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江戸時代の金持ちの娯楽と悪徳商人
時代劇をみていると,定番で登場するのが,悪徳商人です。 かねがね不思議なのですが,江戸時代にそこまでしてお金をもうけて,どのような楽しみがあったのでしょうか。 今なら,お金があればやれることが山ほどありますが,あの時代の楽しみというと,芸者遊びくらいしか思いつきません。 そこで質問です。 (1)江戸時代に,本当にあのような悪徳商人がたくさんいたのですか? (2)江戸時代のお金持ちの娯楽にはどのようなものがあったのですか? 教えてください。
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こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 (1)江戸時代に,本当にあのような悪徳商人がたくさんいたのですか? まず、答としては豪商になるためには、やはり、「裏」があり、多少の「悪事」もしました。しかし、庶民に対しての「悪業」としては、座当(あんま)の高利貸しなどが有名ですね。 そして、江戸時代の悪徳商人として、皆さん「紀伊国屋文左衛門」を挙げておられるようですので、もう少し「補足」をさせていただきます。 紀伊国屋文左衛門は紀州湯浅(現:和歌山県有田郡湯浅町)の貧農の家に生まれました。やがて、18~19歳頃、そんな貧しさに見切りをつけて江戸へ出てきた紀文は、職を転々とするうちに、商人の娘「綾野」と知り合い、綾野の紹介で「松木屋」で働くようになりました。やがて、二人は恋に落ちましたが、使用人と商家の娘。主人が許すはずもなかったのですが、可愛い綾野の説得で、主人は紀文に、 「1,000両貸してやる。1年間で倍の2,000両にできたら、娘をくれてやる。もし、それができないなら、一生涯この店でただ働きをしてもらう」 と、条件を出しました。 そこで、紀文は、江戸の庶民に何が欠けているかを真剣に情報収集をし、紀州では「二束三文」の「密柑(=みかん)」が江戸では結構な値段で売られていることに目をつけ、紀州で密柑を買い付け船で江戸へ運び、みごと、1年後には2,000両にを手にしました。そして、紀文が困った時、側面からアイディアを出して「賢妻」と呼ばれた綾野とめでたく夫婦になりました。 その後は、紀州からは密柑を運ばせ、帰りの船には、紀州では中々手に入らない「塩鮭」を積み込んで、江戸でも儲け、紀州でも儲けるようになり、「富」を築きました。 やがて、江戸の八丁堀に邸宅を構え、当時権勢を欲しいがままにしていた側用人の柳沢吉保や勘定奉行萩原重秀、老中の阿部正武らに「賄賂」を贈り、密柑で得た富で、今度は、材木商にも手を出し、上野寛永寺根本中堂の造営工事を一手に引き受け莫大な巨利を得て、幕府御用達商人の「鑑札(許可書)」も手にいれました。 こうして得た「銭」で、船頭や水主(かこ=船の乗組員)たちをねぎらうため、10,000両を持って吉原へ行き、実に20日余りも「豪遊」し、船頭や水主から逆に、 「早く紀州へ帰りたい」 と、言い出す者さえいた、と、言われています。 従って、紀文でさえ「賄賂攻勢」で、さらに「富」を手に入れようとしています。 しかし、「悪」の部分だけではなく、紀文は、吉原の水利の悪さを知ると、自らの銭で「井戸」を掘らせて吉原の人々に喜ばれました。また、永代橋も元禄11年(1698)に私財を投じて架けています。 確かに、TVなどで、 「おぬしも悪よのう、フッフッフ」 と、菓子折の底に小判・・・などが放映されますが、まあ、多かれ少なかれ「あった」と言うべきかも知れませんね。 話は、少しズレますが、 各地の大名の江戸屋敷でも用人が、町奉行所に行き、与力や同心に、 「我が藩の者が不始末を起こした時は、よろしく取り計らってくれ」 と、「賄賂」を贈っています。江戸時代の当初は、ある程度「コソコソ」と賄賂を贈っていましたが、江戸中期になると、奉行所内で「堂々と」手渡しています。 また、これは「賄賂」とは関係ありませんが、 江戸もやや後期の文化年間(1804~)や文政年間(1818~)になると、庶民も安定した暮らしができるようになり、「贅沢」になってきました。 その頃は、何につけても「初物(はつもの)」が人気で、例えば、四月初旬にとれる「初鰹(はつがつお)」などは、文化9年(1812)3月25日の記録では、鎌倉でとれた鰹17本が早馬で江戸へ届けられ、6本は将軍家がお買い上げ。3本は、江戸でも指折りの料亭「八百善(やおぜん)」が各2両1分で入手。残り8本は、大手の魚屋に。そして、その中の1本を歌舞伎役者の中村歌右衛門が3両で買い、大部屋の役者に振舞った。というものもあります。 1両=4分。大工の2~3日分の賃金が「3分」。 3両=12分。大工の半月分の賃金が一瞬のうちに口に入ってしまったことになります。 まあ、これなども、「ぼったくり商法」に近いですね。 昨今でも、防衛省の汚職&賄賂。大分県の教員採用での賄賂。 「賄賂」は、いつの時代でも横行するものなのですね。 (2)江戸時代のお金持ちの娯楽にはどのようなものがあったのですか? 紀文の例でもお分かりのように、吉原や深川などでの「芸者遊び」。その他としては「舟遊び(舟の中での宴会)」「花見」「芝居や歌舞伎見物」「相撲見物」「料亭での宴会」「食道楽」などなど、結構、「娯楽」には困りませんでした。
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- m41
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1)悪徳商人かどうかは個人の判断だとしても 多くの大名家が商人から借金をしていたのですから商人たちの力は大変なものだったと思います 2)今となんも変わらないと思うけど?紀伊国屋文左衛門は金撒きなんかもやったらしいですね 舟遊びに山遊び花見に雪見 大邸宅を作ってみんなで宴会 有名な秀吉の醍醐の花見は山を削って桜を3万(千?)本植えて 全国から銘酒名品を集め1,300人での大宴会wいまやったら何億かかるんだ?? 逆に今お金が有ればやりたいこと山ほどの方が気になってしまった^^::今しか出来ない事ってどんなことだろう・・・
お礼
ご回答ありがとうございます。 「紀伊国屋文左衛門は金撒きなんかもやったらしいですね 舟遊びに山遊び花見に雪見 大邸宅を作ってみんなで宴会 有名な秀吉の醍醐の花見は山を削って桜を3万(千?)本植えて」 この時代,金持ちに対する世間の監視が今よりも弱かったでしょうから,かえって今よりもやりたい放題という面はあったでしょうね。 人間の欲望は,今も昔も変わらないでしょうから,今ならできる自由な国内・海外旅行,自由な海外商品の購入,自由な出版等ができなくとも,その時代時代でできることをやって楽しむのですね。
- DESTROY11
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悪徳商人がたくさんいたかはわかりませんが、江戸の商人は紀伊国屋文左衛門を見るように、 一発当てた投機家の傾向があるようです。 たとえば、歌舞伎、芝居役者や相撲取りを贔屓にしてスポンサーになったり。 花火大会などのスポンサーになったり。 そういった興行にお金を出すことで、名を上げるという目的もありますね。 当時もコレクターというものは存在していて、宝石や名刀などが対象になります。 現在でも蘭やバラのコレクターがお金を惜しまないように、菊などがそうなりました。 茶道の道具や、香道の伽羅等の香料など、名品にもお金がかかります。 元禄時代にはファッションも派手でしたし。 いつの時代も、お金のかかるジャンルは変わらないようです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 虚栄心を満たすことは,人間の大きな欲望の一つですね。 また,自分も貨幣に興味があるので分かりますが,コレクションしたいという心理も,その対象があれば当然沸いてきますね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 紀伊国屋文左衛門は,時代を読む努力を常にしていたのですね。 「吉原や深川などでの「芸者遊び」。その他としては「舟遊び(舟の中での宴会)」「花見」「芝居や歌舞伎見物」「相撲見物」「料亭での宴会」「食道楽」などなど、結構、「娯楽」には困りませんでした」 やはり,どういう時代であれ,金があればかなりのことができる,要は,その人の人生を楽しむ能力なのですね。 自分は,金銀の魅力にとりつかれて困っているのですが,大判小判の黄金色は,どんな時代であっても,魅力的に感じるものなのでしょうね。