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私と記憶?
私と記憶とは何なんですかね?どんなつながりがあるのでしょうか? 大学で哲学を勉強していますがよくわからなくなってしまいました。わたしとは何?と研究していたところ記憶という話が後輩から出てきて関連性があるのではないかと・・・ 記憶とは何によって支えられているのでしょうか? お金の貸し借りで僕は覚えていないけど確かに借したというA君。B君に証言を求めたら確かに借していたいうので返しました。このときB君が貸し借りの場にいなければ・・・またはB君が覚えていないといった場合は?記憶ってあいまいですよね・・・一致しない場合も多々あります。 記憶によって支えられているものは何なのでしょうか?またその記憶は何によって支えられているのでしょうか?
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記憶というのは過去にむけての空想です。 知覚に連動して想起される一連の思考およびイメージです。 マドレーヌを食べたプルーストが失われし時を求めて脳裏に うかぶことがらを語るのが記憶です。 私・・・というのは、主観ということでこの世に穿たれた穴みたいな もので思考の観点、立脚点ですね。 とりあえず現世との接点をもたないと、現象を把握できないから 仮決めで穿たれたのが「わたし」という一個の意識です。 記憶の集積がわたしではない証拠に、記憶は時としてわたしを裏切る つまり、過去の事実と思い込んでいることは、将来誤解や記憶違いで あったことが往々にして出てきたりします。 つまり、記憶は正確性を欠くばかりか、複数の記憶が将来いくらでも 差し替え可能になっているということです。 むしろ、「わたし」とは現在にしか存在しえないもので、過去の記憶に すがろうという心情は未来に向かう不安を払拭したいがためのものでしょう。 記憶は何によって支えられているか それは、「主観」の都合によって取捨選択して再構築された物語と呼ぶべきです。 記憶によって支えられている・・・と思っているのは主観のアイデンティティという見方もできますが、実際は、主観のお気に入りの記憶だけが時間とともに都合よく塗り替えられていったり、あるときは悲しい記憶が不意に襲いかかって私を不安に陥れたりもするのです。 要するに記憶とは、現時点での意識の生み出した妄想にすぎないのです。 過ぎ去った過去はとりもどせない。理性はつねにそう語りかけています。
- magga
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<<論理的に理性的に道徳的に実証的にと解決する。捏造の上に成り立ったもの。「妄想と妄想」の関係性を客観的事実に基づいてみることは叶わない。この3つが矛盾しているようでこの内容が理解できませんでした。>> 我々は六根(五感と意識)に刺激を受け純粋なデータを受け取っているはずですね。しかしそのデータを好き・嫌い・どちらでもないというトッピングをし、今までの何らかの経験・概念・思考によって形付け、感情の色づけまでします。 同じものを観ても人それぞれ作り出す概念は違うでしょう。 これが捏造です。 「私」とは何でしょう。心の仕組みがあるだけなのに、これに我々は「変わらない私」と言う感覚をいだいてはいないでしょうか。いだくから「これは嫌だ」といって怒こったり、「これが欲しいと」欲を出したしして、現象を撥ね退けようとしたり引き入れようとしたりするのだと思います。結果は思うように現象は動かないのでその現実との差だけ苦しむことになりますね。 私と言うシステムの働きを、心の働きを「瞬間瞬間変化すると」明確に観察し理解するなら「怒り」も「貪欲」もでようがないでしょう。 その意味において、「私」は往々にして「妄想・概念」といえると感じます。 「記憶」もそのように妄想の「私」によって現象を見ていたのです。現象そのものなどなかなか見れていないのです。しかもこのような人間の記憶の頼りなさは現代医学でも皆知るところにあります。 妄想だらけです。 その頼りない妄想の「私」において行われた、頼りない妄想に覆われた「記憶」との関係性…を頼りない妄想の「私」において似る時点で、客観的という視点はもてませんし。 と言っても我々の中にもいくらか理性があるわけです。その理性を使って、論理的に理性的に道徳的に正しいとは何か考えるのです。(パーリ語の)仏教ではその際の姿勢や、方法、を具体的に教えています。 道徳的生き方とは論理的に理性的に観るとどのようなものか。捏造を破る方法はどのようなものか。と実証的に具体的に実践方法を教えられていますので自ら確かめるのです。 この方法は理性的な方法と言っても善いと思います。 <<われわれの記憶は妄想、今ここにない、私たちは今現在をなかなか見れていない、この言葉も引っかかります。>> 今ここに過去はあるでしょうか。未来はあるでしょうか。どちらも概念思考でしょう。現状の感覚によって形成される「今」しか純粋な正しいデータはないのではないかと思います。 今を観れていれば何に「怒り」を感じることが出来るでしょうか。何に「貪欲」をいだけるでしょう。何に「悩み」が生じるでしょう。 結局は頼りにならない過去の記憶と未来の期待や不安を観て、たいして今を観ていないから生じるのだと考えます。 「われわれの記憶は妄想」ではなく「われわれの記憶は主に妄想」ですね。 上記のとうり、今を観ているつもりで頼りにならない過去の記憶と未来の期待や不安を観て、たいして今を観ていないという現状がずっと続いていますから。 それを元にしたものは「主に妄想」ともいえるでしょう。 その「今」を厳密に観察していくのが観瞑想で上座仏教の修行の主たるものです。
- kobarero
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#8です。 >私=記憶となると腕や足といった体のパーツや脳や心臓といった私を構成しているパーツどれか欠けても記憶があれば私ということが成り立つのですか?ということが聞きたかったのです。 脳以外の体のパーツというのは、「私」とは直接関係ないように思います。何故なら、足や腕を失ったからと言って、「私が私でなくなった」とは誰も思わないと思います。心臓を人工心臓に取り替えても同様ではないでしょうか? 多分脳だけが例外のように思います。 >また私の記憶をロボットに移すこと(コピーではなく)ができればそのロボットが新しい私になるのか? そういうことはないと思います。何故なら、「私=記憶」と言う場合の「記憶」とは「精神」そのものであり、コンピュータの記憶のように物質的記号の集積とは全く別物だからです。コンピュータやロボットにどんなに記憶を詰め込んでも「精神」は生まれないと思います。コンピュータの記憶というのは、人間の「記憶」とは全く異なり、「記録」あるいは「蓄積された情報」と言うべきものだと思います。
お礼
回答たびたびありがとうございます。やはり脳だけ例外なんですね。 どうして例外であるのか、脳や記憶についてもっと考えていきたいと思います。「精神」という言葉も重要ですね。 考察できる範囲でがんばっていきたいと思います。ありがとうございました。
- kobarero
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#3です。 >記憶をつかさどるもの、それが脳であるとするとその脳を取り出して培養液につけ生かす。脳を取り出した体には別の脳を入れる。その場合の私はどちらになるのでしょうか? まず、脳の中に私が入っているわけではないので、脳と私(私の記憶)の関係は、相関関係だと思います。すなわち、物質的な脳が100%私の記憶を決定しているわけではないということです。 上の例では、培養液につけ生かされた脳が、私と相関関係があると思います。 ところが、思考実験をさらに一歩進めると、奇妙なことがおきます。 将来科学技術が進歩して、培養液につけ生かされた脳の完全コピーが出来たとします。その場合、どちらの脳が私なのかという疑問がわくはずです。もし、物質である脳が私の記憶を決定しているとすると、私は、二つの脳を持つことになります。これは2重思考が可能ということで、現実には起こりえない現象です。ですから、物質である脳が100%私の記憶を決めているという考え方自体が間違っているということだと思います。 >パーツパーツで考えると私をわたしとしているものは記憶だけとはいいきれるのか? 我々は思考の源泉を捉えることは出来ないのではないかと思います。すなわち、今この瞬間に自分が何を考えるかについて、自分はコントロールできないと思います。「気がついたら、このように考えている自分を見出すことができる」というのが、思考の実際の在りようではないかと思います。そうだとすると、その「気がつく」対象は、既に、私の記憶の中にあるものを再確認しているに過ぎないと思います。 デカルトが「我思う」と言ったとき、「我思う」という事実を、その時点で、無から作り出したわけではなく、「現に今、思っている」という既存の事実(すなわち記憶)を確認しているだけだと思います。
お礼
すぐの回答ありがとうございます。
補足
脳が100%私の記憶を決定しているとは思っていません。誤解を与えたようなのですいません。あくまで記憶をつかさどるもの、作ってためているものが脳であればということで話をしたかっただけなのです。私=記憶となると腕や足といった体のパーツや脳や心臓といった私を構成しているパーツどれか欠けても記憶があれば私ということが成り立つのですか?ということが聞きたかったのです。また私の記憶をロボットに移すこと(コピーではなく)ができればそのロボットが新しい私になるのか?火星に移動できる装置ができ、移動する際に機械の故障で火星に移動した私と地球に残った私の二人が存在し、どちらが本当の私なのか?(地球の私は10日以内に死んでしまう、火星の私は生き続けるのならば)?
- lexanblue
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>私と記憶とは何なんですかね?どんなつながりがあるのでしょうか? >記憶によって支えられているものは何なのでしょうか? >またその記憶は何によって支えられているのでしょうか? 記憶は、人をその人と特徴付けるプログラムとデータです。生まれてからの人生の間に、追加、修正、上書きを繰り返したものです。このプログラムとデータがなければ、その人は人の社会では単独で存在できなくなります。狼に育てられた少女が居たとします。彼女は生まれてからこの方、狼以外との付き合いが無い。記憶は狼の行動でプログラムされデータが蓄積された。その後、人間に引き取られても狼の習性は抜けなかった・・という話を聞いたことがあります。年老いて認知症になった場合、記憶のデータもプログラムもところどころ消失した状態になると、かつてのような社会生活は送れなくなります。夜中に俳諧し、意味不明な言葉を繰り返し、優しい人が粗暴になってしまう。 記憶は、知識のみならず、意識の外の運動能力とかも含まれると思われます。記憶は肉体と共に存在し、しかも常に、自分の望む方向にプログラムとデータの追加、修正、上書きを繰り返さないと、いつしか消失し、あるいは変質してしまうものです。
お礼
回答ありがとうございます。狼にそだてられた少女の話は聞きますね。
記憶には 二種類あると言います。 わたしたちが生まれ落ちてからこの方 ただ生きているだけで 積極的にも消極的にも 経験を積み 知識や情報を得ていきます。この学習の成果 これが まづ第一の種類の記憶です。覚えるという行為 そして その覚えたものごととしての内容 これです。 第二の記憶 というより このほうが 第一と言うべきようですが それは 上の学習をする前にも おそらく学習の行為を受け留め その結果の貯蔵をつかさどる場(器官)があったと考えられ それを 別種の記憶とする場合です。 言いかえると 覚えた情報や知識〔という意味での記憶〕を いわば交通整理する役目としての記憶が あるのではないか。 後者の記憶行為では 整理するということは すでに そこにそのための判断とその規準が すでに 備わっているとさえ 推測されます。 ちなみに 蓄えられ整理された記憶を その記憶から引き出してきて ものごとを思考するのは 記憶とは別の行為能力です。(知解と言います)。 そうしますと――けっきょく これは 思弁によっているのですが―― 精神(つまり おそらく 精神=身体)の或る種の秩序 組織立った秩序 これを担っているのではないでしょうか 記憶は。 もし 覚えとしての記憶が 法令集だとしますと もう一つの記憶行為は 裁判官ないし司法に当たると思われます。ちなみに 知解は 立法の議会およびその行為のほうです。 行政は 意志に当たると言われます。これら三つの行為能力また 能力行為から 人間は 成り立っているという思想です。そのご紹介でした。
お礼
回答ありがとうございます。精神のある種の秩序、組織立った秩序、司法、立法、行政というのがわかりやすくてとてもためになりました。
- ghostbuster
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> 記憶によって支えられているものは何なのでしょうか? 行動です。記憶はつぎの行動を促します。 お金を借りたことを「覚えていない」僕は、お金を返したくありません(もしかしたら覚えていても返したくないかもしれませんが、それは別の問題です)。だからB君の証言を参照しようとします。その証言が僕の行動を決定します。 > またその記憶は何によって支えられているのでしょうか? 身体です。 これについてはベルクソンの助けを借りながらもう少し詳しく見てみましょう。 わたしたちは外部から刺激を受けて、その刺激を大脳に登録しますが、ただそれだけで身体が反応することはできません。そこからどんな反応をするかの選択は、意識に刻まれた過去の記憶を参照することによってなされます(質問者さんの例文でいうところの「僕」が「A君」という刺激を受け、「B君」を参照するように)。 ポイントはここです。 わたしたちの「知覚」というものは、「記憶」と無関係ではありえない。 ベルクソン自身はこんなふうに言っています。 「われわれの知覚はたしかに記憶にひたされているが、逆に記憶も、先で示すように、それが入り込むなんらかの知覚から身体を借りることによってはじめてふたたび現前する。だから知覚と記憶というこの二つの作用は、つねに浸透し合い、ある浸透現象によってたえずそれらの実質のいくらかを交換している」(引用は便利なので市川浩『ベルクソン』からの抄訳を使っています。p.173-p.174) だとしたら、知覚と記憶にはどのようなちがいがあるのでしょうか。 ベルクソンはそのちがいを「行動」におきます。 知覚は「生まれかけの行動である」と。 記憶は「現在のうちに過去を挿入」し、連綿と続く持続的な過去の出来事を一瞬の直観に凝縮するものである。 けれども相互に浸透し合う知覚と記憶は、実際には分離することはできません。 では、過去は人の身体にどのように保存されていくのでしょうか。 ベルクソンは記憶をふたつの形式に分類します。 (1)運動機構において (2)独立的記憶において このふたつのちがいは簡単です。ある詩を暗記することと、ある特定の機会に暗唱したことを覚えていること、と例に取ればすぐわかるでしょう。 歴史の年代を覚えること、数学の公式を覚えること、そうした記憶は表象を持たず、その代わりに生きられ、行動されるものです。何年乗っていなくても、自転車に乗ることはできるし、雪だるまは作れます。酔っぱらいはへべれけに酔っぱらっていても、きちんと家に帰れるのだそうです(経験はないのですがいかにもありそうな話です)。この記憶を獲得した身体は、ひとつの刺激に対して常に一定の行動を取ります。 それに対して、日付を持った独立的記憶は、習慣の特徴をまったくそなえておらず、最初の一回で保存されたもので、かならずイマージュを持つものです。ベルクソンは「思い出」と呼び換えてもいます。 先でも書いたように、外から与えられる知覚に対して、過去の思い出が現在に呼び起こされ、思い出に従って現在の行動が決められます。 この前者の運動性の記憶が「記憶」と呼ばれるのは、「習得したことを思い出すから」に過ぎず、ほんとうの記憶と呼べるのは、後者の記憶のほうです。 「ベルクソンによれば、われわれの身体は、未来と過去とのあいだの動きつつある境界であり、われわれの過去が未来のなかへ押し出してゆく動く先端である。その役割は記憶を蓄積することではなく、行動の見地から、目の前の状況を補い、照らし出すのに有益な記憶を選択し、身体が記憶をイマージュとして現実化するはたらきによって、記憶をはっきり意識されるようにすることである」(市川浩『ベルクソン』p.55-56) イマージュのことを説明しようと思うと、表象とか物とか物質とか身体とかいっぱい説明しなくちゃならなくなりそうなので、ここではイマージュ=心像、ぐらいにしておきます。 もっと詳しく知りたいという箇所がございましたら、何でもお問い合わせください(笑)。どこまで答えられるかどうかはわかりませんが。
お礼
長文ありがとうございます。記憶と行動、身体が結びついているとのことありがとうございます。 身体によって記憶が支えられているということがまだよくわからないので、(私と身体の問題を含め)今は忙しいので時間ができたらベルクソンの本を読んでみようと思います。
- magga
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まず事実として、我々の記憶とは主に妄想ですね。 今ここにないものですから。 私達は今現在をなかなか観れていません。 観れていたら煩悩も何もないはずですからねw 過去もそのときの今を観ていなかった訳ですからねぇ。そのときに妄想もしていたでしょう。当てにならないのはいろいろな妄想概念がごちゃごちゃ混ざっているのですから当然と言えば当然ですよね。 私達はデータを捏造しまくってます。感情や思考によって捏造しています。といっても元のデータは常に因果関係はっきりと流れているので、捏造した情報のなかになんとなく因果関係があるように感じるんだと思います。そしてそのごちゃごちゃな捏造された妄想をなんとなく事実に違いないと判断してしまっているのでしょう。 だから人間は失敗してばかりで、感情的で、多く苦しんでいるのだと感じます。 そんな状態ですから、この自己と我々が名づけるのものが、システムがどのようなもデータによってどのようなものなのかなんて、発見できるわけがありませんね。 まずは捏造をやめないと。 よって現時点での「私と記憶」はともに捏造の上に成り立ったもので。「妄想と妄想」の関係性を客観的事実にもとづいて観ることは叶いませんね。 この問題の解決方法は、パーリ語の三蔵を伝え守るテーラワーダ仏教によって詳細に解りやすく論理的に理性的に道徳的に実証的にとかれていますよ。 ~生きとし生けるものが幸せでありますように~
お礼
回答ありがとうございます。 論理的に理性的に道徳的に実証的にと解決する。捏造の上に成り立ったもの。「妄想と妄想」の関係性を客観的事実に基づいてみることは叶わない。この3つが矛盾しているようでこの内容が理解できませんでした。 われわれの記憶は妄想、今ここにない、私たちは今現在をなかなか見れていない、この言葉も引っかかります。
- kobarero
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>私と記憶とは何なんですかね?どんなつながりがあるのでしょうか? どんなつながりがあるかというより、「私」とは「記憶」のことではないでしょうか? 「記憶」以外のどこを探しても「私」は存在しないように思います。 「私」から「記憶」を取り去ったら、何も残らないと思います。唯一「記憶」だけが「私」の存在証明ではないでしょうか?
お礼
回答ありがとうございます。私=記憶、唯一「記憶」だけが「私」の存在証明とのこと。 ここからはあくまで想定、思考実験ですが・・・記憶をつかさどるもの、それが脳であるとするとその脳を取り出して培養液につけ生かす。脳を取り出した体には別の脳を入れる。その場合の私はどちらになるのでしょうか? 研究をしているときにこのようなことが出てきました。パーツパーツで考えると私をわたしとしているものは記憶だけとはいいきれるのか?デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」という言葉も奥が深いですよね。
- AZKARAM
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記憶というのはたとえばアサガオのつるのようなものです。 一人では立っていられません。 かといって記憶の対象が自分でもないのです。 つるは次第に枯れていきますがそこには対象がからまって います。しかし、枯れたつるにはそれは何の意味もありま せん。そして誰からが来て炉の中に投げ込んでしまいます。
お礼
回答ありがとうございます。 つるの例がおもしろかったです。次第に枯れていく=記憶が薄れなくなっていくとのことだと捉えましたが、枯れたつるには意味がないのでしょうか?また枯れないつるとはなんなのでしょう?この回答文章もとても深い気がします。
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お礼
回答ありがとうございます。詳しく書いてありとてもありがたく思います。仏教のことはあまり詳しくありませんがこの内容は理解することができました。それともっと勉強が必要だと思いました。