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物語論??
どこで質問すればよいのか分からず、こちらで質問させていただきます。ちょっと思うことがありまして、物語というものを腰をすえて考えてみようかなって思っています。けれども、どのようなものから手をつけてよいのやら分かりません。どうぞ皆様よろしくお願いします。 質問1 「物語論」ってどんな学問ですか?サイトで調べたのですが私の調べ方が悪いのか、専門用語が多かったり外国語の訳からの引用なのか日本語が難しい文章ばかりで、分かりやすく説明してくれるサイトが見つかりませんでした。教えてください。 質問2 日本でも教訓・人生訓などを物語化して伝えることが多分にあります。では、物語化することの利点とは何でしょうか??またこのようなことをまとめた書籍やサイトがあれば教えてください。 質問3 しかし、長所と短所は紙一重だと思います。物語化することでの弊害というものもあるでしょう。それというのはどのような所でしょうか??またこのようなことをまとめた書籍やサイトがあれば教えてください。 質問4 また上記の質問をお読みになって、アドバイスまたはお勧めの書籍やサイトを教えていただけると嬉しいです。 文章を書くのはあまり得意ではないので、読み取りにくい質問ではあると思いますが文意を読み取っていただければ幸いです。どうぞよろしくお願いします。
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お礼欄拝見しました。 > これこそが、物語化することによって得られる効果なんじゃないかと思うんです。 同感です。 たとえば戦争の語り部という方々がいらっしゃいます。 この人たちがやっていることは、単に自分の経験を伝えることだけではない。おそらくそれを「物語」として伝えることによって、そうして聞き手がそれを思い起こし、自分の物語として生き直すことによって、その経験は個人の経験を超えることができるかもしれない。 一個人の体験は、その人が死んでしまえばその体験も死んでしまいます。 けれども「物語」とすることによって、聞き手が思い起こし、自分の「物語」として紡ぎ直すことができるなら、それはひとりの経験を超えることができると思います。 > こういった効果については心理学や脳科学の視点からも解釈できるんじゃないと思うんですよね。 わたしはちょっと前にちょっと論理実証主義について勉強したことがあるんですが、いまの脳科学が、当時の論理実証主義者のように、いわゆる「心の働き」を脳の機械論的因果法則に還元できるとういう立場を取っているかどうかはよく知りません。 もし現在の脳科学が目指すものが、心の働きを脳の物質的諸機能に対応させ、還元して把握することを目指しているとしたら、わたしはそれはちがうのではないか、と思っています。もしかしたら、微分方程式を解くときと、詩を読むとき、脳の活動する位置がちがっているかもしれませんが、だから何? と(笑)。 まあ何にせよあまり知らないことをこれ以上書くのはやめておきます。 文学の研究は、そもそも昔話の構造を分類していくところから始まって、やがて文学を、従来の印象主義的批評、感動とか、作者の体験の反映とかいうところから離れ、作品を独立したものとして、研究の対象としていこうとするなかから発展していきました。 質問者さんも最初に検索されたとき、あまりの用語の多さに(かつ、誰が言っているかによって定義がちがう!)、きっと驚かれたことと思います。 それも、作品をできるだけ精緻に分析していこうとした流れのなかから生まれたものです。 そういう時代を経て、文学の研究は「読者」へと関心が移っていきます。「読む」ということはどういうことなのか、「解釈」というのは、いったいどの段階で生まれていくのか、そういうことが問題になっていくわけです。 一方、「物語」という考え方は、哲学のなかでも重要な概念といっています。 中山元の『思考の用語辞典』(ちくま文庫)の「物語」の項目は、物語に関連する哲学が要領よくまとまっているので、ごらんになってみてください。 以上、雑ぱくな回答でしたが、質問者さんのお役にたてればこれほどうれしいことはありません。 野家さんの『物語の哲学』は、かなりのページを割いて柳田国男にもふれられていたと思うんですが、全然覚えてない(トホホ)ので、もう一回読み直そうと、この回答を書いたときからずっと探しているのですが、どういうわけか行方不明で参照できないんです。 たぶん質問者さんの関心のある部分に一致しているように思います。岩波文庫じゃなくて、白い表紙の現代文庫の方です。
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- ghostbuster
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お礼欄拝見しました。 > 「桃太郎」という物語の中に登場する犬・猿・雉は、忠義・知恵・勇気を表すそうです。 この桃太郎の中では忠義・知性・勇気という言葉ではなく、犬・猿・雉でそれを伝えようとします。それはなぜか?と思ったからです。三つの心を三つの動物として表したことにも何か意味があるのではないかと思ったわけです わたしたちに与えられているのは、「お話」です(ときに小説、文学、新聞記事…とさまざまですが)。そこから「物語」を取り出すのは、聞き手・読者です。 たとえば「桃太郎」のなかに「男の子がひとり旅立ち、旅の途上で知り合った仲間とともに悪い敵を倒す話」という「物語」を取り出すのは、聞き手なんですね。お話のどこにもそんなことは書かれていない。 けれどもこの「旅立ち、仲間とともに悪い敵を倒す」という物語は、おそらくこの話を知っている人はかならず引き出せる「物語」です。 それに対して、この鬼のことを「悪い敵」ととらえず、鬼を「絵本の鬼ヶ島の鬼たちも、図体ばかり大きくて、猿に鼻など引掻かれ、あつ! と言つてひつくりかへつて降参したりしてゐる。一向におそろしくも何とも無い。善良な性格のもののやうにさへ思はれる。」(太宰治「お伽草子」)ととらえることもできる。 となると、ここから引き出すのは別の「物語」です。太宰は「犬、猿、雉の三匹の家来も、決して模範的な助力者ではなく、それぞれに困つた癖があつて、たまには喧嘩もはじめるであらうし、ほとんどかの西遊記の悟空、八戒、悟浄の如きもののやうに書くかも知れない。」とも言っています。質問者さんのおっしゃる「忠義・知恵・勇気」とは大変なちがいです。 このように、ひとつの作品からはいくつもの「物語」が引き出せる。作品は「物語」の束なのです。そうして、誰もが引き出せるような「物語」もあれば、なかなか引き出すのがむずかしい「物語」もある。あるいは、自分はこんな「物語」を引き出した、と思って他の人に話すと、ああ、そういう見方もあるんだ、と共感してくれるような「物語」もあれば、誰も納得してくれないような「物語」もある。 そうです。わたしたちが一般に「解釈」と呼んでいるのは、「作品から物語を取り出す」という行為なんです。 さて、こうした昔話では、あまり問題にはならないのですが、近代ぐらいから小説の中心は「登場人物の気持ち」が大きな問題になってきました。学校の国語や試験でいつも問われてきたのが、「このとき主人公はどういう気持ちだったでしょう(どうしてそんなことをしたのでしょう/どうしてナントカになったのでしょう)」ということです。 なぜそのことが問題になるのか。 答えは簡単ですね。そこに書かれていないからです。つまり、そういう切り口によって、作品から問題を取り出しなさい、と指示しているのです。 わたしたちもふだんそのことを中心に物語を取り出そうとします。小説を読んで、何がなんだかちっともわからない、と、途方に暮れるのは、多くの場合そういう「登場人物の気持ちという物語」を引き出せないからです。 逆に、もしここで、「AはBを心の底から憎いと思った。だからBを殺した」と本文に書いてあったとします。わたしたちはそれを情報のひとつとして頭の中で処理します。そうしてさらなる「物語」を期待しながら読み進みます。もしそれ以外に「物語」がなかったら、なんだ、それだけのことか、とがっかりするでしょう。 ここから言えるのは、「気持ち」は情報として与えられているのではなく、読者が作り上げる「物語」である、ということです。 (なんで近代以降「人の気持ち」が大きな問題になってきたのか、とか、ほんとうにそれが一番大切なことなのか、とか、いろいろあるんですが、長くなるのでパス。でも、昔話では「人の気持ち」はあまり大きな問題にはなりませんよね。つまり「人の気持ち」を取り出すばかりが「物語」ではない、ってことだけ、頭のどこかに入れておいてください) さて、ご質問に戻ります。 > 「桃太郎」という物語の中に登場する犬・猿・雉は、忠義・知恵・勇気を表すそうです おそらくこれはもともとそうだった、というより、これも取り出した「物語」のひとつといえるのではないでしょうか。 そこから何を取り出すか、というのは、わたしたちは実はかならずしも自由に取り出しているわけではない。時代の制約を受けている、というか、空気のようにはっきりとはわからない、その時代特有のものの見方考え方に従って、取り出している、ともいえます。 この「桃太郎」は戦時中の教科書にかならず採用されていたといいます。なんとなくそういう時代に出てきた「物語」かなあ、という印象を受けます。 そしてまた「決して模範的な助力者ではなく、それぞれに困つた癖があつて、たまには喧嘩もはじめるであらうし」という太宰的な「物語」を取り出すことも可能だと思うんです。 > 三つの心を三つの動物として表したことにも何か意味があるのではないかと思ったわけです。 いまは「物語」の伝達というと、書かれたものが中心になっていますが、そうではない時代、とくに、口から口へと伝えられる「物語」が大きなウェイトを占めていた時代があった。昔話というのは、とくにそうしたものでしょう。たとえば「舌切り雀」の話を子供たちに聞かせながら、だから欲を出してはいけないんだよ、と教訓を一緒に語られることも多かったと思います。 お話抜きに「欲を出してはいけない」と話すと、それは「情報の伝達」に過ぎません。聞き手の頭の中ではあまたある情報のひとつとして処理されます。 けれども「お話」として伝えられるとどうでしょう。繰りかえし聞かされた子供は、そこから自分の「物語」を頭の中で再現するでしょう。 頭の中の「物語」の空間は、「いま・ここ」とは別の時間・空間、昔むかしの雀のお宿があり、雀が踊り、話す空間です。その空間で遊ぶ子供のなかに、「教訓」も生きたかたちで織り込まれていく。 やがてその子供は話の送り手となっていくでしょう。そのとき、もしかしたら自分の経験を教訓として織り込むかもしれません。 いずれにせよ、口から口へと受け継がれていく昔話には、そうした教育的役割もあったのではないでしょうか。 このことも、そう考えることができるのではないでしょうか。
お礼
たびたび回答ありがとうございます。私の粗末な文章から文意を汲んでいただきましてありがとうございます。 >>「物語」を取り出すのは、聞き手・読者です。 なるほど。確かにそうです。太宰治氏生きた時代背景を考えれば、 >>「決して模範的な助力者ではなく、それぞれに困つた癖があつて、たまには喧嘩もはじめるであらうし」という太宰的な「物語」を取り出すことも可能だと思うんです。 というのも納得です。時代背景ということで言えば忠義・知恵・勇気というのは、私たちの知っている桃太郎の原型となった物語は室町前期に成立していて武士の時代真っ只中であったことからも信憑性が高いと思います。私は時代背景と共に多くの解釈が生まれるということも頭に入れながらも、作者(『桃太郎』等の説話・神話には作者があってないようなものでしょうが・・・)もしくは物語を伝えてきた多くの人々の意図を読み取りたいと思うのです。 >>お話抜きに「欲を出してはいけない」と話すと、それは「情報の伝達」に過ぎません。(中略)けれども「お話」として伝えられるとどうでしょう。繰りかえし聞かされた子供は、そこから自分の「物語」を頭の中で再現するでしょう。 私が気になっていたのはここです。これこそが、物語化することによって得られる効果なんじゃないかと思うんです。また、こういった効果については心理学や脳科学の視点からも解釈できるんじゃないと思うんですよね。誰かそういう研究してる人はいないですかね?(笑)なんとなく糸口はつかめたような気がします。 本当に参考になりましたありがとうございました。
物語「論」というと哲学の分野なのですね。 ghostbusterさんたいへん勉強になりました。おもしろかったです。 物語論とは言えないかもしれませんが 文学の方では民話や都市伝説を蒐集した人がいますね。 筑摩文庫に現代民話考〈8〉ラジオ・テレビ局の笑いと怪談 というのがあります(一例)。 これを眺めるとちょっと物語作法のテクニックのようなのが見えてきます。(特にNHKキャスターの)
お礼
回答ありがとうございました。 >>物語「論」というと哲学の分野なのですね。 そうですね。哲学も分野というよりはどの学問にも哲学的な要素が含まれているということでしょうね。科学も歴史学も美術であっても哲学の要素が強い部分を内在しているように最近思います。 >>筑摩文庫に現代民話考〈8〉ラジオ・テレビ局の笑いと怪談というのがあります(一例)。これを眺めるとちょっと物語作法のテクニックのようなのが見えてきます。(特にNHKキャスターの) 私は物語というものの中でも民話、宗教説話、神話なんかに興味があるので、紹介していただいた本も探してみます。 ありがとうございました。
- ghostbuster
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簡単に回答していきます。おおざっぱなものですから、疑問点などありましたら、補足質問してください。 質問1 まず、物語論が扱う「物語」と呼ぶ対象の範囲は、非常に広いものです。 質問者さんは、 > 日本でも教訓・人生訓などを物語化して伝えることが多分にあります。 と言っておられるように、物語をごくせまいものとしてとらえておられることがうかがえるのですが、そんなものばかりが「物語」ではありません。時計の「チック タック」という音すらも、一種の物語であるということもできるのです。 つまりそれは、わたしたちが時計の音を「チック タック」と聞いてしまうのは、本来ならば同じ音を、「チック」という始まりとし、「タック」という終わりとする音で聞くことによって、時間を人間化して構成しているということです。 出来事というのは、あたりまえですが「出来事」として起こるわけではありません。絶え間なく流れ続ける時間と同じく、本来なら混沌として続いていきます。そこに「チック」という始まりの切れ目と「タック」という終わりの切れ目を入れているのは、わたしたちの意識です。 あるとが起こる、と言う。 起こる、ということは、ひとつながりの時間の流れに「始め」と「終わり」の切れ目を入れて、言葉を用いて取り出す、ということです。 この切れ目は見方を変えれば「原因」と「結果」ということもできます。これをつなげること。つまり、それが「物語」です。 たったひとつの文章の「物語」もあります。 「三十年戦争は、一六一八年に始まった」という文章も一種の物語です。 というのは、この文章の中には戦争が始まった1618年と、戦争が終結した1648年と、さらにその戦争が「三十年戦争」と命名された以降のこの話が語られた三つの時間の三つをふくんでいるからです。 古代の神話から歴史、三面記事、人びとの会話、自己紹介、現代の科学理論にいたるまで、すべて「物語構造」を持っています。 おおざっぱに言って、あらゆるもののなかに存在する「物語」の構造を考えるのが「物語論」と言うことができるでしょう。 質問2、3、4 > 物語化することの利点・弊害とは何でしょうか 重複になりますが、物語化の作用を経ない「事実そのもの」というなにものかがどこかにあるわけではありません。言葉で現実を分節し、一定の時間・空間的秩序において眺める、ということ自体が「物語る」ということなのです。 ですから、物語化せずに、わたしたちはものごとを認識できません。 外国の人があまりお好きでないようですので(笑)、野家啓一『物語の哲学』(岩波書店)を参考文献としてあげておきます。この本はちょっと前に文庫になったので、入手しやすいのではないかと思います。
お礼
回答ありがとうございます。大雑把どころか、私日は非常に分かりやすくて助かりました。 >>まず、物語論が扱う「物語」と呼ぶ対象の範囲は、非常に広いものです。 本当ですねぇ。私が思っていたよりもずっとっずっと広くて深いようですね。 >>あらゆるもののなかに存在する「物語」の構造を考えるのが「物語論」と言うことができるでしょう。 なるほどぉ!興味深いです。やっぱり勉強してみたくなりました。ぼんやりとですが何をすべきか全体像がつかめてきました。ありがとうございます。 >>物語化せずに、わたしたちはものごとを認識できません。 確かにその通りです。234の質問に関して私の意図としては、「桃太郎」という物語の中に登場する犬・猿・雉は、忠義・知恵・勇気を表すそうです。この桃太郎の中では忠義・知性・勇気という言葉ではなく、犬・猿・雉でそれを伝えようとします。それはなぜか?と思ったからです。三つの心を三つの動物として表したことにも何か意味があるのではないかと思ったわけです。234の質問は物語論からは少し外れるんですかねぇ? とりあえず、野家啓一『物語の哲学』(岩波書店)は読んでみたいと思います。お時間ありましたらまたよろしくお願いします。補足と御礼を同時に行うご無礼お許しください。
お礼
何度も本当に回答ありがとうございます。回答何度も読ませていただいています。 >>けれども「物語」とすることによって、聞き手が思い起こし、自分の「物語」として紡ぎ直すことができるなら、それはひとりの経験を超えることができると思います。 まさにそうだと思います。私は大学時代史学をかじっていましたが、年号は忘れてしまいましたが、物語というかどんな出来事であったか先生と飲んで話した内容が覚えていることが多いですね(笑) >>微分方程式を解くときと、詩を読むとき、脳の活動する位置がちがっているかもしれませんが、だから何? と(笑)。 実は私も脳科学にはまったくの素人です。まぁ素人の聞きかじった知識での思い付きでして、人間が記憶するとき感情を伴う記憶は強く残ることが脳の機能として分かってきているそうです。そういったことは物語のもつ特性ということにあてはめられないかなぁと思ったんですよ。 >>まあ何にせよあまり知らないことをこれ以上書くのはやめておきます。 ghostbusterさんの学問に対する真摯な態度が伺えます。私も答えは保留にしておこうと思います。 >>中山元の『思考の用語辞典』(ちくま文庫)の「物語」の項目は、物語に関連する哲学が要領よくまとまっているので、ごらんになってみてください。 >>野家さんの『物語の哲学』(中略)たぶん質問者さんの関心のある部分に一致しているように思います。岩波文庫じゃなくて、白い表紙の現代文庫の方です。 『物語の哲学』は購入させていただきました。今読んでいる本を読み終わったら取り掛かろうと思っています。『思考の用語辞典』も探してみます。 色々納得することばかりで、参考になりました。本当に心から感謝いたします。ありがとうございました。