スコラ派は、全能の神が作った世界は当然のこと遍く無矛盾なものに違いない、と考えた訳です。と、なればその大前提となる神の存在を証明せねば、世界の無矛盾性をいくら説いても無意味ということになるからです。
とはいえ、神の存在を客観的に証明する手法がいまだ存在しない(神秘主義的に「オレ、神とダチだもんね」ってのは別ですけど)ので、必至に傍証をちまちまちまちまと論理的に組みあげることによって神の輪郭を浮かびあがらせようとしたわけです。で──、皮肉なことにこの手法は近代科学にひきつがれてしまったんですけど。また、論理学や哲学や社会科学なんかもスコラ派の末裔といってもいいのかもしれません。
そんな訳で『薔薇の名前』で、無矛盾の権化である神の子が論理の綻びによって産まれる『笑い』と神との関係に対する解釈が、物語を破局へと導いてゆくように、キリスト教世界(一神教世界としてもいいかもしれませんが)には、スコラ派的な世界の無矛盾性に対する強迫観念が今もなお根強く残っているように思われます。そんな訳で、ゲーデルとか量子論や精神分析や進化論は西洋的知性には大きな衝撃を与えた訳なんです。
とはいえ、多神教-精霊信仰(このどちらもふざける神様がでてくるトコが重要)が混交した感じの日本人にとっては、神-世界の無矛盾性なんていわれてもなんだかぴんとこないってのが正直なところですけど。
お礼
じっくりと考えさせていただきました。 大変参考になりました。 ありがとうございました。