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長州藩は朝敵認定を乗り越えたが、幕府軍は総崩れ

大河ドラマの「八重の桜」を見てるんですが、 長州藩は八月十八日の政変から2回の長州征伐で朝敵認定されても 崩れずに戦い抜いたのに、幕府軍は鳥羽伏見の戦いで錦の御旗が上がると 総崩れで遁走してしまいました。会津藩も朝敵認定で動揺しまくり。 長州と幕府でなんでこんなに朝敵ということに対して違いが出たのでしょうか?

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  • isoken
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回答No.6

>長州藩は朝敵認定を乗り越えたが、幕府軍は総崩れ 元来が思想集団であったはずの長州ですが、当初こそ藩論の統一及び藩政の舵取りに尊皇攘夷というイデオロギーを大いに利用したものの、四ヶ国連合艦隊に屈辱的な敗北を喫した下関戦争、及び第二次長州征伐辺りから、尊皇攘夷という仮の旗印はそのままに、朝敵という汚名など勝てばどうにでもなるとばかりに、倒幕を目指す明確なリアリズム集団へと変貌を遂げました。 ところが一方の徳川慶喜こそが実は明確な思想人であった訳で、尊皇攘夷を唱えた水戸学の総本山に生を受けたが故、結果的に尊王思想の呪縛で雁字搦め、そして朝敵という後世への汚名を誰よりも恐れたが為、軍事的な優位を保ちながらも江戸へ遁走後水戸にて蟄居、総帥がこのありさまでは戦にならなかったのもまあ頷けます。

bougainvillea
質問者

お礼

朱子学に影響を受けた水戸学のせいで、尊皇思想ガチガチになったんですね。 朱子学は異民族に圧迫された南宋の時代に生まれた思想なので、 華夷秩序や君臣の礼にやかましく、理気二元論の宇宙論とあわさって 現実からすこし離れたゴリゴリのイデオロギーを形成します。 会津藩の「ならぬことはならぬ」も朱子学を源流として、保科正之と山崎闇斎が会津藩で 家訓を作ったのを、子供用に什の掟として簡易化したものですね。 朝敵認定で旧幕府軍が崩れることと「ならぬことはならぬ」の底流が同じだとわかり 非常にすっきりしました。

その他の回答 (6)

回答No.7

これは旧幕府軍が指揮系統が無茶苦茶の即席軍だったからです どうしてそうなったかと言うと慶喜は元々は鳥羽伏見の戦いを起こすつもりはなかったのです ところが江戸薩摩藩邸の焼討事件が発生して庄内藩の手柄をうらやんだ会津藩強行派が慶喜を半ば脅して無理やり大軍勢で御所を攻めました 慶喜は暴走する会津強硬派に身の危険を感じてやむなく強硬派の訴えに従います これが幕府軍の鳥羽伏見の戦いの敗戦の原因なのです 武器弾薬の違いも作戦指揮系統が確立していた薩長は下士官が死亡しても新しい下士官が指揮を取ります ところが旧幕府軍は下士官が死ぬと連携が取れずにすぐに暴徒の衆と化します そして慶喜の誇るフランス式幕府歩兵隊の前を会津藩士や新撰組が前をうろちょろして邪魔で全く銃が撃てません そして薩長軍にいいように攻撃されて惨敗を繰り返します 諸藩の人々は元々この戦争に乗る気ではなかったので、なるべく本隊から離れて傍観していました そこで錦の御旗が上がり、薩長がその傍観していた諸藩の指揮官に朝廷軍に入るように進めます 諸藩の指揮官は大勢の幕府軍が無残にも敗北するのを見ていますから、続々と官軍側に回りはじめて、会桑軍はいっきに大阪城まで敗走します そこで諸藩は我先に勝ち組へと殺到し、官軍側に回ります 薩長の官軍も諸藩の官軍への投降を拒絶する事もなくそのまま認めて友軍にしていました それであっという間に朝廷軍は膨れ上がったのです 慶喜も会桑にそそのかされていただけでしたので、大きな処分は受けずにその後も人生を楽しんだのです

bougainvillea
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 旧幕府軍の指揮系統はお粗末なもんだったんですね。

回答No.5

全て慶喜の精神力(決断力)の弱さから来たもので情けなさこの上ない!負ける事が無かったと考えられる<鳥羽伏見戦争>の敗戦が函館戦争までの全てを物語る、戦争戦略に長けていた長州軍が幕府軍より一枚も二枚も上手だったと言う事。

bougainvillea
質問者

お礼

慶喜の性格の弱さはよく指摘されますが、徳川家も15代まできて家格がガチガチになって 人材不足もどうしよもないですね。徳川将軍家、御三家、御三卿まで広げて 慶喜が選ばれたわけですから。さすがに家茂よりはマシですが・・・

noname#188966
noname#188966
回答No.4

ある意味、薩長側は「幕府(一会桑)を倒せるんだったら、朝廷でもなんでも使ってやる!」って意識だったのだと思います。 その一方で、幕府軍(一会桑)側は「天皇様からの命令は至上!逆らってはいけない」そいう尊王意識が高かったと。 もちろん、薩長側についても決して朝廷にたいして不遜だったわけでないのですが、戊辰戦争後期の奥州でのやり取りなどを鑑みると、朝廷に恭順してきている奥州同盟にたいして、薩長は私怨を晴らしているように映ってしまうのですが…。 (奥州同盟にしても、薩長に恭順しているわけではないという態度をとっていますけれど…) もし、薩長側が朝廷にたいして本気で忠誠を誓っているのであれば、朝廷に恭順している相手を独断で討伐できるはずはないわけですのにね。(もちろん、相応に朝廷に対しては工作をしていたんでしょうけど)

bougainvillea
質問者

お礼

薩長は実践的ですが、幕府軍は体制側なのでどうしても現状の体制維持も考慮に入れて 頭が硬くなるのでしょうね。 回答ありがとうございます。

  • hideka0404
  • ベストアンサー率16% (819/5105)
回答No.3

総崩れの原因は、侍の錬度不足でした。 対して、薩摩兵は錬度の高い民兵でした。 例えて言うなら、役場の職員と自衛隊員の差です。 会津軍は錬度は高く、薩摩兵も恐れましたが、多くの徳川軍は刀持ってるだけの実戦部隊ではありませんでした。 まだ、新撰組の方が、ものの役に立ったでしょう。

bougainvillea
質問者

お礼

回答ありがとうございます。

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.2

長州と幕府でなんでこんなに朝敵ということに対して違いが出たのでしょうか? ↓ 朝敵ってのは事件が終わったあとの話であって、要は対抗勢力が「止めを刺すまで」やりきったかどうかでしょう。 第一次長州征伐では長州にとどめをさしていませんし、第二次では長州が勝っている。 長州征討命令が7月に出てから大坂城で軍議が開かれるまで三ヶ月。実際に戦闘しないで終わっている。 鳥羽伏見の戦いのあと即座に薩長側は、戦果の拡大を行なっています。 この軍事判断の違いでしかない。

bougainvillea
質問者

お礼

薩長がやりきる前から鳥羽伏見の時点で 旧幕府軍は浮き足立っていたのでは ないでしょうか。

  • mekuriya
  • ベストアンサー率27% (1118/4052)
回答No.1

質問者さんはとんでもない勘違いをしています。鳥羽伏見の戦いの時点では幕府軍など存在しません。幕府は大政奉還・王政復古の大号令で無くなっています。将軍たる徳川慶喜が政権を朝廷に返上し、それが勅許で認可されたら、もう幕府は存在しなくなるのです。そうはいっても無政府状態にする訳には行きませんから、明治新政府の陣容が整い、残務を引き継ぐまでは現業担当者は持ち場を離れる訳にも行かない。徳川慶喜は朝廷の沙汰を待つだけで、残務引き継ぎの手順を定めなかったから、一部に混乱が見られたというだけの話なんです。 将軍である徳川慶喜が朝廷に対して恭順の意志を明確にしているのに、幕府軍など存在する訳はない。鳥羽伏見の戦いは偶発的な武力衝突といったもので戦いでもなんでもありません。旧幕府側には指揮官も大義名分も戦略も武力も何にも無いのだから総崩れになるのは当たり前の話です。薩長が気に食わないという感情だけで軽挙妄動に走ってしまった。 長州征伐に話を戻すと、禁門の変が当初の原因だった訳です。禁門の変は長州藩の急進派がしでかしたことだったが、それが朝廷を激怒させて、幕府に長州征伐の命が下った。その時は長州藩の保守派が驚き慌てて急進派を処分して長州藩として恭順の意志を明確にしました。一部の過激派が馬鹿をしでかしたが、長州藩としては世の中を騒がせるつもりも朝廷にも幕府にも反逆する意志はありませんという形をつくって事を収めようとした訳です。一応、長州藩としては藩として統制が取れているし、それはそれで一応筋が通る話です。これが第一次長州征伐の流れです。 ところが話はこれで収まらなかった。長州藩の倒幕派が保守派を打倒して長州藩の政権を握って、藩論を180度逆にしてしまった。それを見た幕府は諸藩に長州征伐を命令する。ところが長州藩と密約のある薩摩藩は動かないし、諸藩には長州藩に対抗できる軍事力が全くなく、逆に幕府の方が総崩れになってしまった。 長州藩の倒幕派は、長州の利益の為に立ち上がったのではなく、幕府を倒さないと日本の将来は無いという信念を持っていました。もはや幕府には政権を担う能力など無いのだ。それが倒幕派の共通認識でありました。総崩れになった幕府は、政治工作で朝廷から停戦の勅許を引き出して、なんとか格好をつけるしかなかった。 これが第二次長州征伐の顛末です。 そして重要なことは第一次長州征伐と第二次長州征伐の間に下関戦争が起きていることです。長州藩がイギリス、フランス、オランダ、アメリカの船を無条件で報復したのに対して、4カ国が反撃に出たのが下関戦争でありました。元々攘夷は朝廷が幕府に命令したのですが、幕府は攘夷などやるつもりもなくずるずると時間稼ぎをしていただけでした。それで長州藩は幕府がやらないなら、長州藩だけでも攘夷を決行するという意志を行動で示したのです。 下関戦争の意義は、長州藩が朝廷に対して、朝廷の真の家臣は幕府などでなく長州藩なのだというアピールを示したことです。砲撃された4カ国にすればたまらない話ではあるけれど、異国船は長州藩の宣伝に利用されたようなものなのです。幕府には攘夷などできない。それをできるのは長州藩しかないのだ。そういう強烈なアピールが下関戦争の意義です。下関戦争の結果は、長州藩が4カ国に懲らしめられるといったことでありましたが、アピールそのものは有効でした。 下関戦争を契機にして朝廷の中で幕府を見限り、長州藩を次期の政権担当者として見直す空気に変わっていきます。そして下関戦争で長州藩が負けたことで朝廷は攘夷の不可能を悟るようになったのです。 ここらへんの歴史は幕藩体制が結果的に日本にとって功を奏しました。中国は中央集権体制だっただけに高い授業料を払うハメに陥ったけど、日本は安い授業料で済んだ。日本は外国と本格的な大戦争に至らずに、わずかな犠牲で攘夷の不可能を悟ることができた。幕府の方は長州藩の賠償金の肩代わりを押し付けられてぐだぐだです。第二次長州征伐の失敗で、徳川慶喜は幕府の限界を悟り、大政奉還の道筋をどうつけようか考えるようになりました。 ところが、そういう時代の流れを全く理解できなくて頭の中が100年前と何も変わっていない旧勢力も存在したのです。化石のような連中にすれば、外様の薩長が何を偉そうにのさばっているのか全く理解できない訳です。 といったところで本件はご理解いただけるだろうか。

bougainvillea
質問者

お礼

丁寧な回答ありがとうございます。 質問に幕府軍ではなく、旧幕府軍と書くべきでした。 ドラマ「八重の桜」は会津藩視点で物事が描かれてますが 全体的にみるとこういう流れなんですね。 勉強になります。 m(_ _)m

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