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鎌倉・室町時代の戦法

城郭資料を読んでいたら 「平安時代には理想的な要害の地であった鎌倉城も、鎌倉時代後期になると戦法の変化とあいまって良好な城とはいいがたく、その防御能力が弱まってしまった」 と書いてありました。 この「戦法の変化」とはどのようなものでしょうか。 元寇を受けて戦法が集団戦メインに変化したことを指しているのでしょうか? それとも、何か別の大きな変化があったのでしょうか? そもそも元寇以前の城攻めは旧来の名乗って打ち合うスタイルをしていたのかも疑問です。

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  • ベストアンサー
  • komes
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回答No.2

鎌倉・室町時代は武器、戦術にかなりの変革が起こった頃です。 それまでの戦法は弓による戦いが主で他には少数の集団戦がある位の戦闘法でした。 その為大部隊や攻城具が必要な城攻めは起こらず、また城といわれる構造物も木造ですから火攻めに弱かつたという事情があります。 しかしその後戦乱の中から薙刀の変形で槍が生まれ、集団戦法に移行してきました。  また鎧も次第に堅固な作りに移行してきました。 石を用いる工夫も元寇時既に石塁を築くようになっていました。 弓に対しても木製ながら楯が多用されており、高い所からの弓による射撃は防御側に有利でした。 鎌倉は木戸とうりと呼ばれた狭い通路でしか接近出来ない地形を利用し、ここに木戸を築き櫓を設けて敵の接近を防ぐ構造でした。 個人戦では突破は困難ですが集団による攻撃に長く持ちこたえるには不向きでした。 もともと堅固な城のない時代ですから攻城戦の経験に乏しく、堅固な地形を利用した楠木の城では多数の強みも発揮出来ず攻めあぐんだのです。  多くの城は険阻な地形か河、湖沼などの接近を妨げる所につくられましたから防御側に有利でした。

その他の回答 (1)

noname#58790
noname#58790
回答No.1

まあ、難しい所ですね。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A7%8D 鎌倉後期には使用されていたとありますが、これが滅亡の原因ではありません。 http://www9.wind.ne.jp/fujin/rekisi/nanboku/kusunoki.htm 戦法の変化は正々堂々から奇策に変化します。 太刀が打刀へ変化するのはかなり後です。 なので記述内容は少し理解に苦しむ物があります。 ほぼ主役が歩兵の集団戦に以降していたのは間違いありません。 が、この頃から丸太落としや大石転がしがあった説は疑問が残ります。 鎌倉の塀は山であり、館が城になります。

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