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淀城址に建つ「田邉治之助君記念碑」とは?
先日京都へ行った折淀城址へ寄ってきました。その際明治時代に建てられた、子爵稲葉正凱による「田邉治之助君記念碑」が目にはいりました。なにが書いてあるか碑の裏面を見ましたが風化が進んで判読できませんでした。何とか読める字からどうやら戊辰戦争に関係が在りそうです。家に帰ってから調べましたがよく判りません。想像するに子爵稲葉正凱は淀藩稲葉家の分家筋で千葉の舘山藩主ですが、戊辰戦争の際幕府を守るべき譜代の淀藩が先陣をきって幕府軍に反旗を翻し朝敵にならずに済み本家筋の稲葉家を守ったことに対しての感謝を忸怩たる想いの旧淀藩主に代わって顕わしたのかと思います。ご存知の方教えてください。
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戦後 正邦は神道本局の初代館長になっているのをみますと 藩主の許可も仰がず勝手?に朝廷との..賀茂の錫杖密約の報酬でしょう この時代の藩主は多かれ少なかれ 力がありませんから 家老たち藩重臣の多くは京都所司代職の長い淀藩として朱子学もやってますから 正邦の左幕急進派的思想には実務的に相容れなかったと思いますね 田邉さんが腹を切ったのは 実務を取り仕切る者の最高責任者としての 当然の行動でしょうか わたしは 近くに住んでいますので 淀で支えられなかった幕府軍の混乱は非常なものだったでしょう 淀城は後詰の位置にありますから 鳥羽伏見では なんとなく幕府軍の戦意は疑心暗鬼で 千本松後退は規定の方針で 千本松で敵を疲れさせて 城に篭って 敵の惰気を待つというところではないかと 今は淀(京都)競馬場の駐車場になっていますが 湿地帯で 城築城の際の防御用です 田邊治之助君記念碑 子爵稲葉正凱書 慶応四戊辰年正月三日鳥羽伏見ノ役当時我カ淀藩主稲葉正邦公ハ 幕府ノ老中職トシテ江戸ニ在リ因テ藩士ハ堅ク城門ヲ鎖シテ留守 ス其大手門ハ者頭役田邊治之助君ノ守ル所ナリ五日後退セル藩兵 門内ニ闖入シ来ルモノアリ守兵直ニ之ヲ拒ミ出シタルモ時偶々城 中ニ在リタル君ハ此ノ報ヲ聞クヤ守門ノ責任ヲ痛感シテ自刃ス其 壮烈ナル実ニ士人ノ典型ト謂フベシ 今ヤ士道頽廃責任観念ノ缺如セルノ際今年恰モ七十周年ニ相当ス ルヲ以テ我等同人君ノ高風ヲ欽慕シ相謀リ碑ヲ建テ其事実ノ梗概 ヲ記シ後世ニ伝フト云爾 昭和十二年九月
お礼
碑文を読んで事情がわかりスッキリしました。私の想像とは違っているようですね。責任を感じ切腹したのですね。本人に責任になくても結果にたいして腹を切り責任をとるという武士は他にも多くありましたが、失策になんら責任を感じず組織の保身ばかりに汲々とする現在の官僚に見せたい碑ですね。霞ヶ関あたりに移転したいももです。ただ碑が建てられたのが昭和12年ということでなにか時代の風潮を感じさせます。