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大東亜戦争について

大東亜戦争についてご質問があるので宜しくお願い致します。 終戦の1週間ほど前から日本は降伏するとわかっていたと本で読みました。 それなら何故、神風特攻隊など必ず死ぬと分かっているのに、終戦日の8月15日まで特攻はあったのでしょうか?(やらせたのでしょうか?)

質問者が選んだベストアンサー

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  • harara321
  • ベストアンサー率22% (20/89)
回答No.3

前線では海外のラジオを傍受し、 和平交渉が行われている事を知っていたのですが、 大本営は、 和平交渉はまだ確定したものではないから、正式な停戦命令は出さず、 「国体の護持と皇土の保衛のため」最後まで戦えと命令していたそうです。 また、降伏する事に納得出来なかったり、仲間が死んだのに自分だけ生き残っては申し訳ないという気持ちから、自ら特攻した人もいるようです。 以前、何かの本で読みました。(何の本か思い出せません。すいません。)

その他の回答 (9)

  • been
  • ベストアンサー率39% (490/1243)
回答No.10

一身を捧げて国に尽すこと(必ずしも「死」を意味しない)は疑う余地のない義挙であり、正義の発露です。しかし、特攻については、当時でさえ「統率の外道」という批判がありました。軍人が命をかけて戦うことは当然ですが、絶対に生還できない特攻は正常な軍事作戦とはいえないからです。このため特攻は、命令で強制されるものではなく、本人が志願して参加するものでした。 また、特攻隊は、軍令に基づく正規の編制部隊ではなく、臨時に編成される集成部隊でした。特攻隊を正規に編制してしまえば、個人の意思の如何に拘らず、命令によって隊員を充足しなければなりません。これでは趣旨が違ってしまいます。 特攻に散った若者たちは、未曾有の国難に際し個人として実行可能な最大限の貢献を国家に捧げることを望み、個人の信念を貫いて出撃していきました。軍事的意義や効果はもはや問題ではなく、自分にできる最大限の貢献をするかしないかという、人間としての価値観、人生観の問題だったのです。特攻隊員の人生観に同感できないとしても、彼らの純粋さは認めるべきでしょう。 蛇足ながら、国家のために一身を捧げる(死ぬという意味ではない)ことは立派な行為であるという価値観は、今日においても世界に通用する常識的な価値観です。追い詰められた日本で激発した特攻隊員の至情は、この価値観の究極の姿といえるでしょう。

  • yuhkoh
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回答No.9

 戦争の終結と戦闘の停止は別物です。  昭和20年8月15日はポツダム宣言受諾を軍・国民に伝達した日、陸海軍への武装解除は翌16日。日本が連合国に正式に降伏したのは同年9月2日です。  そして、国際法上での正式な終戦は昭和27年4月28日の平和条約(通称「サンフランシスコ条約」)が発効された日です。ただしソ連など同条約を調印していなかった国とは、相手国と単独条約を結ぶまでは戦争状態が続いていたことになります。  ですから現在、8月15日を「終戦記念日」としていますが、これは「戦歿者を追悼し平和を祈念する日」というだけであって、外交上の終戦とは全く関係のない日です。  

  • Scull
  • ベストアンサー率26% (248/951)
回答No.8

沖縄についてふれられていないので。 沖縄においても9月中旬まで戦闘が続行されました。決して帝国軍全軍が15日に戦闘停止した訳ではありません。 戦闘が激しければ激しいほど、命令の伝達も行いにくい訳ですから有る程度やむを得ないのかもしれませんが・・・。

  • buchi-dog
  • ベストアンサー率42% (757/1772)
回答No.7

日本側からの軍事行動については、No6の方の回答の通りです。 アメリカやイギリスなどのまっとうな国は、8月15日正午以降は日本への攻撃を停止しました。その後、日本軍の降伏・武装解除は問題なく進みました。 一方、樺太や千島におけるソ連軍との戦闘は、8月16日以降に激化します。 降伏命令を受領した日本軍部隊は、既に武装解除の準備を始めていました。召集解除を兵員に通知した部隊もありました。 そこにソ連軍部隊が砲撃、爆撃、そして地上侵攻を始めました。民間人がその犠牲になります。日本軍部隊が派遣した軍使は問答無用で射殺される事態となりました。 樺太の日本軍部隊は、民間人が退避する時間を稼ぐため、いったん捨てようとした武器を取り、ソ連軍部隊の侵攻を阻止しました。樺太での戦闘が終わったのは8月下旬のことでした。その間に本土に脱出できた日本民間人はかなりの数に上ります。 また、樺太から脱出する日本人を満載した船をソ連軍潜水艦が何隻も撃沈したことも忘れてはいけません。

回答No.6

たとえ政府が降伏したとしても、軍の前線部隊は軍中央から戦闘行動停止命令が無い限り戦いつづけます。軍隊において指揮命令系統の遵守は絶対であり、前線部隊が独自の判断で戦闘行動を停止したり武装解除するということはあり得ません。 大本営から陸海全軍に戦闘行動停止の奉勅命令が出たのは、8/16日です。

  • EFA15EL
  • ベストアンサー率37% (2657/7006)
回答No.5

皆さん仰る通りで、終戦を決めたのは軍上層部のごく一部の者達です。 当然、軍のほとんどは知らない事実でした。 もちろんある程度戦局を引いて見ることができた士官は、敗戦が近い事を悟っていたそうですが、それでも正式に知らされない以上、あの時代では何も出来なかったでしょう。 また、むしろ1週間前に分かっていたからこそ、ほぼ終戦と同時にほとんどの部隊が戦争を止める事が出来たのだと思います。 今と違って携帯も無ければテレビも無いし、頼みの無線は傍受される危険があるので滅多に使えませんし。 小野田元少尉の様に戦後30年もの間戦ってた人も居たくらいですし。

  • Elim03
  • ベストアンサー率23% (146/632)
回答No.4

 特別攻撃隊の存在理由は、身を犠牲にしてでも相手の戦力をそぐことだったはずです。また、本土決戦に備えて、特攻隊以外にも、人間兵器の配備は着々と進められていました。  戦後教育にドクされてしまった我々の個人的感情としては「無意味なだけジャン」と割り切ることもできるでしょうが、当時の「身を挺してでも祖国を救いたい」という国民の意識まで否定するのは僭越というものでしょう。  一方、「日本が降伏することはわかっていた」のは、一部の高級軍人だけだったでしょう。  大きな要因として想像できるのは、「日本は神国であるのだから、必ず何らかの神風が吹き、一発逆転も夢ではない」と、指導部すらもワラにもすがりたい思いであったことが容易に想像されるということです。  であれば、敗戦が確定していない以上、敵機動部隊へ攻撃を続行するのは軍人の本分であって、それを結果論から見て「無駄だったよね」と一笑にに付してしまうのは、軽率のような気がします。  むしろ、最後まであきらめなかった・・・とう点が、(結果としては無駄死にになってしまったとはいえ)、日本人の意地であったと解するべきだと思います。  さらに、あの状況以下で、末端の組織まで認識の統一を図らせるのは困難であっただろうという現実的な事情もあったのだろうと思います。  それをいってしまうと、敗戦を受諾した日まで、日本近海で人間機雷として浮かんでいた兵士達の立場は、どうなってしまうのだろうか? とも思えますし。

  • 236735
  • ベストアンサー率33% (372/1109)
回答No.2

あくまで日本軍の上層部での話ですよ。現場にいる人たちは天皇の放送まで知らなかったはず。15日はなく、確か12,3日ぐらいまで特攻はあったと記憶しています。海外の戦場では9月以降でも戦死しています。天皇の放送が当然聞けませんから、降伏したといっても信じずに戦闘を続けたそうです。

  • sirowan777
  • ベストアンサー率14% (270/1906)
回答No.1

すくなくとも特攻を命じた司令官は知らなかったと思います。 また、そう信じたいです。

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