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未来は、存在していると証明できますか

マクタガートのA系列(過去・現在・未来)の三様相のうち、特に、未来という時間概念を論理的に探究する前に、そもそも未来は、存在していると証明できているのでしょうか?と思ってしまいます。僕たちが日常生活している現在とは断絶していて、決して現在の側からはその中に飛び込めない未来という「あの世」のような概念は、語り得ない、記述し得ない、親近感のない、超体験であるがゆえに、つかみどころがないように思うのです。未来という想定の確かさについて、教えてください。

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noname#80116
noname#80116
回答No.66

 No.64です。  かんたんですよ。  ★ 非現実・虚構としての《ゲーム・遊戯・劇》であって、〈絶対〉としての《ゲーム・遊戯・劇》ではないようです。  ☆☆  《〈絶対〉のもとで夢見る非現実ないし未来》  ☆ これが 《迂回路》を含んでいるからです。  ○ 《〈絶対〉 ≫という無根拠≪ のもとで ≫一人ひとりが それぞれ 主観として≪ 夢見る非現実ないし未来》  ☆ と読んでください。そうすれば 次のごとく 各自が それぞれ自由に アンガージュマンをおこなうというのが 基本になっています。  ★ ・・・「所与の絶対的な規範」に基づくのではなく、未来の現実の状況に向けて各自がアンガーシュ(拘束)されている「行為者」「役者」であると読み解く  ☆ ですよね?  ★ 各自が過去を反省し、現在の自己を否定し、未来に対して自己をプロジェ(投企-投げ入れ)する。  ☆ 《自己否定》は 一時 流行りましたが――そして それとして 自省は大事ですが―― この文では 《現在の自己》に対して 《否定》だけをおこなうかに見えますので その点だけが 気になりました。     科学哲学としては こちらは 相変わらずで 進展しませんが 大きく 《言語ゲーム》としての 未来論は その基本が見えて来たようですね。

qsxdrfvgyh
質問者

お礼

一般的に、企業の採用人事担当職が、面接で応募者の採用を決定する重要な要素の一つとして、「当社における将来的な貢献度」をその応募者の言葉と行動から、今実感できるかどうかという点があると思います。 「未来に対して自己をプロジェ(投企-投げ入れ)する」その応募者の状況が、その言葉と行動から想像でき、面接者がそれを納得できるかどうかが重要であろうと思われます。 「まだない未来」だけれども、そうなる努力(たとえば資格取得)、資質向上方策の実践、業界や経済情勢などの情報収集・現状認識・応募者独自の判断から、応募者の将来像がイメージできるかどうか次第で、合否が決すると思うわけです。 >《〈絶対〉のもとで夢見る非現実ないし未来》 これが 《迂回路》を含んでいる > ○ 《〈絶対〉 ≫という無根拠≪ のもとで ≫一人ひとりが それぞれ 主観として≪ 夢見る非現実ないし未来》  ☆ と読んでください。 このような《言語ゲーム》としての「未来論」を持つ人物では、採用人事担当職としては、全く、その応募者に魅力を感じません。夢見るだけでは弱すぎます。「所与の絶対的な」模範解答のような借り物を持ち出してもだめです。自分の言葉で語り、自分の能力に対するできるだけ客観的な現状認識に基づき、何ができ何ができないのか、明確に理解した上で、会社や社会にどのように貢献できるのかを熱く語り、「未来に対して自己をプロジェ(投企-投げ入れ)」した将来像がイメージできるような応募者でないと合格にしません。 その意味で、現実味を帯びた未来を熱く語れるかどうかは、その応募者の人間力に通じると思うのです。 そろそろ未来論を総括できる時期が近づいたようです。ここ数日、どのような例示がいいか悩みましたが、分かりやくいものにできたと思います。そして、「未来という想定の確かさ」は現時点(幅のある今)における個々人の言葉と行動・実践の差異によって、それぞれ全く違うと分かりました。自信のない人の未来は、全く確かではないようです。また、根拠のない自信過剰の未来は、完全なる虚構になっていると思います。根拠のある、実行・実践の事実の裏づけのある、未来の想定は、説得力があり、確かなものだと言っていいと思うのでした。これが結論になると思います。長い間、ありがとうございました。

その他の回答 (72)

回答No.32

 http://en.wikipedia.org/wiki/Yugaにあったのですね。  まぁ、いろいろ便利に為りましたね。そう、大体ご理解・把握されたという意味が理解できました。

qsxdrfvgyh
質問者

お礼

破壊で終わらず、再生があるところが大事で、つまり単なる永続ではないけれども、未来は何度でも秩序を取り戻しながら、生まれてくるとヒンドゥーでは考えられているのですね。未来存続を信仰しているのは分かりましたが、信仰は証明ではないので、納得はしていません。論証でのアプローチがテーマなのです。ただし、古代人が創作した物語としては面白かったです。

回答No.31

 qsxdrfvgyhさん、ANo.22のご補足ですね。  ヒンドゥのユガについての認識や解説も非常に多種類でしてね。  ご紹介申し上げた『聖なる科学』は、私からはパラム・グルのスワミ・シュリ・ユクテスワの著述で大変簡明で新書版より小さく頁も数十ではなかったかと存じます。  私どものすばらしい先達の訳出ではありますが、謙遜なおかたでして、決して出過ぎることなかく、どの訳出やご活動もお名前は出されておりません。理想的な会員です。  ヒンドゥのものに限らず、およそこういう類(たぐい)のものは当為的存在ですから、当為としての根っこと価値理念がないざいしておりますので、その辺のことの把握は必要なことです。  倉田さんや阿部さんを愛読していた、私たちの一世代前の方々はザイン・ゾルレンをマジック・タームのように口にしておられたようですが、私は存在するもので当為でないものはありえないという実感でありますので、このユガはもちろん、そういう観点の認識と境地が要求されている著述だと存じます。  大体お分かりになられたとの、ご補足ですから今、更に何かを付加することは出来ませんが、わからない、納得できない、おかしなことをいうものだという、そういう部分を残されながらの、私には、そういう勉強の方が、まだるっこしくてもいいような気がしております。  機械的、当たり前に、あるから、自然に、という存在というものはないのだというのが私の近年の経験です。  必ず大いなる何かに、そして大いなるそのものを目指しているものと存じます。ザインとゾルレンの分別は不可能であると存じております。

回答No.30

タクシーに乗りたくても止め方が分かりません。 迷子になってしまいます。乗り方を教えて下さい。

qsxdrfvgyh
質問者

お礼

時間の認識の仕方は、とりあえず横に置いて、時間の存在を空間と一体でもいいので、論証するということです。たとえば、光速一定の仮定における、重力場による時間の遅れなどから類推するとかです。

noname#80116
noname#80116
回答No.29

 No.23&24より続きます。  ★ 「意識」とかアウグスティヌス風に言うと「魂」とか「主観」は、必ずしも必要ないのです。  ☆ これは 《時間論》にはです。《存在論》と いくら地続きだからと言って 同じものではありません。また逆に 地続きであれば この《意識・主観》は 時間論にも かかわっているということでなければ おかしいでしょう。  過去としての現在・現在としての現在・未来としての現在は すべて 虚構としての現在を意識する現実に おさまります。精神ということです。過去は 現在における《記憶》に そして 未来は 現在における《期待(予想)》に それぞれ おさまっています。何も問題ありません。  ただし この永遠の現在の見方をもって 科学としての時間論をしているわけではなく また その時間論に取って代えたものでもありません。存在論に 時間論は 吸収されて 生きる。それで さしあたって 支障はない。ただ このことを言おうとしているだけです。  でも これも おおきくは ひとつの時間論をなすであろうという ささやかだが 有効な見方だと思っているわけです。  消極的なかたちながら A系列だけで かまわないという主張です。《かまう》という反論を出しておられるとは思わないわけです。

qsxdrfvgyh
質問者

お礼

>《意識・主観》は 時間論にも かかわっているということでなければ おかしいでしょう。 それは、時間認識論です。時間存在論、特に、未来の探究が主題です。 >精神ということです。過去は 現在における《記憶》に そして 未来は 現在における《期待(予想)》に それぞれ おさまっています。何も問題ありません。 アウグスティヌスの時間認識論では、そのとおりですが、繰り返しますが、時間存在論、特に、未来の探究が主題なのです。

qsxdrfvgyh
質問者

補足

時間認識論ではなく、時間論に戻ってください。

回答No.28

>推移・変化・動性として顕現する時空とは、 まさに、時空は、推移・変化・動性そのものだと思うんですね。、 光も、音も、エネルギーも、変化、動性そのものであって、顕現は観察者がするものになると思うんですね。 真の現在の時空の実相は真っ暗で、そこには光も無く、音もなく何もありません。変化、動性しかありません。 そして、この変化、動性を捉えることが出来るのは、変化、動性を使うものでないと絶対に出来ないのです。 変化、動性を使うもの というやつの説明を試みると。 A時刻からB時刻までの変化の差分は、その後の、C時刻からD時刻までの差分を用いて顕現されるということになります。 A時刻からB時刻はもはや記憶(広義)にあって、C時刻からD時刻は、記憶の呼び出し、顕現のための処理作業にあたります。 顕現は、真の現在においては、することが出来ません。A時刻、B時刻、C時刻、D時刻が既にそこには無いからです。 我々は、あまりに簡単に、極自然にこの顕現させるという驚異的能力を持っているのだと思うんですね。 蛇足かもしれませんが、 観察するときにだけ顕現する・・・それでは、観察していないときは何も無いのか・・・と言うような話ではなくて、 我々が顕現しているところの事象は、そのままの形で真の現在側に 存在するのではないと言うことです。

qsxdrfvgyh
質問者

お礼

認識を超えて、観察者ではなく、時間存在論の視点で探究してください。

qsxdrfvgyh
質問者

補足

時間認識論ではなく、時間論に戻ってください。

回答No.27

観察者についてです。 1秒はセシウム133原子(133Cs)の基底状態にある二つの超微細準位間の遷移に対応する放射の 9,192,631,770(約100億)周期にかかる時間 であるから、客観的に時空の特性として、推移・変化・動性が作用していることに異議はありません。 だからといって、1秒という<時間>そのものが存在することにはならないと思うんですね。 だって、1秒という時間が入る入れ物が真の現在側には無いじゃありませんか。 この入れ物を持っているのは観察者側だと思いますけどね。

qsxdrfvgyh
質問者

お礼

>客観的に時空の特性として、推移・変化・動性が作用していることに異議はありません。 この点も共通認識にできたことは、また成果です。 >1秒という<時間>そのものが存在することにはならないと思うんですね。だって、1秒という時間が入る入れ物が真の現在側には無いじゃありませんか。この入れ物を持っているのは観察者側だと思いますけどね。 「時間の入れ物を持つ観察者」という設定が、分からないのです。時空一如だとだめですか。観察者はいらないでしょう。推移・変化・動性として顕現する時空とは、時間と空間が一如の状態で、展開するだけで、観察者は、傍観者に過ぎないというイメージなのですが・・・。

noname#80116
noname#80116
回答No.26

 No.17&20&23&24です。   前回(No.23のほう)は 批判のコメントをいただきましたが その内容ともども 両方が 成り立つと考えます。  というのも わたしのほうは 未来論は 現在過程に吸収されるという前提で そのあとの問題を述べていたからです。言いかえると 永遠の現在の議論は じっさいには 存在論なのです。  そうして qsxdrfvgyhさんのコメントは 時間論としての 現在観への批判なのでした。  ★ 時間の本性は、「存在し続ける不変とは真逆の性質」で「次々と生まれ、かつ次々と存在しなくなる(消える)動性」から、あたかも瞬間的な現在だけが存在し続けていると勘違い(錯覚)されているけれども、瞬間的な現在という想定自体が虚構なので、結局何も確かな存在・実在などないと言えそうです。  ☆ この時間論を 存在論として 読み替えるということは 《意識》があれば いいわけです。意識が 現実なわけです。意識された現実というわけです。これを 論理的にではなく 文学的に 永遠の現在という地点まで 持っていこうという主観の問題です。    もっと言えば 時間論は なんのために 展開するか という問題意識だと考えます。存在論に吸収されてこそ 生きてくるのではないか。言いかえれば むしろ《虚構》としての現在過程(つまりそれとしての存在過程)のほうに 現実があるのではないか。こういう志向で やはり います。  これ以上 主観をごり押してはいけないのですが そういう見方も あるのではないでしょうか? ささやかな投稿なのでした。いかがでしょう?

qsxdrfvgyh
質問者

お礼

存在論も時間論も地続きだと思うのです。別物ではなく、相互に関係しあっていると思います。つまり、隔絶していないでしょう。「意識」とかアウグスティヌス風に言うと「魂」とか「主観」は、必ずしも必要ないのです。 「永遠の現在」の最大の欠点は、そこからは、《虚構》としての過去も未来も導き出されないという点です。現在とは、別のところから持ちよることになる点です。「まだない未来」・「今ある現在」・「もうない過去」のA系列まるごと「それぞれ自立的な確かな存在・実在ではない」という現れ方で、同列に扱うべきものであり、永遠・不変の片鱗を「現在」だけに認めてはならないというのが、現代時間論の方向性だと思うのです。「意識」とか「魂」とか「主観」とかで、誤魔化してはいけません。それらを持ち出さなくても、探究できるのです。

回答No.25

ANo.21は全く幅のない<今>において、他の永遠が経過します。 は、 全く幅のない真の現在において、他の永遠が経過します。 に訂正します。失礼しました。 移動しているAと静止しているBでは、Aの方が時間が遅れます。 Bの数十年は、Aの1秒に相当する関係があり得ますね。 この宇宙では、Aが時間的に停止していても、Bが永遠(宇宙発生から消滅まで)である関係も成り立ちます。 >知覚も実感もなく、人類滅亡後も、時間は淡々と経過していくでしょう。 今の人間の物差しを想定した未来に当てはめればその通りでしょう。 しかし、観察者が消失した後に時間はありません。 基準、物差しが無く、事象の差分を峻別する記憶、記録がないからです。それでもなお時間なるものが経過するとする観察者は誰でしょう。 なおも我々観察側ですね。 時間は、観察者が、差分のあるところ(時間のあることろ)からしか観察することは絶対に出来ません。逆にいうと時間なるものは、観察者が物差し(記憶)を持っているから初めて成立します。 <今>は真の「現在」が違うところに断絶があって、<今>は幅のあるちょっと前の過去ですから、過去と断絶しているとは言えなくなってしまってます。 ><今>は、幅があるのですか、ないのですか。<今>は過去の一形態なのでしょう。現在とも未来とも、同時性は無いでしょう。つまり、断絶しているでしょう。 真の現在には幅がありません。人間が知覚する<今>には、幅があります。過去、未来と真の現在は断絶しています。真の現在は、<今> とも断絶しています。したがって、真の現在は、過去、<今>、未来と断絶しています。 時間、差分、今、現在等、意味の違うものを同じ言語で表しているので ややこしくなってしまいましたね。

qsxdrfvgyh
質問者

お礼

時間の特性である「推移・変化・動性」も最終的には、錯覚として処理されるでしょう。

qsxdrfvgyh
質問者

補足

>観察者が消失した後に時間はありません。 時間は、観察者に拘束されるものではないと思います。時空の特性として、推移・変化・動性が作用しているだけでしょう。観察者などどうでもいいのです。 >真の現在には幅がありません。人間が知覚する<今>には、幅があります。過去、未来と真の現在は断絶しています。真の現在は、<今> とも断絶しています。したがって、真の現在は、過去、<今>、未来と断絶しています。 時間の各様相間の「断絶性」を認めていただけたのは、成果でした。共通の土台を一つ築けたと思います。

noname#80116
noname#80116
回答No.24

 No.17&20&23です。    信仰のことに話が及んでいて どこまで触れていいものか 戸惑っていますが 次のことを ただちに補足しておくと まちがいがないだろうと考えました。  まづ 引用です。その文章(文字)のとおりには わたしが これまで言って来ていませんというおことわりです。  ▲ (ヨハネ福音6:34-40)~~~~~~~~  そこで かれらが 《主よ そのパンをいつもわたしたちにください》と言うと イエスは答えた。   ――わたしがその生命のパンである。わたしのもとに来る人は 決    して飢えることがなく わたしを信じる人は もはや決して渇く    ことがない。     しかし 前にも言ったように あなたたちはわたしを見ている    のに 信じない。父がわたしにお与えになる人はみな わたしの    ところに来る。わたしのもとに来る人を わたしは決して追い出    さない。     わたしが天から降って来たのは 自分の意志ではなく わたし    をお遣わしになった方の意志を行なうためである。     わたしをお遣わしになった方の意志とは わたしにお与えにな    った人を一人も失わないで 《終わりの日》に復活させることで    ある。     わたしの父の意志は 子を見て信じる人がみな永遠の生命を受    け わたしがその人を《終わりの日》に復活させることだからで    ある。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ わたしは この《最後の審判》とも言われる《終わりの日》について 死後ないし未来ないし終末にかんする議論として捉えることをしなくなっています。そうではなく いま現在の問題として 捉えています。  きわめて横着に 《終わりから始める》ことをしています。根拠はありません。信仰という無根拠です。  ですから 他のいわゆる宗教についても そうでしょうが キリスト信仰についても ほかの方々の見解を 広く 参照されるとよいと思います。わたし自身 そういう目的をもって これまで質問をしてきたつもりですが。  変な老婆心でした。

qsxdrfvgyh
質問者

補足

永遠(不変)の実時間の現在という確実な存在性を想定してはいけないと思うのです。「虚時間たる現在」ならば、想定してもいいとは、思うのですが。

noname#80116
noname#80116
回答No.23

 No.17&20です。  《永遠の現在》は 信仰にもとづく思想(生活態度)ですから 信仰を抜きにすれば 意味がない概念です。時間論あるいは存在論をめぐる科学的営為そのものではありません。しかも それは 一般的に捉えれば 妄想であり 夢のたぐいです。さらにしかも たしかに アウグスティヌスが 《永遠の現在》という言葉そのままを使っていたかどうか いま記憶が定かではありません。  《永遠の生命》(たとえばヨハネ福音3:14――《〔はりつけになるのは〕 信じる人が皆 〈人の子〉によって永遠の生命を受けるためである》――)と そして あなたが触れてくださったかれの《現在》観――未来も過去も現在も 現在に還元する時間観――とを合わせれば 物語(虚構)として 永遠の現在という志向性を持った生活態度は 帰結されます。  真理(神)が無限なる永遠に関係づけられるように 信仰が有限の時間にかかわっています。  真理に飲み込まれたときには 信仰 つまり われわれが信じるというその心における志向性である限りで経験的・可変的なおこない これは 消えてなくなります。信じているその対象(=じつは 表象し得ぬ対象ゆえ 非対象である。つまり 真理)は それが すべてにおいて すべてであるなら そこにおいて わたしたちは もはや 信じる必要はないからです。見えているからです。  そうして このような永遠の現在という見方は 未来を 未来としての現在に還元した結果の時間ではなくて 微妙に違ってそうではなくて すでにこの今――《つねに ない方向へ向かうこの今》の 断続的にして そのつどの心の伸びかつ自覚としての持続――において 真理=神に わたしたちが 触れられているというまぼろしの現実です。  《〈不在なものの現在〉を意識する〈わたし〉》 《〈非在なるものの現在過程〉に生きる〈わたし〉》 これが 永遠の現在です。  ここに 未来論も含まれるというのが わたしの見解であり 回答です。

qsxdrfvgyh
質問者

お礼

>《現在》観――未来も過去も現在も 現在に還元する時間観――とを合わせれば 物語(虚構)として 永遠の現在という志向性を持った生活態度は 帰結されます。 《つねに ない方向へ向かうこの今》〈不在なものの現在〉〈非在なるものの現在過程〉という現在も非存在・非実在であり、もちろん、過去も未来も非存在・非実在であり、時間は虚構かもしれないという結論でいいと思います。時間の本性は、「存在し続ける不変とは真逆の性質」で「次々と生まれ、かつ次々と存在しなくなる(消える)動性」から、あたかも瞬間的な現在だけが存在し続けていると勘違い(錯覚)されているけれども、瞬間的な現在という想定自体が虚構なので、結局何も確かな存在・実在などないと言えそうです。幅のある<今>感覚も錯覚でいいと思います。空観に基づく時間論になります。つまり、我々は、ある慣性系に属しているので、そこの縁起現象内に生きているだけで、その慣性系の消滅と運命を共にするだろうという予測も持ちます。そのとき、別の慣性系群では、別の時間が流れ続けて(同時性の崩壊、宇宙均一時間の否定)、それぞれの実時間が消滅し、虚時間だけが永遠に残るという予測です。永遠なのは、虚時間のみという虚空性の無限持続を想定します。そういう妄想です。いかがでしょうか。

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