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神風特攻隊は全部で何機くらい飛んだのか? 生存者は?

大東亜戦争?だと思うのですが、日本が神風特攻隊を使って攻撃をしましたよね。あれは250キロの爆弾を載せて相手の空母へ突っ込むということが書いてありましたが、この件に関して質問です。 1.全機体(神風特攻隊の)そうだったのですが? あと、全部で何機くらい突っ込み、初めてこの戦争で神風特攻隊を出動させてから何日くらい飛ばし続けたのですか? 2. この戦争自体はとても短かったのですよね?? 特攻隊で突っ込んでも生存者はいたのですか? 3.神風特攻隊の乗っていた機体は軽かったから重い爆弾を積んでも飛べたというようなことを知りましたが、この機体は零せんとは関係ないんですか?

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  • KITAIKKI
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回答No.6

1、 神風特別攻撃隊と名が付く部隊はすべてアメリカ艦隊への体当たりを目的としたものです。攻撃隊の正確な機数はいまでも若干のずれがあるのですが(神風以前以後にも米艦隊攻撃時、被弾した機体で体当たりを行った海軍機があったことも関係しています)、神風特攻隊では1298機前後というのが現在ある程度固定された概念です。他に陸軍特攻隊(これは神風特攻隊ではありません)が出動しており、これも正確な機数は確定してはいませんが、1185機という数字が有力視されています。  日数はということですが、昭和19年10月25日から昭和20年8月15日の5航空艦隊長官宇垣纏中将自らの特攻までということになります。ただしこの間常に出撃していたということではなく、太平洋上の島嶼侵攻を行う米軍を目標にした単発的な攻撃が主で、集中的かつ大規模な特攻作戦が行われたのは沖縄戦で、陸海軍特攻隊ともここで全損耗機の8割から9割前後を失っています。 2、「この戦争」というのが特攻作戦という意味でしたら、前述のように1年間弱でしたので短いということになります。もし太平洋戦争全般のことでしたら、開戦から終戦まで約3年8ヶ月続いていますので、短い戦争とは言えないかと思います。  また最終的に目標に突入段階までこぎつけられた者で生還したものはいません。出撃途中で機体のトラブルや天候不良、さらには目標を発見できずに基地へ戻った者は多数に上ります。 3、軽かったから重い爆弾を積まれたということですが、当時の航空機は軽い機体イコール非力なエンジンを搭載していたということになりますので、重い爆弾を積んで何とか離陸できたとしてもその速度は時速200キロにも満たない超低速しか発揮できませんでした。  宇垣司令官はその日記に、米海軍の駆逐艦が艦隊司令官に「時速85ノット(約160キロ)の特攻機に追いかけられている」と報告しているのを傍受した日本の司令部が、「駆逐艦が特攻機を追いかけているのだろう」と苦笑した、と書いているほどです。  もっともこの機体は零戦であるはずもなく、末期に使用された水上機や練習機、さらには時代遅れの複葉機を指しています。そんな機体をあてがわれたパイロットたちは、零戦や他のまともな戦闘機に乗って特攻に行けるパイロットをかなり羨ましがったそうです。  

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  • jayoosan
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回答No.5

ちなみに生存者の証言によると、機体の故障で飛ばなかったのはもちろん、死にたくないがために理由をみつけて飛ばないように工作していた人もいたようです。 ただまじめというか当時の日本らしく、飛ばなかったら飛ばなかったでしっかり軍へ戻って(出頭して)おり、出発前のもとの兵舎まで送還されたそうです。 すると、意外に生きたままもどっているものが多く「おまえもか」とそれぞれの思いを語り合ったそうです。

  • k16399638
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回答No.4

1)神風特別攻撃隊だけなら、24機です。これは海軍のなかでも賛否両論があって、特攻はする、ただしする隊員に厳しいハードルを設定して、通常作戦とならないように、と折衷案がとられ、原則独身、軍歴の立派なもの、と選定していき、昭和19年10月21日に決行。悪天候などもあってこの24機は数度に渡って出撃します。この最初の特攻が敵艦5隻をしずめる戦果をあげたので、なし崩し的に陸軍も、海軍全体も特攻を日常的戦術にしはじめ、昭和20年8月15日まで続けてしまうことになりました。 2)1年未満しか特攻作戦は行われませんでした。太平洋戦争が大陸もカウントすると15年だと思えば、短いのかもしれません。飛行機の故障などで帰って来て死なないですんだ人はいましたが、突っ込んで生き残った人はいません。 3)あらゆる飛行機をつかいましたから、250積めないのも、爆撃機で800キロ積んだのもいます。零戦は基本的に250キロ積んでいました。陸上から発進するので、滑走距離が長くとれたからです。 蛇足 ・特攻を邪道だと拒否した部隊もあります。 ・燃料は満タンいれていきました。敵を発見できなくて帰る、敵を探す、レーダーに見つからないよう低いところを飛ぶ(これは燃料を多く消費します)、などの理由からです。 ・命中しても、実はあまり効果がありません。爆弾たたきつけて装甲板破るのではなく、ぶつかるのが飛行機という風船のようなものに爆弾吊って低スピードなのですから、甲板で爆発しても中はなんともないことが多かったようです。沈没した正規軍艦はありません。が、大損害だした船もあり、やられるアメリカ側に理解不能の恐怖感を与え、本来沖縄の近くで作戦するはずの軍艦のかなりが、飛行機のとどかないところに退避する羽目になりました。ノイローゼになる兵士が続出したと言います。 ・アメリカも、イギリスも、助からないとなったら敵に体当たりして道連れ、ということはありました。またナチス・ドイツ空軍には神風に影響されエルベ特攻隊というものを組織して、爆弾落としにくるアメリカの爆撃機に突っ込ませる作戦を企画した人物がいました。が、ヒトラーが難色を示しパラシュート脱出可、機関銃で戦い、体当たりは最後の手段として、一回出撃したのですが、戦果が上がらないので初回で中止になりました。 ・米軍は日本の飛行機に、ニックネームをつけ、それを公式文書にも使っていました。零戦は中国大陸で存在が確認された段階でZeak(ジーク)と名前がつき、後に捕虜の供述からZeroとなります。 戦闘機・偵察機・飛行艇:男性名 爆撃機・単発水上機:女性名 輸送機:頭文字がT 練習機:木の名前 グライダー:小鳥の名前 ABDUL, 三菱 97 式戦闘機, 架空 想像された 96 戦の発展型 ADAM, 中島 97 式複座水上戦闘機, 架空 ALF, 川西 97 式水上偵察機, 水冷・空冷とも同じコードネーム ANN, 三菱 97 式軽爆撃機 キ-30 BABS, 三菱 97 式司令部偵察機 キ-15 BAKA, 空技廠 MXY-7 特殊攻撃機 桜花 BELLE, 川西 90 式 2 号飛行艇 H3K1 BEN, 名古屋戦闘機 001 式艦上戦闘機, 架空 零戦の誤認? BESS, 中島 98 式陸上攻撃機, 架空 He111 のライセンス生産を想定 BETTY, 三菱 1 式陸上攻撃機 G4M BOB, 愛知 97 式水上偵察機 E2N BUZZARD, 国際ク-7 グライダー CEDAR, 立川 95 式初等練習機 キ-17 CHERRY, 空技廠 99 式中型飛行艇 H5Y CLARA, 立川 試作司令部偵察機 キ-70 CLAUDE, 三菱 96 式艦上戦闘機 A5M CLINT, 中島 97 式戦闘機キ-27, のち NATE に統合 CYPRESS, 九州 2 式初等練習機 K9W1, Bu131 ユングマンのライセンス生産 CYPRESS, 国際 4 式初等練習機 キ-86, Bu131 ユングマンのライセンス生産 DAVE, 中島 95 式水上偵察機 E8N DICK, セバスキーS式 A8V, 2PA-B3 の輸入 DINAH, 三菱 100 式司令部偵察機 キ-46 DOC, メッサーシュミット Bf110, 架空 ライセンス生産を想定 DORIS, 短鼻の双発中型爆撃機, 架空 フィアット BR.20 の誤認? DOT, 中島 1 式急降下爆撃機, 架空 彗星の陸軍型を想定? EDNA, 満州 試作 襲撃機 キ-71 EMILY, 川西 2 式大型飛行艇 H8K EVE, 三菱「鳳」連絡機, 民間機の軽爆型を想定 FRANCES, 空技廠「銀河」陸上爆撃機 P1Y FRANK, 中島 4 式戦闘機 キ-84 FRED, フォッケウルフ Fw190A, ライセンス生産を想定 GANDER, 国際 4 式グライダー ク-8 GEORGE, 川西「紫電」N1K-J GLEN, 空技廠 0 式小型水上偵察機 GOOSE, 国際 4 式グライダー ク-8, グラマン・グースとの誤認を避けるため GANDER に改名 GRACE, 愛知「流星」艦爆 B7A GUS, 中島 AT27 双発戦闘機, 架空 航空雑誌の夢欄を実在機と誤認 GWEN, 中島 0 式重爆, 97 重爆 II 型を新型機と誤認 HAMP, 三菱 0 式戦闘機, 零戦 32 型を新型機と誤認 HANK, 愛知 96 式飛行艇 E10A HARRY, 三菱 0 式双発戦闘機, 架空 空冷串型双発の機体(立川キ-94 に似ている) HELEN, 中島 100 式重爆 キ-49 HICKORY, 立川 1 式高等練習機 キ-54 IDA, 立川 98 式直協機 キ-36 IONE, 愛知 98 式水上爆撃機, 架空 空冷3発の双フロート機 IRENE, ユンカース Ju87, ライセンス生産を想定 IRVING, 中島「月光」夜間戦闘機 J1N JACK, 三菱「雷電」局地戦闘機 J2M JAKE, 愛知 0 式三座水上偵察機 E13A JANE, 三菱 99 式重爆撃機, のち SALLY に統合 JANICE, ユンカース Ju88, ライセンス生産を想定 JEAN, 空技廠 96 式艦上攻撃機 B4Y JERRY, ハインケル He112 A7H, ライセンス生産を想定 JILL, 中島「天山」艦上攻撃機 B6N JIM, 中島 1 式戦闘機 キ-43, のち OSCAR に統合 JOAN, 99 式大型飛行艇, 架空 97 大艇と 99 中艇の情報が混同? JOE, TK-19 単座戦闘機, 架空 航空雑誌の夢欄を実在機と誤認 JOHN, 中島 2 式単座戦闘機 キ-44, のち Tojo に統合 JOYICE, 中島 1 式双発軽爆撃機, 架空 JUDY, 空技廠「彗星」艦爆 D4Y JULIA, 川崎 97 式重爆撃機, 架空 99 軽爆の情報を重爆と誤認? JUNE, 愛知 99 式水上爆撃機, 架空 99 艦爆の水上型を想定 KATE, 中島 97 式艦上攻撃機 B5N LAURA, 愛知 98 式水上偵察機 E11A LILY, 川崎 99 式双発軽爆撃機 キ-48 LIZ, 中島「深山」陸上攻撃機 G5N LORNA, 九州飛行機「東海」対潜哨戒機 Q1W LOUISE, 三菱 93 式双発軽爆撃機 LUKE, 三菱「閃電」局地戦闘機 J4M, MABEL, 中島 97 式 2 号艦上攻撃機 B5M MAISIE, 双発中型爆撃機, 架空 正体不明 MARY, 川崎 98 式軽爆撃機 キ-32 MAVIS, 川西 97 式大型飛行艇 H6K MIKE, メッサーシュミット Bf109, ライセンス生産を想定 MILLIE, 昭和 98 式軽爆撃機, ヴァルティ V-11 のコピー生産を想定 MYRT, 中島「彩雲」艦上偵察機 C6N NATE, 中島 97 式戦闘機 キ-27 NELL, 三菱 96 式陸上攻撃機 G3M NICK, 川崎 2 式複座戦闘機 キ-45 NORM, 川西「紫雲」水上偵察機 E15K NORMA, 三菱 97 式双発軽爆撃機, 架空 正体不明 「Darai 108」という謎の型番を持つ OAK, 九州飛行機 2 式高等練習機 K10W OMAR, 涼風 20 双発単座戦闘機, 架空 航空雑誌の夢欄を実在機と誤認 OSCAR, 中島 1 式戦闘機「隼」キ-43 PATSY, 立川 試作長距離爆撃機 キ-74 PAUL, 愛知「瑞雲」水上爆撃機 E16A PEGGY, 三菱 4 式重爆「飛龍」キ-67 PERRY, 川崎 95 式戦闘機 キ-10 PETE, 三菱 0 式水上観測機 F1M PINE, 三菱 90 式機上作業練習機 K3M RANDY, 川崎 試作複座戦闘機 キ-102 RAY, 三菱 0 式艦上戦闘機 A6M REX, 川西「強風」水上戦闘機 N1K RITA, 中島「連山」陸上攻撃機 G8N ROB, 川崎 試作戦闘機 キ-64 RUFE, 中島 2 式水上戦闘機 A6M-N RUTH, フィアット BR.20 イ式重爆撃機 SALLY, 三菱 97 式重爆撃機 SAM, 三菱「烈風」艦上戦闘機 A7M SANDY, 三菱 96 式艦上戦闘機 A6M, のち CLAUDE に統合 SLIM, 渡辺 96 式小型水上偵察機 E9W SONIA, 三菱 99 式襲撃機 キ-51 SPRUCE, 立川 95 式中間練習機 キ-9 STELLA, 国際 3 式指揮連絡機 キ-76 STEVE, 三菱 試作戦闘機 キ-73, 架空 H 型 24 気筒 2600hp エンジンを持つ高速戦闘機 SUSIE, 愛知 96 式艦上爆撃機 D1A TABBY, ダグラス 0 式輸送機 L2D TESS, 中島 DC-2 輸送機 THALIA, 川崎 1 式輸送機 キ-56 THELMA, 川崎ロ式輸送機, 軍用型 THERESA, 国際 1 式輸送機 キ-59 THORA, 中島 97 式輸送機 キ-34 TILLIE, 空技廠 試作中型飛行艇 H7Y TINA, 三菱 96 式輸送機 L3Y TOBY, 川崎ロ式輸送機, 民間型 TOJO, 中島 2 式単座戦闘機「鍾馗」 キ-44 TONY, 川崎 3 式戦闘機「飛燕」 キ-61 TOPSY, 三菱 100 式輸送機 キ-57 TOPSY, 三菱 0 式輸送機 L4M TRIXIE, ユンカース Ju52/3m, ライセンス生産を想定 TRUDY, フォッケウルフ Fw200, ライセンス生産を想定 VAL, 愛知 99 式艦上爆撃機 D3A WILLOW, 空技廠 93 式中間練習機 K5Y ZEKE, 三菱 0 式艦上戦闘機 A6M

noname#68940
noname#68940
回答No.3

1の質問に解答いたします  基本、練習機から、偵察機まで使用しました特攻に出撃した総数は、海軍航空隊で1298機、陸軍航空隊で、1184機くらいです 何日かと言われると、神風(しんぷう)特別挺身隊自体は、米軍のレイテ島上陸作戦で行われており詳しくは、わかりません ※かみかぜではなく、作戦当初はしんぷうと呼ばれていました、かみかぜと呼ばれるようになったのは、ニュース映画で、かみかぜと呼ばれたため 2の質問にお答えします 突っ込んでの生存者はいません 3の質問は 零戦とは、海軍の戦闘機(零式艦上戦闘機)のことです。 確かに零戦は、軽量で高速でしたが、エンジンの馬力はあまり無かったために250キロでも離陸するのにかなりの滑走距離が必要でした なので、恐らく他の機体と思います

  • oyaoya65
  • ベストアンサー率48% (846/1728)
回答No.2

1.色々な機体の寄せ集めです。戦争末期の1944年10月の時期には敗戦色が強く、日本軍の優秀なゼロ戦の殆どは失われていましたから、そんなに優秀な飛行機はなく、無防備な軽量化(飛行士を守る厚手の鉄板を取り外した)を図って引退飛行機も寄せ集め数だけそろえては数機から10数機の編隊を組んで目測飛行で飛び立っていったという事です。飛行訓練も数ヶ月のにわかパイロットの編隊で出撃され、目的地に辿り着く前に行き先を見失う飛行機もかなりいたそうです。 2.神風特攻隊は1944.10から終戦1945.8まで続きました。 http://www.geocities.jp/torikai007/1945/tokkou.html 私の叔父も少年航空隊に志願し、九州鹿児島の知覧飛行場からゼロ戦に乗って東シナ海の米国の軍艦に体当たりして戦死しました。知覧の特攻隊の戦死者を祀った特攻博物館に遺影が飾られています。僕も慰霊祭に出席して来ました。知覧町は今は合併して南九州市となって慰霊祭の様子のパンフレットが来ました。非常に沢山の人が特攻に参加して亡くなっています。特攻隊も1944.10から1945.8までに数十回にわたり数機から20機程度の編隊を組んで出撃して言ったそうで、飛行機も終戦末期で中古機や現役を退いた飛行機を修理したものも沢山あったそうです。特に終戦末期ほど故障する飛行機も結構あり途中で引き返してきた飛行機も合ったそうです。途中で海に不時着して沈んだ飛行機や、島に不時着した飛行機もあったそうです。250kgもの爆弾を搭載して、敵の軍艦のいる海域までの燃料しか積ます、機銃もはずしできるだけ多くの爆弾を搭載して出撃していったとのことです。 当然、戦場の海域まで故障や不時着で辿り着けなった特攻隊兵は再度特攻隊の編隊に組み込まれ出撃させられたそうです。でも不時着で負傷したり恐怖で精神的におかしくなって戦意を失ってしまった特攻兵もかなりでて、九州の一箇所に集められ、監禁されて終戦まで収容されていたそうです。神風特攻隊の飛行士は祖国のため敵の軍艦に体当たりして戦死するのが使命で、生きて帰ってくるのは日本軍人として恥ずべき行為とされ、特攻兵が生き残る事が許されていなかったため、特定の場所に犯罪人のように収容されて故郷に帰ることも許されなかったということです。 性能の劣化した現役を退いた飛行機を集めて特攻機に仕立てて、天皇陛下の下された戦闘機という事でそういった飛行機に積めるだけ爆弾を積み、機銃も帰りの燃料も下し、飛行士を守る機体の鉄板も付けないで、日本の国民を守る為(日本軍は天皇陛下のための出撃としていましたが)出撃して戦死していきました。 3.特攻機が軽かったのではなく、爆弾を最大限に積む為に機銃もはずし、飛行士の周囲を守る敵の機銃よけの厚手の鉄板も取り外したそうです。敵の戦闘機からは、ゼロ戦に機銃はあたると飛行士がなくなったり燃料タンクも貫通しすぐ炎をあげて墜落・炎上して行ったとの戦後の米軍からの話です(米戦闘機は、飛行士の周りやエンジンの回りなど厚い鉄板で作られて、攻撃用の機銃も積んでいたそうです。)。日本の戦闘機は全て、胴体と翼に赤く塗り潰した丸を白い線で周囲を囲ってあったそうです。日本の日の丸の真ん中の赤丸を現すマークですね。それを数字のゼロと見なしてゼロ戦の呼んでいたわけです。つまり日本の戦闘機は全てゼロ戦ということです。実際は色々な形式の戦闘機の種類があり、それぞれ正式名称が付けられていました。 もし興味がおありなら、鹿児島県の南九州市の特攻記念館にいって見てください。戦死者の遺書や遺品や写真や家族とやり取りして手紙や寄せ書きなどを集められ展示されています。出撃して行ったゼロ戦の原寸大の機体や機体のエンジンなどの陳列や、色々な機体の種類の性能や特徴など資料や解説が展示されています。直ぐ隣には特攻兵を祀った慰霊碑や社があります。

回答No.1

1)単発機は250キロ爆弾ですが戦局が悪化した昭和20年は500  キロ爆弾を搭載しました。   双発の爆撃機は1トンや重爆飛龍は2トンの爆装していたそうで   す。(靖国神社で元隊員に聞きました)   突入しての成功例は全体の5%だそうです。   昭和19年の10月から敗戦の昭和20年8月15日まで続きまし  た。 2)近代戦争で4年は長いですよ。   特攻隊で突入後の生存者はいないそうです。   ただ突入前に撃墜された飛行機の搭乗員での生存者はいます。 3)重い爆弾を搭載したら動きが悪くなり敵の集中砲火を浴びて撃墜さ  れますよ。   実際戦争末期は敵の標的になったそうです。 一度靖国神社に行って元隊員たちの話しを聞いたらいいと思いますよ。今の平和はこの人たちのおかげですから。