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仏教の「空」の思想を簡単に端的に教えてください
いまひとつ理解できません。 バカな俺にでもわかるように例をもって説明していただければありがたいです。
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宇宙の太極を、神界、無我、空、タオ、実像界とかいいます。この世界を自我、色、人間界、物質界、虚像界といいます。 つまり宇宙の太極が、実像界で、そこから映し出された世界が、この虚像の世界となります。だから座禅などで、脳を、自我を、休ませて、頭を空にすると、実像の世界へ行く事ができます。
- easy_all
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日光の、華厳の滝。 みごとな姿です。これは華厳経の、毘盧舎那仏がさとりを説きながら、 この地上から、天空に昇りつめ、一気にまた地上にくだる。 その姿だと言います。 華厳経では、「一即一切、一切即一」一つはすべて、すべては一つ、とします。すべては、阿頼耶識。 ほとけの生命、とは紀野一義氏の言葉です。(NHKブックス「禅」) 私は、あなた。あなたは私。私は木であり、山であり、雲であり、すべてである。 当り前の話で、46億年前に地球が生まれた時、すべては一つだった。 それを、区別して区別して、「私は私」と自我の欲望につき動かされて、毎日を生きている。 阿頼耶識、ほとけの生命。これこそが「空」。 釈尊が説かれた仏法を、華厳経・紀野一義氏・般若心経が、ことなった表現で述べたのだ、と私は考えます。 「私は私」という自我を離れたら、あなたの喜びが私の喜びになり、 机も、山から切り出された木も、机を作った人の仕事も、 机に私が感謝して、ありがたい、と活用するとき、木も他人の仕事も、 すべて活かされ、生命は永遠となって、この世が涅槃になる。幸福に満ちる。。。
私も長年素人ながら仏教をかじってきた一人です。 答えになるかどうかはわかりませんがお話させていただきます。 仏教で空といえば般若心経が有名ですね。 色即是空、空即是色というやつです。 このお経については解釈の本があまりにも多く戸惑ってしまいます。 結果から言えば私にも分かりませんでした。 ただ気付いた事は、空の前に深般若波羅密といって、深い瞑想の境地においての・・・という前置きがある事です。 思考ではなく、瞑想が前提になっているのです。 瞑想の体験の内容が、空だと思います。 だから、分かるはずもない、分からなくてもいいのかな、と思っています。 少々荒っぽいお答えかもしれませんが、学問的に空を論じる事は識者であればいくらでも可能でしょう。 でも、いくら考えても、論じても分からないと思います。 空は体験だからです。 私もまだそのような体験をしていません。 空を本当に理解するには、確かな瞑想の体験をする以外に方法は無いと思います。
ブッダとその亜流は 人為と人知の極致に到ったと思っていましたが――ただし いくら極致だと言っても 無明(無知)同然の状態と その極致とでも どっちもどっちだと言っていいのだとも考えていましたが―― そうなのですが どうも けっきょくは その相対的な《知恵と境地》のあり方を 一方では その或る種の栄光を飾るため 他方では そのほころびを繕うため その両方のために いま主題となっている《空》を持ってきたのではないか。こう考えます。 縁起共生という見方と同じものだと考えていましたが――つまり ものごとの因果関係ないし相互依存関係 および なかんづく サンガ=共同自治としての社会生活という主題を追究する思想だと思っていましたが―― どうも 看板に偽りあり のごとく 感じるようになりました。 《空》について 《〈有〉でもなく〈無〉でもなく または〈有でもあり無でもある〉でもなく あるいは〈有でもなく無でもない〉でもない》と延々とつづける・切りのないいわば悪無限による表現は 文字通り 悪無限であるのではないか。こう考えました。 つまりは 《悟り(ブッダ)の境地》を 半ばその人知の栄光をたたえるために 半ばその有限性・可変性なるほころびを何とか繕うために この《空》を持って来た。こう結論づけつつあります。 どこまでも継起する無限の内に 悟りの境地を 位置づけておけば その思想は 安泰だと考えたそういう魂胆があるのではないか。知らず知らずの内にでも そうしたのではないか。 けっきょく 空の思想は 破たんします。堂々めぐりでしかありません。もしくは――縁起共生の思想として 再生させ得ると見ますが そうでなければ―― ほんとうに 死(=涅槃)の世界で(という意味は わたしは何度も生まれ変わるという幻想の世界において) さらなる栄光を見ることでしょう。
- bonbonnier
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まず、空について語る場合に大事な点は、聖者の悟達の境地を離れて空というもはないということを、深く考えなければならないと思います。お釈迦様は「こころある一尋(ひとひろ)の身体」に即して空性の境地を語っているのですね。この点は龍樹も同様です。決して、自然観察者の視点ではないのです。もし、そのように捉えてしまうと外道に転落してしまいます。 空性の境地を一言で語れば涅槃ですが、認識することが一切不能な境地といえます。いえますというのは、聖者の言説に基づいてのことで、私たち凡夫の分別思考を遥かに超えているのは、申すまでもないことです。この空性の境地とはいかなるものかを考えずに、空なるものを語ろうとすれば「空邪見」に陥ってしまうと思います。「空なるもの」が有ると捉える見です。 空の聖者である龍樹は、解脱の過程に2つの段階があったことを『中論』において示しています。 「行為と煩悩が滅するから、解脱がある。行為と煩悩は、思慮分別によって起こる。これらは多様な想いにしたがってあるが、多様な言語・表象世界は空性のなかに滅するのである。」(『中論』18.5) 龍樹の最初の解脱は、行為と煩悩からの解脱です。私たちの生存の根源にある本能的ともいえる渇愛を滅することです。次の解脱は、戯論(言語)が空性の中に滅することです。一切の言葉が止滅した涅槃の境地です。 私たちは、朝、眼を覚まし、天井を見上げた途端、虚妄分別の世界に投げ込まれます。自己と世界、この場合、天井ですが、どこまでも対立的に捉えようとします。また、世界の中の、さまざまな事物を言葉と結びつけ、そこに言葉に対応した実体があると錯覚します。このことは、すでに回答者のみなさんが語っています。 りんごを見て、そのりんごの相を心の中に浮かべ、「りんご」という言葉を用い、他のものと分別して捉えるわけです。言葉を話せない赤ちゃんにも、言葉による分別の志向が生命の根底に巣食っています。私たちの生命の根源には、このようにすべてを分別して捉えようとする原初的なこころの働きがあります。自分と世界との二元分裂、世界の中のさまざまなものを、言葉を使い、分別して認識しようとします。 自分と世界を対立的に捉えることにより、われという思いが生まれ、世界の中の実事物を言葉を使い、分別して認識することによりわがものという思いが生まれます。そして、そこにどこまでも執着しようとする迷いの生存があるのです。私たちの無意識の深奥にある根源的生命活動である、「多様な言語・表象世界」の生起、すなわち、言葉の生起(言葉による分別)こそが、迷いの生存の原因であるのです。 ですから、無明の存立の根源とは、相当に根深いといえます。 空性の境地とは、この私たち生命の根底にある、言葉を生み出す生命の原初的活動を止滅させ、生命のありのままの姿を覚知することです。 「心の行為領域がすでに止滅しているのであるから、言い表されるべきものが、すでに止滅している。なんとなれば、あたかも涅槃のように生じておらず滅していないものが、法性であるから。」(『中論』18.7) 「心の行為領域」とは、あるものを認識することです。りんごを見て、その相を心に浮かべ、それにより言葉が生起し、分別想定します。聖者にあっては、生命の根源にある自分と世界との分別意識が止滅していますので、「それは~である」と認識できないのです。「それ」というのは、「それ以外のもの」に対立するものであり、なかんづく「私」と対立して成立するものです。法界と一如となった空性の生命充実の極点においては、一如のゆえ、何も捉えることはできないのです。そこを龍樹は「言い表されるべきものが、すでに止滅している」と語っているのです。 「いかなる法も、一切もろもろの知覚することが寂滅すること、諸戯論が寂滅することであり、吉祥であるから、いずこにても、何ものに対しても、仏陀によりすでに説示されているものとして存在しない。」(『中論』25.24) 生命のありのまままの境地に住している聖者にあっては、「知覚することが寂滅」しているゆえ、認識の対象が存在しないのです。 釈迦様も『ウダーナ・ヴァルガ』に自らの涅槃の境地を「そこには、すでに有ったものが存在せず、虚空もなく、識別作用もなく、太陽も存在せず、月も存在しない。水も無く、地もなく、火も風も侵入しないところ―そこには白い光も輝かず、暗黒も存在しない。これは最上の究極であり、無上の静けさの境地である。一切の相が滅びてなくなり、没することなき解脱の境地である。」と、説いています。 ですから、「空なるもの」を限定的に定義するような回答もありますが、聖者の涅槃の境地にあっては、「空なるもの」は存在しないのです。なぜかといえば、「空なるもの」は「空でないものの」と対立するものだからです。そこには、凡夫の二元対立の世界があります。 聖者にあっては、こころの深層のおける微細な活動である分別意識が止滅しているので、一切の有無の対立が止揚されているのです。有無の二道を越えた中道の境地こそが聖者の境地です。 霊魂云々について議論がありますが、空性の境地にあっては、全く意味を為さない問いでもあるのです。認識することができないのですから、「~がある」とも、「~はない」とも語ろうとも、語ることのできない境地が聖者の境地といえます。 言葉を生み出し妄想分別するこころの深奥の原初的エネルギーがすでに止滅しているのですから。「言い表す」ものがないゆえ、答えようもないわけです。 龍樹は、自らのこの涅槃の境地を縁起することのない境地であると語っています。現象世界の因縁生起を超えた中道の絶対の境地です。 『中論』18.9で、「他のものを縁とするのでない、すでに寂滅している、諸戯論をもって戯論されない、分別を欠いている、かつ別異なる意味のないもの、これが実性の特質である。」と語られます。 24章においては、あらゆる戯論が寂滅(止滅)することが、空の目的であると示されます。「言い表される」ものが何もないゆえ、「如来は死後存在する(しない)か」等の二元分裂(分別)の邪見を全く意味のないものに為すところの、「他のものを縁とするのでない」中道の絶対の境地です。 龍樹により「意識が有と無を超越し(そのいずれにも)依拠していない人びとは、縁起の意味は深遠であり、無取捉であると明らかに知る。」(『六十頌如理論』)とあるように、因と縁により生起して縁起は、有無の二道を超越したものであり、凡夫においては決して捉えることのできない無取捉(認識することができない)なる縁起なのです。 それは無とは対極の生命充実の極点といえるのではないでしょうか。現象世界のダイナミックな変化と自己が一如になっているのでしょうね。認識することのできない、戯論(言葉)をもって捉えることのできない、それでいて世界そのものとひとつである、しかも究極の境地においては、「他のものを縁とするのでない、すでに寂滅している」という絶対の主体の実現、最も積極的な、人生の生き方といえると思います。 輪廻についていえば、龍樹の語ることでもあり、私は肯定的に捉えています。 http://homepage1.nifty.com/manikana/essay/reincarnation3.html
NO9,13,14,16,18,19ですが、 長く色々書いてきたこともありますので、あらためて整理してみます。 ただ、今回は特にまずはよりわかりやすくするために私的な見解表現を含めますので、本来的には別の説明の方が適切であることもありますが、そちらの方はやや省略します。 ●「色即是空」←→「空即是色」 …色:主として肉眼で認識可能な存在のあり方 …空:=主として肉眼で認識できないが、存在自体はあるもの ※以下、その例え(色と空)(※あくまで例えです。) (1)テレビ映像←→電波 (2)肉体人間←→霊魂 (3)(NO18記載の)この世に現出した天使←→あの世での霊存在としての天使 ※ちなみに、本来は、霊的存在の変転(この世あの世とも)全体のことを空と表現するのが適切ということ等もありますが、とりあえずは上記の方がわかりやすいかと思いましたので、とりあえず上記のような説明とさせて頂きました。 ●「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」 …諸行無常:この世の肉体は、生老病死の老のように、時間経過とともに変転して行くものである。 …諸法無我:この世の肉体は、生老病死の死のように、肉体としての存在は無くなって(元々の構成素材に分解して)しまうものである。(肉体は無くなるという意味での無我) また、肉体は、そもそも両親等から授かったものである上、構成細胞としても他の食材等でできあがっているものであり、我の物とも言えない。(度を越した自我我欲はほどほどにし、感謝報恩利他等の心が大切と言う意味での無我。更に、仏神により生かされて在ることができている、ということが本質であり、この点においても、度を越した自我は無意味) …涅槃寂静:しかし、肉体の構成素材を単に集めて置いただけでは人間として勝手に動き出すわけではないのであって、霊魂が宿ってこそ初めて様々な有意義な活動を起こすわけであり、肉体は諸行無常・諸法無我のように移ろい無くなるが、人間の本質である霊魂は存続し、その心のあり方に応じた存在形態をとることになる。だから心を仏神の方向に成熟させて行くことが大切である。(更に、この世でもあの世でも仏神に生かされ育まれて在ることができているというのが本質であり、こうした世界の本質を喝破できる境地が涅槃寂静である。) 以上、繰り返しますが、今回はできるだけわかりやすい範囲で説明したいために私的見解表現を使った面を含んでいますので、本来はもっと別な本質的な見解表現を用いることがより本質的であることがある、ということは補足追記しておきます。 また、霊魂の実在に関しましては、今までの記載事例以外にも、例えば臨死体験で魂が離脱して、横たわっている自分の肉体を見たり、その横で色々話し合っている医者達の話を聞いていた、という事例等々挙げればキリがありませんし、今までの事例一つ一つを実際に見聞してみられるだけでも充分かと思いますので、これ位にさせて頂きます。 また、回答としましても、既に多数記載させて頂きましたので、概ねこの程度でとりあえず終了とさせて頂ければと思います。 大変有意義な時間・内容をありがとうございました。
NO18ですが、更に補足させて頂きます。 ●科学的に「質量保存の法則」というものもあります。 例えば、 (1)生前の2008年11月2日に「あー」と発声したとします。 (2)生前の2008年11月6日に「いー」と発声したとします。 (3)死後の2050年11月4日には肉体は5年前に焼失済だとします。 この場合、 (1)~(2)の間には、何の「声」もこの世には存在していませんが、人間は存在しています。 また、「声」は目には見えませんが、「有」ります。 また、肉体そのものが自動的に発声したわけではなくて、発声するためには今発声しようという「思い」こそが発声の源としてあるからこそできることです。 (パソコンやテレビだって物質本体としてあるだけでは何の稼動もしませんし、電気を通した段階でさえ創造自由的に勝手に色々稼動するわけではなく、それを色々な形で使おうとする人間の「思い」があってこそ色々なことを実現して行くことができるわけです。) (3)において、肉体が焼失するということは、その構成物が二酸化炭素や灰といった物に分解等されるだけのことであり、物質そのものが無くなるわけではないのです。 同様に、「思い」というものだって、無くなるわけではないのです。 それは、NO13で説明した電気電波と同様でもあります。 以上が理論の一つですし、それにプラスして現実的証拠としてNO16、18のような現実的物証事証すら多数あるのです。 ●NO18に補足しますが、 私は、UFOも存在すると思います。 UFOも多数の目撃者共々撮影されている映像も見たことがあります。 (NO18の書き方に不適切な面があったかもしれませんので、補足しておきます。) また、科学等の進展により、霊界通信機等が発明実現されることは、すばらしいことだとも思います。 発明されてない時は無いなりの意義があるでしょうし、発明されればされたで意義が出てくることは色々あると思います。 (この点もNO18の書き方にやや不適切な面があったかもしれませんので、補足しておきます。) ●また、「空」に関しましては、素粒子理論等を含めた、別の説明もできるのですが、説明が複雑になる感じがしますので、あえて説明を省略しています。 ただ、あえてそれに近いことを述べるとしますと、上述の「発声」に似た面はあるかもしれません。 空即是色と同様ですが、声が無かったのに突然声が現出する、という無から有が現出するということがどういうことであるか、ということです。 つまりは、その源となる「霊」的な存在があるということです。 それ以外にも本当はまだ説明が可能な事柄があるのですが、省略します。 ともあれ、私は、肉体物質的自我は諸行無常諸法無我的に言えば無くなるとしても、霊魂はspirit=ghostとしてそのまま存続する、これこそが本質であると思います。 目に見えなくても電波が存在するように、「空」とは目に見えなくても存在する霊魂の有様を表現した言葉であると思います。 (ちなみにこれも補足ですが、霊的存在自体も色々変化します。人格成熟そのものがそうですし、素粒子理論等でのこの世での消失現出の繰り返しの部分もそうだと言えると思います。)
NO16ですが、ご質問に回答させて頂きます。 ●江原啓之氏等々の霊視可能者は、当然霊存在が見えます。 >>これが分からないんです! やはりあなたが仰るのはghostの存在を肯定してるのですか? ●霊魂が存続することは一派の説だけでなく、現実に証拠が色々あるわけです。 >>証拠と呼べないものばかりのような気がいたします。 >>科学的に証明できたものは一つも有りません。 ●私の手元には、「大阪スポーツ」新聞1993年8月3日12面のコピーがあり、それには病院上空に羽のある天使が姿を現し浮かんでいて、そのすぐ下には多くの子供達(元の写真自体には医師や看護婦達も)がそれを見つめて手を伸ばしている写真が掲載されていて、その時の現地当事者(医師)の取材言行も掲載されています。 これはUFOのみを撮影した写真とは違って、現に多数の現地当事者まで現存するという【現実】なのです。 ●更に日本・世界各地での幽霊等の目撃・遭遇例は昔から膨大な数が現にあり続けています。 (幽霊等迷い霊の写真等にはあまり関与されない方がいいそうです。関心を寄せると寄ってくることがあったりするようですので。) 江原氏の事例にしても同様ですが、多くの人々が全員わざわざウソをつく必要も無いでしょう。 (嫌がらせを受けることも多々あるようですから、そこまでされてまでウソをわざわざ言うことはないのではないでしょうか。) ましてや江原氏の場合、夫婦二人しか知り得ない情報を、一例だけでなく何例もテレビ等の場において、生放映等しておられるのです。 ●次に、上記とは違う記述をします。 そもそも、この世の意義とは、目に見えないものをどれだけ信じ、把握できるか、というためにある、という面があるようです。 あの世の霊界では霊が見えるのは当たり前であり、霊存在としての仏神の光り輝く御姿は隠しようも無く認識可能なわけです。 それが皆一様に肉体というぬいぐるみのような物質に入り、更に生前の記憶まで消されることにより、目に見える形で「仏神か天使か一般人か悪魔か」は認識困難となります。 しかし、だからこそ、本質こそを見抜くことの意義があるわけなのです。 立派な袈裟衣を着た悪人と、みすぼらしい衣装を着た天使とを、その外見のみで判断するのか、本質を見抜けるのか、それにチャレンジするという意義もあるわけなのです。 科学的証拠がそろってから認めることは誰にでも可能ですが、そうでない時にそれをもし確信することができれば、意義深いかと思います。 ガリレオの地動説、コロンブスの新大陸発見、等、当時の世では迫害・嘲笑等までされたことを、実証前に理論に自身を持って真実をつかんだ意義は、大変すばらしいものであったと思います。 ちなみにエジソンは晩年、霊界通信機の発明に取り組んでおられましたが、ご存命中の実現には至っていません。 今後、霊存在の有無の証明につきまして、どうなるかはわかりませんが、いずれにせよ真実が明らかになる方向について、柔軟かつ誠実であることが大切だと思います。 有無いずれの場合であっても、仮に一時期自説に自信があろうとも、より真実に近いものが表出して来た際には、自説に執着せずに真実に素直に感動して行くことがすばらしいことだと思います。 どちらの場合であっても、ガリレオやコロンブス当時のように、決して嘲笑・脅迫・加害、といったことだけはしてはならないと、思います。 (言論によるモラル内での議論は結構だと思いますが。)
★ 「空」の思想 ☆ とは 誰もが ブッダであるということです。 ひとと言っても 誰もが 子どものときから 世の中のことを知るわけではありません。けれども 子どもも 人間であり 大人と同じように その人格が認められ それとして その存在が尊重されます。つまり 誰もが 人間です。 それと同じように 空観にしたがえば 誰もが――初めから ブッダであるのではありませんが しかも――例外なく 人間であれば ブッダであるという意味です。 総じて言って 子どもが大人になって行くように ひとは ブッダになる過程をあゆむそのことは そのこととして すでに ブッダであるという意味です。 ブッダが国王に進言したり諫言したりしたのと同じように 現代においても 国政について 政策を進言するブッディストが 何人か――見解が分かれるのが 普通だと思いますが―― 出ていなければ おかしいでしょう。それとも 末法であるから 仏法は いまは力衰え ただ 好事家にのみ 好かれているということでしょうか? 各分野 各部署 それぞれに ブッダの道をかなり歩んだ人が 必ずいるということでなければ おかしいでしょう。成道以前をも容れて いったい何万年をいたづらに閲してきたのでしょう? 誰もが 《わたしは ブッダです》と言えるようになっていないのならば――なっていなくても よいと言うのならば―― 弟子たちの恥ずべき怠慢であるか それとも ゴータマ・ブッダは詐欺だったか どちらかであると考えます。
NO9、NO13、NO14、ですが、 更に補足追加しておきます。 ●NO14に関しまして、 「真空妙有」という言葉があります。 まず、物質というものは移ろい行く物であり、そのままの状態で永続するものではないので、永続する物として執着し過ぎると、苦しみの元となることがあるので、注意しましょう。 次に、霊魂は目には見えないけど有るものであり、肉体に宿るにせよ宿らないにせよ存続する「実質」のものなので、これこそ本質です。 更にしかし、この世の物質に意義は無いと言ってるわけではなく、善なる思いを主体として、従たる物質を善なる働きとして使って行くことで、この世や物質も有意義とすることができる、ということです。 ●NO13に関しまして、 霊魂の存在の証明は多大にあります。 ・盆の先祖供養の起源も、釈尊弟子の大目連の母が地獄に堕ちているのを霊視して、救うところから始まっています。 ・江原啓之氏等々の霊視可能者は、当然霊存在が見えます。 テレビでも放送されていましたが、自殺した夫の霊の話を妻に伝えると、夫婦しか知りえない話を江原氏が伝えるから、妻も当然夫霊の存在を確信するわけです。 景山民夫氏の小説「さよならブラックバード」のあとがきには、景山氏の娘さんが亡くなり魂が肉体から抜けて浮かんでいるところを他者と霊視するだけでなく、会話もしている内容が記述されています。 ・逆行催眠をかけ、まずその人しか知りえない幼少時等の体験を語らせ記録した上で、更に前世を語らせると、「○○年頃に○○という国に生まれていて、このような出来事があった」と今世全く知りえない情報を語り、現地の文献で調べると事実過去そのような出来事があったと記録されている、という事例は多数記録され続けています。 「前世療法」「転生の秘密」といった本を読めばわかります。 以上のように、霊魂が存続することは一派の説だけでなく、現実に証拠が色々あるわけです。 そもそも仏教とは、仏の境地を目指して霊魂を成熟させて行くための教えであり、成熟して行くには多くの転生輪廻を経ることが必要になります。 自分づくりが一定程度達成できた「阿羅漢」を、3回続けて達成して次の「菩薩」の世界へ進むことができる、という指標がありますし、更に「如来」の段階へ進むには、「菩薩」として多くの転生を重ね、揺るぎない安定した実績を積む必要があると言われています。 転生輪廻を繰り返すのは当然「霊魂」です。
お礼
>物質というものは移ろい行く物であり、そのままの状態で永続するものではないので、永続する物として執着し過ぎると、苦しみの元となることがあるので、注意しましょう。 同意いたします。私の知る限り、仏教の教えはこの通りだと思います。 >盆の先祖供養の起源も、釈尊弟子の大目連の母が地獄に堕ちているのを霊視して、救うところから始まっています これは事実そうであったと言うより方便的な意味ではないでしょうか? >江原啓之氏等々の霊視可能者は、当然霊存在が見えます。 これが分からないんです! やはりあなたが仰るのはghostの存在を肯定してるのですか? >霊魂が存続することは一派の説だけでなく、現実に証拠が色々あるわけです。 証拠と呼べないものばかりのような気がいたします。 科学的に証明できたものは一つも有りません。
お礼
ご回答ありがとうございます。 大変、ご丁寧な意見をいただきましてありがとうござます。 意見の違いはあれどここまでお付き合いいただいたことに感謝いたします。本当にありがとうございました。 霊の存在については相変わらず私は否定派ですが、ここで皆さんと「空」についてご意見を頂いた結果、私なりの考えがまとまりました。 私はこの目で色んなものを見てきましたが、それは決して心でモノを見ていないと言うこと。色眼鏡をつけて自分の固定観念を交えてモノを見ていると言う事。モノの本質を見ていなかったと言う事に気付かされました。 今までは主観を頼りに、または主観を裏付ける為の自分に好都合の客観的データを集めたりとあくまで自分本位に生きてきましたがこれからはもっともっと智慧を磨きたいと思います。 それではありがとうございました。