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江戸時代の茶店
よく時代劇の茶店(店外で一服サービスする店)のシーンで大きな朱傘(赤傘)に座り台に緋毛氈(赤敷布)のシーンが出てきますがあれは本当ですか、本当に江戸時代からそんな派手なことやってたのでしょうか、また許されてたのですか?
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『熈(き)代勝覧』という貴重な絵巻(ベルリン東洋美術館所蔵)があります。これは文化2年(1805年)頃の江戸の情景を描いたもので、当時の風俗を詳細に知ることのできる超一級の資料です。絵巻は、現在の中央通り、つまり日本橋から三越前を通って今川橋(神田駅前)付近までを俯瞰描写したものです。実に細かいところまできわめて写実的に描かれており、その細かさは高札のお触れ書きがしっかり解読できるほどです。 日本橋から今川橋といえば、江戸時代最高の賑わいをみせている通りだといえるでしょう。 この絵巻の中にははっきりと茶店(または茶店風)とわかる店が三軒あります。 それらの茶店および蕎麦屋、居酒屋、饅頭屋などを含めても、そのような派手な店はありません。おっしゃるとおり、当時は暖簾の色、看板の材質など、かなり細かなところまで規制されています。少なくとも厳密に「江戸」といわれるようなところには緋毛氈の茶店などは存在していないと思われます。ただし、立ち売りの店に大傘(赤くないただの大傘)というのはよくあります。 しかし、祭礼や晴れ日のときは違います。江戸は寺社が多く、初売りや花見に花火、廿十六夜待ち、富士講や大山講、身延山講などといった催しも多いため「晴れの日」はかなり頻繁にありました。このときは町人も「晴れ」の着物をきたり店も派手な(というよりやはり「晴れ」)装いにしたりしたようです。祭礼のときに規制が緩やかになるのは、(なんと)江戸城の通り抜けが許される日があることなどからもわかります。 よくあるのは山王祭礼・神田祭礼の絵ですが、このときは町人も侍も町並みもとても派手になっていることがよくわかります。店の装飾としては提灯、雪洞といった灯りものに緋毛氈や天幕、また花のついた木の枝を軒じゅうに掛け並べるなどしていたようです。ま、水野忠邦は眉間にしわを寄せていたかもしれませんが、将軍も参加するほどの祭りですからね。 質問者さんがおっしゃるような茶店はそのようなときのものだと思われます。江戸ではしょっちゅう縁日などがありますので、よく見かけてもおかしくないかもしれません。ただし、居酒屋や蕎麦屋が地味なままで茶店だけ緋毛氈というのはリアルではない気がします。 茶店の緋毛氈と赤い傘(野点傘)は派手にしたいからというわけばかりではなく、野点(京風)からとりいれたからだともいえるでしょう。これも「晴れ」のひとつだと思われます。
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浮世絵、錦絵に、茶店が出ているものもありますが、出てきますよ。 粋な、お江戸の茶店は、そういうものも、あったでしょうが、「峠の茶店」なんかは、無いのでは、ないですか。
お礼
峠の店はやはりやってないかもですか、どうもありがとうございました。
- nymph
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まず、可能ならば歌舞伎座や国立劇場(お住まいの地区によっては、御園座や博多座、松竹座とかでしょうか?)へ、本物の歌舞伎を見に行ってください。 そうすれば、答えはおのずとわかりますよ。 そもそも、なぜ「江戸時代からそんな派手なこと」が「許されていたのですか?」という質問が出るのか、私には理解不可能なのですが…? 江戸時代=地味で質素、というイメージがあるのかな? それはトンデモない誤解です。江戸時代の庶民は、贅沢や華美なものが大好き。金持ちが競い合って派手さを見せびらかすものだから、しょっちゅう幕府から贅沢禁止令が出るのです。 茶店は大勢のお客さんに休憩してもらってナンボ、の商売です。ほこりっぽい道ばたで、暗い色合いの目立たない店広げていたら、客が来ないではありませんか!赤とかの目立つ原色で飾り、「ここに茶店がありますよ。一服していってください」とアピールしなくちゃ。それは現代の客寄せ戦略と同じ論理です。 ごなっとくいただけましたでしょうか。
お礼
ありがとうございました。
お礼
祭礼のときはやってたかもですね。貴重な回答ありがとうございました。参考にします。