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特攻隊について

連続ですみません 太平洋戦争末期に神風の様な特攻隊が必要だったのですか? 本土決戦と言っていたのなら、本土に戦闘機を残して、戦艦に少しの護衛をさせれば良いはずです。 燃料がすくなかった当時なら、自分ならなおさらそれを取ります その辺のことを詳しく教えてください。

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  • cyototu
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回答No.5

貴方のような意見を述べる方をアメリカでは Monday morning quarterback (マンデー モーニング クオーターバック) と言う面白い表現があるんですよ。アメリカのプロフットボールは日曜にやります。クオーターバックとはそのフットボールのチームの指揮をする人のことを言います。月曜になって素人の方が職場で、「昨日の試合では、ああすべきではなかった。俺だったら、あそこでこうするべきだと判断できていたんだ。なのにあんなことをするから、あそこで負けてしまったんだ」とその試合を戦っていた人達を批判する人のことをからかっていう言葉です。要するに、他人のしたことをあと知恵で批判する人をからかう言葉です。 過去の歴史を見て下さい。多勢に無勢で、理屈では絶対に勝てないような状況でも、驚くなかれ無勢が勝って見せた戦いの例は、数え上げたら切りがないくらい幾らでもあります。 近代史でも、ベトナム戦争はその教科書的な例ですね。世界最強の軍事力を持ったアメリカが、それこそ米軍の兵器に比べて竹槍にも等しいような武器しか持たないベトコンに負けてしまったのです。ベトナム人は殺されても殺されても自分たちの国をアメリカの属国にされないようにするために戦った。イラクもアフガニスタンも、想像を絶する軍事力の差にも拘らず、アメリカは手こずっている。何故だと思いますか。例えば、貴方が述べた分析理由でそれを説明できますか。 もう一つ、ベトナム戦争は10年以上も続いた戦争ですが、アメリカ軍が破れるには1968年1月30日のテト攻勢の一日だけの戦いで決まってしまったのでしたね。後は、連戦北ベトナム軍の一方的な勝利で、アメリカ軍と南ベトナム軍は次々に崩壊して行きました。何で10年も続いた戦いが、たったの一日で決着がついてしまったのか。何か、不思議だとは思いませんか。 実は戦争の歴史を振り返ってみると、決戦は何日も続くわけではなく、あっという間に終わってしまうことが繰り返し起こっていますね。何故そんなことが起こり得るのか。それはベトナム戦争のテト攻勢の時を見ていると良く分かります。戦争は軍人と言う生身の人間がやっているのです。そして、恐怖は伝染するのですね。ですから、一度自分たちの軍隊の何処かで恐怖心に襲われてしまうと、それが全軍隊に伝染してあっという間に総崩れする。 ナポレオンの戦い方は所謂一点突破と言う奴だったそうです。総当たり戦の時に何処かの拠点だけ、例えが右翼なら右翼だけを徹底的に攻撃する。他の方面で劣勢だったとしても、それを無視してその一点だけを徹底的に攻撃する。そして、そこを徹底的に破ると、敵側の恐怖心が全方面にあっという間に伝染して相手は総崩れし、今まで劣勢だった部分も含めて全面で勝利できると、聞いたことがあります。私は戦争論の専門家ではありませんので、本当のところは判りませんが、これは戦争ばかりでなくいろいろなところで当たっていることなので、私には説得力のある説明です。 ですから、いざ戦争になった時には死中に活を求めることまで含めて、あらゆる手段で戦って見ることは多いにあり得ることです。何故ならそれで成功して来た例が、歴史には数限りなくあるからです。それに対して人間の理屈など、現実の出来事に比べたら殆ど無力です。人事を尽くして後は天命を待つ。これは戦争ばかりでなく、全てのことに当てはまる金言だと思います。

mster-T
質問者

お礼

今、冷静だからこそ言えること……とでも解釈すればいいのでしょうか? 現場にいるわけでも無いのに、素人が首を突っ込んだ。 自分でも分かっているからこそ、あの時何か他の方法があったんじゃないのか?と、思ったのです。 今だからこそ理解してみたかった。 そんな感じです。 ありがとうございました。

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回答No.7

ニューヨークのマンハッタン島のハドソン河に面したところに、イントレピッドいう名の米海軍退役空母を係留展示して、見物料を徴収しているところがあります。 この空母は第二次大戦中に建造され、フィリピン海海戦で対日作戦行動を展開し、また日本の戦艦武蔵を撃沈した攻撃機を飛ばした歴史をもつ空母です。中に入ると、飛行機の格納庫ですから、体育館以上の大きさの空洞になっており、その一角でマルチメディアショーというアメリカ人の好きそうなデモンストレーションをやっています。映像や照明と音響に加えて炭酸ガスの蒸気が噴き出すようなシカけですね。 祖父と父がともに海軍将校で、時代が時代だったら「自分も、、、」と考えてしまう私の印象に残ったのは、このイントレピッドは二度も神風攻撃の被害を受けていたことです。数回の神風攻撃のなかで、二機だけが成功して、空母イントレピッドの艦橋横と前方甲板に当たった。結果、「敵のKAMIKAZE攻撃により、我軍の水兵数十名が死亡し、、、、」ということでしたが、空母自体はびくともせず、ハワイの真珠湾に修理に向かったそうです。 平和ボケで、軍事関係に無知な私は、神風攻撃で命を投げ出せば、命と引き換えに敵艦を撃沈できるではないかと勝手に誤解していました。 ひとつ疑問に思うのは、当時、実際に神風機を操縦する特攻隊航空兵に対して、「戦艦、空母、巡洋艦などの大型艦船は、爆弾を積んだ戦闘機が一基衝突した位では、びくともしない。精々、甲板にいる水兵数名を吹き飛ばすだけだ」という事実を教育しておったのだろうか、ということです。自分の命を投げ出せば、脅威の敵艦を撃沈することが可能であるとの誤解をもって特攻隊に志願したとすれば、多くの失敗した神風操縦士と同時に、成功した神風攻撃の操縦士も不憫であります。 猜疑心をぬぐえないのは、上記のような事実を軍上層部、また軍技術将校は知っておりながら、その事実を隠蔽し、無用に少年航空兵の戦意を高揚したのではないのかということです。 祖父も、父も死んだいま、そのような内情を聴く術もなくなりましたが、戦争が、とくに負け戦状態で、科学的な分析を欠き、感情的に進められた部分があったのではないかとの疑念は消えません。 愛国心と精神論中心の陸軍とは事なり、科学的、技術的な洗練を求め、将兵に対しても精神論よりも技術的な練度をもとめていた海軍にして、やはり理性を失ったか、とおもうと、戦争の理不尽さが大きくのしかかりますね。 今後は、すべての職業軍人に対して、勝ち方の教育だけでなく、「正しい負け方」の教育もしなくてはいかんのじゃないかと考えます。

mster-T
質問者

お礼

なるうほど、正しい勝ち方ではなく、正しい負け方ですか。 確かに、引き際を見つければこれだけの犠牲は出なかったんでしょうね。 勉強になりました ありがとうございます

  • Postizos
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回答No.6

思うに本土上陸をされた後の挽回のチャンスは無く、いずれは降伏=捕虜にならざるをえないというのは自覚されていたのでしょう。 「生きて虜囚の辱めを受けず」を愚直に実行しないと戦意を維持できないというような裏腹の脆弱さを持っている軍隊ですから、どうせ自決するぐらいなら、という選択に走るのも当然のように思います。 つまり負けを知った上での行動ではないでしょうか。 緒戦において、占領した敵地で捕虜になっていた兵を救出した後に絶対帰還不能な作戦をわざわざ立案して送り出した、という記述が海軍の撃墜王坂井三郎「大空のサムライ」の中にあります。このいきさつを前線の戦闘機乗員は知っていて悔しい思いをしたと書いてあります。 そういうことが軍の中に知れ渡っているのですから、機材の残っているうちに一矢を報いると同時に自殺するという作戦に熱心になることも不思議ではないように思います。 良く解釈してあげるならその当時としては「名誉」のための闘いと思っていたのでしょう。 私は「自発的だから尊い気持ちからやったのだ」と祭り上げるのは良くないように思います。

mster-T
質問者

お礼

名誉のためか、そのために日本とアメリカはどれだけの死者が出たのでしょう。 今自分たちができることは、きっとこれを後世に伝え、忘れないことだと思います。 ありがとうございました

  • nishikasai
  • ベストアンサー率24% (1545/6342)
回答No.4

>太平洋戦争末期に神風の様な特攻隊が必要だったのですか? 今の平和の世になって改めて必要か必要でないかと問われれば必要でなかったと答えます。 >本土決戦と言っていたのなら、本土に戦闘機を残して、戦艦に少しの護衛をさせれば良いはずです。 理性的に考えればそうなります。 >燃料がすくなかった当時なら、自分ならなおさらそれを取ります 同意します。 まあしかし、あの時代はあの時代ですから・・・ 死中に活を求めたんです。なんとか状況を打開しようと軍部を必死だった。そのような状況の中で生まれた作戦です。 中国人は勇敢な日本の軍隊を怖がる。アメリカ人も日本人の勇敢さには一目置いている。特攻があったからです。カミカゼは世界に名を残しました。日本人は愚かな行為だったと言いますが、外国人は言いません。国のために死ぬことは日本以外の国ではもっとも尊いこととされています。日本人はやり過ぎたことを反省し、「火傷をした子は火を怖がる」状態になっているのです。

mster-T
質問者

お礼

自分は生まれも育ちも平成で、当時の人に教えてもらっても、全く分からない状態。 もしこの時、自分ならと考えると、どうしても日本帝国軍の取った行動が、理解できなかったのです。 お陰で、ある何となくですがわかった気がします。 ありがとうございます。

mster-T
質問者

補足

ある程度が抜けてました。 ごめんなさい

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.3

国防規模を縮小すればこれだけの被害が出なかったし ↓ そんな合理的な思考ができるのであったら、そもそも太平洋戦争という、総力戦の時代に巨大な生産力があるアメリカと戦いませんよ。 燃料がすくなかった当時なら、自分ならなおさらそれを取ります ↓ 1941年段階で「このままだと、一年で石油がなくなるから、戦争しちゃえ」なのですから。 軍人は基本的に、その場その場で先制攻撃を取ることが良いこと。 と、判断するようです。 それを、長期的な目線で(戦略的に)止めさせるのは、政治家の仕事。

mster-T
質問者

お礼

それもそうか。 造船基地もアメリカの方が日本の二倍はあったらしいし、ミサイルもないからそれを踏まえると特攻は最終手段なんですね。 ……それにしては最終手段が速かったような? 「このままだと、一年で石油無くなっちゃうから、戦争しちゃえ」 ↑なら、なぜアメリカ選んだ!! と、言ってしまいそうです。 選ぶとしたら、「生産力」が魅力だったのか、生産力がほぼ「同じ」だと思ったのかの二択でしょう。 ありがとうございます。

回答No.2

これも参考になります。 神風特別攻撃隊・カラードキュメンタリー-1/12 http://www.youtube.com/watch?v=_9zEvEAU2yk&feature=related

mster-T
質問者

お礼

見終わったから返事しようと思い遅れました ごめんなさい 敵の戦艦が撃沈されるわけもなく、ただ相手に傷を負わせただけというのは何かかなしいものですね。 ありがとうございました

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.1

44年10月の台湾沖航空戦のあとでは戦闘機がもうなかったから。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E5%88%A5%E6%94%BB%E6%92%83%E9%9A%8A 「これは1944年10月の台湾沖航空戦の敗北の結果、在フィリピンの大西中将が指揮する第一航空艦隊(一航艦)の稼動機数が僅か零戦40機程度に激減し組織的戦闘が不可能になっていた航空戦力を活用する為である。」 引用終わり。 本土決戦 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%9C%9F%E6%B1%BA%E6%88%A6 根こそぎ動員が始まるのは、 45年2月以降

mster-T
質問者

お礼

ありがとうございます やっぱり、40機しかないら全機を本土に戻して本土防衛の主力として温存するべきではと考えます。 国防規模を縮小すればこれだけの被害が出なかったし、特攻するために生産するより本土を守るために生産すれば広島と長崎に原爆が落ちることはなかったかと…… やっぱり甘いんですかね。自分の考えは。

mster-T
質問者

補足

↓要は組織的戦闘が不可能なら使うな。兵力の無駄だ。と、言うことです。

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