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仏教の空(くう)について
苫米地とかいう人が言ってるのをYouTubeで聞いたのですが、 最上位概念というか情報量最小のものが空で、 その下に有と無があって、 有の下に例えばモノだとか生物だとか動物だとか人間だとかがあって、 人間の下には自分があって、これが、 宇宙を入力としたときにものごとを自分の重要度に応じて並び替えて出力する関数 で、だから自分と宇宙は裏表の関係にあって、 それで自分をすみずみまで本当によく理解した人は、おのずから宇宙もよく理解したことになるので、 それでそれを頭だけでなく瞑想で体験として理解した人を悟った人という みたいなことを言ってましたが本当ですか? あと西洋哲学だといちばん下位概念が矛盾で、角の生えた猫のような存在しないというか考えられないものというか、そういうのを指していて、それで情報量は極大ということですが、 西洋哲学だと下(最下位)は矛盾で情報量極大で、そこから上に上がっていくにつれ 情報量は少なくなっていくが最上位概念が有と無で、この上は無限になってしまってまたいきなり 情報量最大になってしまう、これを俺は仏陀の悟りを数学的に証明して、空を置いたことで、 きれいに有や無よりも情報量が少ない状態を記述したので人類史に残る天才だ とか言ってましたが本当ですか、というかこういう理解でいいのでしょうか。
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仏教哲学でいう「空」というのはどのように解釈されても一向に差支えがない概念です。 本当か?と言われても、本当でも嘘でもないし本当でもあり嘘でもある、という訳のわからない答えになってしまいます。 ご指摘の苫米地氏のyou tubeは見ていませんが、ご質問での説明からしますと、唯識論と呼ばれる別の考え方を持ち込んだ上での論法のようです。 唯識論といいますのは、西洋哲学とよく似た論法を使う考え方です。 非常に緻密に組み立てられています。 「空」という概念はこの唯識論の対局に位置する考え方だ、と捉えられたほうが宜しいかと思います。 仏教哲学の中でも禅哲学が大切にしている概念です。 禅哲学での場合は、言語道断、不立文字、教外別伝という言い方で、言葉や文字では伝えることができない概念とされています。 従いまして、苫米地氏のような説明方法をとりますと、言葉で表現していますので「空」ではないということになってしまいます。 なんとも厄介な概念です。 まさに空を掴むような話になります。 西洋哲学と比較されたいのであれば、むしろ唯識論に一通り目を通されるほうが宜しいかと思います。