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未来は、存在していると証明できますか
マクタガートのA系列(過去・現在・未来)の三様相のうち、特に、未来という時間概念を論理的に探究する前に、そもそも未来は、存在していると証明できているのでしょうか?と思ってしまいます。僕たちが日常生活している現在とは断絶していて、決して現在の側からはその中に飛び込めない未来という「あの世」のような概念は、語り得ない、記述し得ない、親近感のない、超体験であるがゆえに、つかみどころがないように思うのです。未来という想定の確かさについて、教えてください。
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No.64です。 かんたんですよ。 ★ 非現実・虚構としての《ゲーム・遊戯・劇》であって、〈絶対〉としての《ゲーム・遊戯・劇》ではないようです。 ☆☆ 《〈絶対〉のもとで夢見る非現実ないし未来》 ☆ これが 《迂回路》を含んでいるからです。 ○ 《〈絶対〉 ≫という無根拠≪ のもとで ≫一人ひとりが それぞれ 主観として≪ 夢見る非現実ないし未来》 ☆ と読んでください。そうすれば 次のごとく 各自が それぞれ自由に アンガージュマンをおこなうというのが 基本になっています。 ★ ・・・「所与の絶対的な規範」に基づくのではなく、未来の現実の状況に向けて各自がアンガーシュ(拘束)されている「行為者」「役者」であると読み解く ☆ ですよね? ★ 各自が過去を反省し、現在の自己を否定し、未来に対して自己をプロジェ(投企-投げ入れ)する。 ☆ 《自己否定》は 一時 流行りましたが――そして それとして 自省は大事ですが―― この文では 《現在の自己》に対して 《否定》だけをおこなうかに見えますので その点だけが 気になりました。 科学哲学としては こちらは 相変わらずで 進展しませんが 大きく 《言語ゲーム》としての 未来論は その基本が見えて来たようですね。
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- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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ANo.18へのお書き込みのご参考に: 人それぞれのお歩みや世界があり、同じことばもことなる世界をごらんになるものですよね。 一概にいえませんが、矮小な私の僅か70年過ぎほどの遍歴で漸く、まぁこれが今自分にお勧めかなというのは以下のものです。 「顕現」:『バガヴァッド・ギータ』(Self-Realization Fellowship http://www.yogananda-srf.org/) 「ユガ」:『聖なる科学』ギャナアヴァタラ・スワミ・スリ・ユクテスワ・ギリ 森北出版株式会社 「サマディ」:『英文レッスン』(Self-Realization Fellowship http://www.yogananda-srf.org/) *日本語レッスンと日本語の臨時レッスンもありますが、英文が一応全文です。 そのほかこの機構は幾つかそういうものを出版し、欧米では評価されております。日本は未だ道遠し、ですが。
お礼
最後の括弧が余計なので、見れませんでした。 http://www.yogananda-srf.org/
補足
ヒンデゥーの世界周期について、おおよそ分かりました。ありがとうございました。
- bananasand
- ベストアンサー率21% (117/533)
>2008年金融恐慌で、今あった状態(過去)が1929年世界大恐慌 100年に一度の金融恐慌ですか。 全く幅のない<今>において、他の永遠が経過します。 極端には、この二つの事象は、全く幅のない他の停止状態から見ると同時に発生していることになります。無論、幅のない停止状態からこれらを観測することは不可能ではあります。 その現象の中にあってこそ、その差分があるから、それが数十年に相当するわけですね。 その数十年は、それを実感する側の他の事象の<差分>を物差しに、数十年と判断されるわけです。1億年の差分しか感知出来ない観測者(生物)にとっては、これらは同時に起こっていると思うでしょうね。 その物差しを有しない森羅万象側には時間はありません。時間は、森羅万象の中においてのみその同一場の森羅万象を使って、その差分を知覚し実感し想定されるその同一場の生物独特の世界だと思いますよ。 <今>は真の「現在」が違うところに断絶があって、<今>は幅のあるちょっと前の過去ですから、過去と断絶しているとは言えなくなってしまってます。 時間が経過する? それは、観測側がそのようになっているだけであって、 森羅万象において時間が経過しているのではありません。
お礼
>全く幅のない<今> 瞬間概念だと行き詰まるので、論理的に失敗・破綻するでしょう。 >差分を知覚し実感し 知覚も実感もなく、人類滅亡後も、時間は淡々と経過していくでしょう。 ><今>は真の「現在」が違うところに断絶があって、<今>は幅のあるちょっと前の過去ですから、過去と断絶しているとは言えなくなってしまってます。 意味が分かりません。<今>は、幅があるのですか、ないのですか。<今>は過去の一形態なのでしょう。現在とも未来とも、同時性は無いでしょう。つまり、断絶しているでしょう。 >時間が経過する?・・・森羅万象において時間が経過しているのではありません。 時空は、一体として変化していると思いますが。時間は経過(推移)するで通じるでしょう。
補足
全く分かりません。
No.17です。 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ではこの二つの時間 過去と未来とは どのようにしてあるのでしょうか。 過去とは《もはやない》ものであり 未来とは《まだない》ものであるのに。また現在は もしいつもあり 過去に移りさらないならば もはや時ではなくて 永遠となるでしょう。 ですから もし現在が時であるのは過去に移りさってゆくからだとするならば 《現在がある》ということも どうして言えるのでしょうか。 現在にとって それが《ある》と言われるわけは まさしくそれが《ないであろう》からなのです。すなわち 私たちがほんとうの意味で《時がある》と言えるのは まさしくそれが《ない方向に向かっている》からなのです。 (アウグスティヌス:告白 第十一巻第十四章 山田晶訳) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これと同じような趣旨で これまでも qsxdrfvgyhたちは 主張しておられると思うのですが まづわたしの疑問は それだけでは どうして 足りないのか です。 アウグスティヌスは この《告白》の第十一巻から第十三巻までにおいて古代人としてのかれなりの時間論を展開していますが ほかに 導入の部分として 次のような文章もあります。秋の文化活動として 気長にまいりましょう。 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 昼はあなたのもの 夜もあなたのもの。それぞれの瞬間は あなたの御意(みこころ)のままに飛び去ってゆきます。あなたの法の深くかくれた意味を熟考しようと思う私たちに おしみなくそこから時間を取り出して与えたまえ。戸を叩く者に 法の戸を閉ざしたもうな。・・・ (同上 11・2) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ まづは たとえば このように問い求める姿勢 したがって それとしての現在 これがあれば――さらにつまり そのつど 意識して 問い続ける断続的にして持続する時間過程があれば―― 特に不自由は感じないと思うのですが いかがでしょうか? 大胆に言ってしまえば 未来について 知らなくても よい。のではないでしょうか? すなわち ★ 次々と新しい<今>がその都度生まれるという仕方で、時間を形成しているだけで、未来も過去も見渡せるはずがないと思うのです。 ☆ という構えで まづは 足りるのではないでしょうか? そこのところは いかがでしょうか? ★ 「未来」から連想することを深めていただきたいのです。 ☆ ということでしたら それは 時間論であるよりは それこそ《復活》の議論になるのではないでしょうか? もっとも わたしの考えでは 《永遠の現在》の問題として やはり 時間論を伴ないますが。 《未来》とはどういう事態なのか この規定を明らかにしておきたいということでしょうか? もし規定できたとしても 上に述べたような《現在》過程におけるわたしたちの姿勢の中に取り込まれるように思うのですが。
お礼
アウグスティヌスは、(造物側の)「永遠」と(被造物の)「時間」を絶対的に区別しているはずです。その上で、現在に過去と未来を還元する時間論を展開していますが、永遠と現在を混ぜる発想は、アウグスティヌスの意図に反しませんか?時間に実体を認めない、空観に通じる視点は、評価できると思うのですが。
- bananasand
- ベストアンサー率21% (117/533)
>「概念としての未来」と「時間としての未来」の混同で、 >「動く今」という印象は、「流れる」というよりも「飛び越える」という性質を持つと考えます。 >つまり、「今ある状態」(現在)から「今あった状態」(過去)への飛び越えです。 >そして、跳躍観は、現実性とその消失という隔絶観でもあります。 隔絶は、「概念としての未来」と「時間としての未来」の間にあるのであって、 時間としての「今ある状態」と「今あった状態」の間ではないと思います。 この時空間においても、永遠に現象が停止した状態があり得るわけで、つまりは、停止状態は、永遠を包含している訳です。 したがって、現象の中においてのみ、「今ある状態」と「今あった状態」の差分が時間ではないでしょうか。 時間が経過するから「今ある状態」から「今あった状態」へ移行するのではないのです。 また、「今ある状態」と「今あった状態」の差分の無いところから、永遠も停止も観測することは出来ないのです。 この現象の中において、その物理定数、物理法則に則って、その進行する変化をもって 時間を定義し未来が当然に到来すると想定することは妥当です。 充分な妥当性があるだけであって、存在するとは言えないと思います。
お礼
「未来」から離れますが、一応、返答してみますね。 >隔絶は、・・・時間としての「今ある状態」と「今あった状態」の間ではないと思います。 今ある状態(現在)が、2008年金融恐慌で、今あった状態(過去)が1929年世界大恐慌だとすると、断絶してると思うのですが? >「今ある状態」と「今あった状態」の差分が時間ではないでしょうか。 漠然とならば、時間と言えそうですね。でも、<今>そのものも時間だと思いますよ。<今>の長さは、色々に設定できるとした上での回答です。 >時間が経過するから「今ある状態」から「今あった状態」へ移行するのではないのです。 今ある状態(現在)が、2008年金融恐慌で、今あった状態(過去)が1929年世界大恐慌だとすると、数十年の時間が経過していますよ。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
今までのbrageloneさんらしくない、ご発言は何か挑発するかのような疑いも出てきますが。 でもbrageloneさん、現在って、何秒なんですかね。どこで区切るのでしょうかね。これも私らしくない屁理屈なんですけれども。 ANo.16でqsxdrfvgyhが教えてくれた、虚の時間はすごく示唆的です。 この世界、つまり時間と空間の犯人のブラフマンは意識なのですが、顕現の季(ユガ)と不顕現の季節(ユガ)があり、不顕現のユガのときは顕現の側面に自分をもっていっていないから、顕現しない。 つまり、この世界はない。つまり仰せの実時間はないということになるのですね。 顕現のユガのときは、不顕現の、本体的自分があって、静かに顕現の世界を眺めている。というのだそうです。 このユガでは実時間と虚の時間があるのだそうです。 顕現は数億年で繰り返されているのだそうで、上昇(理解力が上がっていく時期)のユガと下降(理解力が下がっていく時期)のユガが交互にあるそうです。 この下降も上昇もそれぞれ、12000年ずつで、合わせて24000年。 これを何度か繰り返し、不顕現の状態になるのだそうです。 しかし不顕現の状態はブラフマンがそういう夢を見ない時期ですので、ブラフマンにとっては目覚めている状態だそうです。 そういう状態がいわゆるサマディとでもいうのでしょうかね。 そういうことだそうです。人間はそういう側面が悟りなのだそうです。 おかしなことでしょうか?
お礼
「顕現」「ユガ」「サマディ」について、少し調べてみたいと思います。ありがとうございました。
qsxdrfvgyhさん こんにちは。 こう言っては失礼になりますが おもしろくなってまいりましたので 投稿させていただきます。 こういう事例は どうなんでしょうか? つまり 明日の午後六時に どこどこで会いましょうというとき その概念としての未来が やがて 時間経過としても 現在となって また 過去へと去っていきます。 それだけのことでは いけないのですか? 足りないのですか? 論理的な内容を伴なった時間観・未来観を求めておられるのですか? たぶん 論理としてなら 現在という観念(意識)かつ時間過程 これが 唯一の理論だと考えます。それで 生きる上では 支障はないはづです。 つまり ★ 未来という想定の確かさについて、教えてください。 ☆ というのは 杞憂に近いと思うのですが おかしいですか? (ちなみに 杞憂は 取り越し苦労だけではなく 実際に起こる可能性は あるわけです)。マクタガートを勉強しないと だめかも知れませんね。とりあえず お応えを待ちます。
お礼
>明日の午後六時に どこどこで会いましょうというとき その概念としての未来が やがて 時間経過としても 現在となって また 過去へと去っていきます。 それだけのことでは いけないのですか? 足りないのですか? 日常会話では、「明日の午後六時に どこどこで会いましょうということが 時間経過としても 現在となって また 過去へと去っていきます。」という表現で充分通じますし、「未来という想定の確かさについて心配しているようで、杞憂に近いと思うのです。」という表現も御もっともです。ただ、未来に関する時間論を展開してくださいというお題です。秋の文化活動としてです。 さて、「明日の午後六時に どこどこで会いましょう(まだ会っていない)」が「今会いました」になり、「さっき会いました(もう会っていない)」に時系列的に推移するとき、その視点は、《永遠の相》にあります。未来から過去までの時間軸を見渡せると言う前提があるようです。そこを問題視しているわけです。次々と新しい<今>がその都度生まれるという仕方で、時間を形成しているだけで、未来も過去も見渡せるはずがないと思うのです。未来も過去も<今>とは断絶しているのであって、未来・現在・過去が相互に排除関係にあるという程度ではなく、それぞれ独立して断絶しているという強い孤立性を僕は想定しています。そして、<今>を最重要視すべきという意図です。もちろん、<今>は「現在」と同じではありません。微妙に違います。そこの説明は省略します。だからこそ、隔絶した「未来」は、「語り得ない、記述し得ない、親近感のない、超体験であるがゆえに、つかみどころがないように思うのです。」と書いたわけです。「未来」から連想することを深めていただきたいのです。それだけです。よろしくお願いします。
補足
マクタガートにこだわらないでください。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
拙い回答投稿をさせていただいた、ご縁をわずかに頼って、逆にお教えを請うことになる、投稿をお許しください。 時間と空間とが、世界というか、物質の世界というか、その存在の表裏なのだということであるならば、物質の世界が仮になくなれば、時間と空間とはなくなりますよね。この表裏ということばの中身はちょいと脇においていただいて。 物質の世界が出来たものか、創造によるものかは別にして、その出現以前や終了後は、時間と空間はないのですよね。 詭弁哲学の、飛ぶ矢のことではないが、須らく存在は止まり、且つ、飛ぶ(変化)する。 止まり、且つ、同時にその変化を未来がないという現象というのか。 何か(本質というか、存在というか)が続いている限りは、未来があるというのか。 その辺の問題としては考えられないのでしょうか?その限りの問題ではないかと存じまして。 存在たる本質とは根底意識ということなのですが。それがこの世界をみている間は、続いている。 その意識が退いてしまえば、時間はなくなる。 という思いで居るのですが。 それで、敷衍付けたりですが。 創造世界はそれをみている根底的意識の永遠の現在の中のことであって、その意識の経験や知覚の結果、内容しか意識できない。 だから私たちの通常の経験意識には、主格意識自体のない次元であり、そんなレベルでの人間意識では過去だけしかない。と思いますが。 どうか愚かな誤解であれば、私みたいな回りくどいいいかたでなく、○○は▲▲である、という簡明直接なお教えを賜りたくお願い申しあげます。
お礼
再再度のご投稿、ありがとうございます。着実に検討して参りたいと思います。 >物質の世界が仮になくなれば、時間と空間とはなくなりますよね。・・・物質の世界が出来たものか、創造によるものかは別にして、その出現以前や終了後は、時間と空間はないのですよね。 空間に束縛された時間論では、そうなりますが、時間の本性を「虚時間」だとすると、永遠の時間が想定できます。 >止まり、且つ、同時にその変化を未来がないという現象というのか。 宇宙がフリーズするときのイメージなのでしょうね。これも空間に束縛された時間論として「未来が無い」状態を表現しているように思います。虚時間を認めれば、空間的な停止後も虚時間の推移は続くと思います。また、「止まり、且つ、同時にその変化」が、フッサールの時間論だとすると、「現在」を構成する分析で「未来把持」が想定されていますから、「未来がない」とはならないと思います。 >何か(本質というか、存在というか)が続いている限りは、未来があるというのか。 空間の存在が無くても、虚時間の推移は続くと思います。未来はあると想定せざるを得ないと思います。ただし、実時間ではありません。 >存在たる本質とは根底意識ということなのですが。それがこの世界をみている間は、続いている。その意識が退いてしまえば、時間はなくなる。 意識とは無関係に連綿と時間は推移してきたと思うのです。人類滅亡後も連綿と時間は推移すると思います。時間は無くならないと思います。ただし、実時間に限定すれば、無くなるかもしれませんが、正直に言ってよく分かりません。 >創造世界はそれをみている根底的意識の永遠の現在の中のことであって、その意識の経験や知覚の結果、内容しか意識できない。 「永遠の現在」が破綻した概念だと思います。現在はあるものでありつつ、ないものに変化(推移)して過去を形成するので、現在だけで永遠とは言えません。だからと言って、現在は、瞬間でも無いようです。時間の本性は、「流れが均一」で、「不可逆的」な点もあり、大変不思議なものだと思います。
補足
>詭弁哲学の、飛ぶ矢 微視的な、瞬間概念における、運動と時間の考察のことですね。krya1998さんが詭弁というように、「存在は止まり、且つ、飛ぶ(変化)する」は、空間と運動からの補助線上で時間を探究する場合ですし、やはり、無限小を追究しても、時間の本性は見えて来ないという点では、僕と見解が一致していそうです。まあ、フッサールの過去把持・未来把持は、瞬間概念の行き詰まり(矛盾)をつくろうために構想されただけの、悪あがきのようでもあります。
- bananasand
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qsxdrfvgyhさん こんばんは、ちょっと舌足らずだったので、補足致します。 >「いわば現在も含めて全てが想像なのです。」と展開されていますが、論点が《今》の無時間性・幅のある《今》に傾いています。 幅のある<今>に傾けるつもりはありませんでした。 「いわば現在も含めて全てが想像なのです。」と表現しているのは、観測側である我々人間側と 対象としての宇宙側(時空間宇宙、森羅万象)を考察する場合、 No12で記載した、 人間が現在だと認識している<今>は、ちょっと前の幅のある過去です。 であるが故に、過去と未来が想像であり(同時性の否定)、かつ、<今>もちょっと前の幅のある過去である以上、結論として、 観測側である我々人間側にとって、「いわば現在も含めて全てが想像なのです。」と成ります。 真の現在を、真の現在において捉えているのは、物理層(光速度、脳内伝搬を除く)であって、 幅のある<今>を表象(自覚)している我々人間ではないと言うことです。 したがって、真の現在に幅が無いことに、何ら変わりはありません。 即ち、<今>でさえも想像ですから、勿論、「未来という想定の確かさ」も想像に過ぎません。 そして、「いわば現在も含めて全てが想像なのです。」とする場合の、我々は何者なのかです。 このように森羅万象(物理層)から遊離した我々は、No14のアプリケーション層の如き もの/こと というのが あてはまると思うんですね。
お礼
補足欄の再再訂正です。 >まず、「未来は・・・再度《今》の無時間性・幅のある《今》のことのようです。「真の現在は・・・ 前半部分で、[以下削除]《今》の無時間性・幅のある《今》[以上削除終了][訂正]《多層化した時間観》[訂正終了]としましたので、中間部分の「再度」が不要でした。失礼しました。
補足
No.14の記載を少し訂正します。 まず、「未来はありません。確実にありません。」と当初、断言しています。[以下加筆]これは、《概念としての未来》のことで、《時間としての未来》のことではないようです[以上加筆終了]。次に、「現在と同時にいわゆる未来は存在し得ません。」というのは、《三時様相の相互排除性・非同時性》の一例を言っています。ここで転向して、「現在が多層的に存在することを可能とする次元を加えれば未来はあります。過去、現在、未来は、そこに厳然として存在します。」というのは、[以下削除]《今》の無時間性・幅のある《今》[以上削除終了][訂正]《多層化した時間観》[訂正終了]のことのようです。また、「過去のある時点から見て、現在を、未来であるとすることもの全部を人間側が作っています。」というのは、No.3の《過去の中で、過去・現在・未来という関係を構築している》と同様の論点です。さらに、「人間が現在だと認識している<今>は、ちょっと前の幅のある過去です。」というのは、再度《今》の無時間性・幅のある《今》のことのようです。「真の現在は、まさに脳内現象を起こしている”変化”そのものであって、<今>とは全く異質です。」及び「真の現在には、過去も未来も一滴たりとも含まれていません。」「>「想像」としての未来しか在り得ないと思いました。という僕の回答に対して、その通りだと思います。」と返答し、「いわば現在も含めて全てが想像なのです。」と展開されていますが、論点が[以下削除]《今》の無時間性・幅のある《今》[以上削除終了][訂正]《概念としての未来》[訂正終了]に傾いています。 よく精査すると、幅のある《今》は、過去の一形態か「過去把持・差延」のことのようですので、僕が「現在」と多層化した《今》とを誤解していたため、混乱していました。お詫びして訂正します。「No12で記載した、人間が現在だと認識している<今>は、ちょっと前の幅のある過去です。」という表現が、bananasandさんの定義であり、そこに異論はありません。そして、「概念としての未来」と「時間としての未来」の混同で、論点が錯綜していることもお詫びします。論点は「時間としての未来」の方です。「全てが想像なのです。」を探究しても、「概念としての未来」の論点になってしまいますから、質問の主旨から離れます。「時間としての未来」に、論点を移したいと思います。 ここで、時間的変化(動性)について、少し補足説明します。 「動く今」という印象は、「流れる」というよりも「飛び越える」という性質を持つと考えます。つまり、「今ある状態」(現在)から「今あった状態」(過去)への飛び越えです。そして、跳躍観は、現実性とその消失という隔絶観でもあります。「今あるだろう状態」(未来)から「今ある状態」(現在)への飛び越えも、未実現性と現実性という隔絶観があります。これらは、《三時様相の相互排除性・非同時性》とも通じる点です。「時間としての未来」は、隔絶した、未実現の、あらゆる可能性を秘めた、時間そのものとして、厳然と、「ある」と想定せざるを得ないけれども、語ることも、記述することもできない、人知の限界外の存在なのかどうかという論点です。みなさん、いかがでしょうか。
- bananasand
- ベストアンサー率21% (117/533)
>「想像」としての未来しか在り得ないと思いました。 その通りだと思います。 人間の精神は、いわばアプリケーション層であって、 この場合、真の現在は物理層に相当します。 真の現在は、純粋な変化そのものです。 時間があって、その自由度の中で物事が変化するのではなくて 変化があってその差分を時間として捉えることが出来るのです。 あたかも、空間があってその中に物体が存在するのではなくて 物体があるから、空間が認識されるというのと同じですね。 極小の有=無では空間は無く、無限大の有でも、空間が歪みそこで空間は特異点となります。 (純粋な変化でも、真の現在には過去も未来も含まれないと同様に 縦も横も高さも一切含まれていないと思考される摩訶不可思議な世界です。 我々がそれを土台にしているにもかかわらず、それは真の現在といわゆる点です。素粒子の世界を除く) 変化の根本には停止があって、極小の移動も極大の移動(光速)も変化は停止してます。 真の現在の理解のために変化を記号化します。(本当は一応連続してます。あくまで理解のためです) →ABCDEFGHIJKLMN→ これらの個々の記号を真の現在とします。左から右へと変化します。 人間精神のアプリケーション層は A→Bの自然現象の変化をC→Dの変化を使って、Eにおいて記憶し、F→Gの変化の中に記憶された A→Bの変化を表象します。 Gには、この表象が物理層として ある とは言えますが、真のABCDEFの一切を含んではいません。 たとえGにこの表象があっても、この先のHIJKを使わないと表現できません。 Gだけでは、A→Bは表象できまないのです。 そして、HIJKを未来と称している訳ですが、Gにこれらが 含まれていない以上、この比喩と同様に想像にすぎません。 いわば現在も含めて全てが想像なのです。 なお、物理層のさらに下層、アプリケーション層のさらに上層の存在を否定するものではありません。
お礼
まとめの続きです。 No.13の超感覚、勘、直観だと、他の読者も知的な興味の満足を得れそうにないので、がっかりです。論理を尽くしていただきたいわけです。 いよいよ、bananasandさんの論点です。 まず、「未来はありません。確実にありません。」と当初、断言しています。次に、「現在と同時にいわゆる未来は存在し得ません。」というのは、《三時様相の相互排除性・非同時性》の一例を言っています。ここで転向して、「現在が多層的に存在することを可能とする次元を加えれば未来はあります。過去、現在、未来は、そこに厳然として存在します。」というのは、《今》の無時間性・幅のある《今》のことのようです。また、「過去のある時点から見て、現在を、未来であるとすることもの全部を人間側が作っています。」というのは、No.3の《過去の中で、過去・現在・未来という関係を構築している》と同様の論点です。さらに、「人間が現在だと認識している<今>は、ちょっと前の幅のある過去です。」というのは、再度《今》の無時間性・幅のある《今》のことのようです。「真の現在は、まさに脳内現象を起こしている”変化”そのものであって、<今>とは全く異質です。」及び「真の現在には、過去も未来も一滴たりとも含まれていません。」「>「想像」としての未来しか在り得ないと思いました。という僕の回答に対して、その通りだと思います。」と返答し、「いわば現在も含めて全てが想像なのです。」と展開されていますが、論点が《今》の無時間性・幅のある《今》に傾いています。 《今》ではなく、「未来という想定の確かさ」は、想像に過ぎないという点をもう少し、深めていただけませんか。いかがでしょうか。
補足
そろそろ、まとめます。 No.1で、「(未来は)個人個人の頭の中の世界には(記号として)存在している」というのは、《概念としての未来》のことで、《時間としての未来》のことではないようです。 No.2の予知夢は、未来が存在する証拠にはならないと思います。この論法では、逆に、予知と一致しない、予想外の事態であって、「驚き」の感情と共に体験することでさえ、未来が存在する証拠にできますが、どちらも、予知・予見した《過去の拡大形態》に過ぎないようです。 No.3で、「過去の結果を基に未来を予測します。「今日」といいますのは「昨日」に対しては未来でしたが、今現在に存在しています。我々はこの体験を基に「明日」が存在することを予測します。」というのは、《過去の中で、過去・現在・未来という関係を構築している》と読み替えできそうです。 No.4では、因果律の完全性を証明する問題に変質してしまったようですので、別問題の証明後でなければ、使えない論法ですし、それには興味がないので、パスです。 No.5、7、12、14は、最後にします。 No.6、10では、過去・現在・未来の《相互排除性》が論点でした。未来は、絶対的未知なので、現在と隔絶した概念として使用しているのは自明です。「全て知覚・経験の結果でしかないと存じます」及び「現在として何かがある知覚・経験した過去の、その内容集積が現在だと思っている」というのは、No.3の《過去の中で、過去・現在・未来という関係を構築している》と同様の論点です。過去こそが時間概念と三時様相分割の基本だと分かります。 また、「それ(過去・現在・未来)はその人にとっての一定の区分でして、時間そのものにおける相互排除性でもないし、断絶でもないような気がしますが」では、主に《今》の無時間性・幅のある《今》を言っていますが、未来から脱線するので、省略します。 「あの世」のような概念から、輪廻転生に脱線していますが、それとは無関係に、未来・「あの世」が「絶対領域」であるという僕の想定・思い込みだけを再度表明しておきます。 No.8、11では、「上記の哲学者(ベルクソンとかフッサール、或いはデリダ)は現在の中に「過去」と「未来」の存在を主張したと思っているんです。と言うことは、現在に過去と未来が含まれていると言う結論になりますが」というのは、過去把持・未来把持さらに差延に至る流れを経て、《今》の無時間性・幅のある《今》を同様に論点としていますが、やはり、未来から脱線するので、省略します。 No.9は、枕詞で使用したマクタガートに固執した論点なので、省略します。
- hosiboshi
- ベストアンサー率9% (15/158)
論理で追及される方もおられるでしょうが、僕は好みません。 しかし、人の中には、超感覚というか、勘というか、特殊な力を備えている性質があります。 そういう感覚、自分の中に、または他人を頼って見つければ、直感的に、未来が存在しているというケースを理解できる場合があります。 しかし論理ではないので、普遍的、一般的に証明がたやすいものではありません。
お礼
そうですね。超感覚では、証明になっていないですからね。未来は、常に夢想に過ぎないという方向に傾いてしまいそうです。
お礼
一般的に、企業の採用人事担当職が、面接で応募者の採用を決定する重要な要素の一つとして、「当社における将来的な貢献度」をその応募者の言葉と行動から、今実感できるかどうかという点があると思います。 「未来に対して自己をプロジェ(投企-投げ入れ)する」その応募者の状況が、その言葉と行動から想像でき、面接者がそれを納得できるかどうかが重要であろうと思われます。 「まだない未来」だけれども、そうなる努力(たとえば資格取得)、資質向上方策の実践、業界や経済情勢などの情報収集・現状認識・応募者独自の判断から、応募者の将来像がイメージできるかどうか次第で、合否が決すると思うわけです。 >《〈絶対〉のもとで夢見る非現実ないし未来》 これが 《迂回路》を含んでいる > ○ 《〈絶対〉 ≫という無根拠≪ のもとで ≫一人ひとりが それぞれ 主観として≪ 夢見る非現実ないし未来》 ☆ と読んでください。 このような《言語ゲーム》としての「未来論」を持つ人物では、採用人事担当職としては、全く、その応募者に魅力を感じません。夢見るだけでは弱すぎます。「所与の絶対的な」模範解答のような借り物を持ち出してもだめです。自分の言葉で語り、自分の能力に対するできるだけ客観的な現状認識に基づき、何ができ何ができないのか、明確に理解した上で、会社や社会にどのように貢献できるのかを熱く語り、「未来に対して自己をプロジェ(投企-投げ入れ)」した将来像がイメージできるような応募者でないと合格にしません。 その意味で、現実味を帯びた未来を熱く語れるかどうかは、その応募者の人間力に通じると思うのです。 そろそろ未来論を総括できる時期が近づいたようです。ここ数日、どのような例示がいいか悩みましたが、分かりやくいものにできたと思います。そして、「未来という想定の確かさ」は現時点(幅のある今)における個々人の言葉と行動・実践の差異によって、それぞれ全く違うと分かりました。自信のない人の未来は、全く確かではないようです。また、根拠のない自信過剰の未来は、完全なる虚構になっていると思います。根拠のある、実行・実践の事実の裏づけのある、未来の想定は、説得力があり、確かなものだと言っていいと思うのでした。これが結論になると思います。長い間、ありがとうございました。