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神様ループについて
「『神様に見られているから善い行いをする』 という考えは不純である。」 という考えをもっている自分は清純であるから 神様も評価してくれる・・・ という不純な考えも神様はお見通し。 以下繰り返し・・・ わかりにくいですがこのようなループにはまりました。 神視点が存在する前提で考えるとこのループは抜けられない 気がするんですが、この手のループについてすっきりした考え方はないでしょうか。
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この類のループは「無限遡及」と呼ばれています。 無限遡及を回避する方法を捻り出せば良いわけですね。 今回の問題では、神様は清純な考えだけを評価して 不純な考えを評価しないという条件が不動の前提として 設けられているようなのでそれはそのまま置いておき、 他に融通が利く要素を発見してそれをいじれば避けられます。 まず、物質の硬軟や距離の長短のような物理的に計測できる 性質ならば世界共通の客観的な基準を設ける事が可能ですが、 「不純」「清純」という二項対立の判断はあくまでも 価値観の一種に属するので、美醜や好悪などと同様に 価値判断を計る尺度は人それぞれの主観によって好き勝手に どの位置でも設定する事が可能であり、ご自分がその基準(この 場合は清純を保つ為に越えてはならない一線)の線引き位置を いかなる根拠で確定させたのかを突き詰める事が大切です。 「『神様に見られているから善い行いをする』 という考えは不純である。」 という価値判断に明確な根拠がはたしてあるのかどうか。 もし計算高さという性質がイコール不純に直結するならば 人間の知恵や営為の全てが自動的に不純であるという 極端な話になってしまうため、極端を避けて世界の中に 清純の余地を少しでも残すため、どこか適当なラインで 基準を設定しているはずです。 つまり、何となく決定したであろう清濁を分かつモラル基準を 「『神様に見られているから善い行いをする』 くらいの小賢しさはまだ不純の範疇には入らない」 という程度まで意図的に低く設定しさえすれば 今回の問題は無限遡及に陥らずに済むわけです。
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- noname002
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ふうん「無限遡及」そのものの問題だったんですか。。。 または「循環論法」或いは「自己言及」ですか。 論理学では虚偽にあたるそうですから、そんなもんにハマったってしょうがなかろうと思うのですが。(笑) よりによって対象に「神さま」の名を持ち出したのでは…そりゃあ「ループ」に陥るのも当然かとは思いますが、イヤまぁしかし自分自身にしたところで、同じことなのでしょう。つまり求めようのない根拠の根拠を求めてしまうとキリがない。問いが答えで答えが問い。 「なんにも仙人」よろしく全く何もせずに生きていくことはできないのですから、あるのかないのかさえ分からない正答を待ってから行動するわけにもいかない。 それとも正答が下されるまでは、いっさいの「善行」なるものは、しないできないならば結局、何もできないまま肝腎の「神さまの評価」なるものも得られないというわけですから「ループにはまって」悩むことすら無意味です。というか、そんな「ループにはま」る事自体、直面などサラサラしていないということになりましょう。 ですから「すっきり」も何もNo.8で申し上げた >御自分の信ずるところに則って行動なされば宜しいのです。と言うか、しょせん、それしかできません (それしかできないのだという、すなおさ。自己欺瞞に気をつけながら!) ということになります。 もっとも、その「ループにはま」るのが快感で抜けられないことにヨロコビを感じられるのでしたら、それはそれでいいんじゃないでしょうかと思います。 全く手も足も出ない出さない「なんにも仙人」なら人畜無害ですし。
お礼
みなさまご回答ありがとうございます。 やっぱり、という感じです。 うまく言語化して整理できればよかったですが、 この辺で締め切ります。ありがとうございました。
- taco8ch
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私の場合、善い行いは、 必ずだれかが見ているところでします。 だれも見ていないところでは、決してしません。 そんな私は純粋なのでは?
補足
だれかとは客観してるつもりの主観も入るでしょうか。 だれも見ていないところではしないということは 入ってないですかね。
- noname002
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♪だーれもいないとおもっていてもどこかでどこかでカミサマは♪ 一つずつ解体してみましょうか。 「神さまに見られている」 見られていると感じるのは何故ですか?それは確認できたことなのですか? 「善い行い」 とは、どのような行いですか?それは「神さま」に確認できたことなのですか? 「清純である」 清純とは、どのようなものですか?清純であるという判断は誰が下しているのですか? 「神さまも評価してくれる」 神さまが評価してくれるとは、どのように確認するのですか?神さまの評価基準を、なぜ貴方は御存じなのですか? 「不純な考え」 不純とは、どのようなものですか? 「神さまはお見通し」 それは確認できるのですか? ところで「神さま」って誰? 「神視点」って誰の視点? 「神の御意」なるものに従うことを喜ばれるなら、それでいいわけでしょうけど、「神さま」って、とにかく人間が盲目的に従うことを要求する存在でしょうか、それとも主体的に選びとった、その判断が「神の御意」なるものにかなったものであることを喜ばれるのでしょうか。どっちかな? 「神の御意」実際それすら分からないのではありませんか? この御質問は結局、「神さま視点」「神さま基準」などというものに関係なく、自分自身が動機が不純と感じられるようであってはいけない、清純でなければいけないのではないかとおっしゃってるように感じます。つまり御自身の人としての主体的倫理観のことを気にしていらっしゃる。 それなら御自分の信ずるところに則って行動なされば宜しいのです。と言うか、しょせん、それしかできませんから。 自己の利益を図りながら生きていくのは人に限らず生きてる者なら誰しものこと、それは摂理です。要は、本当に利益にかなっているかどうかが大事であって 問題にするべきとしたら、自分自身の不純さを強く感じていながら或いは、それに無頓着なままゴリ押しを通すためにヘリクツをつけてゴマカし、自分で自分を欺くことの気持ち悪さに鈍磨していくことでしょう。 まあ早い話が、御自分が「神さま」になってるようなもんだと気づけば宜しいのだと思います。 それにしても「神さま」ありきの話題が多いこと!それも擬人的な(笑)
補足
ここで質問したかったのは 論理的な話で、例えとして神様、清純、不純を出したつもりでした。 わかりづらくてすみません。 前提として神を全知と定義しているにもかかわらず、 視点を飛ばして神の背中をこっそり覗こうとするようなもので、 論理的に無理であることは理解しています。 無限遡及というような考え方の例を知りたかったのです。 質問の仕方に問題がありましたが、 清純でなければいけないのではない、とかの話ではないつもりでした。
- fuwapoyo
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「『神様に見られているから善い行いをする』 という考えは正直であり神様はお見通しである。 「『神様に見られているから善い行いをする』 という考えは不純である。」 という考え(客観ではなく主観)をもっている自分は不純であるが正直である。 と、いうことになり神様ループは命題が成り立っていないので無限遡及になりません。
お礼
>「『神様に見られているから善い行いをする』 >という考えは不純である。」 >という考え(客観ではなく主観)をもっている自分は不純であるが正直である。 正直である=純粋である、よって神様評価UP。 ↓ でも結局神様評価狙ってることはお見通しで神様評価DOWN。 ↓ 神様評価DOWNということを認めているから正直で神様評価UP・・・ というようなループなんですが、無限遡及とはちがいますか。
- kigurumi
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解決策は、「あれこれ考えているが、そもそも 私は神の義がなんたるかを知らない」ではないか と。 知っていれば神と同じ頭脳の持ちぬしで、神と同等になっちゃう。 そうなってしまったら 好かれない 愛されたい という対象がなくなり、動機が発生しない。 「神の義がなんたるかを知らないが、自分は神と同じ価値観だったらいいなぁ」と憧れることは悪いことじゃない。 動機として純粋。 でも、自分の正義を神様の正義であると、確信しちゃうまでになって、部下に「殺せ」と命令してしまっては、果たしてそれが本当に全くの義なのだろうか? って思うんですね。 イエスは神から他の土地の人々を殺して土地を奪えと言われたと思い込んで、大量虐殺をして土地を奪いました。 イエス側に言わせれば、聖絶ですが、現代でいえばおぞましい宗教団体による大量虐殺。 今もってその土地をめぐって争っています。 どうなんでしょうね。 神が本当にそんなこと言ったとしたら、どうして今もってその土地をめぐって今ももめているんでしょうね。 なんであなたがもんもんとして、中東が土地をめぐって争いを続けているのかというと、誰1人 神の義がなんたるか証明できていない にもかかわらず、その証明を抜きにして、もんもんと考えたり、土地の取り合いをしていることにあるんじゃないか と。
- HIKARU 0321(@HIKARU0321)
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>「『神様に見られているから善い行いをする』 という考えは不純である。」 不純じゃないですよ。 単純(=純粋)に自分で善いと思った行いは善いです。 不純に自分で善いと思った行動はちょっと”いやらしい”です。 でも、全ては返ってくるのでそれで五分五分でしょう。 善い事をすれば善いことが帰ってくるし、悪い事をすれば悪いことが返ってきます。 なんでそんなに気にする事はないですよ。 私の友達はバイトで空港の駐車場の窓口をしてました。 自動清算機に代わって窓口が入った事により料金が安くなりました。(日本と違い、人権費の方が機械よりも安い国は多くあります。) しかし、ドライバー達は料金を多めに置いていきます。 多いと言ってもドライバーは忙しいのでそのまま過ぎ去って行きます。 そこで彼は困りました。このお金をどうしたらいいか? 彼のバイトの同僚たちは普通にポケットにしまい持って帰ります。 彼はボスに聞きました。ボスは驚いて「他の人達と同じように自分のポケットにしまって持って帰れば良いんだよ。」と言います。 しかし友達は「それはできない。自分は良くてもいつも神様は監視カメラのように見てる。代償のない利益は得られない。」 と言って帰りの道中、ホームレスにその多めのお金をあげていました。 と彼は善者のように見えますが、 携帯電話会社から半年間、月$5多めに請求されていたので返金を要求したところ3ヶ月分しか戻りませんでした。それが会社の規則だと。 それ以来、彼は使用者名が別人(国外出国済)なのもあって半年間一銭たりとも電話代を払うのを止めて使い続けました。 世界中に電話をかけ始めた頃、ようやく電話会社は支払う意思無しとみて電話番号使用中止にしました。 私は彼の宗教と同じではありませんが(典型的な日本人の無宗教でもあり、何でも教です。)、 私個人の信条では”神”とは自分自身のことでもある気がします。 人間だれしもが”神様”にもなれ”悪魔”にもなれる。 戦時中に”神様”になれるかと意ったら、社会、環境が許しません。 ”悪”と自覚なしに汚れた”正義”の名にかけて人を殺し、不幸にさせなければなりません。 今の日本の社会では自分の意思で”神様”にも”悪魔”にもなれます。 そんな素敵な環境(自分で選び、決められる環境)で生きれることに感謝します。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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【「『神様に見られている】そしてだから【善い行いをする』】 この両方とも【不純)で】ではないと存じます。私たちは神様という創造者の意識の中のないようですから、いつも神から別にいるということはありません。ですからそのご意識を感じていることは不純ではない。そしてその感じている意識で行為することも不純ではない。 その行為が自分の都合のよいことを頂くためのものであったりしては不純であるということになりますね。 【神様も評価してくれる・・・】ことは大事で、神のご意志にそぐわないものは、いけません。神が喜んでくれることは大事で、それ以外のことを下心で持たないことは私たちには大事なことではないですか。
- augustinus
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「神に見られているから善い行いをする」という考えが、なぜ不純であるのか考えてみると良いのではないでしょうか。 神の存在を強く意識するのは、一神教の影響ですね。 本来一神教は、神との契約を守った人間だけが、神から赦されるという考えです。 だから、神に見られているから善い行い(契約内容の履行)をするというのは、宗教的には純粋だといえます。 ただ、見られているというのは、見られない場所があるという考えがあるため生まれる発想です。 果たして神に見られない場所はあるのでしょうか。 ともかく、清純か不純かという問いの対象が、宗教であるのであれば、それは清純といえます。 しかし、その問いが、自身の倫理観や価値観に対してであれば、発問内容を変えるべきですね。 そもそもこの問いが生まれた原因にこそ、問題の真相が隠されています。 何故、この問いを考えたのでしょうか。
神は 意識 想像 精神 などなど経験領域のすべてを超えています。 かみという言葉をも超えています。 概念をも超えていますし k-a-m-i という発音をも もちろん 超えています。 ただし 早く来てくださいと言葉を発して 祈ってもよいと思います。
お礼
みなさまご回答ありがとうございます。 清純、不純といった例をあげてしまいましたが 論理的に抜け出せない 客観の客観の客観・・・のループ(無限遡及というのですか) に対する折り合いのつけ方が知りたかったのです。