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ヨーロッパの城郭都市と日本の城郭都市、奴隷

このQ&Aのポイント
  • ヨーロッパの城郭都市と日本の城郭都市において、奴隷の存在について考察します。
  • 日本の城の城壁の有無と、堀の防御機能についても検討します。
  • さらに、日本とヨーロッパにおける戦争敗北者の扱いについても調査します。

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noname#224207
noname#224207
回答No.4

(い)城壁すなわち壁を巡らせるような構築物はありませんでした。 但し城郭すなわち防塁は築かれていました。 防塁として掘や土塁などが用いられていました。 この場合には人工的に掘などを構築する場合と天然の川を掘の代用として用いるケースが多々ありました。 ただし、城郭都市とよばれる形態は用語としては極めて狭い領域を取り囲む場合に用いられます。 江戸城を西国の敵対勢力から防御するために大井川に橋を架けなませんでしたが、これを江戸城の防塁とみなして江戸城の城郭の範囲を大井川まで広げて考えるような用語の使い方はしません。 (ろ)ヨーロッパのような売買形態の対象とするようなことはありませんでした。 (に)「破壊された」と言われる場合にはどのようなイメージでのご質問でしょうか。 城を取り囲む壁すなわち城壁を大砲などで破壊するケースは多々ありました。 火薬を封入した炸裂弾が考案されたのは、この城壁破壊のためです 戦闘についてはナポレオンのモスクワ攻略などの記事をご覧下さい。 中世以前の古代にように都市の全てを破壊してしまうという方法は用いられませんでした。 都市を壊滅させたのでは、占領後の税収が期待できません。 くにという文字は現在は「国」と書きますが、旧漢字すなわち元々は國と書きました。 囲み「口」の中に地域の域が使われています。 これは、古代中国では城壁で囲まれた内部を「くに」と考えていたことに基づきます。 広大なユーラシア大陸では、現在のような国境という考え方はありませんでした。 平たく言えば、ヤクザ者の縄張りのような考え方です。 現在も中東地域の国名にアフガニスタン、カザフスタン、ウズベキスタンなど国名の末尾にstanとあるのはこの名残りです。 アフガンやカザフの連中の行動範囲すなわち縄張りだという程度の意味です。 地図の上に線を引いて国境とする考え方は中世末期のヨーロッパで生まれた考え方です。 この考え方と同時に生まれたのが、現在の国家という考え方です。 詳しくはwikipediaなどネットで検索してみて下さい。 現在の国家という考え方と言いますか、外交上の社会制度が出来上がった嚆矢は1648年に締結されたウエストファリア条約とされています。 日本では歴史上「藩」という用語が明治以降使用されいて「くに」と混同されていますが、近代国家とは本質的に異なります。 wikipediaなどでドイツやギリシャの歴史をご覧いただければ、日本の「藩」とは本質的に異なることがイメージできるかと思います。 「奴隷」という用語も極めて定義が曖昧な用語です。 wikipediaの記事を参考とされておらるようですが、注意して読んでいただければ分かりますように賃金を前払いした年期奉公もヨーロッパの奴隷貿易もゴチャマゼになっています。 日本では鎌倉時代以降には人身売買は禁止されていましたので、前記した賃金の前払い=借金として労働して返済するという形式がとられました。 吉原などの遊女がその典型です。 賃金に相当するものが支払われていて、これが本人ではなく親などの親族が受け取り、本人には借金という形にして遊郭で身を売ることで返済させるという方式が取られていました。 外見上は人身売買と同じとされても止むを得ません。 ただ、深川などで私娼が検挙された場合には、懲罰として無給で吉原で身を売らされることがありました。 この場合は制度上ヨーロッパの奴隷貿易に商品とされた「奴隷」とほぼ同じ状況になります。 以上、ご質問の中のaの文章のように、奴隷制度と城郭の形式を短絡させるのは相当に誤解を生じるかと思います。 尚且つ、日本の歴史制度の変遷とヨーロッパでの変遷を同一にしてその相違を議論されるのは相当に無理があります。 昭和30年代頃にマルクス主義などの社会主義が学生などの間でもてはやされた時代にはロシアの農奴制度を日本の貧農に当てはめる考え方が蔓延していました。 ご指摘のwikipediaの記事もおそらくこの時代に青春を送られた方が書かれたのでないかと思われます。 歴史的に賤民の取り扱いは、所謂正史には記録され難いことから難しかとおもいます。 ヨーロッパについては 中世賤民の宇宙 阿部謹也著 ちくま学芸文庫 日本については 日本歴史の中の被差別民 網野義彦他共著 新人物文庫 などが手軽かと思います。

noname#224644
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 (い)天然の川を掘の代用として用いるケースについては、城郭とは言わないのですね。 しかし城壁はなくても堀というのは、かなり防御能力があったのではないかと思えます。 十分な距離があれば鉄砲の弾も届かなかったでしょうし 武器を持っていたり、甲冑を身に着けていたりすると泳ぐのも困難だったのではないかと思います。 (ろ)ヨーロッパのような売買形態の対象とするようなことはありませんでした。 ということは、ヨーロッパでは戦争に負けた兵士や百姓が奴隷にされることがあったということですか? そうではなく、もっとざっくりとヨーロッパには人間を奴隷として売買する習慣があったということをおっしゃっていますか? (に)> 城を取り囲む壁すなわち城壁を大砲などで破壊するケースは多々ありました。 火薬を封入した炸裂弾が考案されたのは、この城壁破壊のためです 戦闘についてはナポレオンのモスクワ攻略などの記事をご覧下さい。 おお、ありがとうございます。ナポレオンのモスクワ攻略、探してみます。 > 都市を壊滅させたのでは、占領後の税収が期待できません。 ですね。 「ヨーロッパでは戦争に負けると人民は奴隷になった。 市街地にまで城壁がめぐらされているのはそのためである」 と聞くと、戦争に負けた国の人民のすべてが奴隷にされるかのようなイメージを持ちます。 適切な表現ではないですね。 stanとは縄張り、みたいな意味でしたか。 >賃金を前払いした年期奉公もヨーロッパの奴隷貿易もゴチャマゼになっています。 日本では鎌倉時代以降には人身売買は禁止されていましたので、前記した賃金の前払い=借金として労働して返済するという形式がとられました。 吉原などの遊女がその典型です。 なるほど、きちんと分けた方がいいですね。 >中世賤民の宇宙 阿部謹也著 ちくま学芸文庫 >日本歴史の中の被差別民 網野義彦他共著 新人物文庫 明日にでも図書館に行ってとりよせてもらいます♪♪ たいへん参考になりました!

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その他の回答 (6)

noname#224207
noname#224207
回答No.7

回答No.4です。 わざわざお礼を記入頂きありがとうございます お礼に追加のご質問がありましたので説明させて頂きます。 >天然の川を掘の代用として用いるケースについては、城郭とは言わないのですね このような趣旨の回答はしていません。 江戸城の城郭に大井川のような遠隔地は用語としては含まれていないということです。 隅田川は明らかに江戸城の城郭を構成する一部として用いられていました。 >武器を持っていたり、甲冑を身に着けていたりすると泳ぐのも困難だったのではないかと思います。 源平時代の大鎧での泳ぎは難しかったかと思います。 戦国時代の鎧は大鎧に比較すると極めて軽量でした。 現代も継承されている古式泳法には鎧を身に着けたまま泳ぐ泳法があります。 尚、馬に乗るというか馬を同伴していれば大鎧を着ていても泳ぐことは可能でした。 源平盛衰記などにも馬とともに湖水を渡る情景は記載されています。 掘というのは、比較的水深が浅くないと役に立ちません。 深いと馬を泳がせたり船が使えますが、浅いと馬は泳げずに歩くことになります。 水中で馬を歩かせると相当に速度が落ちて、容易に弓や鉄砲の的になってしまいます。 尚、鉄砲や弓等の飛び道具をいくら打ち込んでも落城させることはできません。 最後は兵が突入して白兵戦で決着を付けます。 敵が掘の縁に押し寄せたのを城内から弓や鉄砲などの飛び道具で打ち払うのが目的です。 この為に掘の周辺には敵が身を隠すことが出来ないように樹木は植えられていませんでした。 現在のようにお堀の周りに桜や柳などが植えられるようになったのは明治以降のことです。 掘の巾が広いと城内から狙い打ちできませんので、やたらに広くはしませんでした。 >ヨーロッパでは戦争に負けた兵士や百姓が奴隷にされることがあったということですか? ヨーロッパ人(キリスト教徒)どうしで戦争捕虜を売買したことは記録にありませんが、イスラム教徒など異教徒との戦争では売買されていました。 秀吉がバテレン追放令を発したのもキリスト教云々というよりも。九州の漁民などが拉致されて奴隷として売り飛ばされたことに激怒したことがキッカケとなっています。 秀吉の軍勢も朝鮮人の捕虜を連れ帰りましたが、売買したという記録はありせん。 現在の伊万里焼などの磁器はこの朝鮮の人達が伝えた技術が元になっています 秀吉の後を継いだ家康は北九州で暮らしていた朝鮮人を本国に送り返すことで国交を回復させました。 このような事例が日本には奴隷制度がなかったと言われる人の根拠の一つかと思われます。 帆船時代には、主としてイギリス海軍は船員が不足すると手近な海岸付近の農民を強制的に徴用して船員兼戦闘員として使っていました。 農民本人の意志も人権も無視して船長の支配下において強制労働をさせますので、用語としての奴隷と言っても過言ではないかと思います。 当時のイギリスは現在のフランス領の一部をイギリス領としていましたので、この強制的に徴用された農民の多くは現在のフランス人でした。 詳細は下記の用語をキーワードとしてネットで検索して見て下さい。 強制徴募 、イスラームと奴隷制 、アラブ人の奴隷貿易 用語としての城郭都市と言うのと日本の城下町とでは形態が基本的に異なっています。 ヨーロッパでは、異民族との戦争や異教徒あるいはカトリック対プロテスタントというような戦争が多かったことから、領民を保護する必要に迫られていましたが、日本では戦はあくまでも武士である領主どうしの争いであって領民は関与しませんでした。 領民が関与したのは、せいぜい一向宗と信長との争い程度でした。 関ヶ原の戦の際にも付近の農民が手弁当で戦見物にでかけていたことが知られています。 江戸時代の大名も譜代の場合には年中領地替えさせられていました。 江戸時代を通じて12回も引っ越し(領地替え)させられた大名家もありました。 「百姓は末代代官は当代」などという言葉も残っています。 つまり戦争になっても領民を保護するという考えは希薄で領民側もわれ関せずでした。 このようなことですので、ヨーロッパのように領民を囲い込むような所謂城郭都市という形態にはなりませんでした。 平安京や平城京も中国の都市を摸倣して作られましたが、城壁は作られずに東西南北に門だけ設けられていました。 江戸城も外堀は上から見ますと平仮名の「の」の字のように設けられていて要所要所に門だけが設けられていました。 このような形態に対して新井白石が朝鮮通信師を迎えるのに当たり見栄で東海道からの江戸城への入口ということで門を作りました。 現在の銀座通りと首都高が交差する場所です。(現在の首都高はお堀を埋めて設けられたものです) その後火災で焼け落ちましたが、意味もない邪魔物ということで二度と再び門を建てることはありませんでした。

noname#224644
質問者

お礼

追加質問に回答くださりありがとうございます。 > 江戸城の城郭に大井川のような遠隔地は用語としては含まれていないということです。 隅田川は明らかに江戸城の城郭を構成する一部として用いられていました。 わかりました。 誤った理解をしていたようです。すいませんでした。 > 戦国時代の鎧は大鎧に比較すると極めて軽量でした。 >古式泳法には鎧を身に着けたまま泳ぐ泳法があります。 >馬を同伴していれば大鎧を着ていても泳ぐことは可能でした。 >源平盛衰記などにも馬とともに湖水を渡る情景は記載されています。 >掘というのは、比較的水深が浅くないと役に立ちません。 深いと馬を泳がせたり船が使えますが、浅いと馬は泳げずに歩くことになります。 水中で馬を歩かせると相当に速度が落ちて、容易に弓や鉄砲の的になってしまいます。 > 最後は兵が突入して白兵戦で決着を付けます。 敵が掘の縁に押し寄せたのを城内から弓や鉄砲などの飛び道具で打ち払うのが目的です。 この為に掘の周辺には敵が身を隠すことが出来ないように樹木は植えられていませんでした。 おおー、ありがとうございます。 戦国時代の戦のようすがおぼろげに浮かんでくるようです。 > 掘の巾が広いと城内から狙い打ちできませんので、やたらに広くはしませんでした。 そうか、堀が広いのは攻撃に不利だという一面もありますね。 気が付きませんでした。 >ヨーロッパ人(キリスト教徒)どうしで戦争捕虜を売買したことは記録にありませんが、イスラム教徒など異教徒との戦争では売買されていました。 ちょっとしらべたところ、アイルランドの人が奴隷として売られていたようですね。 > 秀吉がバテレン追放令を発したのもキリスト教云々というよりも。九州の漁民などが拉致されて奴隷として売り飛ばされたことに激怒したことがキッカケとなっています。 > 秀吉の軍勢も朝鮮人の捕虜を連れ帰りましたが、売買したという記録はありせん。 >秀吉の後を継いだ家康は北九州で暮らしていた朝鮮人を本国に送り返すことで国交を回復させました。 このような事例が日本には奴隷制度がなかったと言われる人の根拠の一つかと思われます。 なるほど、勉強になりました。 「日本に奴隷はいなかった」ということも、あちこちで聞き、疑問に思っていましたが、ご指摘のような理由からの発言だったのでしょう。 ただ、古代には奴婢とよばれる人々がいたようですね。 また非人などの差別民は奴隷なのか、どうか。 彼らを海外に売り飛ばしたりはしていないとは思いますが。 > 帆船時代には、主としてイギリス海軍は船員が不足すると手近な海岸付近の農民を強制的に徴用して船員兼戦闘員として使っていました。 農民本人の意志も人権も無視して船長の支配下において強制労働をさせますので、用語としての奴隷と言っても過言ではないかと思います。 >当時のイギリスは現在のフランス領の一部をイギリス領としていましたので、この強制的に徴用された農民の多くは現在のフランス人でした。 これは戦争に負けて奴隷にされた例ですね。 強制徴募 、イスラームと奴隷制 、アラブ人の奴隷貿易 でぐぐって調べてみます。本当にありがとうございます。 >用語としての城郭都市と言うのと日本の城下町とでは形態が基本的に異なっています。 ヨーロッパでは、異民族との戦争や異教徒あるいはカトリック対プロテスタントというような戦争が多かったことから、領民を保護する必要に迫られていましたが、日本では戦はあくまでも武士である領主どうしの争いであって領民は関与しませんでした。 領民が関与したのは、せいぜい一向宗と信長との争い程度でした。 関ヶ原の戦の際にも付近の農民が手弁当で戦見物にでかけていたことが知られています。 >つまり戦争になっても領民を保護するという考えは希薄で領民側もわれ関せずでした。 このようなことですので、ヨーロッパのように領民を囲い込むような所謂城郭都市という形態にはなりませんでした。 なるほど、すると a,ヨーロッパでは戦争に負けると人民は奴隷になった。 ↑ これはヨーロッパの戦争は異教徒や異民族、宗教対立によるものであり 戦争に負けると人民は奴隷にされることが多かった。 b.日本の戦国時代は戦争に負けると城主は殺されても、下級の兵士や百姓が奴隷にされることはなかった。 ↑ これは、日本の戦はあくまでも武士である領主どうしの争いであって領民は関与しなかった。 ということですね。 たいへん勉強になりました!

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  • jkpawapuro
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回答No.6

今回の回答はほぼ私的な考察になります。 >城下町まで壁や堀で囲んで防御しようとしたのはなぜでしょうか。 城下町で武器などを商ったり、製造していたりしたのでしょうか。 別に武器の生産のためではありません。貨幣経済が浸透すると、商売の場が必要になってきます。逆にいうと、米と魚を物々交換してるレベルでは税はとれません。 地方の有力者は安全に商売をできる場として市(市場)を開き、市の安全を保障するかわりに場所代をとります。これの発展したものとお考え下さい。城下町の安全を保障しそこを商売の場として発展させ、そこから税をとるのです。 >大砲の出現によって城壁都市が役割を終えたというのは、大砲によって城壁が破壊されて しまうので、あっても仕方がない、ということでしょうか? はいその通りです。前回大砲と書きましたが、正確には火砲と書くべきでしたね。 火薬を詰めた砲弾を発射できるようになると、城壁は火砲によって破壊されます。 城塞都市はそれに対抗して星形要塞(北海道にある五稜郭みたいなやつです)へと進化していきますが、こうなると基本的にはもはや費用倒れです。 >ヨーロッパでは戦争に負けると人民は奴隷になった。 市街地にまで城壁がめぐらされているのはそのためである。 これが正しいかどうか、あるいは日本とヨーロッパの城塞都市出現の違いは奴隷の有無なのか、奴隷が全てといったらあまりに短絡的ですが、要因の一つではあるでしょう。日本は奴隷の乱取りはありましたが、基本的には自家用の奴隷を少し連れ帰る程度です。一方古代ヨーロッパは最強の侵略国ローマ帝国が大量に奴隷を必要とした社会構造ですし、中世のイスラムに至ってはイスラム教の教義がからむため奴隷は巨大マーケットを持つ商品です。戦利品における奴隷の重要性はだいぶ違うでしょう。ですが私はヨーロッパで城塞都市が発展したのはもっと別の要因が大きいと思っています。 まず日本史の教科書で必ず出てきますし私も何度も使っていますが、戦国時代は貨幣経済が浸透した時期です、そして貨幣経済が発展したころに総構えが出現しています。一方ヨーロッパでは古代から貨幣が使われています、地域差は大きいですが。 これから解釈すると、日本の歴史が遅いだけで貨幣の浸透による富の蓄積や経済の発展が起きるようになれば洋の東西を問わず自然と城塞都市は出現する、と解釈していいのかもしれません。もう一つはヨーロッパの年は石づくりです。町や建物そのものが数百年かけて築いた財産です。一方日本の町は木造です、火事や戦で火責めになったら全部焼けますが逆にいうと経済的痛手は負うものの数か月で復興します。町を壊されることそのものによる損害が段違いですよね。 >城下町まで壁や堀で囲んで防御しようとしたのはなぜでしょうか。 これが本質なのでしょう。 もっと言うと、何を守りたくて町を壁や堀で囲んだかですよね。その守りたいものがヨーロッパの町では古くからあり、日本では守るほどの町ができたのが単に16世紀になってからだったという単純な解釈でいいような気がします。

noname#224644
質問者

お礼

何度もありがとうございます。 > 城下町の安全を保障しそこを商売の場として発展させ、そこから税をとるのです。 そういう面もあったかもしれませんね。 >奴隷が全てといったらあまりに短絡的ですが、要因の一つではあるでしょう。日本は奴隷の乱取りはありましたが、基本的には自家用の奴隷を少し連れ帰る程度です。一方古代ヨーロッパは最強の侵略国ローマ帝国が大量に奴隷を必要とした社会構造ですし、中世のイスラムに至ってはイスラム教の教義がからむため奴隷は巨大マーケットを持つ商品です。戦利品における奴隷の重要性はだいぶ違うでしょう。 なるほど、規模がちがうのですね。 >貨幣の浸透による富の蓄積や経済の発展が起きるようになれば洋の東西を問わず自然と城塞都市は出現する、と解釈していいのかもしれません。 うーん、でも日本の古代遺跡に環濠集落がありますよ。 環濠集落は他からの攻撃を防衛するために作られたものだと思います。 環濠集落は城塞都市とはいえないでしょうか? >もう一つはヨーロッパの年は石づくりです。町や建物そのものが数百年かけて築いた財産です。一方日本の町は木造です、火事や戦で火責めになったら全部焼けますが逆にいうと経済的痛手は負うものの数か月で復興します。町を壊されることそのものによる損害が段違いですよね。 話がそれますが 日本の城は城塞都市ではないという誤解は、石づくりでないために現存していない部分が多い、ということから生じるのではないかと思いました。 >もっと言うと、何を守りたくて町を壁や堀で囲んだかですよね。その守りたいものがヨーロッパの町では古くからあり、日本では守るほどの町ができたのが単に16世紀になってからだったという単純な解釈でいいような気がします。 なるほど、大変参考になりました!

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  • mm058114
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回答No.5

狭い地域での完全奴隷化は可能かもしれませんが、 ヨーロッパなんか、城が貴族の持ち物、拠点として、 その周辺を統治していた。 これを国との定義で、隣の国同士で、領土とか権力、利潤をお互いに争った。 これは、日本の大名と同じ。 争った勝利国が敗戦国を配下に連邦国家を作って行く。 織田信長なんかも、そうですよね。 奴隷は勝利国が作ったというよりも、 元々の敗戦国の身分制度で居たのでは? ドイツなんかは、そういう小さい城国家の連邦国家。 沖縄だって、ハワイだって、あの狭い島々エリアで、 いくつもの小国があって、戦争の結果、統一された歴史がある。 島津藩の沖縄統治もそう。 日本陸軍なんかは、 満州で、戦略価値はない所を、 大麻の大生産地だからと言う理由で占領して、 生産された大麻を中国人に売りさばいて、戦費に充当していた。 アメリカで奴隷買いしても、 何かを生み出さないと、奴隷買いした意味がない。 結局、殺さない程度にの給糧して生かしておいて、 生産させておかないと、そこから利潤が上がらない。 戦争しかけた意味がない。 これを、奴隷と言うかどうか?? ってところでしょう。 敗戦後の日本も、 GHQの奴隷と言えば奴隷と言えると思われる部分もあるし、 違って自治があったとも言える。 現在の米軍基地も敗戦の結果で、まだ敗戦国が続いてる。 これは、何と言うのでしょうね。

noname#224644
質問者

お礼

何度もありがとうございます。 > 争った勝利国が敗戦国を配下に連邦国家を作って行く。 > 元々の敗戦国の身分制度で居たのでは? なるほど、もっと詳しく調べてみないとわかりませんが 覚えておきます。 大変参考になりました!

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  • mm058114
  • ベストアンサー率30% (102/337)
回答No.3

昨日の質問の方ですよね。 回答が本当に欲しいものと違ったのですね。 (い) 外国と完成度は全然違いますが、安土城、大阪城、江戸城なんかが、 そういう思想で作られています。 そもそも、城内に町を作って、その中で産業を活性化させると言う考えなかった。 産業の活性化を図ったのは織田信長? 日本では、城壁で街全体を囲うという思想が無く、堀で充分と考えたのでは。 武田信玄なんか、本陣には城もなく石垣と堀と塀の館だから。 大阪城は、.外堀を埋められた事により、 徳川攻撃時に多くの一般人が巻き添えをくって、 放火、略奪、強姦された文献、絵が残されています。 淀川、外堀に囲まれた範囲は、一応城郭都市ということになります。 (ろ) 敗残兵ではないですが、非人は戸籍を奪われた人でした。 ウィキの奴隷の定義に当てはめると、非人も奴隷にあたります。 テレビ時代劇では、農民が拉致されて、金山でこき使われる。 なんて、ありますね。 あれも奴隷のイメージですね。 でも、ありそうな話し。 (は) これは、具体的に分かりません。 あれから軽くググりましたが、 敗戦国に傀儡政権を作り、それを組み込んで連邦化して行くのが、 東西問わず、行われたこと。 かえって、滅亡させてしまうことは、とても珍事。 ちょうど、ドラマのチャングムを思い出して、奴婢をググりました。 チャングムが済州島に追放され奴婢に降格 奴婢=奴隷身分。 医女は、奴隷身分から医術を習得した者。 中国、朝鮮では、身分制度が厳格で、 今だに国内では、もめてるみたいです。 だからヨーロッパも、敗戦国に限らず、 自国の身分制度の中で奴隷身分が存在したかも。 国別にググってみてください。 乞食も多かったようだし、 奴隷との定義をどこで分けるかですね。 質問者さまのおたずねの感じでは、 強制労働があるか、ないかでしょうか。 (に) 具体的に名前出ません。 全然関係ないと思いますが、 第二次大戦で、英仏独の城は攻撃対象になり、 けっこう破壊されています。 日本の城も同じですね。 第二次大戦では、防衛拠点や軍事施設にされてましたから。

noname#224644
質問者

お礼

こちらにも回答くださりありがとうございます。 質問の仕方が悪いことに気が付いたので、新しく質問をたてさせていただきました。 (い) >そもそも、城内に町を作って、その中で産業を活性化させると言う考えなかった。 「城内に町を作って、その中で産業を活性化させるという考えだった」ですか? それとも「城内に町を作って、その中で産業を活性化させるという考えではなかった」ですか? > 日本では、城壁で街全体を囲うという思想が無く、堀で充分と考えたのでは。 堀もかなりの防御能力がありそうですよね。 堀の幅を広くしておけば鉄砲の弾も届かなかっただろうし、甲冑つけてたり 火縄銃持ってたら泳げないだろうし。 > 大阪城は、.外堀を埋められた事により、 徳川攻撃時に多くの一般人が巻き添えをくって、 放火、略奪、強姦された文献、絵が残されています。 日本では戦争は関ヶ原のような何もないところで行われたなんてことも書いてありましたが、やっぱりまちがいなんですね。 (ろ) >敗残兵ではないですが、非人は戸籍を奪われた人でした。 ウィキの奴隷の定義に当てはめると、非人も奴隷にあたります。 関西では中世より寺社に隷属する非人がいて、江戸時代の非人と関係があるのかどうかわかりませんが、 私も奴隷といってもいいような気がします。 (は) > 敗戦国に傀儡政権を作り、それを組み込んで連邦化して行くのが、 東西問わず、行われたこと。 かえって、滅亡させてしまうことは、とても珍事。 なるほど~。 No.2の方のお礼のところで、 a,ヨーロッパでは戦争に負けると人民は奴隷になった。 市街地にまで城壁がめぐらされているのはそのためである。 ↑ これは正しいのでは、と書きましたが、これも間違いかもしれませんね。 奴隷になる人もいたかもしれませんが、 百姓は百姓の仕事を続けさせないと、生産力のない国になってしまいます。 生産力のない国など持っていても仕方がないですもんね。 モンゴルは皆殺しだったそうで、そのイメージが強すぎてAのように勘違いしているのかも。 たいへん参考になりました! それにしてもどうやら間違っていそうなことを正しいとして 書いた記事がネット上にたくさんあるというのは問題だなあ。

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  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (817/3048)
回答No.2

い 戦国時代の末期、あるいは安土桃山時代になると総構えを持った城が登場します、逆にそれまでの戦国時代の大部分はそこまで大きな城はありませんでした。 これは理由は主に二つ、総構えを作るほどの経済力をもつ大大名は戦国初期にはあまりいなかったこと、もうひとつは総構えを作るほどの城下町が発展していなかったことによります。日本では戦国時代中期以降に貨幣経済の発展とそれにともなった城下町の発展が見られ、それを守るために総構えができるようになります。また町を城壁で覆って居ない江戸、大坂にしても、水路が堀のようにめぐらされていて城砦の代わりの機能があったと思われます。 ろ 各所で奴隷狩の話はでてきます。とりたてて文献に記録するようなことでは無いですが、しいて描写のある文献となると高白斎記でしょうかね。 は ローマ帝国時代、非市民階級の者が剣闘士として戦ったことが有名ですが、ローマ時代の奴隷はいささか現代人のイメージする奴隷とは扱いが違いますかね。 ただヨーロッパにおける城砦都市の起源を考えるならこちらを考えるべきでしょうね。 実際に中世ヨーロッパで奴隷貿易が激しかったのは、イスラム世界がイタリア商人を介して奴隷を買っていた流れでしょう。これは多くはヨーロッパ人同士の戦いでつかまった奴隷がイスラムへと売られていました。イスラム教国が奴隷獲得に襲撃をした例もあり、1189年のリスボンへ襲撃が有名です。 に 城壁都市は大砲の普及により役割を終えます。中世の戦いで城塞都市の陥落で有名なのはやはりコンスタンティノープルの包囲戦でしょう。

noname#224644
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 い 総構えの城がつくられるようになった理由まで教えて下さりありがとうございました。 城下町まで壁や堀で囲んで防御しようとしたのはなぜでしょうか。 城下町で武器などを商ったり、製造していたりしたのでしょうか。 ろ 奴隷狩の話はたくさん残っているのですね。 高白斎記、読んでみたいです。調べてみます。 は ヨーロッパ人同士の戦いでつかまった奴隷がイスラムへと売られていましたのですね。 これについても調べてみたいと思います。 に コンスタンティノープルの包囲戦という例があるのですね。 大砲の出現によって城壁都市が役割を終えたというのは、大砲によって城壁が破壊されて しまうので、あっても仕方がない、ということでしょうか? いただいた回答をもとにしてもう少し調べてみないと結論は出せませんが a,ヨーロッパでは戦争に負けると人民は奴隷になった。 市街地にまで城壁がめぐらされているのはそのためである。 ↑ これは正しいといえそうですが b.日本の戦国時代は戦争に負けると城主は殺されても、下級の兵士や百姓が奴隷にされることはなかった。 そのため日本は城壁が市街地にまでめぐらされていない。 ↑ やはり、こちらはどうやら間違いなのではないかと思えます。 しかもどうやら間違いであるらしいことを書いた記事がたくさんあるというのは問題だなあ、と思った次第です。 誰かがネット上に間違ったことを書き、それを真に受けた人が大勢いて間違ったことが広がっていったのかもしれません。 大変参考になりました。

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  • edogawaai
  • ベストアンサー率22% (124/555)
回答No.1

回答( い )日本の城の城壁は市街地にまでめぐらされていませんでした        例えば、大阪城 江戸城 回答( ろ ) 日本では奴隷制度は有りませんでしたので、奴隷になった人は居ません 回答( は )中世では有りませんが、戦争で負けた国の市民は 利用価値が有ると認められれは 奴隷になるのが一般的でした 裕福な家の家庭教師も奴隷が普通でした 回答( に )ヨーロッパでは有りませんが、エリコの都市は動物も含めて 皆殺し でした 

noname#224644
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 (い)大阪城や江戸城には城壁はめぐらされていなかったのですね。 しかし、堀が市街地を囲っていますね。 http://tktaku.com/OSAKA_CASTLE/Toyotomi_Piriod/toyotomitop.htm https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9F%8E%E9%83%AD%E9%83%BD%E5%B8%82#/media/File:Haichi2.jpg (ろ)日本には奴隷がいたとウィキペディアに書いてありますが これを読んでも、やはり日本には奴隷はいなかったとおっしゃいますか? もしそうだとすれば、その理由をお聞かせください。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B4%E9%9A%B7#.E6.97.A5.E6.9C.AC.E3.81.AE.E5.A5.B4.E9.9A.B7.E5.88.B6 (は)中世ではないとするといつの時代で、どこの地域においてでしょうか? (に)エリコを調べたところ、聖書に登場する都市のようですね。 中世のヨーロッパの都市についてお伺いいたしておりますので 宜しくお願いします。

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