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江戸時代の越境民事裁判

時代劇に藩が大商人(江戸・大阪などの)に借金をしてて、”返済いただけないなら評定所に訴え出ます”といったシーンが出てきますが、藩と藩、藩と天領や他領の商人などとの民事訴訟の機能が評定所にあったのでしょうか? 強制執行の能力があるのでしょうか?それとも決定に従わないとおとりつぶしができるのでしょうか?

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  • ベストアンサー
  • fumkum
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回答No.8

評定所は江戸時代の初期には老中の合議の機関として寄合と呼ばれ、当然老中が中心であったとされますが、寛永年間にそのメンバーが老中・三奉行・大目付・目付などと定められ、その後、*評定所一座とよばれる寺社奉行四名、町奉行二名、公事方勘定奉行二名(勝手方勘定奉行は入らない)が中心メンバーとなります。それに老中一名(出席の老中は固定されてはいない)と、大目付、目付などが構成メンバーとなります。なお、京都所司代・大坂城代・遠国奉行は事務見習いのために式日・立会の傍聴を許されていました。また、御用取次(田沼意次)が将軍の意を受けて列席することもあり(郡上一揆)、公方様が一切かからないなどということはありません。郡上一揆の経過を見ると、この事件を評定所扱いにしたのも九代将軍家重(この将軍の処置というのも意外ですが)ですし、御庭番の報告等もあったのでしょうが、幕府高官の関与を最初に疑い、圧力がかかることを警戒し、田沼を派遣したのも将軍です。さらに、目安箱が設置され、箱訴という名の*直訴が可能であり、目安は将軍が目を通し、将軍が必要と認めた場合は、老中を通じて評定所一座に諮問され、評議されます。このように将軍の意志により、評定されることもあり、公方が係らないというのは空想でしかありません。郡上一揆の評議の結果は、藩主金森氏は改易、関連して老中一名罷免・若年寄一名改易・大目付一名解任・勘定奉行一名改易の処分となっており、一揆の処理をめぐって御取り潰しにまで至っています。ですから、評定所の決定には当然決定力・強制力がありました。 また、評定所は裁判機関だけでなく、政治上の重要問題にも意見具申をする機関でもあり、幕府の立法機関としても重要な機関であるという一面も持っています。諸藩でも同様の機関として評定所や御用部屋という名称の機関を設けている藩も多くありました。 ところで、大名同士の争いですが、このような事柄について評定所が扱うことではなく、老中の扱い事項です。長州藩の例ですが、分家と領知朱印状の記載等でもめ、老中が仲介に入ります。 *評定所一座=三奉行のみで老中は入りません。老中はオブザーバー的な存在になり、老中の出廷日は月に一日だけで、なおかつ傍聴のみです。 *直訴が可能=初期には直訴はご法度であり、直訴したものは事の成否にかかわらず死罪とされましたが、吉宗は目安箱を設置することで、不当に抑圧された訴訟について直訴を許可しただけでなく、政治上有益な意見について庶民の箱訴を認めた。目安を読んだ将軍は、評定所一座に諮問するのみならず、御庭番に調査させることもあり、御庭番関係の史料には関連する記載があります。ともかく、江戸中期以降、直訴は実質的に許されていたことになります。 郡上一揆 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%A1%E4%B8%8A%E4%B8%80%E6%8F%86 重要案件については三奉行がによる評定所一座。三奉行の内原則町奉行一名が掛奉行となりそれに大目付・目付各一名による三手掛、三奉行・大目付・目付から各一名計五名による五手掛などを適宜構成し、臨時に扱うシステムでした。 評定は、式日(月3日)・立合(3日)・内寄合(3日)とよばれる評議日に行われ、定例化していましたが、ここでも金公事が増加した影響で、享保元年に金公事専門の日を1日とし、その後1日増やして2日にしています。それほどに金公事は増加します。 さて、大名・藩の借金ですが、これは一般に大名貸と呼ばれます。大名領内の商人など貸し付けは*御用金の形式なので大名貸しに含まれません。 幕府を含め大名・武士は、石高制による米経済を基本にしていました。しかし、貨幣経済の中にもいるわけで、米や商品作物を金銭にかえて、財政を維持しなければならないといという構造を持っていました。それも、多くの藩が大坂に米や商品を集め、そこで換金をすることが一般的でした。そのため各藩は、大坂に蔵屋敷を設け、役人を常駐させると共に、大坂の有力商人を蔵元・掛屋として蔵屋敷の運営にあたらせるようになります。農業は天候に左右され、作柄がいつも一定しているわけでもなく、さらに幕府による手伝い普請などにより莫大な臨時支出がある場合もあります。さらに固定的な石高制に比べて、貨幣経済はインフレーションに見舞われ(幕府の貨幣改鋳政策も原因)、構造的な赤字財政に陥って行きます。そうすると藩は蔵元・掛屋に借金をするようになります。最初は財政赤字の穴埋め程度だったものが、年間収入を超え、その内に利払いだけで年間収入をオーバーするまでになる現れるようになります。担保として何年も先の年貢を担保とし、蔵元・掛屋も貸さないと交代させ、新たな金主(貸し手)を蔵元・掛屋にするだけでなく、高利も厭わず借りられるだけ借りるしかない状況に追い込まれる藩も出てきます。中には、「お断り」という借金踏み倒しや、薩摩藩のように低利子長期返済の形を取り、実質踏み倒しに近い処置を強行する藩も現れます。 上記したように、幕府は評定所や江戸町奉行所など三奉行所、遠国奉行所などで金公事を受け付けますし、貸した商人が訴え出ないわけでもありません。でも、商人が大名などの領主を幕府に訴えることが少なかったのはなぜかというと次のような理由が考えられます。 1幕府は大名が借金でつぶれることを望んでいなかったことです。俗に幕府は大名に力を持たせない目的で参勤交代や手伝い普請などを通じて大名経済を破綻させたとされます。しかし、これは結果論で、大名として当然の負担を幕府が求めた結果、大名経済が悪化したと現在はされています。それ以上に大名領の安定が幕藩体制の安定であることを幕府はよく理解していたとされています(浪人問題もあります)。そのため、商人が大名を訴えても、取り上げないこともよくありました。幕府自体も財政赤字の時期もあり、見互いの面もありましたし、一つ認めるとドミノ倒し的に幕藩体制の危機につながることも家人されたものと思います。 2近世の法は多元的・重層的に存在し、江戸時代には範囲内で、自主的・自治的に解決することが求められていると最初に書きましたが、出入公事には特にそのように当事者同士で解決することが基本的に求められます。幕府は享保4年に相対済令を出しますが、それ以前から金公事を中心に当事者同士の話し合いによる解決を勧めることが多くあり、大名貸しについては1の理由もあり、判決を出さず、相対を求める勧告を出すこともありました。 3商人側が貸し込みすぎて二進も三進もいかなくなっていることです。そのために藩の専売商品の開発・運営に参加し、回収を図ったり、返済契約を変更したり、債権の一部を他の商人に割り引いて売却しリスク分散を図ったり、藩の侍身分を得て、扶持米の形で一部を回収するなどの努力を払うことになりますが、その多くで藩との協調関係を必要としたこともあります。 43の藩の侍身分を得て、扶持米の形でということは、藩側の商人優遇策として取られた施策でもあるわけですが、これは商人にとっても両刃の刃で、藩士格として藩の一員として位置付けられることでもあります。となると、藩を訴えることは、藩士が主君を訴えることになり、封建制の倫理上認められなくなり、最悪の場合死罪になりかねないということになります。 *御用金=幕府・大名などが領内の商人・農民などに課す金銭。名目的には貸金ですが、利子は当時としては無利子といってもよいほど低く、元本の返済も長期にわたります。その上、返済も滞ることもあるだけでなく、献金の名目で利子・元本が払われないこともあるなどしました。 最後に Q時代劇に藩が大商人(江戸・大阪などの)に借金をしてて、”返済いただけないなら評定所に訴え出ます”といったシーンが出てきますが、藩と藩、藩と天領や他領の商人などとの民事訴訟の機能が評定所にあったのでしょうか? A金銭貸借について評定所に訴えることはできましたが、評定所だけでなく幕府の奉行所に訴えっても基本的には扱ってもらえました。薩摩藩に対する訴状は大坂町奉行所に出されており、大名貸の貸主が大阪商人であることが多いので、江戸の評定所に訴えるとは限りませんでした。しかし、実際上は大名を訴え、判決に至ることは難しいことでもありました(上記)。 ところで、評定所に訴えるという言い方よりも、御公儀もしくはお上に訴えますではないかと思います。 Q強制執行の能力があるのでしょうか?それとも決定に従わないとおとりつぶしができるのでしょうか? A評決に対する強制力はありました。 乱文・長文で申し訳ありません。以上、参考まで。

jkpawapuro
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 制度としてないわけではないが、幕府があまり強硬策をとり藩が破産とりつぶしになるのを嫌ったんですね。 >ところで、評定所に訴えるという言い方よりも、御公儀もしくはお上に訴えますではないかと思います。 そのとき見てた時代劇では評定所と言ってたんですよね。 具体的な機関名がでてたので、でたらめな時代劇ではなくなにか根拠があるのかと思って質問を立てた次第です。

jkpawapuro
質問者

補足

この場を借りて皆様に。 他の意見が出るか数日間様子を見たのち、特になければ数日後この丁寧なご回答をベストアンサーにして質問をしめたいと思います。 皆様ご回答ありがとうございました。

その他の回答 (7)

  • fumkum
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回答No.7

長くなってしまい、2回に分けて回答することになります。ごめんなさい。 「民事訴訟の機能が評定所にあったのでしょうか?」についてですが、回り道になりますが、中世に遡って説明したいと思います。 鎌倉時代の後半から、先進地域である畿内(近畿)地方やその周辺では村が自然発生的に成立し、それが、南北朝の争乱の中で各地に広がり、農民たちの自立的・自治的な惣または惣村へと成長します。この惣または惣村は、惣村の法である惣掟(村法)を定め、寄合という惣の構成員(村の名主(みょうしゅ)・土侍・小農民など)による会議を持ち、その執行はおとな(乙名・長)・沙汰人などといわれる指導者により運営されました。年貢については惣村がひとまとめにして納入を領主に請け負う地下請(村請・百姓請)もなっていきました。ここで重要な点は、村内の秩序を維持するために、村民自身が検断権という警察権と司法権を持ちますが、これを地下検断・自検断といいます。捜査し、逮捕・拘束し、裁判し、結論を実行する権限のことです。 戦国大名者、織豊政権、江戸幕府はこの惣村を換骨脱胎し、統治に都合の良い形に変えていきます。年貢の村請という権力に都合の良い部分は残し、おとな・沙汰人を名主(なぬし)・庄屋、組頭、百姓代の村方三役という名の村役人として、藩(幕府領などの同じ)の支配機構の末端に組み込みます。村役人を通して、法などを農民に伝達し、年貢を確保する組織に変えていきます。しかし、村法を制定し、一定の検断権は残ります。 中世の都市でも、惣村と同じような自立的・自治的な組織として町(ちょう)が生まれます。町法をつくり、町衆のから選ばれる月行事(がつぎょうじ)によって町は運営されます。検断権も持っています。町も村と同じように近世-江戸時代でも町法により町人の代表である名主(庄屋)・月行事などを中心に運営されます。 このようなことは、高校の教科書でも記載されています。「村は、名主(庄屋・肝煎)や組頭、百姓代からなる村役人(村方三役)を中心とする本百姓により運営され、-中略-村の運営は村法(村掟)にもとづいておこなわれ、これに背くと村八分などの制裁が加えられたりした。」(山川出版『詳説日本史』。町についても同様の記載あり。) このことはどのような意味を持つのかというと、 1、幕府や藩などの私領主が住民を支配するための法(統治の法)を定めるだけでなく、村や町といった住民の集団が自らの生活・生業を維持するための法(自治の法)を立てるなど、近世の法は多元的・重層的に存在していた。 2、近世までは立法と司法(及び行政)が未分化のために、司法権を行使したのは幕府・藩だけでなく、村・町なども一定の司法権の行使を許されていた。 1についてより詳しく説明しますと、法を制定(及び実施)する組織は、 ア幕府。ただし中央政府としての全国を一元的に貫徹するための全国令というべき法令。 イ個別領主(大名)として幕府領内の統治のための幕府法を制定する幕府及び大名等。さらに、幕府・大名等の領主領内部の役所ごとに法を制定します。 *代官や奉行所が管轄範囲内だけで通用する法を発布します。例えば、京都町奉行が祇園祭の規制の法を発布するなどの例があります ウ前記の村・町 エ朝廷 オ宗派・当道(盲人の座)など身分や職業による集団など 以上のように多元的・重層的に法を制定する主体が存在するだけでなく、それらが各々の範囲で司法権・裁判権を持っていたことになります。逆に言えば、それぞれの範囲内で、自主的・自治的に解決することが求められているとも言えます。 さて、所領や身分による集団は法を制定・執行する主体として存在するわけですが、幕府領・藩領等においては、原則的に町・勘定・寺社奉行所に収束します。町は町奉行所に、村は代官・郡代を経て勘定奉行(藩により郡奉行など)、寺社や当道など(僧侶・神官や寺社地内の住民も)は寺社奉行に管轄され、訴状の受付・審理・判決も同じように管轄ことになります。なお、京都・大坂・長崎などの遠国奉行の管轄下にあるあるものは各遠国奉行に属します。また、幕府においては大名及び老中支配の役人は老中が、若年寄支配の役人は若年寄が管轄します。 この構図は諸藩等でも同様でしたが、幕府と諸藩等(私領)の関係は、元禄10(1697)年の「自分仕置令」、宝永7(1710)年次のようになっていました。 1どのように重い犯罪でも、私領内の住民・家中にのみ属するならば、自分仕置。ただし、判断基準は幕府法令による。武家諸法度に『万事応江戸之法度、於国々所々可通行事』とあるので、幕府法は全国法とされています。 2他領住民・他家中に関わる場合は、自分仕置令では、老中に届け出て、その判断に任せる。 3宝永令では、他領住民・他家中に関わる場合、他領主やその上司と協議して判断する。それでも解決しない場合、評定所に持ち込み、判断される。 1については共通するので行政・司法・立法について藩(私領主)等もその領内限りであれば、条件があるものの自分仕置・最終決定権を持つことになります(基準が幕府法令とされるので、間接的に幕府の影響下にあることにはなります)。これに対して、他領住民・家中に関連する場合、最終的には幕府が直接的に関与することになります。 大名などが個別領主として自らの所領限りで土地・住民を支配する一方、将軍が統一権力者として全国的に統合していたことになります。複数の所領にまたがったり、全国に共通する問題は、統一権力である幕府が担当することになります。 自分仕置令 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%88%86%E4%BB%95%E7%BD%AE%E4%BB%A4 武家諸法度 宝永令 一、私領百姓の訴論は其の領主の裁断たるべし、事もし他領に係るにおひては、 或ひは両地の領主互に相通じ、或ひは支配の頭人各相会して議定すべし、事 尚一決し難きにおひては、評定所に就て採決を請はしむべき事。 ところで、他者の関与なしで単独で決定・処理できる権限の範囲を「手限(てぎり)」といいます。これは、事件などの吟味(審理)までと、裁許・仕置(判決・執行)までの段階の二つの段階があります。例えば、江戸町奉行は支配地の住民の吟味については手限で行えますが、遠島以上の刑の言い渡し(判決)については、老中に伺いを出さねばならず、手限とはならないなどです。この手限に関して、私領主や幕府代官などは、家中や領地の住民、支配地の住民内での事件・訴訟について手限であるのに対して、「幕府の奉行、評定所などは、複数の所領・支配地にまたがり、しかも自らの支配地に関連しない事件であっても、当事者や関係者を呼び出して手限で吟味しえた。」これは、江戸中期の美濃郡上藩の藩権力と一揆勢が争った郡上一揆事件に関連し、初期の吟味を江戸町奉行所が担っていた例があります(最終的には評定所の五手掛により決着)。これについては、京都町奉行と大坂町奉行所が、上方八ヶ国を分掌して、出入・吟味物についての裁許するとされた点で、両奉行所は評定所の機能を担ったとされています。関連して評定所の判決は関東・甲信越・東海を中心とする地域であるとされています。ですから、「藩と藩、藩と天領や他領の商人などとの民事訴訟の機能が評定所にあったのでしょうか」については、確かに評定所にはそのような機能があったことは間違いないのですが、同時に幕府の江戸町・勘定・寺社奉行の三奉行や、遠国奉行にもそのような機能があったことになります。 話は前後しますが、訴訟は「出入筋」と「吟味筋」に分かれます。出入筋は一般に現在の民事訴訟にあたるとされますが、それに「疵付」などの一部傷害事件も含まれます。つまり、私的紛争を解決するためのもので、原告(訴訟人)が被告(相手方)を相手取って訴えると、奉行所等は原告・被告を呼び、吟味(審理)し、裁許(判決)します。これに対して吟味筋は殺人・障害・強盗・窃盗・放火などの刑事訴訟ということになります。ところで出入筋の訴訟について、公事・公事出入・出入物とも言いますが、この内金銭債権に関するものを、特に「金公事」・「金銀出入」とも言います。これが当然のことですが年年増加して、享保三年の江戸町奉行所で吟味された出入は3万5790件、内、3万3037件が金公事でした(ウィキィの「相対済令」の説明では評定所受付の数字のように書かれていますが勘違いだと思います)。そのために翌年の享保4年には「相対済令」が出され、金銀出入(金公事)は三奉行では受け付けず、当事者同士で解決するようにします。この令の中で、評定所についても金銀出入訴訟に忙殺され、本来の業務ができないとしています。 このように、幕府では、三奉行所・評定所・代官所・郡代所・遠国奉行所等で金公事を扱っています。特に評定所は原則吟味物を扱わず(吟味物は三奉行段階で扱う。重要事案は例外的に扱う)、公事出入で、原告と被告の支配が異なるものを扱うことが原則です。また、原告被告の宗派が違う寺社間の案件、異なる代官所の支配下の者訴訟なども扱います。

回答No.6

こんにちは。 >>悪性(→政)に苦しむ藩の農民が江戸に訴え出るケースはよくありますが、そういった場合の窓口は評定所ということですね。 はいそうです。 「評定所の役目」のところで書きましたが、 (2)の、武士と庶民の争い・・・に当たります。 農工商の人々は言ってみれば全部「庶民」ですから・・・。 「直訴」や「強訴」に向かった人は、死を覚悟していますから、江戸に近づくにつれて、一歩一歩死出の旅へと近づいたことになるのです。 それでも村人などのために、自分の命と引き換えに旅を続けたのでしょうね。

jkpawapuro
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。

noname#224207
noname#224207
回答No.5

No.3です わざわざお礼を記入頂き有難うございます。 お礼の中に史実誤認がおありのようですので、説明させて頂きます 「薩摩藩などいくつかの藩は自領内の商人に対し多額の借金を踏み倒しに近い行為を行っていますが、これは藩の内部での内政問題です」 500万両余の金を出せるような商人は薩摩島津家の領内にはいませんでした。 大阪で借金を繰り返し、貸し出す商人が居なくなり江戸商人を頼りますが、これも断られています。 現在のギリシャと同じように返済の確約と実現性を求められていました。 結局返済交渉で40年年賦という途方もない条件で折り合いを付けて、明治新後、廃藩置県で薩摩藩が消滅するまで律儀に返済を続けました。 「これなどたとえば大阪の商人が津軽の商いの独占権を手にいれたいと思うのでしょうか?」 大阪には全国の大名家の蔵屋敷がありました。 ここで現金化していました。 ちなみに津軽藩の大阪蔵屋敷は現在の大阪地方裁判所の場所です。 薩摩藩の蔵屋敷は越中橋近くの三井倉庫の場所です。 薩摩はこの他に2ケ所所有していました。 大坂蔵屋敷跡(1) www12.plala.or.jp/HOUJI/shiseki/newpage469.htm 蔵屋敷の実際の運営は商人が請け負っていました。 津軽のような関東以北の北国では木綿や藍は貴重品でいわば輸入品に頼っていました。 木綿問屋も藍問屋も大阪に集中していました。 要はどこの大名領であれ、全ての物資を自給自足していた訳ではありません。 どこの大名領でも現金収入を得るために特産品を生産して、これを市場で販売していました。 これを実務上取り仕切っていたのが全国規模の大阪・京・江戸などの大商人たちです。 江戸時代というのは市場経済が発達していたことに御注意願います。 大名の財政を最も圧迫していたのが江戸屋敷での暮らしと、大名同士の儀礼の交換つまりお付き合いです。 全てが現金決済です。(商人に支払います) 贈答には必ず小判すなわち現金が必要でした。 贈答に現金を添えるのは不浄とするのは現代の感覚です。 社会通念も価値観も違う時代であったとご理解願います。 現代でも、日本では社会通念になっているお歳暮お中元の贈答でも欧米人にとっては全く理解不能です。 評定所といいますのは、幕政上の最高の行政機関です。 このような機関に身分違いの町人が口出しはできません。 幕府に町人が用事があるのであれば、町奉行所なり勘定奉行所へ申し出て受理される必要があります。 評定所での議題とするか否かは、奉行所内での審議を得た上で奉行の判断が必要です。 江戸時代には、民事は原則として町役人に委ねられていました。 町年寄 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/町年寄 この町役人や奉行所の頭越しに評定所へ訴えでるなどということはあり得ません。 現在でも、閣議に一般市民が口出しできるとお考えでしょうか。 行政機構というのは全て手続きなしには動かないのは、過去であれ現在であれ変わりません。 尚、ご質問のような脅し文句を身分違いの町人が吐けば、大名を愚弄した上に家名を貶したとして切られます。 「そもそも誰のお蔭で領内で商いができているのか、心得違いをするな」という論法です。 あくまでも支配者と非支配者の関係です。 この一線は如何なる事情でも越させません。 発言を黙認放置すれば、交渉担当の武士が処罰されます。 当時の大名貸しをするような商人であれば、充分心得ています。 これが身分社会というものです。 なにかあれば補足で追加質問願います

jkpawapuro
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 調所広郷の件、勘違いしていたみたいです。 現状まだ詳しいことわかっていません、もうすこしインターネットで調べてみたいと思っています。

回答No.4

こんにちは。 ホオォ~ツ。新説が出てきましたね。 確かに「評定所」は幕府機構の一つであり、江戸を中心とした、ある意味では小範囲ではありましたが、各藩にも「公事方」(または「公事方与力」=訴訟を受付、審理し、判決を下す)という職務がありました。 小藩の場合には、家老がその任に当たったりしていました。 また、農民同士の土地争いや借金の争いなどは、村役や長老などが集まって協議をしましたが、どうしても納得がいかない場合は、「公事方」へ訴えることもできました。 どなたかの説でいくと、弱い者は「泣き寝入り」をして、藩から逃げ出し、他の藩へ行くと、人手が増えるから喜ばれた・・・とか。 では、「人別帳」は何のためにあったのでしょうか? 確かに、藩主(大名)などが藩内の商人から借金をしても、それを返済しないからと訴えることは中々難しいことでした。商人たちは、藩主によって商いの権利を保護されて、利益を上げていましたから、藩主を訴えることはしませんでした。 しかし、農民や商人にしても、藩主や代官の悪政に対しての「直訴」または「強訴」の事件は頻繁に起きています。これは、藩内では解決できない、藩の公事方や重臣に言っても聞き入れてもらえない、と判断をし、江戸の評定所などに訴え出たのです。 評定所では、たとえ「直訴」と分かっていても、「訴訟」が届いたからには、審理をし結論を出しました。 ただ、この「直訴」や「強訴」は管轄する藩主や為政者をないがしろにした行為でしたので、たとえ訴えが通ったとしても「死罪」が待っていました。つまり、序列を飛び越えての行為でしたから。 各地で「義民」と呼ばれる人々は、それを承知の上での「直訴」や「強訴」を決行したのです。

jkpawapuro
質問者

お礼

話が本筋からはずれてきましたが、評定所はたとえ管轄外の訴えであっても訴えがあったらあらゆることが審理される例になるのかな? 悪性に苦しむ藩の農民が江戸に訴え出るケースはよくありますが、そういった場合の窓口は評定所ということですね。 ご回答ありがとうございました。

noname#224207
noname#224207
回答No.3

TVや映画の時代劇の揚げ足取りをしても興ざめです。 ご質問は (1)身分社会であった江戸時代に町人が身分違いの藩即ち大名相手に貸した金をの返済を求めるのに、幕府の評定所を持ち出すことは実際にあったと考えてもいいのか。 (2)藩と藩すなわち大名同士で金銭にかかわる民事事件というのが有りえたのかどうか (3)大名領や天領を横断して商取引を行っている町人を誰が管理していたのか という風に区分して考えて見たいと思います。 (1)制度上も社会習慣上も実際上はあり得ません。 藩すなわち大名が金を返さないといって、訴えを持ち込むところも制度もありませんでした。 こんな制度を定めたら、日本中の大名が借金まみれですから収集がつかなくなってしまいます。 500万両からの借金を抱えていた薩摩島津家など訴いへの対応だけで家が潰れてしまいます。 武家に対して身分の異なる町人が訴えでるということができるのは極めて特殊な場合のみでした。 ここで注意頂きたいのは、江戸の街といいますのは、日本全国からすれば極めて特殊な街でした。 この街で起きていたことをそのまま全国に拡大解釈しますと、誤解や混乱が生じますので注意して下さい。 藩即ち大名領と言いますのは、大半が農民で武家は人口の2~5%程度しかいませんでした。 これに対して江戸という街は人口の半分が武家で残りが町人でした。農民である百姓とよばれる身分の人は数えるほどしかいませんでした。 統治機構も当然藩すなわち大名領と江戸の街で異なります。 江戸時代といいますのは、各大名が支配する独立国の集合体でした。 現在のEUをイメージして頂ければ宜しいかと思います。 徳川家が最大規模の大名でしたが、独立国という意味では他の大名領も対等でした。 このような条件下で全国が平穏無事であったのは、徳川家が最大の軍事力と経済力でバランスを維持していた結果です。 幕府という機構はあくまでも一大名である徳川家の支配地を統治するための機構でした。 平たく言いますと幕府といいますのは決して現在のような中央政府ではなかったということです。 中央政府でない以上他の大名間のゴタゴタに口出しをする権利も義務もありませんでした。 まして大名の内政に口出しは一切できませんでした。 力まかせにやることは充分できましたが、徳川家として利益にもならないことには一切関与しませんでした。 端的な事例が、飢饉の際に、餓死者がでている藩に対してだれも救済措置をとりませんでした。 徳川家すなわち幕府も知らん顔でした。 このような制度社会ですから、大名が町人から借りた金を返す返さないなど、誰もまったく見向きもしません。 大名が幕府に借りた金を返すために借金を申し込んでくれば、利子をつけて貸し出す程度です。 これすらも江戸時代後半にはなかなか貸さなくなりました。 (2)大名間の相互扶助は同盟化につながることから、幕府は厳しく監視していました。 下手にやれば、忽ち幕府に因縁を付けられて、それこそ戦か恭順かを迫られました。 婚姻の際の結納の形での援助もあり得ましたので、婚姻も事実上許認可制でした。 ということで民事事件が起こりようがありませんでした。 唯一領民の争奪戦がありました。 農民は領主から過酷な税の取り立てなどを迫れらるとサッサと隣の大名領に逃げ込みました。 現在の経済難民と同じです。 逃げ込まれた大名は、労働力が増えて開墾に使用できますので、大歓迎です。 耕作地が増えて年貢が増え豊かになります。 中には報奨金を出していた大名もありました。 返せ返さないとゴタゴタやっていました。 (3)町人を管理するために営業許可書を発行していました。株と呼ばれました。 同じ株でも現在の株とは性格が異なります。 この株をもった株仲間に相互監視させていました。 キチンと仲間同士管理しなければ、株を取り上げてしまえばいいだけです。 大名領では一般名称としては御用商人と呼ばれます。 お城御出入りの商人という言い方がされてはいました。 冒頭のドラマの商人も金を返せなどと取れる当てもない交渉はしないでしょう。 それよりも領内の商いの独占権を手に入れたほうが遥かに有利です。 流通している商品は限りなくありますから選り取り見取りです。 大名もそのほうが簡単でしょう。 つまり、ドラマのような下手な交渉をするような商人はいなかったということです。 まぁ~つまらん理屈は抜きにしてドラマを楽しんでください。 いいちいち揚げ足取りをしていたらラブロマンスなどというものは成り立たなくなってしまいます。 刑事事件も全部迷宮入りになるでしょう

jkpawapuro
質問者

お礼

テレビや映画にたいしてどのような楽しみ方をするかは各人の自由であり、またここはドラマカテではなく学問カテです。 実際の制度に興味を持つことにたいして学問カテで批判されれるのはいささか興ざめです。 薩摩藩などいくつかの藩は自領内の商人に対し多額の借金を踏み倒しに近い行為を行っていますが、これは藩の内部での内政問題です。 いっぽう天領の大商人や蔵宿との商取引は内政問題ではすみません。 それを同列に議論するのはいささか乱暴に覚えます。 >それよりも領内の商いの独占権を手に入れたほうが遥かに有利です。 これなどたとえば大阪の商人が津軽の商いの独占権を手にいれたいと思うのでしょうか? よそ者にやすやすと独占権を与えるとも思えませんし、あったとしてもあまり一般化できる話とも思えませんし、そういった交渉ができるのであれば逆になんらかの幕府の保護があった証左のように思えます。 ご回答ありがとうございました。

回答No.2

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 まずは、一部はあなたのおっしゃる通りです。 評定所の役目: (1)幕臣同士の争い。 旗本同士の争い。御家人同士の争い。旗本と御家人の争い。 (2)武士と庶民との争い。 (3)町奉行所管轄の庶民と寺社奉行管轄の宗教者(神官や僧侶など)の争い。 (4)幕府直轄の領民と藩所属の領民との争い。 (5)藩と藩との争い。 これらを裁決するのが評定所でした。 >>時代劇に藩が大商人(江戸・大阪などの)に借金をしてて、”返済いただけないなら評定所に訴え出ます”といったシーンが出てきますが はい、評定所に訴えることができました。 後述しますが、 「越後屋。お主も悪よのう、フッフッフ」 などの悪代官などは、事件が明るみにでたら、たたちに「解任」されました。 よほどの悪事が露見した場合などは「切腹」などもありました。 評定所の構成員: 老中1名。町奉行(南北で)2名。寺社奉行4名。勘定奉行2名。 この構成員を「評定所一座」と呼んでいました。 後には(場合によっては)、 評定所一座+江戸へ出府していた京都所司代や大坂城代、遠国奉行なども加えられました。 審理は、一応、一座の者たちが、訴訟の双方の意見を聞き、その後は、一座の者たちがお互いの意見交換をしますが、実際の審理(判断)は勘定奉行所から出向してきた「評定所留役」が一座の意見を集約して判断をし「判決原案」を作成しました。間違いがなければ、申し渡しは、再度、一座の総意として一座の者が申し渡しをしました。 >>強制執行の能力があるのでしょうか?それとも決定に従わないとおとりつぶしができるのでしょうか? これは、一座の構成員を見てもお分かりのように、「老中」が同席していますし、公方さま(将軍)はそのような小事にいちいち頭を悩ますよりももっと国全体の仕事がありましたので、公方さまは一切関わってはいません。 ただ、しいて言うならば、老中の意見=公方さまの意見・・・と考えても良いかもしれません。 さて、評定所の裁定に従わなかった場合ですが、 前述の代官などは、即刻、お役御免となりました。 旗本や御家人などの場合は「閉門」または「蟄居」、「隠居」などの処分。 大名などの場合は「隠居」(藩主の首のすげ替え)などで、よほどの事、例えば、兵を募って戦の準備をする・・・などでなければ、お取り潰しまではしませんでした。この場合は、さすがに老中一存とはいかないので、公方さまへ上申して決定を仰ぎました。

jkpawapuro
質問者

お礼

領地争いなどでは越境訴訟は評定所というのは知っていましたが、細かい金銭訴訟まで扱ってるかどうかはわかりませんでした。 ご回答ありがとうございました。

回答No.1

ご参考。 http://homepage2.nifty.com/kenkakusyoubai/zidai/hyozyosyo.htm 「原告被告を管轄する役所が異なる場合、評定所で審議し」とあります。 これは、ご質問にある「商人が原告、武士が被告」というケースの事を言います。 >強制執行の能力があるのでしょうか? 「評定所で協議し、将軍に評定し将軍が承認する。」とありますから、評定所の裁定は、最終的には「将軍様からの御沙汰」と言う形で被告に下されたと思われます。 >それとも決定に従わないとおとりつぶしができるのでしょうか? 「将軍様からの御沙汰に従わなかったらどうなるか」ですね。答えは明らかだと思いますが。

jkpawapuro
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。

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