 例として空を実践したら腹が立たなくなるとのことですが、私にはちょっと難しそうですが理想としたい生き方です。 仏教と聞いてお葬式をまず連想する方に聞いて貰いたいお答えでした。仏教は生き方なんですね。その実践方法をブッダは教えてくださったんでしょうね。 もしかしたら宗教家としてもすごいお釈迦様ですが哲学者としても超一流ではないでしょうか?
お礼
いや~本当に長い間お付き合いいただきましてありがとうございました。楽しかったです。仏教をjazzと通してお話ができた事が大変ありがたかったです。 >「jazz好きは変わり者が多いのも『事実なんです。』」 これは「jazz好きは変わり者が多いのも事実と信じて疑わない、全く自分本位の見方しか出来ないおろかな私が居ますよ~」みたいな意味で取ってくださいね。前回のレスは最初から最後までジョークのつもりですのでね。 分かっての事だと思いますが^^ またお会いできます事を 合掌